2013/08/17 - 2013/08/18
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今回の旅行の目的は2つ有りました、1つは出身中学の同年会出席、2つ目は私も初老の部類に入ってきましたので、今の間に生まれ育った所を画像に収めるです。
平成25年8月17日と18日実家に帰省して来ました、それから約1年立ちますが、速報価値はないですが、記憶のある内に思い「旅行記」を書きました。
同年会開催の案内があり、5年振りの再会を想い、勿論参加に丸印をつけ幹事さんに返送。
8月17日、深夜滋賀県を出発高速道路、名神・中国・山陽・瀬戸大橋・高松道・松山道・今治小松自動車道と乗り継いで「東予丹原IC」で高速を降り、このICから西へ今治方面に行ったところが今回の旅の第2の目的地の1つ父母の実家と生誕地です、旧国道196号線(現県道159号線)で西条市高田の母親の実家前を通り予讃線の三好駅に寄り道そのまま旧道で世田山の裾野から国道196号線に出て、早朝ではあったが前もって電話していた現在ブログ仲間の高校時代の同級生でT君宅へ、T君とのつのる話もそこそこに、次に高校の同級生が経営しているビジネスホテル内の喫茶店で「モーニング」を御馳走になりました。
実家では母親や兄たちに挨拶と日程だけ伝え、早々に「しまなみ海道」今治側の起点のすぐそばの「海のみえるCafe」のマスターでブログ仲間、K氏と同じ今治でのブログ仲間M氏と1年ぶり再開、しばらく談笑。
一度実家に帰り昼からの同年会へ、5年ごとに出会う人、卒業来初めて出会う人もいれば、いつの間にか「遠い親戚」になった人たちと楽しい時間を過ごしました。いつも幹事をしてもらっているM氏とKさんに感謝、この日は実家で眠気と酔いとで爆睡。
18日は朝から、幼年期少年期に住んでいた処や通っていた「幼稚園」や「小学校」をたずね画像に収めました、再度昨日行ったK氏のカフェで来島海峡を眺め、今治城址へ、実家で昼食後昨日素通りしてきた現西条市(旧周桑郡)の父の墓参りと母の実家に立ち寄り、叔母さんと従妹に出会ってきました。
その後再度今治市国分のT君宅へ、その地は昔「伊豫の国」の国府があった所です、その近くには四国八十八か所の第五十九番札所「国分寺」がありここもお参りを兼ねて画像に収めて来ました、再度市内に戻り少年期に住んでいた処に行きました。
夕方実家に帰り夕飯まで近くの神社や友人宅に足を運び、夕食ののち夜中まで一睡、夜中に起き出して帰路に付きました、当初は瀬戸大橋経由でと思っていましたが、川之江の手前で高松道が事故で通行止めの情報があり、そこで急遽徳島道へ迂回鳴門大橋から淡路島・明石大橋を通り早朝帰宅しました。
尚『 』内は引用文です
- 交通手段
- 自家用車
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06時14分
JR予讃線伊予三好駅
私はこの駅を利用した記憶は全くありませんが、父母の実家から最短の国鉄の駅でしたので、ここから蒸気機関車が引っ張る汽車に乗ったんだろう思います -
現在西条市と今治市の境になる世田山
『高縄半島の燧灘に面した山塊は地形的にも見晴らしが良く、世田山から笠松山にかけては、その高さ位置からにして、海、里、山など、どちらを眺めても眺望が素晴らしく、古代から戦略上の要地として歴史を携えてきた山である。世田山はよく「伊予の剣」と言われる。世田山城が落ちると伊予の国は亡ぶといわれ、伊予の国府、最後の砦が世田山城であった。頂上にある世田山城址など、そんな戦国時代を浮沈してきた歴史が色濃く残っている山である。
東の登山口にある栴檀寺(せんだんじ)は「世田薬師」として多くの人々に親しまれてきた。山頂直下八合目に奥の院薬師堂があり、ここを経由して山頂に至る。東予市誌によると、神亀元年(724)行基四国順錫の折、山上に薬師如来のご来迎を拝し、その姿を刻み寺を開く。とある。「栴檀は双葉より芳し」という栴檀の一木に刻んだことから栴檀寺の名がついたという。近年は厄除け、病気平癒、健康、合格、良縁祈願等で賑わっている。
四国山岳紀行より』 -
09時58分
今治市大浜より来島海峡と来島大橋(しまなみ海道) -
今治側の起点近くの糸山公園より馬島にかかる来島海峡第三大橋
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同じ糸山公園より小島を
『小島は愛媛県今治市沖の来島海峡に浮かぶ小さな島です。
この小島には日清戦争当時、日露戦争を予感した大日本帝国がロシア海軍の侵攻を防ぐために築いた海岸要塞があります。明治32年から2年間の突貫工事で、当時の30万円の巨費を投じ、砲台や赤煉瓦の兵舎、火薬庫などが作られました。こうした施設が当時のまま残っている貴重な遺跡です。
遺跡をまわる約1.8キロの遊歩道には2,500本の椿が植えられており公園としても整備されています。
ビワ首海水浴場や「風の顔ランド」キャンプ場があり、子供達の交流の場として、また釣りのポイントもたくさんあり釣り客も多く訪れています。』 -
10時07分
糸山公園から少し下ったポイントより来島を
『来島(くるしま)は、愛媛県今治市の来島海峡の西側、波止浜湾の入り口、四国から沖合い240mに位置する有人島である。面積0.04平方km。島の中央に標高47mの小山があり、かつては来島城もあった。島の南東に来島漁港と集落がある。来島海峡は潮流が速く、潮向も複雑なことからきた「狂う潮」が訛り、「くるしま」となったといわれている。住所表記上は、近傍の小島(おしま)も含まれる。』 -
10時31分
友人のカフェのテラスより来島海峡を -
カフェの全景
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テラスより来島海峡と来島海峡第三大橋
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同じくテラスより小鳥の水飲み場です背景に来島海峡の渦潮
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テラスより来島海峡と来島海峡第三大橋
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11時32分
今治港の内港です -
今治港内港を(恵美須町)から桟橋と来島大橋を
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今治港内港を(恵美須町)から防波堤と来島大橋を
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11時35分
内港から反対側へ180°振り返ると今治城跡があります、この堀の水は海水です。 -
今治城の天守閣
『慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され慶長9年(1604年)に完成した。普請奉行として渡辺了の名が知られている。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。
二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。
寛永12年(1635年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令により建築物は破却された』 -
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今治城跡の裏門
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今治城跡の裏門
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11時47分
私が幼稚園に行く前の齢から中学1年生までの間に住居していたところです「旧町名は大坪通りでしたがいまは南宝来町になってます -
こんな狭い通りで遊んでました。
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今治市立立花中学校第17回卒業生の同期会の様子です
記念の集合撮影に集合中です -
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ほぼそろってきまいたので撮影直前を
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誰かが当時の卒業アルバムを持ってきていました、その中1枚「修学旅行清水寺」の写真です、この生徒の数なにせ「団塊の世代」の真っただ中です。
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コンパニオンさんをはさんでいる老人2人は当時の先生です
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楽しい宴も終わり〆です
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会場は今治国際ホテルでした
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平成25年8月18日
12時46分
予讃線の伊予富田駅付近です -
この画像の正面の家が、母の実家です、祖父が製材業をしていましたの、この家の付近はすべて材木置き場でした、そこは「かくれんぼ」などをするのにいい場所でした。
私が四国にいた頃は愛媛県周桑郡壬生川町それから東予市なり現在は西条市になっています。 -
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先程の母屋の向かいにある従妹の家です、この地所ももとは材木置き場でした。
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13時15分
父母が通った小学校です、この地は愛媛県でも川之江市・伊予三島市伊から今治市までが東予地方と呼ばれていました。
旧地名で周桑郡国安村は母の実家が旧国道196号線の上高田のバス停のすぐそばで父の実家はそこから歩いて10分ぐらいの桑村です、その間この国安村小学校がありました。 -
旧国安小学校の正門跡だと思います。
『桑村郡(くわむらぐん)は、伊予国(愛媛県)の東部にかつてあった郡。
1897年(明治30年)、周敷郡(周布郡、しゅうふぐん)と合併、周桑郡(しゅうそうぐん)となり消滅した。現在は全域が西条市となっている。』 -
この地は江戸時代は幕府の天領でした、この画像からもお判りの様に「和紙」の産地です、ここから父の実家までの間に昔は「紙漉き」の工場・漉いた紙の干場が十件ぐらいありました、父の母屋筋の家もこの紙漉き業をしていました。
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13時19分
この細い通りの奥に父の実家がありました -
先程の画像の右側に見え板石壁が「臨済宗東福寺派壽聖寺」です、勿論ここが父方の「菩提寺」です。
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13時24分
この石塔が、祖父母「松木真一郎・カネ」と10年前に他界した父「松木茂美」の墓です -
松木家の家紋です
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墓の全体です
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14時29分
現西条市を離れ今治内へ、脇屋義介の霊廟への道標
『上野国新田郡脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから名字「脇屋」を称した。元弘元年(1333年)5月、兄義貞とともに新田荘にて挙兵して鎌倉を攻める。執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、諸将の論功行賞によって、元弘3年(1333年)8月5日、正五位下に叙位。左衛門佐に任官。
また、同年、一時期、駿河国守護にもなる。以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任。また、このころ設置された武者所の構成員となり、同所五番となる。
その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した。延元元年/建武3年(1336年)、刑部卿に転任。延元3年/建武5年(1338年)に義貞が不慮の戦死を遂げると越前国の宮方の指揮を引き継いだ。 兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍に敗れて越前から退いた。
延元4年/暦応2年(1339年)9月には従四位下に昇叙する。
興国3年/康永元年(1342年)、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡るが、伊予国府で突如発病し、そのまま病没した。享年38。墓所は倉吉打吹の大蓮寺。』 -
14時33分
四国八十八箇所第五十九番札所「国分寺」です。
『伊予国分寺(いよこくぶんじ)は、愛媛県今治市国分に位置する真言律宗の寺院。金光山(こんごうざん)、最勝院(さいしょういん)と号す。本尊は薬師瑠璃光如来(薬師如来)。四国八十八箇所霊場の第五十九番札所。札所寺院としては、単に「国分寺」と称するのが通例である。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:守護のため 建ててあがむる 国分寺 いよいよ恵む 薬師なりけり』 -
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ここにも道標がありました。
「吉野朝忠臣 従三位脇屋刑部卿源義助公霊廟」
『新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。
河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。
鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利家と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。
鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立。尊氏が建武政権に反旗を翻すと後醍醐天皇の尖兵としてこれに対抗、各地で転戦するが、箱根や湊川での合戦で敗北、後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。
死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。』 -
お遍路さんのご一行です
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14時53分
今治市内「蒼社川」近くのお寺です
「真言宗霊樹山醍醐派東禅寺」
毎年今治地方の夏祭りの初めはここのお寺で、「お薬さん」で有名です。 -
画面左の建物が国宝みたいです。
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14時59分
17日同様今治城跡 -
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画面左の坂道の頂部が大手門です
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上の撮影場所からそのまま体半回転すると、燧灘と来島海峡が見えます。
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来島大橋の3連橋
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15時17分
今治港フェリー桟橋
本四架橋が出来る前はここからフェリー「ホワイト三宝」や「ダイヤモンドフェリー」の船が大阪・九州へと出ていましたが、今は寄港便が無いとの事です。 -
15時21分
今治市通り町ですこの道は大手門から「竜の口」に出てくる今治城の本通りでしたのでその名がついたと思います
画面左3階建ててまえの車場になっているあたりに父の働いていた会社の社宅があり、私が5歳ぐらいまでいたと記憶してます。 -
今治城の正門「辰口」です、画面トイレの建物の奥にある道が本町筋になりここから今治の町屋(現本町商店街)になります。
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15時32分
「今治市立日吉小学校」正門です
私が入学・卒業した小学校ですが、来年廃校になる見たいです。
『明治23年 日吉村の公立として開校 日吉尋常小学校と改称
昭和22年今治市立日吉小学校と改称』 -
15時32分
日吉小学校の隣の幼稚園です。
プロテスタントで「今治めぐみ幼稚園」、昨年のNHKの大河ドラマで主人公の「八重」の妹が今治の牧師さんと結婚したとありましたが、もしかしたらこの教会かもしれません。私はこの幼稚園でなくこの前を通って次の画像の幼稚園に通いました。 -
15時36分
私が通った「カトリック今治教会 若葉幼稚園」です -
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15時38分
JR予讃線今治駅です
『今治市(いまばりし)は、愛媛県北東部に位置する市。造船とタオルの生産、焼き鳥などで知られる。人口は松山市に次ぐ愛媛県下第2位で、四国では各県庁所在地に次ぐ第5位である。西瀬戸自動車道(しまなみ海道)によって広島県尾道市と、また一部の島は安芸灘諸島連絡架橋(とびしま海道)によって広島県呉市と橋で結ばれている。
古くから瀬戸内海の海上交通の要所であったことから、平安時代以前は伊予国国府が置かれ、江戸時代は今治城の城下町として発展した。』
先程の幼稚園から歩いてでも行けます -
16時13分
今治の実家前旧国道196線の蒼社川」の東詰の神社です
三嶋神社(みしまじんじゃ)・祇園神社(ぎおんじんじゃ)
『当三嶋神社は大三島にある大山祇(おおやまづみ)神社の祭神を祀(まつ)ったことにはじまる。
崇峻(すしゅん)天皇(てんのう)在位二年に、この地方の豪族小千直益躬(おちあたいますみ)が、靺鞨(まかつ)の国より鉄人(強い武人)が八千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨(はりま)の国で討(う)ちとり、木の下(もと)の浜(今の鳥生の浜)へ凱旋(がいせん)した。
自ら榊(さかき)の大樹に鏡をかけて大山祇の大神を祀ったので、木の下三島宮と呼ばれていた。この木の枝に多数の白鳥が巣を作り、ひなを育てたので鳥生(とりう)の宮と称し、地名も鳥生(とりう)としたと伝えている。又白鷺(しらさぎ)を三嶋のつかわしめというのは、これから始まったという。(旧地は現在より約五百メートル東にあったが、明治二年洪水のため現在の祇園(ぎおん)神社に合祀(ごうし)をしている。)
祇園神社は、八坂大神(やさかおおがみ)(須佐之男命(すさのうのみこと))を祀(まつ)ったことにはじまる。
清和天皇御宇貞観(せいわてんのうぎょうじょうかん)十一年に、全国に疫病(えきびょう)が蔓延(まんえん)し、それを鎮めるために京都祇園の八坂(やさか)神社にて、疫病(えきびょう)の災厄除去(さいやくじょきょ)を祈ったのが祇園祭の始まりで、これに習い全国に信仰が広まり、当社も八坂大神(やさかおおがみ)を同時期に奉斎したので、古くから鳥生の「祇園さん」とうやまわれ、病気平癒(へいゆ)、疫病消除(えきびょうしょうじょ)の神様として、現在も旧六月十四日の祇園祭(ぎおんまつり)には近郷(きんごう)からのたくさんの参拝者(さんぱいしゃ)でにぎわっている。』
この祇園さんの時、実家の庭が今治暑のパトカーの駐車場でした。 -
神社の由来です
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拝殿
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旧国道にかかる橋から瀬戸内海が見えます。
『高縄半島のほぼ中央、松山市、東温市との境の白潰(しろつえ)の北壁に源流を発し、北流し、鈍川渓谷を形成。支流を集めつつ、今治市法界寺付近で今治平野に流れ込み、北東に流れを変え、やがて燧灘に注ぎ込む。上流は県立自然公園に指定されている。
高縄半島の上流域の大きく花崗岩質でもろく風化しやすいため、過去、藩政期から幾度か洪水の記録があり、川床の掘削を行った。幾度か上流に植林が試みられたが、決定打にはならなかった。一方、「恵み」の部分として、洪積平野として今治平野を形成したほか、今治に水資源を供給し、タオル製造業や染色業の発達を促した。1971年(昭和46年)には上流に玉川ダムが整備され、旧・今治市とその周辺の自治体に農業用水、工業用水及び上水を供給している。古くは「総社川」と記した。なお、今治市蒼社町は1976年(昭和51年)の住所表示によって作られた町名である。』 -
旧国道と祇園神社
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16時20分
実家です -
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