2012/08/01 - 2012/08/01
156位(同エリア1622件中)
愛吉さん
夏休みに入り、樋口一葉の作品を読み返しています。
特にたけくらべ、にごりえが好きです、何度読んでも感激します。
20代前半の未婚の女性が、よくこれだけの作品を書けたものと感心すると共に、その早世が惜しまれてなりません。
現在は日本を代表する女流作家ですが、生前は貧困に苦しみながらも、士族としての矜持を保つ生活を送っていました。
改めてその生活の跡を訪ね、当時の思いを新たにしたいと思います。
今回の旅は同じ都内であり、涼しさと暇を見付けて午後から出掛ける事が多く、3回に分けて回りました。
又半年ほど前に友人達と回った折りの写真も、一部使用しています。
表紙の絵は、瀧澤康裕画 ”一葉肖像画” 台東区のパンフレットから借用
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 徒歩
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一葉の旅の始まりは、地下鉄本郷3丁目駅です。
階段を登ると、この川柳で有名な”かねやす”の前に出ます。
向いの交番で、文京ふるさと歴史館の場所を尋ね、歩き始めます。 -
7〜8分も歩くと到着です。
思ったより立派な建物で、文京区の民族資料を集めた資料館です、子供達が大勢来ていました。
一葉の小さなコーナーも有ります。
ここで地図を貰います。 -
最初の目印は東大赤門。
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さすが加賀百万石の江戸屋敷、重厚な門構えです。
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道を挟んだ道路の反対側に、このような案内板が建って居ます。
法真寺、一葉ゆかりの桜木の宿です。
一葉は明治5年3月25日に東京内幸町の東京府庁構内長屋で生まれ、その後
明治9年から14年迄の5年間、4歳から9歳までを過ごした場所です。
入口から本堂迄の参道両側は会社の事務所らしき建物が並び、昔を偲ぶよすがもありません。
一葉の家は本堂に向って左側、参道の脇にあったそうです。 -
法真寺は、昔本郷通りに面して山門があり、参道の幅ももっと広かったようです。
山門の跡に立つ石柱に1枚の板が嵌めこまれていました。 -
寺内に入ります。
古い石仏が集められています、江戸時代には広い境内を持っていたのでしょう。 -
本堂の軒下にある一葉塚と腰衣観世音菩薩像と碑
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濡れ仏の観音様
"腰衣の観音様ぬれ仏におはします御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、前々供えししきみの枝につもれるもおかしく" ゆく雲より
そばに桜の木が植えられて居ます、落花の頃改めて尋ねたいと思います。 -
寺内には一葉会館なるものがありますが、鍵が掛っていました。
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本郷通りから、地図に従い横道に入ります。
菊坂の案内板が有りました、一葉旧居は近くの筈です。 -
戦前の名残を留める路地を見付けました。
旧居はここら辺りです、恐る恐る覗いてみます。 -
門を潜り路地に入って来ました、階段を降ります。
振返って見ます、戦前の風景を思い出す佇まいでした。
ここに間違いありません、一葉が父の死後母と妹の3人で、明治23年に移り住んだ場所です。ここで3年間暮らしました。
一葉の家は、階段下の向って左側だそうです。
今の建物は、戦後に建てられたもので、一葉時代とは関係有りません。
尚一葉はここに移り住むまで、上野黒門町、芝高輪、神田神保町、神田淡路町と転々と居を変えています。 父親の事業の失敗が影響しているのでしょう。
" 寝ざめせし よはの枕に音たてて なみだもよほす 初時雨かな" 一葉 -
一葉旧居の斜め向かいに古い掘り抜き井戸があります。
明治から続く井戸で、当初は釣瓶式だったそうです。
そうなれば当然一葉も使ったであろうと、一葉井戸と呼ばれます。
この辺りは当時の雰囲気を一番残す場所で、この井戸の縁に立つと、今にも一葉が走り出て来るような錯覚に襲われます。 -
一葉旧居は谷底のような処に有り、今度は反対側の階段を登ります。
その尾根道を行くと右側に伊勢屋質店が有ります。
一葉がよく利用した質やで、昭和57年迄営業していました。
竜泉に越した後も利用しました。
"蔵のうちに 春かくれ行く 衣替え" 一葉 -
蔵の前に立つ案内板
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反対側 蔵の方から写しました。
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この辺りには文学関係の旧跡が多く、歩いているとよく見かけます、その一つ菊富士ホテル跡です。
大正3年にこの地に開業、昭和20年の戦災迄高級下宿屋として営業し、多くの文化人が徒宿作品を残した場所です。
今は石碑が立つのみです。 -
今度は啄木由縁の宿太栄館(元蓋平館別荘)の前を通ります。
北海道から上京した啄木が、家族を呼び寄せる迄の間徒宿した場所です。
建物も名前も変わりました。 -
下谷竜泉に来ました。
明治26年7月一葉はここ下谷竜泉寺町に引っ越し、荒物駄菓子屋を開きます。
吉原遊郭の直ぐ傍で、近所は廓の中で下働きする家が多く、通行人も廓への客が多い場所でした。
一葉が買出し、母と妹が店番です。
僅か10ヶ月でしたが、その折りの見聞を元に名作たけくらべが生まれ、それを記念して、ここに一葉記念館が建てられました。 -
入口横に張られた案内板です。
記念館開設の経緯及び経過が記されて居ます。
展示の内容も充実して居ます。
生前使用した机、着物等も並んでいますし、借金申し込みの手紙、半井桃水への手紙等もあります。
文章もさることながら、その達筆に驚きます。
とても20代の女性が書いたとは想われません。
一葉フアン一見の価値があります。 -
記念館の向いに一葉記念公園があり、その入口に菊池寛が一葉を讃えた文学碑があります。
戦前の碑は戦災で消失しましたが、戦後に再建されました。 -
公園の中には、一葉女史たけくらべの記念碑が建って居り、その碑文は佐々木信綱氏自筆の詩2首です。 その内の1句。
"そのかみの
美登利信如も この園に
来遊びらむか 月しろき夜を" -
たけくらべ みどりの肖像画
鏑木清方が、昭和23年に雑誌苦楽の表紙絵として描きました。 -
一葉旧居跡は記念館より1本南の通りにあります。
ここで荒物駄菓子屋を開きながら、10ヶ月生活しました。
今は普通の住宅街ですが、当時は茶屋町通りといい、根岸や下谷方面からの廓通いの通行道でした。
尚一葉はここに越してからも、菊坂の伊勢屋質店に通いました、1日に2往復した事もあります。
過日私も歩いてみました、上野池の端経由で小1時間でした。 -
竜泉寺町、町名由来案内、ここにも一葉の事が書かれて居ます。
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近くの千束神社です。
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境内には一葉の胸像があり、台座にはたけくらべの1文が刻まれて居ます。
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境内の佇まいです。
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鷲神社です、ここにも一葉の碑があると聞き、尋ねました。
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一葉記念碑建立の経緯が記された石碑
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一葉玉梓の碑、達筆過ぎて詠めません。
一葉から半井桃水宛ての手紙で、樋口家旧蔵のものだそうです。 -
たけくらべの一文を刻んだ樋口一葉文学碑
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一葉終焉の地にやって来ました。
一葉は竜泉での10ヶ月の生活の後、明治27年5月1日、ここ本郷丸山福山町に引越します。 そして亡くなる明治29年11月23日までの2年7ヶ月間をここで生活しました。
一葉が住んだ家は、白山通りから1本奥まった通りで、守喜という鰻屋の離れでした、6畳2間と4畳半です。
今は白山通りが広がり表通りになってしまいました。 -
一葉樋口夏子碑
ここ丸山福山町に引越す時の状況が記された日記の抜粋が刻まれています。 -
一葉はこの地で、次々に名作を書き上げます。
大つごもり、にごりえ、たけくらべ、十三夜、ゆく雲、うつせみ、わかれ道等々です。
そして、明治29年11月23日に亡くなります。 24歳でした。
葬儀は11月25日築地本願寺で行われましたが、お返しが出来ないと参列を断った為、十数人程の寂しいものだったそうです。
法名は、智相院釈妙葉信女。 -
日を改めて、一葉の墓に詣でました。
場所は築地本願寺和田掘廟所です。 -
大きな墓地で有名人のお墓が多い中、案内があるのは、一葉の墓のみです。
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このお墓が、樋口家先祖代々のお墓で、一葉も埋葬されています。
お花も活けてありました。 ゆっくり手を合わせます。 -
有名人を代表して、九条武子夫人のお墓を紹介します。
その他、海音寺潮五郎、古賀政男、中村汀女、服部良一、内田吐夢、笠置シズ子、水谷八重子等々の方のお墓がありました。 -
写真の絵は鏑木清方画、”一葉女史の墓” です。
明治35年 清方24歳の作品です。
この絵を描くにあたり清方は、この墓に詣でて厳密なスケッチを行い、又モデルに友人の小説家、山岸荷業の新妻りゅう女を頼み作成しました。
清方の思い入れが判る作品です。 一葉記念館にもありました。
これで一葉の知られている旧跡は一巡したと思います。
又折に触れて尋ねたいと思いますが、取り敢えず一葉偲び旅は終了します。 -
追記
このブログを発表しますと直ぐに、義臣さんから、内幸町に一葉生誕地の碑がありますよと連絡を頂きました。
過日訪ねますと有りました、ビル街のど真ん中に小さな看板が立っています。
一葉は明治5年3月にここで生まれたのですね。 -
案内板をアップします。
義臣さん有難う御座いました。
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