2011/11/05 - 2011/11/05
712位(同エリア890件中)
ライオンベラーさん
- ライオンベラーさんTOP
- 旅行記230冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 286,152アクセス
- フォロワー1人
母親を連れて紅葉を見るために、安芸(あき)の宮島に行くことにしました。
しかし、心配していたとおり、当日、空は曇っていました。
そして、母は宮島にはずっと昔に行ったことがあるというので、途中で行き先を、呉(くれ)の大和(やまと)ミュージアムに変更しました。
祖父(母の父)は太平洋戦争の頃、海軍に徴兵され、この呉から南洋へ出征して行きました。
そのことは母から聞いていたので、以前から、母にとって呉は、思い出深い特別な街に違いないと思っていました。
そしてこの旅の途中で、さらに母は幼少の頃、祖父をこの呉まで送りに来たということを思い出しました。
今回の旅を通して、祖父や母や当時の人たちの心情に迫ってみたいと思いました。
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
朝、家を出たのに、呉に着くともう2時半になろうとしていました。
一般道を通って来ましたが、広島から自動車道を南下して来たら、もっと早く着いていたと思われます。
大和ミュージアムの隣にはこのような本物の潜水艦が展示してありました。
これは1985年から2004年までの19年間、海上自衛隊所有の潜水艦として、日本近海の海でその任務にあたっていたようです。
写真は北向きで、大和ミュージアムはこの右後ろ(南東)にあります。 -
大和ミュージアムにやって来ました。
入り口はこの左後ろ(南西)です。
正面(北西)に先ほどの潜水艦が見えます。
あの左側に駐車場があって、そこから傘を差しながらここまで来ました。
母親は足が痛いので、何度も立ち止まりながら、ようやくここに到着しました。 -
大和ミュージアムの入り口です。
南向きです。
ここから中に入りました。
入ってから、母親に車いすを借りました。 -
10分の1の大きさの戦艦大和の模型が展示してありました。
実際の大和はここ呉で造船され、1940年8月8日に進水しました。
その1年4か月後の1941年の12月8日、ここ呉で真珠湾攻撃、すなわち太平洋戦争開戦の日を迎えました。
そしてその2か月後の2月15日に連合艦隊の旗艦になり、司令長官の山本五十六(いそろく)大将と参謀(さんぼう)たちが、それまでの旗艦、長門(ながと)からここに移りました。 -
それから翌年1943年の2月12日までの1年間、この船が日本海軍の連合艦隊司令部となります。
その頃の大和は、この呉から40〜50km離れた、瀬戸内海の海上に停泊していました。
6月のミッドウェイ開戦のときは、初めて太平洋に出陣して後方で指揮をとりました。
このとき前線の機動部隊は大きな被害を受けましたが、この大和は無傷で帰還しました。
その2ヶ月後の1942年の8月、ニューギニア北方のトラック島に向かいました。
その頃は、ニューギニア島やソロモン諸島のガダルカナル島などで、激戦が続いていたので、それらの作戦を後方で支援するためです。
トラック島到着の半年後の1943年2月に、旗艦としての役割りを同型艦の武蔵(むさし)に譲り、連合艦隊司令部(山本司令長官や参謀たち)は、この大和から武蔵に移ります。
そして2ヶ月後の4月に山本司令長官は、前線のソロモン群島へ視察に赴(おもむ)く最中に撃墜(げきつい)され、戦死します。 -
大和はトラック島停泊中に2度ほど本土へ帰っています。
1943年5〜8月は装備増強のために呉に、12月は輸送作戦に参加して横須賀に寄港しました。
また、その間の10月に1度、マーシャル諸島へ出撃しましたが、敵と遭遇(そうぐう)せずにトラック島に戻っています。
12月に横須賀を出てトラック島に向ったとき、その直前に敵潜水艦が発した魚雷1発が当たり、初の被害を受けました。
そしてその10数日後の翌1944年1月、その修理のために呉に向かいました。 -
そしてトラック島での任務はそれが最後となりました。
1942年の8月から1944年の1月までの1年5ヶ月(正味1年1〜2ヶ月)の任務でした。
その後4ヶ月、呉に停泊した後、その年の5月、ニューギニア北方のビアク島に向かいますが、米軍がサイパン島に上陸したため、その作戦は中止となって、北上してサイパン方面に向かいました。
サイパン島が占領(せんりょう)されれば、日本が爆撃機の射程内に入って、大規模な空襲を受けることになります。 -
そのときの大和の経路は次の通りです。
呉→マニラ→リンガ泊地(シンガポール南方)→タウイタウイ(フィリピンとボルネオの間)→バチャン(ニューギニア西方)→北上
北上した大和は6月19、20日にマリアナ諸島周辺で起こった、マリアナ沖海戦に参加します。
この海戦は日本側、空母9隻(せき)、戦艦5隻、アメリカ側、空母15隻、戦艦7隻が参加した大規模なものでした。
このとき、大和は20数km先の敵機めがけて、初めて主砲を撃ちました。 -
この海戦で日本側は壊滅(かいめつ)的な敗北を喫(きっ)しますが、空母ばかりが狙(ねら)われたため、大和は無傷でした。
その後、大和は沖縄に停泊した後、呉に戻りました。
7月に入ってから、大和は再び戦闘に備えるために南下します。
この頃の停泊地は以前のトラック島から、西方のリンガ泊地(シンガポール南方)に変わっています。
3ヶ月ほどそこに停泊した後、フィリピン方面の戦闘に向かいます。 -
10月、ブルネイに寄港した後、レイテ沖海戦、シブヤン海開戦、サマール沖海戦を経て、ブルネイに戻ります。
11月には呉に戻って呉付近で待機します。
その間、本土空襲を行う米軍機とも交戦しました。
そしてその5か月後に、沖縄特攻作戦命令を受けました。 -
館内を見て回っています。
-
後方から10分の1模型を見ています。
-
これは人間魚雷回天です。
太平洋戦争末期、この魚雷の中に一人の兵士が乗り込み、母艦の潜水艦から打ち出された後、舵(かじ)を取りながら敵艦に向かい、最後はそのまま体当たりするという、特攻兵器です。
1375人の搭乗員が訓練を受けましたが、実際に発進したのは49基で、その全員が戦死しました。
しかし、それ以外にも事故や、母艦の潜水艦の撃沈などで、この作戦に関係する多くの人が戦死しました。 -
人間は、上のハッチからこの部分に乗り込みました。
とても狭い艦内です。
そして母艦と共に敵艦船に近づき、一定の距離に達したときに、この魚雷は発射されます。
発射されると、ある程度進んだところで、潜望鏡で目標とする艦船までの距離を測り、向きを修正し、潜望鏡を降ろします。
そして、敵艦船めがけて航行しながらストップウォッチで時間を計ります。 -
そして計算上の時間が経過したとき、うまく敵艦船に到達していれば、爆薬がさく裂し、すべてが終わります。
しかし、万が一その時間が経過しても何も起こらなければ、到達点の目測を誤ったということになります。
その場合はいったん浮上して、目標までの距離を測定しなおして、そこから再度突入しなければなりません。
その間に砲撃を受けると、その地点で爆破されてしまって突入は失敗してしまうので、乗り込んだ人は何とか正確に目標を定め、一度で到達しようとしていたであろうと思われます。 -
こちらはゼロ戦です。
ゼロ戦は太平洋戦争前の日中戦争のときから使用されていました。
太平洋戦争が始まってからも、ニューギニアやソロモン群島などの激戦地で任務にあたっていました。
当初は性能で連合国側の戦闘機に勝っていましたが、やがて連合国側で新鋭機が開発されると、その機能的な優位性は損(そこ)なわれました。 -
この操縦席にひとりで乗り込んで、操縦します。
このゼロ戦を自在に操縦して、ひとりで敵機200機以上を撃墜したパイロットもいたようです。
また相手国アメリカにも、このゼロ戦などの日本軍機40機を撃墜したパイロットもいるようです。 -
真上から見ています。
もし、相手の戦闘機が後方上空から急降下してきて、この位置に入られたら、ほぼ確実に撃墜(げきつい)されてしまいます。
お互いが前方に進んでいるので、相手からはこの標的が止まっているように見え、また、この標的の機銃は前を向いているので、まったく反撃することはできません。 -
このような方向から機銃で撃たれたら、操縦士は被弾して死亡するか、重傷のために操縦不能となって、やがて墜落(ついらく)してしまいます。
また、燃料タンクが被弾すると、火を噴(ふい)いて空中分解してしまいます。 -
太平洋戦争末期には、このゼロ戦も、特攻に使用されていました。
航空機による特攻隊は1944年10月25日から終戦までの10ヶ月の間、次々に編成され、実行されていました。
その間に、海軍、陸軍合わせて、2500機近い航空機が特攻を実施しましたが、体当たりに成功したのはそのうちの250機ほどでした。
多くの機は、艦船からの激しい対空砲火によって、空中で火を噴(ふ)いて海面に激突し、海中に沈んで行きました。 -
隊員は、自ら志願した人や、上官の命令によって指名され、上官を恨みながら出撃していった人など、様々であったようです。
怖気(おじけ)づいて、乗り込めない隊員を整備兵が抱えて、この操縦席に座らせるようなことも、実際にあったようです。 -
1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸しました。
その後、沖縄では激しい戦闘が続いていました。
その5日後の4月5日の15時に、大和の乗組員が全員甲板に集められ、沖縄特攻作戦命令が伝えられました。
それは、沖縄近海でのゼロ戦による特攻作戦の支援をするため、敵戦力を大和の攻撃に振り向けるという捨て身の作戦でした。
そして運よく沖縄に到達した場合は、自ら陸地に座礁(ざしょう)させ、陸の砲台として現地の日本軍を支援するという、ほぼ生還(せいかん)を望めない作戦でした。 -
翌4月6日の夕刻、大和は8隻の護衛の駆逐(くちく)艦とともに、山口県徳山沖を出発して、沖縄に向かいました。
21時20分、豊後(ぶんご)水道付近で、アメリカの潜水艦に発見されました。
その日は乗組員たちは、不安な夜を過ごしました。
翌日も、大和は沖縄目指して南下を続けました。
最初は、数機の日本軍機が飛んでいましたが、やがて本土に帰還し、その日の昼前からは、アメリカの偵察機が張り付くようになりました。 -
12時34分、アメリカ軍機を発見し、射撃を始めました。
その8分後、到達したアメリカ軍機からの攻撃が始まりました。
それから2時間もの間、360〜390機ほどの戦闘機、爆撃機、雷撃機がこの大和に攻撃を加えました。
その結果、魚雷10本以上、爆弾5発以上が命中し、14時20分ごろ2498名の乗組員を乗せていた大和は、大爆発を起こしながらかたむき始め、その後、東シナ海の海底に向かって沈んでいきました。 -
その時の生々しい様子は、ずっと以前に何度か書物で読んだことがあります。
また、7〜8年前になりますか、その時の乗組員で、生き残った方の講演を聞く機会もありました。
沈みゆく大和の甲板(かんぱん)での惨状(さんじょう)は、正に地獄(じごく)の光景だったようです。
そのほとんどの人たちは、その直前に任務を知らされ、それを拒(こば)むことができない状況で出撃した人たちでした。 -
二階から模型を見ています。
-
外のテラスに出てきました。
北西向きです。
駐車場はこの左下です。 -
テラスをこちらに歩いて来ました。
この後、大和ミュージアムを出ました。
3時半になっていました。
ここから広島に向かいました。
広島まで、高速道路が通っていました。 -
広島で駐車場を探して車を停めました。
駐車場から母親を車いすに乗せて、平和記念資料館に向かいました。
時刻は5時です。
資料館は5時までかも知れませんが、母に平和公園だけでも見せておきたいと思いました。
到着してみると、幸い、夏場は平和記念資料館は6時まで開いていました。 -
母は、この資料館にとても満足していました。
その後、隣接する平和公園を周りました。
写真は慰霊碑(いれいひ)です。 -
この後、私たちは帰路に着きました。
そして夜遅く、無事に帰り着くことができました。 -
祖父(母の父)は、太平洋戦争で海軍に召集されて出征し、呉の軍港から南方に向かいました。
南方の戦線なので、当然、もう日本の土は二度と踏めないかも知れないというようなことは、十分に感じていたと思います。
戦闘で被弾するときは、どんな感じなのだろうかということを想像してみました。
前方ではこちらに向かうガガガガ・・・という機関銃の音やドン、ドン、・・・という爆撃砲の音が響いていて、その中をバン、バン・・と小銃を撃ちながら、前進や後退を繰り返しているというのが、当時の戦闘での一般的な状況なののでしょう。 -
そんな中でまわりの仲間が被弾して倒れていくと、次は自分かも知れないという気持ちが強まってくるでしょう。
状況としては、相手の攻撃を少しでも減らそうと思えば、より激しく相手を攻撃するしかないでしょう。
そんな中で、あっという感じで被弾してしまうのでしょう。
いったん被弾してしまって、そのとき即死を免(まぬが)れた場合は、その後、しばらく生存した後死んでいくか、何とか命を取り留めて、回復するかのどちらかということになります。
もし、まったく被弾しないまま生き残ることができるとしたら、それは相手が全滅するか、相手か味方のどちらかが撤退する場合に限られてしまいます。
ほとんどの人は相手を皆殺しにしてしまうことに対しては、抵抗感をもっていると思うので、相手が撤退して、味方の作戦目的が達成されるということを願って、戦っていたのではないかと思われます。
祖父は、激しい銃撃戦の最中に被弾してしまいました。
そのときはあっという感じだったと思います。
銃弾は腕を貫いていました。 -
しかしそれは致命傷にはならずに、一命を取り留めることができました。
祖父は手当をうけ、その後病院船で帰国しました。
そして、そのまま内地で終戦を迎えました。
戦後は祖父は、国のために戦った傷痍(しょうい)軍人として、慰労(いろう)の対象になっていました。
しかし、戦闘で相手と殺し合いをしたということや、そのときたくさんの戦友を亡くしたという経験は、推し量りがたいほどの辛い記憶となっていたのではないでしょうか。 -
一度だけ、祖父に腕を見せてもらったことがありました。
そこには、銃弾が貫通したときの傷跡が生々しく残っていました。
祖父は家族や社会のことを思うような優しい人でしたが、同時に責任感が強く、堂々とした感じの人でもありました。
当時は多くの人がそうであったように、祖父も表面的には国のために戦ったということになっています。
しかし実際のところは、家族や周囲の人たちを守るためにやむを得ず開き直り、その上で覚悟を決めて戦っていたのではないでしょうか。 -
祖父はその後家族と一緒に平和な日々を過ごしました。
そしてそれから三十年ほど生きた後、病気で他界しました。
祖父は海軍の陸戦隊に所属していたということがわかっていたので、それ以上のことがわからないかと思って、ネットで調べてみることにしました。
調べてみると、呉から南方に向かった陸戦隊は呉鎮守(ちんじゅ)府第三特別陸戦隊と、同第五特別陸戦隊の二つあることがわかりました。 -
そしてそのとき、何と、この二つの部隊の名簿を持っているという方がいらっしゃることがわかりました。
さっそく連絡して、その名簿に祖父の名前があるかどうか、調べてもらうことにしました。
そしてその数日後に、私が小学生の頃に、祖父から戦争の話を聞き取って書いた作文があることを思い出しました。
作文はすぐに見つかりました。
それには次のように書いていました。 -
戦 争
昭和十七年二月、おじいちゃんがみんなに見送られて、万才をさけびながら、戦争に行った。
この戦争は、大東亜戦争(第二次世界大戦)といい、日本はこの戦争に勝って国を拡げようとした。
おじいちゃんは海軍だったので陸戦隊で南方に行った。
日本から五千キロほどはなれたソロモン島やニューギニアにも行って敵と戦った。
ソロモン島では勝って島を占領したが、ニューギニアでは負けた。 -
その頃から敵はだんだん強くなってきた。
それは飛行機をたくさん作って戦地に送ってくるようになったから。
そしてその飛行機にばくだんを積んで空からどんどん落としかけたから、どうする事も出来なくなった。
敵はアメリカ兵であったがなかなか強かった。
おじいちゃんたちは、ニューギニアで敵の飛行場を占領するため夜に行ったが、敵はそれに気がついてはげしく機関じゅうやばくげきほうで打って来た。 -
夜くらい中でどちらも夜明けまで打(→撃ち)合ったが夜が明けると敵の飛行機が来て、ばくだんをどんどん落としてきて、とうとう残念だったが負けた。
この戦いで、日本兵はたくさん戦死したが、おじいちゃんは幸いに左手首を負傷しただけで助かった。
そして病院船で日本に帰って来たそうだ。(以下略)
このように前半の部分は、ほとんど祖父が下書きしてくれたそのままを書き取って、最後に申し訳(わけ)のように”そうだ”をつけていました。
この後は自分の感想を書いていました。 -
さらに調べてみると、呉からニューギニア方面に派兵された、第三特別陸戦隊(三特)と第五特別陸戦隊(五特)は、どちらもニューギニア島東端のラビで戦っていましたが、三特の方はさらにその前に、ソロモン諸島のツラギという島を攻略していました。
ということは、作文の記述と照らし合わせてみると、どうやら祖父が所属していたのは、三特の方でないかと思いました。
そしてその後しばらくして、問い合わせていた方のご家族から返事をいただきました。
祖父の名前が名簿にあったということでした。 -
所属していたのはやはり三特でした。
そしてさらに、その中の第一中隊、第○小隊、第○分隊で、兵籍番号は○○○○というところまで教えていただくことができました。
そのときすでに亡くなった祖父との距離がぐっと縮まったように思いました。
そして、そのリアルな体験がすぐ近くまで迫って来ていて、それをかなり具体的に感じ取ることができそうな気がしてきました。
さらに調べていくと三特はトラック島で作戦準備を行った後、4月22日にラバウルに進出していました。 -
ということは、祖父は昭和17年2月に呉に召集された後、トラック島を経由して、2ヶ月後の4月ににラバウルに向かったということになります。
この頃はまだ真珠湾攻撃の数ヶ月後で、日本が緒戦(しょせん)の勝利に沸(わ)いていた頃なので、祖父もこの戦争は日本が勝って、大多数の人たちと共に自分も生きて帰ることができるだろうと思っていたかも知れません。
そのころ日本は、フィージー諸島、サモア諸島とその近海を支配して、アメリカとオーストラリアを分断するという戦略を立てていました。(FS作戦)
そしてその拠点のひとつとするために、ニューギニアのポートモレスビーを攻略しようとしていました。(MO作戦) -
そしてその作戦のために、まずソロモン諸島のツラギ島を攻略して、そこに水上機による哨戒(しょうかい)基地をつくるという計画が立てられました。
水上機とは、下にフロート(水の上を走るための足)をつけた飛行機で、戦闘には向いていませんが、飛行場や空母がなくてもどこでも離着水できるので、哨戒(しょうかい)には適していました。
このツラギ島は長さ3km、幅700〜800mほどで、関西国際空港の半分、東京ディズニーリゾートの倍ほどの小さな島です。
当時ツラギ島には、ソロモン群島の政庁がありました。
祖父たち三特の部隊は、召集された2ヶ月後の四月にラバウルに向かいました。
ラバウルで1週間ほど滞在してから、4月30日にツラギ島攻略のために出港しました。
このポートモレスビーとツラギ島を攻略するという作戦は、すでに1月末には発令さています。
ということは祖父たちは、その作戦のための要因として、急きょ2月に召集されたのではないでしょうか。 -
調べていると、この攻略部隊をトラック島からツラギ島まで運んだ船のひとつに菊月という駆逐艦があるということがわかりました。
祖父の生前、祖父の家(母の実家)には、軍艦の写真が額(がく)に入れて掲(かか)げてありました。
そういえばその船の名前は、確か菊月だったように思います。
4月30日にラバウルを出てから3日間、祖父たちはこの船で初めての戦闘に向かっていたということになります。
そのときの心情はどのようなものだったでしょうか? -
祖父の人柄を思うと、おそらくこの船の中で、これから一緒に戦おうとしている戦友たちとの絆(きずな)を深めていたのではないでしょうか。
ということは、祖父は戦後この船の写真を見ながら、初めての戦場に向かっていたときの心情や、そのときの戦友の様子などを思い出していたのではないでしょうか。
5月3日に、祖父たちはそのツラギ島とその沖合の2つの小島(カブツ島、タナンボコ島)に上陸して島を占領しました。
ツラギ島を守備していたオーストラリア予備隊は、前もってその攻撃を知ってほとんどがすでに撤退していたので、攻略はすぐに完了しました。 -
しかしこの攻略の2日後に、アメリカの艦上機が飛来し、この島を攻撃しました。
爆撃機はまず第一波として約40機、次に第二波として約40機、最後に第三波の20機がやってきて、爆撃を加えていきました。
そしてそのときに、祖父たちをここに運んで来た菊月という駆逐艦を始め、4隻の船が撃沈されてしまいました。
今でもこのツラギ島には、そのときに座礁した菊月が、当時の姿のままで残っているようです。
祖父たちがこのツラギ攻略のためにラバウルを出たのは4月30日のことでしたが、その翌日の5月1日、同じラバウルから、ポートモレスビーを攻略するための部隊(MO攻略隊)が出港しました。
5月4日には、それを援護するための空母を中心とする攻撃部隊(MO機動部隊)がこのラバウルに立ち寄り、南方へ出撃して行きました。
そして5月7日と8日に、この機動部隊と連合国軍機動部隊との間で、珊瑚(さんご)海海戦が戦われました。
その結果、護衛のための戦力を消耗(しょうもう)したということで、陸路からのポートモレスビー攻略作戦は中止されました。 -
ツラギ島を占領した祖父たちの呉三特陸戦隊の430人(?)は、この島と、その南にあるガダルカナル島とに分かれて他の部隊と共に警備の任務にあたっていたようです。
占領してから約3ヶ月後の8月7日朝、ツラギ島にアメリカ軍の艦隊がやって来て攻撃を始め、その後約8000名のアメリカ兵が島に上陸しました。
日本軍守備隊約1100名(うち三特は700人?)は必死に防戦しましたが、翌8日の夕刻には玉砕(ぎょくさい)(=全滅)してしまいました。
この日の連合軍の上陸は、その南、30〜40kmほどのところにあるガダルカナル島でも行われました。 -
ガダルカナル島は、山口県をやや小さくしたぐらいの大きさの島です。
この日の連合軍の上陸で、ツラギ島の守備隊はほぼ全員が死亡しましたが、ガダルカナル島の守備隊の方は、多くの人たちがジャングルに逃げ込むことができました。
ということは、このとき祖父がここにいたとすれば、ガダルカナル島の方にいたということになります。
ガダルカナル島に上陸したアメリカ軍は、そのとき、日本軍が建設を終えたばかりの飛行場を奪いました。
その後、このガダルカナル島では半年にもわたって、日米双方で互いに増援部隊を送り込みながら、壮絶な戦いが繰り広げられていくことになります。 -
このアメリカ軍の上陸の3日前の8月4日、日本の偵察(ていさつ)機がニューギニア島の東端のラビで連合軍の飛行場を発見していました。
この頃7月から8月にかけて、日本軍はニューギニア島に大軍を送り、山越えをして、ポートモレスビーの攻略に向かっていました。
もしこのラビに連合軍が大量の航空機を送り込めば、ラバウルやニューギニアの日本軍は、激しい攻撃を受けることになります。
8月21日、その飛行場を奪取(だっしゅ)するための、ラビ攻略作戦が発令されました。 -
ラバウルに待機していた呉五特陸戦隊や設営隊の1000名ほどの人たちが輸送船でラビに向かいました。
日本側は十分に勝算があると見込んでいましたが、実際には対する連合軍は、オーストラリア軍約7500名とアメリカ軍約1400名ほどの大軍が、飛行場の防衛にあたっていました。
日本軍は航空部隊として、ゼロ戦20機と艦上爆撃機10機が、その作戦を支援できるところ(ブナ)に配備されていました。
対する連合軍の飛行機は50機ほどで、さらにポートモレスビーからの増援も望めました。 -
昭和17年8月25日の夜、呉特別第五陸戦隊を主力とする1000名ほどの部隊が、ニューギニア島のラビ近郊に上陸しました。
祖父は第三陸戦隊だったので、まだこの中には含まれていませんでした。
呉五特の612名は24日から28日にかけて、3度の総攻撃をかけて飛行場を奪取しようとしましたが、総兵力9000人もの連合軍守備隊に阻まれ、兵力は100名ほどに激減してしまいました。
祖父たちの呉三特576名はその頃、ガダルカナル島からラバウルに引き上げてきたと思われますが、到着して間もなく、急きょこのラビ攻撃の増援部隊の主力として投入されることになりました。 -
最初の部隊が上陸した5日後の29日の夜9時ごろ、祖父たち呉三特568名と横浜五特の201名は飛行場の10kmほど東の海岸に上陸しました。
北は山地で南はミルン湾です。
暗闇の中を2時間半かけて海岸沿いに4kmほど西に移動して、夜11時半ごろに、先に上陸していた呉五特の残存部隊と合流しました。
そしてその翌日の30日の夜から31日にかけて、飛行場奪取を目指して5kmほど西に前進しました。
飛行場を守る連合軍は31日の未明3時ごろにそれに気づき、激しい反撃が始まりました。 -
これが私が祖父から聞き取った作文に書いていた夜襲であったと思われます。
そしてそのときに祖父は、左腕に被弾してしまったと思われます。
祖父たちはこの日、双方で一晩中撃ち合っていたということですが、実際には戦闘は夜中の3時ごろに始まったようです。
祖父が左手首に被弾したのはいつごろだったのでしょうか?
早い時間に被弾して、その後も夜明けまで、残った右手で撃ち合っていたのでしょうか? -
それとも被弾したのは明け方で、その後すぐに撤退したのでしょうか?
祖父が他界してしまった今となっては、そのときの詳しい様子はわかりません。
この日の戦闘で、先に上陸していた呉五特と、増援部隊として加わった呉三特の中の第2中隊はほぼ全滅してしまったようです。
祖父は第1中隊だったので、結果としてこのときは全滅を免れて撤退できた場所に展開していたということになります。 -
その後も日本軍はさらなる増援を待って、飛行場の東方約8km、上陸地点から西方約3kmほどの地点に陣を張って、再攻撃に備えていました。
しかし対峙(たいじ)する連合軍が反撃を強めたため、夜襲の5日後の9月5日に、呉三特の生き残り225名は、駆逐艦に便乗して撤退しました。
このとき残された人たちも、翌日の6日に収容船に収容されて撤退しました。
祖父も、このどちらかの日にニューギニアを離れたと思われます。
そして、このとき取り残されたわずかな人たちに対して、連合軍は掃討戦を行いました。 -
それによって、このとき取り残された人たちは全滅しました。(全員死亡したのか、捕らわれた人たちがいたのかはわかりません)
その後祖父はラバウルから病院船で本土に送還されたと思われます。
そのとき母たちはこの呉まで祖父を迎えに来たということでした。 -
この戦いは開戦から9か月目の1942年の8月から9月にかけてのことだったので、祖父はこのあと3年後の終戦までを内地で過ごすことができたと思われます。
もしこの戦闘で負傷していなかったら、さらなる戦地に転戦して、おそらくどこかで戦死していたと思われます。
戦争は大地震などの天災と非常によく似ていると思います。
いくら備えをしても、日が経つうちにそのことはだんだん風化して忘れ去られていきます。
今後、日中または日米などの緊張が高まってきた場合、その衝突をどのように回避していくか、また今後このような悲しむべきことが起こらないようにするにはどうしたらいいのかというようなことを、それぞれの国において、人間の英知を結集して、常に考え続けていかなければならないであろうと思われます。
( 完 )
※ 次回の旅は千葉です。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10673740/)
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
58