2011/07/27 - 2011/07/27
202位(同エリア844件中)
がおちんさん
旅の5日目。今日は蒙古族の友人たちと瀘沽湖を再訪し、21年ぶりに定点撮影するなどして楽しみました。
みんな見た目はオッサンになったけど、友情は昔のまま。あの頃のように素晴らしい時を過ごしました。
旅のルート(2011/7/27)
瀘沽湖鎮→走婚橋→土司府→博瓦湾→瀘沽湖鎮→出水洞→瀘沽湖鎮
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩 バイク
-
7月27日(水)
瀘沽湖鎮の朝。
夜中に厠所に行く途中、星空が素晴らしかった。 -
H君はまだ寝ている。
起こさずにそっとしておく。 -
玄関に掛けられた、見事なヤクの角。
-
奥さんに呼ばれて台所へ。
ほっくほくのジャガイモとマントウの朝食。 -
土瓶ごと囲炉裏の中に入れる。
懐かしの苦茶だ。 -
昔ほど強烈な味ではないが、これを飲んだら一発で目が覚める。
-
囲炉裏を囲んだ、朝の光景。
-
「朝はこれが一番だ」とH君はツァンパをこねる。
もちもちして香ばしく、なかなか美味い。 -
朝食をささっと済ませた奥さんは、続けて家畜のエサを作る。
大忙しだ。 -
ムシャムシャと、美味しそうにエサを食べるブーちゃん。
-
H君は馬も飼っている。
私が前を通るたび、「ブフフッ」と鼻を鳴らした。 -
朝の仕事がひと段落して、H君夫妻の記念写真を撮る。
彼らも民族衣装は着なくなった。残念だけど、日本人だって同じように着物を着なくなったのだ。
時代の流れに逆らうことはできない。 -
★1990年の瀘沽湖鎮の写真
今回、私が持ってきた古い写真の中に、奥さんの姿も2カットあった。夜、広場で踊りが催されたときに撮ったもので、中央の女性が結婚前の彼女。
「これ、私だ!」と奥さんはとても喜んだ。当時はカメラなど一般的じゃなかったから、若いころの写真は貴重に違いない。 -
今日は、昔歩いた瀘沽湖の地を再訪することになった。
写真は瀘沽湖鎮より望む獅子山。 -
H君と一緒にZ君の家へ。
まずは茶の用意から。彼らは火の扱いに長けており、自由自在に炎の調整ができる。
見事だ。 -
何をするにも、どこに行くにも、あくせくせずに茶を飲んでから行動する。
多くの少数民族が持つ、この大らかさに私は魅力と憧れを感じてきた。生活様式が変わり、ケータイを持つ時代になっても、彼らは悠々と生きている。時間に追われる日本人とは対照的だ。 -
Z君と奥さん、中央は三女。
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★1990年の奥さんと長女。
今回、長女には再会(覚えていないだろうけど)できなかった。
なんと彼女は現在、モデルとして活躍しているそうだ。 -
「これ、お姉ちゃん」と三女が写真を見せてくれた。
彼女は天津を拠点にして、中国全土や海外にも仕事で行くという。日本にも行ったことがあるそうだ。 -
うわー、美人。
でも、小さい頃の面影も残っているかな。 -
当時は交通も不便だった瀘沽湖で生まれた娘が、中央に出て行って活躍している。
人生って不思議。 -
10時半ごろ、3人とバイクで出発する。最初に向かったのが「走婚橋」というところ。
草海にかかる橋で、昔は草海橋と呼ばれていた。昔、私も雲南側から左所に行く際に渡ったことがある。 -
「おじさん、これ買って」と、民族衣装を着た物売りの子供たちが迫ってきた。
うわ、瀘沽湖もすっかり観光地になっている。 -
橋の手前には屋台が並ぶ。
湖で獲れた魚やエビ、カエルを炭焼きで食べることが出来る。
中国人観光客に人気があるようだ。 -
久しぶりに見た草海。昔の記憶が蘇り、しばし思い出に浸る。
「ボート乗りませんか」とモソおばさん。
「いや、ここに来ただけで充分なんだ」と私。 -
ちょっと見ると草原のようだが、実は湿地帯になっていて、小舟で漁をする人も見られる。
まさに草の海だ。 -
橋は私が渡ったものとは違っていた。
「がおちんが歩いたのは、あっちだよ」とZ君が指差す。 -
かつての橋の残骸が残っていた。
ああ、あそこを歩いたんだ。懐かしいな。
老朽化と観光化するために、橋を新しく作り直したのだという。 -
★1990年の草海橋
21年前の、ちょうど今と同じ7月だった。
橋を渡ろうとしたら、前から牛が歩いて来たので逆戻りしてやり過ごした。 -
★1990年の草海橋
簡素で小さな木の橋だったけど、こっちのほうが味わいがあるな。 -
★1990年の草海橋
行きかう人々は民族衣装を着ていた。
毛皮を袈裟懸けにした姿がかっこよかった。
写真はモソ人の女性。 -
思い出が蘇って、気分が高揚する。ひょっとして、H君と出会ったのは、この集落だったかも?
「そうだ、俺たちはここで出会った」とH君。
売店が一軒あっただけの小さな集落も、今や立派な観光地。 -
「モソ人の手編みのスカーフはいかが?」とお姉さん。
いい品物だけど、土産は要らない。 -
次に向かったのが、大きな建物。
まるで要塞のようだ。 -
昔の「土司府」を再現したのだという。
小さな窓は土匪を銃撃するためのもの。 -
まだ建設中だったが、博物館みたいなつくりになっている。
いずれ観光名所になるのだろう。 -
再び移動する。
道路ぞいに民族風の客桟(民宿)が建ち並んでおり、建設ラッシュはさらに続いている。
明らかに供給過剰の状態だ。 -
博瓦湾は人気のある景勝地。
舟遊びをする観光客でにぎわっていた。 -
団体客がワーッとやって来て舟に乗り、ワーッとバスに乗って去っていく。
それの繰り返し。 -
秘境だった瀘沽湖が、中国のどこにでもあるような観光地になっていた。
コンクリートで固められた湖畔では中国人がポーズ。
透明度が低くなり、ゴミも捨てられている。
そういう時代とはいえ・・・悲しい。 -
左所に戻る途中、見覚えのある場所があった。
正面の山に向かって、左に進むと左所に至る場所だ。
昔もこのあたりで写真を撮った。 -
★1990年の同じ場所
現在は車がビュンビュン飛ばしている道も、当時はのどかな細道だった。 -
12時半。昼食を食べるため、A君の家に行く。
台所に入ると、棚に何か発見。 -
あっ、豚の頭だ。
毛も生えているし、視線を感じるのは気のせいかなあ? -
棚の上に置かれた物体は、内臓を取って干した猪膘肉。瀘沽湖に住むモソ人や蒙古族の保存食だ。
歯ブラシなんかと一緒に置かれているところが、生活と密着したものであることを感じさせる。 -
興味を示した私にA君は、「いいものを見せてやろう」と裏の部屋へ案内してくれた。
-
「猪膘肉は、ここで作るんだよ」と、A君は笑顔でポーズ。
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部屋の隅にある仏壇の前に座り、「ここで撮ってくれ!」とA君。
彼の写真好きも、全く変わっていなかった(笑)。 -
台所ではA君の奥さんが猪膘肉の調理を始めていた。
まずは肉を火であぶる。 -
水で洗って汚れを落とす。
-
鍋に入れ、ソーセージと一緒に煮る。
-
薄切りにして、出来上がり。
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ごちそうを前に、料理の説明をするA君。
猪膘肉は煮ても焼いても、炒めても揚げてもいいそうだ。
10年経っても味は変わらないという。
ソーセージは、その濃厚な味に驚いた。地鶏のスープは猪膘肉のダシもきいていて、とても美味。
A君の奥さんが全て一人で作ってくれた。
どうもありがとう。 -
食事が終わると、A君のリクエストで家族撮影。
A君、満面の笑み。 -
午後、今度は瀘沽湖鎮から里格方面に向かって走る。正面に見えるのは獅子山。
昔、3人と一緒に歩いた道だ。何時間もかけて歩いた道も、今はバイクであっという間に過ぎてしまう。 -
★1990年の同じ場所。
左所から瀘沽湖へと続く道。
暑くて、遠くて、ほこりだらけになったけど、楽しかった。 -
湖畔に道路を通したのは間違いだと思う。
スピードを出す車が多くて危ない。サイクリングをする人のすぐ横を自動車が追い越したり、対向車線から追い越しをかけた車が、中央ラインをはみだしたまま走って来るので冷や冷やする。ゴミも多い。
こんな道、歩く気にはなれない。 -
★1990年の湖畔。
21年前の同じあたりの風景。
いったん開発してしまうと、もう元には戻らない。湖畔には遊歩道を作るべきだったのだ。 -
ホリデイ・インまで建っていた。
-
瀘沽湖鎮からバイクで30分ほど走ると、見覚えのある丘に着いた。
-
★1990年の瀘沽湖。
21年前に丘から撮った写真。 -
同じ場所で定点撮影。
自然の風景は、ほとんど変わっていない。 -
★1990年の瀘沽湖。
若かりしころの4人。 -
同じ場所とポーズで撮影。
人間のほうは見た目がずいぶん変わった。 -
定点撮影を面白がった彼らは、「泳いだ場所へ行こう」とノリノリ。
-
崖下の岩場へ向かう。
昔はここが道だった。 -
この場所だ。
ここから飛び込んで泳いだ。 -
★1990年の瀘沽湖。
その時、Z君が撮ってくれた写真。
水は冷たいし、息は苦しいし、どん深で透明度が高くて、ちょっと怖かった。
この後、岸に戻ったら心臓がバクバク打っていた。 -
★1990年の瀘沽湖。
泳いだ後に撮った写真。 -
定点撮影。
みんなオッサンになった。体が引力に逆らえず。 -
★1990年のH君とZ君。
これは2度目に瀘沽湖に行った時の写真。二人ともスリムでかっこよかった。 -
今の二人。
H君、腹が出たなー。 -
21年前、アハバラを歌ってくれたA君。
-
彼は今回も美声を披露してくれた。
☆その時の録音です
http://www.voiceblog.jp/gaochin/1538816.html -
A君の独唱会の最中、通り雨が降ってきた。
崖下で雨宿りする。 -
雨もやんだ。
さあ、帰ろう。 -
19時、瀘沽湖鎮に戻る。
空はまだ明るい。 -
今夜はZ君の家で、最後の宴会。
しかし、昨日からごちそうが続いて食欲不振になった私。礼を欠かぬよう、前もってそのことを伝えると、「これを食べて」とZ君の娘が薬草を出してきた。
モーシャンという木の根(?)で、左所から100キロ離れた高山の限られた場所にだけに生息する、大変貴重な薬だそうだ。腹の膨満感や食欲不振などはすぐに解消するという。
事実、全くそのとおりだった。著効に驚く私に、「これを知ったら西洋薬は飲めないよ」とみんなが口をそろえて言った。
☆その時の会話を録音しました
http://www.voiceblog.jp/gaochin/1538817.html -
20時、料理ができあがり、宴会開始。
Z君の奥さんが時間をかけて何品も作ってくれた。私もすっかり食欲が戻り、楽しく飲んで食べることができた。 -
恐怖のおかわり責め。
隙があると、サッとつがれてしまう。 -
「ワーッ、もう本当に入らない!」と体を張って断るA君。
このぐらい大げさにしないと、いつまでもおかわり責めは続く。 -
蒙古族との楽しい時間が過ぎていく。
「次はいつ来る?」とH君。
「そうだな、10年後。20年後にも必ず来る。その時は髪の毛が真っ白になっているな」と私が言うと、「心配するな、俺たちもみんな真っ白になっているよ」とA君。
そりゃそうだと、みんなで笑った。 -
夜の瀘沽湖鎮は歩く人もまばらだ。
今夜は民族の踊りが催されているから、見に行くかい?と聞かれたが、先にH君の家に寄ってもらうことにした。 -
立ちくらみがすると言っていたH君の奥さんに、鍼灸治療をする。
2日間、世話になったお礼だ。 -
治療後、「楽になった」と奥さんは喜んだ。
治療のお礼にと刺繍した靴の中敷や、山で採った薬草をくれようとしたが、荷物になるので気持ちだけ受け取ることにした。 -
治療後、踊りの会場に行ってみると、すでに終わって団員たちが外に出てきた。
「間に合わなかったな」とH君。
「君たちに会いに来たんだから、踊りはどうでもいい」と私が言うと、「そうだな」と笑った。 -
帰り道、Z君とA君が「ここでお別れだ。明日は送らないよ」と言い、握手を交わして別れた。私はH君と彼の家に戻ったが、結局は夜中まで話し込んでしまった。
明日は早朝に瀘沽湖を出発し、山に向かう。
みんなに会えてよかった。ありがとう、瀘沽湖の友たちよ!
2011年雲南・四川の旅 【その5】に続く
http://4travel.jp/travelogue/10594859
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この旅行記へのコメント (4)
-
- がまだす@熊本さん 2011/12/28 16:33:06
- 小泉さんではないけれど、感動をありがとう!!
- がおちんさん、お久しぶり。
こちら4トラベルで頑張っていますね(^0^)
〜瀘沽湖、青春の思い出をもう一度〜2011年雲南・四川の旅〜
読んですごく感銘を受けました。
と申しますのは、私も瀘沽湖を4年前に訪ねたことがあるからです。
周りの風景も湖の景色もあの頃とあまり変わっていません。
何より感動したのはH君とZ君と出会いシーンです。
それから想い出を個所を重ね合わせて撮ったショットも素晴らしいですね。
しかし何と言っても、お互いの記憶の中に今も存在していたとは・・・
これが本当の友情、生涯の宝物ではなかろうかと思います。
僕もいつかプノンペンのバイタクのトシとマサルに合いに行きたい。
とは言うものの、
はたして彼らが今、プノンペンに元気でいるかが疑問ですけど・・・
- がおちんさん からの返信 2012/01/05 07:50:49
- RE: 小泉さんではないけれど、感動をありがとう!!
- がまだすさん
ご無沙汰しています。コメントをありがとうございました。
> 〜瀘沽湖、青春の思い出をもう一度〜2011年雲南・四川の旅〜
>
> 読んですごく感銘を受けました。
> と申しますのは、私も瀘沽湖を4年前に訪ねたことがあるからです。
> 周りの風景も湖の景色もあの頃とあまり変わっていません。
おお、がまだすさんも瀘沽湖に行かれたのですか。
その土地で出会った人との交流が深いほど、心に残る旅になりますよね。今回は正直言って彼らに会えるか不安でした。21年も経てば世の中も変わっているし、自分の人生もそうであるように、彼らの人生にもいろいろあっただろうからです。引越しをしているかもしれないし、病気や事故で亡くなっているかもしれない。運にかけて出かけました。
> 何より感動したのはH君とZ君と出会いシーンです。
> それから想い出を個所を重ね合わせて撮ったショットも素晴らしいですね。
> しかし何と言っても、お互いの記憶の中に今も存在していたとは・・・
> これが本当の友情、生涯の宝物ではなかろうかと思います。
彼らに会えたときは嬉しくて、胸がドキドキ鳴り出しました。皆が元気で本当に良かった。思い出の場所に向ったときは、4人とも気分は20代の青年に戻っていました。同じ場所でのショットは、しまっておいた宝物を皆で再確認したような気持ちです。
> 僕もいつかプノンペンのバイタクのトシとマサルに合いに行きたい。
> とは言うものの、
> はたして彼らが今、プノンペンに元気でいるかが疑問ですけど・・・
時が経っても会いたいと思う人であれば、相手もがまだすさんに会いたいと思っているはずですよ。それこそが、旅の最も素晴しい部分ではないでしょうか?
がおちん
-
- 鯨の味噌汁さん 2011/09/09 12:27:54
- 青春の思い出
- すばらしい再会でしたね。
同じ場所で同じポーズの写真。
若かったころの自分たちを探しに行ったんですね。
「青春の思い出」って、ホントにベタなタイトルですけど。
それ以外に言いようがないですね。
10年後はともかく、20年後だと、みんなオジーチャンになっちゃいますね。
孫を抱えての再会になりそう…
ひとつ素朴な疑問。
なぜこんな南の地に蒙古族が住んでいるのかしら。
チンギスハン遠征の末裔なのでしょうか。
(⇒見落としていたらゴメンナサイ)
蒙古族の保存肉、ウワサには聞いていましたがはじめて見ました。
司馬遼太郎さんは羊の肉を乾燥させて保存食にして、日本まで持ってきた老人の話を書いていましたが、ブタでもやるんですね。
- がおちんさん からの返信 2011/09/09 21:04:21
- RE: 青春の思い出
- 鯨の味噌汁さん
長い旅行記におつき合いくださり、ありがとうございます。今回の旅は特に思い入れが強かったので、しつこくなってしまいました。
>若かったころの自分たちを探しに行ったんですね。
同じポーズの写真は、彼らのほうがノリノリでした。20年後にもやってみたいと思います。
> ひとつ素朴な疑問。
> なぜこんな南の地に蒙古族が住んでいるのかしら。
彼ら自身は、1253年にフビライ軍が大理国を攻めた時の末裔であると語っています。フビライ軍は、今の甘粛省のほうから四川省の木里、塩源に至り、永寧から山を越えて金沙江を渡り、麗江から大理に侵攻し、大理国は滅びました。
瀘沽湖の雲南側に住むモソ人(永寧納西族)と言葉や服装、通い婚などの習慣などはほとんど同じですが、中国解放後に四川側は蒙古族、雲南側は納西族とされました。モソとは納西族の古名をさすそうです。昔、ちょっと習った話を書いてありますので、よろしければ参考にしてください。
http://www.yunnanlegend.com/diary/index.html
↑「モソ人とは」という段落です。
また、フビライ軍が大理に向かう途中、金沙江を皮袋に乗って渡ったという場所が何ヶ所かあるようです。このあとの、金沙江トレッキング【その6】に、「革囊渡」というのが出てきますが、ここもそのときの遺址だそうです。
> 蒙古族の保存肉、ウワサには聞いていましたがはじめて見ました。
> 司馬遼太郎さんは羊の肉を乾燥させて保存食にして、日本まで持ってきた老人の話を書いていましたが、ブタでもやるんですね。
瀘沽湖周辺に住む少数民族は豚の保存食を作ります。長い間交通が不便だったことや、この地方の気候や地形などの環境に適した保存方法なのだと思います。
がおちん
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