2012/08/12 - 2012/08/15
13位(同エリア21件中)
たまおさん
昨年行ったウユニ塩湖にすっかり魅せられて・・・
今年もまた行ってきちゃいました!!
今回は、アルゼンチンのブエノスアイレスから
1ヶ月かけてボリビアのサンタ・クルスまで行こうという計画。
さて、スクレから夜行バスで15時間、ついに最終目的地、サンタ・クルスへ。
サンタ・クルスはボリビア第2の都市。標高437m。平野に来た。空気が濃いってうれしい。気温は25度以上。夏だ。一応、暦の上では冬なのに、なんか不思議。
結局、この旅、一番寒かったのはブエノスアイレス。東京の冬と一緒。
8月12日
朝8:20頃、サンタ・クルスに到着。
マスクを外すと、鼻と口の部分が真っ黒。ぎょえっ!!こんなに埃を吸っていたのか…。そして、トランクに預けていた荷物が出てきてびっくり。分厚く土埃に覆われて完全に色がなくなっていた。かろうじて、縁に赤い線が見えて自分の荷物だと識別。トランクの中までこんなに埃をかぶるとは…!!
タクシーに乗ろうと、いろいろ運ちゃんに聞いたが、どれも倍以上の値段をふっかけてきて、どうしようもないので、バスターミナルを出て流しのタクシーをつかまえた。こっちの方がほぼ相場だった。
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タクシーで、目星を付けていた宿へ。空きがあったのでそのままチェックイン。しかし、私はここでちょっとしたミスをしてしまった。
部屋を確認しなかったのだ。
いや、問題がなければそれでいいが、あったのだ。
部屋に入ってみると、どうも暗い。電球はオレンジの暖色系の色。中庭に面したつくりになっているので、カーテンが開けられず、日の光が入らない。本なんか読めない。だんだんこの部屋にいると陰気な気分になってしまいそうで、我慢ならなくなってきた。これが最後の宿。もし、途中の宿であれば我慢したであろう。でも、最後なんだからもうちょっといい宿に泊まりたかった。不満がない部屋がいい。他の宿を探しに出かけた。もうこの際、あたりはずれが少ない4つ星でも5つ星でもいいと思った(5つ星は困るけど…)。とにかく快適に過ごしたい。そしたらすぐ近くに3つ星の宿を発見(写真)。欧米人の客が多く出入りしていた。これなら期待できそう。聞いてみたら部屋の空きあり、見せてもらったら割と清潔だし、角部屋なので日の光も入って明るい。しかも、さっきの宿より安い。決めた。すぐに荷物を引き取りに元の宿へ。キャンセル料として50Bs取られた。USで7ドルだ。高っ!!ほんの数分しか滞在してないのに…。この値段、普通に安宿に泊まれるよ〜〜(泣)
でも、しょうがないか。パスポートも見せてチェックインしちゃったものね…(泣)でも、悔しい…!!
どうしたものか…。今までちゃんと部屋を確認してからチェックインしていたのに…。疲れか…。 -
シャワーを浴び、すっきりして宿のなかのちょっとした食堂で食事をした。考えたら昨日の朝から何も食べてないのだ。さすがにおなかがすきすぎて気持ち悪かった。スープ、メイン、デザート、飲み物ついて、20Bs。US換算で3ドルない。安い。
そんなわけで、夕方まで部屋で休む。疲れた。本当に疲れた。 -
8月13日
コロニア・オキナワへ。
ここは、第2次世界大戦中、戦火を逃れ、沖縄からたくさんの日本人が移住してきて作った村。
サンタ・クルスからTruffi(乗り合いタクシー)を乗りついで1時間。乗り合いだから人数が集まれば出発だ。集まらなければ出発しない。
まずはモンテーロまで行き、乗り換えてオキナワで降りる。行きは意外とスムーズに行けた。
ていうか…、なんでボリビアは車にそんなに人を詰め込むのか…?
助手席に3人も詰め込まれた!!別に車幅があるわけではない。日本のと変わらない。それに、シートベルトをしない。運転手もだ。先進国ではありえない話。
写真は、もうコロニア・オキナワの敷地内。
車で走っているときに、「めんそーれ コロニア・オキナワへ」という横断幕がありました。 -
道の両側に畑がずーーーっと広がっています。
車のスピードが速くてピンボケです…。
(メインで使っていた一眼レフ、ポトシでメモリー容量オーバーになり、サブで持ってきていた古〜〜〜い小型デジカメ(少し壊れています)で撮った…) -
村は広い一本道で両側には農場が広がっている。これが日本人が長い年月をかけて耕したものなのか。かなり広い敷地。車で移動しないとだめだ。。写真は、街中ですが、道の両側は商店や家がまばらにある感じ。ボリビアの田舎の村、といったところか。日本っぽさはまるでない。
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ちょっとした中心広場っぽいところにあった教会。
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その周辺にはいろいろと施設の建物があった。すべて日本語で書かれている。
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う〜〜〜〜ん。日本ですね〜。
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これらの米をボリビア各地に輸出しているのでしょうか??
ガイドブックに出ている写真の文化会館が見つからず、聞いてみたらNICHIBOだという。教えてもらったとおりに行くと、さっき行った中心広場のもっと奥にあるところで、確かにあった。 -
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中心広場のもっと奥をどんどん進むといろいろと日本語で書かれた施設があった。
病院もあった。ちょっと外から中をのぞいてみると、沖縄の離島にある小さな診療所といった感じだった。 -
文化会館に着きました。
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入り口のドアには、こうして新聞記事や、イベント開催などのお知らせが張ってありました。
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入ってみるとそこはもう日本だった。きれいなトイレ(トイレットペーパーあり!!)、日本語、壁にも日本らしい飾り付け。お茶も自由にお飲みくださいとある。すごい落ち着く。そして、ソファでテレビ(NHK)を見ていた初老の男性がいたので話を聞いてみた。。
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ボリビアは1954年から1967年まで19次にわたり移民を受け入れてきた。この男性は21歳の時に移住してきた。移民のそもそものはじまりは、アメリカが沖縄に基地を作るための土地の拡大。土地を持っていてそこそこお金のある人を遠い南米に移住させたのだ。
やっぱりアメリカか…、と正直思った。アメリカを批判するわけではないし、個人的に好きな国だけど、現在でもアメリカのやり方には時々疑問を感じる。
でもすぐにそのお金も使い果たす。来た当時はこのあたりは木が生い茂っていて、まずは大木を切って、燃やして畑を作らなければならなかった。それは大変な作業。米を作ってラ・パスへ売りに出すことができお金を得られ、軌道に乗るまで10年以上はかかったようだ。他にも綿花や大豆なども育てているそうだが、当時は機械がなく、買うにも相当なお金が必要だった。この男性は80年代に一度日本に出稼ぎで1年、川崎に来て、かなり稼いだそうだ。「日本にいた方が暮らしも豊かだし、日本にとどまらなかったのはなぜ?」と聞くと、人材会社をたてようとしたが、スポンサーが必要で、結局いろんな事情でボリビアに帰ったそうだ。やっぱりボリビアで農業をしてのんびりした暮らしが合っていたのかもしれない。ボリビア人を使って雇い、今では悠々自適な生活を送っているらしい。街ではあまり日本人を見かけず、ほとんどボリビア人しかいないのはその理由。ボリビア人が働き、日本人は家にいるのだとか。最後に、
「こんなに広い土地を与えてもらって、今は幸せだ」
と言っていた。この言葉が救いだ。 -
この村の人口は、ボリビア人1500人、日本人800人。2000年まで日本政府の援助をうけていたが、打ち切り。現在は日本の財団法人の援助を受けている。
写真は、会館の中にある、体育館。ここでいろいろイベントをやるのであろう。
なんか懐かしい雰囲気。 -
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話を聞いた後は、そばにある歴史資料館へ。当時の写真や道具がいっぱい飾られ、興味深かった。
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沖縄から50日近い船旅でブラジル、サントス港へ到着した後は、移民列車で7日間かけてサンタ・クルスへ。
想像を絶する過酷な旅。現代人がここまでできるだろうか? -
当時、使っていた教科書。
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授業風景
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日本語の授業のために、沖縄から派遣されてやってきた先生。
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当時の入学申込書。
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当時、移住してきた当初は、この今ある場所ではなく、別の場所だった。災害や疫病が蔓延し、いろいろ移住地を変えて、今あるこの村に定住した。
「前へ進めず立ち往生する車」
去年、今年とボリビアを旅してきて、気付いたことは、多くの道路が整備されてないということだ。どこへ行くにも、ガッタンゴットン激しい揺れに我慢しなくてはいけない。
今でも道路がこういう状態なのに、昔となったら…。移動するのにどれだけの労力が必要なのか…。 -
「家族そろった貧しい暮らし
幸せだったあのころは」
のくだりが胸に突き刺さりました。 -
移民の子孫が書いた作文。
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文化会館を出ると、運動場が。ここで日系人たちが毎年運動会やその他イベントをやっているんですね。
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資料館の後、帰ろうと思ったら、学校を見つけた。恐る恐る入ってみたら、そしたら生徒たちから「こんにちは!」(日本語)と声をかけられた。一人、二人…次々と「こんにちは!」と挨拶されて、うれしくなってどんどん中に入って行った。
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ここは幼稚園。
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歩いていると、一人の日本人の女性の先生がいた。移民っぽくない。日本語も日本人そのものだ。聞いてみたら、沖縄からの1年の任期の派遣でやってきたとか。その後、一人の生徒に校内を案内してもらった。生徒はみんな日本語が上手だった。そして人懐っこくて礼儀正しい。
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この学校は8年生までで、7、8年生の教室を見せてもらった。習字あり、スペイン語のことば(大事な言葉とかが書いてあるのだそう)があり、生徒たちが書いた目標が教室の壁に貼られてあった。何人かが、「日本語をもっと上手になる」と書いてあった。案内してくれた8年生のサエちゃんも、漢字が苦手だと言っていた。日本の子もみんな漢字が苦手だよ、といってあげた。使っている教科書も見せてもらったら、日本の小学校5年生が使っている文科省検定教科書だった。
ちなみに授業は、午前中はスペイン語での普通の授業。そして午後は日本語の勉強に当てられている。さっきの移民の男性が言うには、この、午後にまとめてびっちり日本語をやることが、しゃべれるようになるコツなんだとか。
しばらく、そのサエちゃんとおしゃべりした。さすがに難しい歴史上のことなどは質問できないので、たわいもないおしゃべりで時間が過ぎた。 -
本当にコロニア・オキナワに来れてよかった。重大な歴史の一幕に触れ、移民の方から直接お話が聞けて、考えさせられることがとても多かった。そしてその子孫である生徒たちとふれ合うことができてよかった。貴重な体験だった。
実は、スクレに1泊せずに、サンタ・クルスにそのまま来たことを後悔していたが、やっぱり泊まらなくてよかった。泊まっていたら、この村には来れなかったと思う。 -
生徒たちと話していたら、あっという間に時間が過ぎ…
暗くならないうちに戻る予定が(一応女一人旅なので…)日が暮れようとしていました…。
ここからまた乗り合いタクシーを乗り継いで1時間かけてサンタ・クルスに戻らないといけないのだ!
名残り惜しみつつ生徒たちと別れた。 -
どっぷりと「日本」に浸かっていて、しばらくここがボリビアであることを忘れていた。
ここから「ボリビア」に戻る。
スペイン語の世界。 -
帰り、車の中から見た夕日はとてもきれいだった。
もうすぐ日本へ帰る…。寂しいな〜。
帰りのTruffiはスムーズにはいかなかった。村から人数が集まらずなかなか出発できず…。そして乗り換えの町のモンテーロでは降ろされた場所がTruffi乗り場まで遠く、人に聞きながらひたすら歩き…。たどり着いたら、帰りのラッシュ時間帯にぶつかったのか、乗れるまで長蛇の列。ふぅ〜。
サンタクルスに着いたら、宿までの道が分からず…(悔)!朝、来た所なのに!!治安が悪い場所と言われているところで、地図を広げぐるぐる回し、あたりをキョロキョロ…。(←方向音痴の典型的な行動…。狙われるよ…)
でも、ボリビア人て、やさしい。行ってしまったTruffiの運ちゃんが、私を見かねてか、わざわざ戻ってきて地図を見るのを手伝ってくれた! -
8月14日
一日、市内をぶらぶら。のんびり。
明日、帰国するので、変に遠出してトラブルに巻き込まれたくない。
写真は、お昼に食べたミラネサ。鶏肉を薄くたたいてパン粉をつけて揚げたもの。ウィンナーシュニッツェルの鶏肉版みたいなもの!?私はこれが好きで、ボリビアにきてからよく食べました。スープと飲み物付いて14Bs。2ドルくらい。安いな〜 -
中心広場にあるカテドラル。
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8月15日
ボリビアに別れを告げ、ビル・ビル国際空港へ。
AA757 VVI9:10−MIA16:15
一路、アメリカのマイアミへ。
マイアミでは、乗り継ぎ時間が長く、空港近くのホテルで1泊。
写真はホテルの近く。 -
アメリカ。
すごく文明を感じる。
何もかもが「普通」だ。日本がいよいよ近くなってきたことを実感する。 -
3000円くらいのホテルなのに、部屋にはティーセット。
こんなことに大感激!! -
ふかふかのベッド。文明だ〜〜先進国だ〜〜。
1ヶ月の癖は怖いもので、短いアメリカ滞在中、ずっと
"Gracias"(ありがとう)
と、言ってしまった…。恥ずかし…。
8月16日
AA737 MIA6:30ーDFW8:25
AA800 DFW10:35−NRT13:30+1
8月17日
日本着
この旅で出会ったすべての人へありがとう!!
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