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 貝塚市は大阪府の南に位置し、「貝塚」という地名は、もともと「海塚」の字が使用されていたが、16世紀後半の古文書には「貝塚」とあり、その頃には「貝塚」の字が使われていたとされています。縄文時代の貝塚遺跡に関連してこの地名が付けられたと言う説がありますが、貝塚市域ではいまだに貝塚遺跡が発見されておらず、その関連性は証明出来ていません。<br /> 天文14年(1545年)頃から一向宗の町づくりが始められました。天正5年(1577年)織田信長の紀州攻めに遭い、町は焼土と化しました。秀吉時代には町は再興されたものの浮沈を味わい、江戸時代になり、寛永17年(1640年)に岸和田城の城主になって町は願泉寺の寺領とされ、住職の卜半家(ぼくはんけ)の支配の下に置かれて以後、明治維新まで近世の自冶都市として発展しました。代々の寺内町領主である卜半氏は、氏姓の「卜」から町民に「ぼっかんさん」と敬愛を持って呼ばれ、いまも、願泉寺は「ぼっかんさん」、「ぼっかんさん」といえば願泉寺として市民から親しまれています。その歴史に触れるべき市内の見どころを廻った。写真は孝恩寺の釘無堂。

「ぼっかんさん」の町と水間寺/大阪府・貝塚市・熊取町

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2011/09/25 - 2011/09/25

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ひま人

ひま人さん

 貝塚市は大阪府の南に位置し、「貝塚」という地名は、もともと「海塚」の字が使用されていたが、16世紀後半の古文書には「貝塚」とあり、その頃には「貝塚」の字が使われていたとされています。縄文時代の貝塚遺跡に関連してこの地名が付けられたと言う説がありますが、貝塚市域ではいまだに貝塚遺跡が発見されておらず、その関連性は証明出来ていません。
 天文14年(1545年)頃から一向宗の町づくりが始められました。天正5年(1577年)織田信長の紀州攻めに遭い、町は焼土と化しました。秀吉時代には町は再興されたものの浮沈を味わい、江戸時代になり、寛永17年(1640年)に岸和田城の城主になって町は願泉寺の寺領とされ、住職の卜半家(ぼくはんけ)の支配の下に置かれて以後、明治維新まで近世の自冶都市として発展しました。代々の寺内町領主である卜半氏は、氏姓の「卜」から町民に「ぼっかんさん」と敬愛を持って呼ばれ、いまも、願泉寺は「ぼっかんさん」、「ぼっかんさん」といえば願泉寺として市民から親しまれています。その歴史に触れるべき市内の見どころを廻った。写真は孝恩寺の釘無堂。

同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
観光バス JRローカル 私鉄 徒歩

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  •  孝恩寺(釘無堂)、近在の人達から「木積(こつみ)の釘無堂」と呼ばれ親しまれている孝恩寺の国宝観音堂は、大阪府の最古の木造建築物です。奈良時代に聖武天皇の勅願によって僧行基が開創したと伝えられる由緒あるお寺です。国宝観音堂は、釘1本も使わないで建てられているところから「釘無堂(くぎなしどう)」と言われます。

     孝恩寺(釘無堂)、近在の人達から「木積(こつみ)の釘無堂」と呼ばれ親しまれている孝恩寺の国宝観音堂は、大阪府の最古の木造建築物です。奈良時代に聖武天皇の勅願によって僧行基が開創したと伝えられる由緒あるお寺です。国宝観音堂は、釘1本も使わないで建てられているところから「釘無堂(くぎなしどう)」と言われます。

  •  孝恩寺・釘無堂は方五間、寄棟造りの屋根は行基葺きの本瓦葺きです。

     孝恩寺・釘無堂は方五間、寄棟造りの屋根は行基葺きの本瓦葺きです。

  •  水間寺(水間観音)、天台宗別格本山。天平年間(729〜749年)に、聖武天皇の勅願によって僧行基が創建したと言われています。中世以来、貴族や武家の信仰を集め、当時は150余の宿坊があったといわれますが、当寺も孝恩寺と同じく紀州攻めや根来騒乱によって多くの堂宇を失いました。江戸時代に入り、岸和田藩主の岡部氏の厚い保護を受けて繁栄しました。ご本尊は、創建以来開帳されていないという秘仏の聖観世音菩薩像で、行基が本堂裏の滝で、一寸八分の観音の尊像を授けられたというものです。

     水間寺(水間観音)、天台宗別格本山。天平年間(729〜749年)に、聖武天皇の勅願によって僧行基が創建したと言われています。中世以来、貴族や武家の信仰を集め、当時は150余の宿坊があったといわれますが、当寺も孝恩寺と同じく紀州攻めや根来騒乱によって多くの堂宇を失いました。江戸時代に入り、岸和田藩主の岡部氏の厚い保護を受けて繁栄しました。ご本尊は、創建以来開帳されていないという秘仏の聖観世音菩薩像で、行基が本堂裏の滝で、一寸八分の観音の尊像を授けられたというものです。

  •  水間寺三重塔、府下で唯一現存する塔で、岡部時代の江戸時代後期に建てられたものです。

     水間寺三重塔、府下で唯一現存する塔で、岡部時代の江戸時代後期に建てられたものです。

  •  水間寺、聖観世音出現の滝。行基が本堂裏のこの滝で、一寸八分の観音を授けられたと伝えられています。

     水間寺、聖観世音出現の滝。行基が本堂裏のこの滝で、一寸八分の観音を授けられたと伝えられています。

  •  水間寺境内の愛染堂の近くに「お夏清十郎の墓」と伝えられる墓があり、墓前の花立てには寄進者、林長十郎と田中絹代の名が刻まれています。又、かたわらの愛染堂は一名「縁結びの橋」と称されています。

     水間寺境内の愛染堂の近くに「お夏清十郎の墓」と伝えられる墓があり、墓前の花立てには寄進者、林長十郎と田中絹代の名が刻まれています。又、かたわらの愛染堂は一名「縁結びの橋」と称されています。

  •  感田神社、「貝塚宮」とも呼ばれる感田神社は、もとは感田瓦大明神と称されていた由緒の古い神社です。御祭神は天照大神で、貝塚寺内町の産土神として地域の五穀豊穣と家内安全を祈願して、昔から信仰の対象となっています。<br /> 毎年7月に行われる勇壮な夏祭り「太鼓台祭り」は、260年前から行われている泉州地域では最古の太鼓台祭りといわれ全国的に宣伝される<岸和田の喧嘩祭り>と昔は双壁していました。

     感田神社、「貝塚宮」とも呼ばれる感田神社は、もとは感田瓦大明神と称されていた由緒の古い神社です。御祭神は天照大神で、貝塚寺内町の産土神として地域の五穀豊穣と家内安全を祈願して、昔から信仰の対象となっています。
     毎年7月に行われる勇壮な夏祭り「太鼓台祭り」は、260年前から行われている泉州地域では最古の太鼓台祭りといわれ全国的に宣伝される<岸和田の喧嘩祭り>と昔は双壁していました。

  •  感田神社境内の北側に、社家と境内を分かつ環濠がありますが、これは、かつて寺内町にめぐらされた濠の面影を残す唯一の遺構で、寺内町の町域を示す上でも貴重な文化遺産です。

     感田神社境内の北側に、社家と境内を分かつ環濠がありますが、これは、かつて寺内町にめぐらされた濠の面影を残す唯一の遺構で、寺内町の町域を示す上でも貴重な文化遺産です。

  •  願泉寺本堂、16世紀後半には浄土真宗の本山・本願寺が置かれたこともあり、古い由緒を持つ寺院です。本堂、庫裏、鐘楼など江戸時代につくられた迦藍がいまも残っている。願泉寺のお仏事は、一般に「ぼっかんさん」「ほんこうさん」と呼ばれ、もとは12月下旬に行われており、「ぼっかんさんが来たら、いよいよ本格的な寒さが訪れ、奈良のお水取りが終わったら春が来る」と言われていたそうです。「ぼっかんさん」は住職の名である卜半家を起源としています。

     願泉寺本堂、16世紀後半には浄土真宗の本山・本願寺が置かれたこともあり、古い由緒を持つ寺院です。本堂、庫裏、鐘楼など江戸時代につくられた迦藍がいまも残っている。願泉寺のお仏事は、一般に「ぼっかんさん」「ほんこうさん」と呼ばれ、もとは12月下旬に行われており、「ぼっかんさんが来たら、いよいよ本格的な寒さが訪れ、奈良のお水取りが終わったら春が来る」と言われていたそうです。「ぼっかんさん」は住職の名である卜半家を起源としています。

  •  願泉寺太鼓楼、太鼓で時間を知らせいた。

     願泉寺太鼓楼、太鼓で時間を知らせいた。

  •  中家住宅(重要文化財)、正面に豪快な土間を持つ主屋が妻面をみせて建っています。入母屋造り、茅葺き、妻入りで、周囲は本瓦葺きの庇をめぐらし、独立性の高い土間は近畿地方でも最大規模のもので寺院の庫裡や武家の台所を思わせます。<br /> 中家は平安時代後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮(仮設の御所)とした由緒ある泉南地方の旧家です。

     中家住宅(重要文化財)、正面に豪快な土間を持つ主屋が妻面をみせて建っています。入母屋造り、茅葺き、妻入りで、周囲は本瓦葺きの庇をめぐらし、独立性の高い土間は近畿地方でも最大規模のもので寺院の庫裡や武家の台所を思わせます。
     中家は平安時代後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮(仮設の御所)とした由緒ある泉南地方の旧家です。

  •  重要文化財・中家住宅唐門。

     重要文化財・中家住宅唐門。

  •  中家に隣接する煉瓦館は、昭和3年に建設された綿布工場を保存再生したもので、煉瓦壁は建設当時のものをそのまま活かし、のこぎり屋根を再現するなど工場の雰囲気を残しながら、近代化遺産として後世へ継承するべく、平成17年に「煉瓦館」として生まれ変わりました。現在は熊取の歴者や文化の資料展示、各種研修会、展示会、発表会などに利用されています。

     中家に隣接する煉瓦館は、昭和3年に建設された綿布工場を保存再生したもので、煉瓦壁は建設当時のものをそのまま活かし、のこぎり屋根を再現するなど工場の雰囲気を残しながら、近代化遺産として後世へ継承するべく、平成17年に「煉瓦館」として生まれ変わりました。現在は熊取の歴者や文化の資料展示、各種研修会、展示会、発表会などに利用されています。

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