2011/08/10 - 2011/08/16
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エジナ(額済納)、探検家&撮影愛好者旅行の良い季節:毎年の10月1日--10日
『巴丹吉林沙漠』
巴丹吉林沙漠の総面積は約4万平方kmで、そのうち額済納旗内には、5000平方kmが広がり、これは巴丹吉林沙漠の総面積の8分の1にあたる。沙漠の中央部、海抜1200〜1400m付近には砂山が重なり合い、一般的に高度が200〜300mでは砂丘が並んでいる。最高地点では500mに達し、世界の砂山の王といわれ、旅行者にとって魅力のある世界である。
『胡楊樹』
額済納は世界にわずかしか残っていない三大胡楊林区の一つである。その中心は額済納旗のオアシスで、蒙古語で“陶来”(トオウライ)といわれている。沙漠を流れる額済納河の両岸に沿って胡楊の林が30万畝(1畝は6.667a)にわたって分布している。これらの胡楊樹はきわめて珍しい樹種で、その珍奇性は銀杏の木とよく対比われる。
『怪樹林』
怪樹林は額済納鎮の西南28kmに位置している。この地域は、およそ数百年前には、一つ胡楊の原始林であった。その後の自然的な要因により、胡楊樹の大部分は、あるものは東へ倒れ、あるものは西へ曲がるなど枯死寸前のものが大部分であるが、その奇異な表情や姿形はそれぞれ異なり、土地の人々はこの不気味な光景から怪樹林と呼んでいる。数千本の灰色をした木々が立ち並ぶ様は、まさに樹木の墓場である。ここを訪れる人々をして死のような沈黙の世界や童話のような仙境へ引きずり込むことであろう。
『神樹』
200余年前、土尔扈特人がはじめてこの額済納に来た時、胡楊樹が密生し遊牧にはとても難しいことがわかった。そのため、他の場所で遊牧を営むこととし、この胡楊樹林を焼き払って立ち退いたのである。それから3年後にこの土地に来てみると、この神樹がただ一つ巍然と聳え勢いよく伸びていた。土尔扈特人はこの樹木の生命力の強さに驚き、その後、畏敬の念をもって神樹として祀るようになった。樹高27m、直径3m、額済納鎮の北28kmにある。
額済納旗は内蒙古自治区の西北端に位置し、阿拉善盟の所在地巴音浩特(パヤンホト)から700km、北部は蒙古国と境界を接し、その国境線の長さは、全長514.69kmである。全旗にわたって広漠たる平原が広がり、東西の広がりは約480km、南北の長さ約330kmで、その総面積は11万4606平方kmで、全区土地面積の10分の1近くを占めている。( 日本の約1/3近くにあたる。)
額済納旗は地理的には蒙古高原の一部分をなし、西部と東部には低い山地や丘陵が、中部には高原盆地が、巴丹吉林沙漠の北緯には、古日乃(ゴロナイ)と拐子(温図高勒・オントゴル)の2大沼沢地が広がる。地形は全体として平坦であり、地勢は南高北低で1/1000から1/1500の勾配である。最高地点は海抜1700m、最低地点は820mであるが、大部分の土地は平均900〜1100mの間にある。
地貌は、広大なゴビ(戈壁)沙漠をはじめ低山丘陵、小沙漠、湖沼、弱水(エチジナ河の古称)、緑州(オアシス)などいろいろな類型のものが見られる。そのうちゴビ(戈壁)沙漠の面積は6万7000平方kmで、全旗総面積の約58.46/100を占める。低山丘陵の面積は1万1000平方kmで、全旗総面積の約9.6/100である。沙漠面積は5000平方kmで、全旗総面積の約4.36/100である。弱水やオアシス及びその系列に属する湖盆沼沢地の面積は3万1600平方kmで、全旗総面積の22.57/100を占める。
年間日照時間は3394時間に達する。年間降水量は平均わずか80mmと少なく、蒸発量が年間3700mmと大きいため、湿潤係数は0.011に過ぎない。
風速は毎秒平均4.2mである。最高風速は20m前後に達し、8級以上の大風は平均37回という多さである。( 風速20m前後という大風は9級以上であり、人家に損害が出る。瓦が飛ぶ、煙突が倒れるなど。10級以上になると24.5m〜28.5mで、樹木が根こそぎになったり、人家に大損害が起こる。)
エチナ河は季節性の河で祁連山を源流とし、甘粛省に入って張掖付近から北西に向かって弱水となり、途中、甘粛省の高台、金塔県を経て、巴丹吉林(パダインジャラン)沙漠の西縁を北流し、巴彦宝格徳分水闸(バゲンホグドダム)に至り、その後2つに分かれて東河(ナリン河)と西河(ムレン河)二条の大河を形成する。
下流は19の支流に分かれるが、それらはやがて蘇泊淖尔(ソゴノール)、嗄 順淖尔(ガシュンノール)、京斯図淖尔(ジュンストノール)の3つの内陸湖に注ぐ。
エジナとは西夏王国時代の党項(タングート)族の言葉で、すなわち黒水という意味である。元代以降“亦集乃”が転音して成立したものである。土尔扈特(西モンゴルの一つの部落、トルグート)族がここに居住し、旗に近い行政政治組織をつくったのである。
額済納旗の特産品で特に注目されるものは、蒙古でよく用いられる漢方薬植物の大芸(肉蓯蓉、きのこの一種)、肉蓯蓉、鎖陽、甘草(まめ類の多年草で中国北部の沙漠地帯に自生する。高さは約1mとなる。根は甘根と呼ばれ薬用・甘味料として用いる)。これらは多量に産しその上、良質で国内外に広く販売されている。名の通った産物としては、駱駝の毛がある。これは毛が長くて色艶がよいので、外国貿易商の関心もますます高まっている。
また、この土地の西瓜や甜瓜(ハミウリ、まっか瓜)はたいへん香りがよい上に糖分を多量に含み、口当たりがよいことで内外に有名である。さらにまた、この地方の沙棗木(砂棗)の木は材質がたいへん硬く、木目模様が面白いので日用家具の好材料となっている。
【額済納旗の歴史とその沿革】
額済納旗地区は悠久の歴史をもっている。この地方では、非常に早く、原始社会の頃から人類の活動が見られ、東西石器文化の連接点といわれてきた。前秦時代には“流沙”とか“弱水流沙”といわれたが、秦・漢以降になって“居延”と呼ばれた。(これは匈奴の古い言葉で、その意味は幽隠で、奥深く隠れた静かな土地という意味である)
前漢・後漢の300余年間は、この居延地区が空前の発展を見せた時期である。匈奴に対して攻勢に転じたのは前漢の武帝の頃からであるが、元狩2年(紀元前121年)、漢の驃騎将軍霍去病(カクキョヘイ)が張掖・酒泉南方の祁連山を攻めて居延に入り、河西を収め長安に凱旋した。その結果、河西回廊のオアシスは漢帝国の支配下となり、武帝の時には武威、張掖、酒泉、敦煌に四郡を設置し、紀元前108年には玉門関まで長城を伸ばした。太初3年(紀元前102年)には長城を築きそれを居延まで伸ばしている。そして、張掖都尉路博徳(ロハクトク)を派遣して修理築城させ、居延海の南に“遮虜障”(シャリョショウ)を造らせた。ここは居延城とも呼ばれ、大規模な屯田も行われた。同年、国境を守備する兵士18万余名が河西回廊に至り、その結果、北に居延、休屠(キュウド)の二県を置いた。この間に多くの出城と烽燧台を築き、この居延水沿いの地域を匈奴に対する防衛線とした。その後、改められて“張掖居延属国”とした。
漢の匈奴征伐が次第に成功してきたので、その西方進出はようやく可能となってきた。…元朔2年(前127年)、将軍衛青は雲中から出陣して、オルドス内の匈奴(楼煩白羊王)に壊滅的な打撃を与え、朔方城を築き、秦の蒙恬の築いた防塞を修築して、長い間はびこっていた匈奴の勢力をオルドス地方から一掃することに成功した。……この頃、匈奴では相続争いの内乱が起こり、ますます自らの力を弱めた。…この年の冬、匈奴の軍臣単于が没し、その弟左谷蠡(サコクリ)王伊稚斜(イチシャ)が単于の太子於単(ウタン)を破って自立したのである。太子於単は翌3年(前126年)、漢に亡命して渉安侯(ショウアンコウ)となったが、このため、匈奴はますますその勢力を弱めることになる。その翌々年、衛青は再び朔方から軍を進め、匈奴の右賢王を破って大勝を博し、さらに元狩2年(前121年)には画期的な漢の河西制覇が敢行された。
その年の春と夏、万余の大軍を率いた驃騎将軍霍去病は、二次にわたって甘粛地方の匈奴を撃破し、捕虜数万の大戦果を収めた。この地方の匈奴は渾邪王(コンヤ)、休屠(キュウド)王の2人によって統率されていたが、河西における敗北の責任を単于に問われようとしたので、渾邪王は休屠王を殺し4万の衆を率いて漢に降った。その結果、河西における匈奴の勢力は一掃された形となり、金城・河西の西から南山山脈沿いに塩沢(ロプノール)に至るまで、一人も匈奴の姿を見かけぬようになった。−『史記』大宛伝−)
“居延属国”は、漢の安帝(紀元107〜125年)の時期にはすでに4733人の住民がおり、漢の献帝の建安(紀元196〜219年)末には、改めて西海郡を置いた。魏・晋の時代にはこの地方は西海郡と称せられ、晋の懐帝の永嘉(紀元307〜313年)以降には前涼・後涼・北涼・西涼が割拠するところとなる。北魏の時期(439年に華北を統一)に涼州( 涼州は現在の武威、粛州は酒泉、甘州は張掖、沙州は敦煌)の所轄となり、隋・唐時代には甘州、粛州に属した。
唐代になると、“寧寇軍”が組織され、居延の軍事を支配した。安史の乱(755〜763年)の時に河西回廊は、吐蕃(チベット)の貴族によって分断されたため、居延地区は長安から西城へ向かうための重要な交通路となった。その後、居延地区は前後して吐蕃、回鶻、契丹の占拠するところとなる。
宋代になると、真宗の景徳年間(1004〜1007年)に居延地区は再び西夏によって占有され、この時期に一繁栄時期を迎えた。( 西夏は、11世紀頃河西回廊から北のゴビにかけて勢力を広げ、これを建国したのは、タングートと呼ばれるチベット系民族で、初代李元昊(1032〜1048年)が興慶府、現在の銀川を都とした。甘州、粛州、沙州、瓜州・−現在の安西−などのオアシス都市を征服し、西はウイグル、東は遼、宋に対していた)やがて、西夏は居延に、“黒山威福軍司”“威福軍城”(即ち黒水城)を設置した。
元の勢力が拡大してくると、1205年、成吉思汗は居延を経て河西回廊への前後4回にわたる攻略を開始した。1226年2月、元軍の第4次攻略が始まり、そのとき“黒水城”も攻撃を受け、黒城はまもなく投降を余儀なくされたのである。
しかし、その後も黒城は復活し、城外にまで街が造られ繁栄したといわれる。
1271年、元の世祖忽必烈(フビライ)は中国を統一後、亦集乃路总管俯という行政組織を設立し、居延地区の軍事政治を統括した。
明代の洪武年間の初め(1368年)、将軍馮勝(ヒョウショウ)の率いる軍隊は亦集乃の拠点を攻略した。これによって居延地区は甘州、粛州2州の国境防衛地となり、漢代以降の軍事施設やその他の屯田施設も徹底的に破壊され破棄された。
清の康熙43年(紀元1704年)、土尔扈特蒙古部族の首領阿拉布珠尔(アラブジュール)はこの地域一帯の牧地と敦煌地方の色尔騰(シルトン)地方を賜った。康熙55年(1716年)、その子丹宗が帝位に即いた後、准格尔(ジュンガル)部の干渉や脅迫を恐れて居住地の変遷を皇帝に要請した。雍正9年(紀元1731年)、陜西総督査郎阿(サロウア)の許可を経て、額済納河流域を牧地とすることができた。
乾隆18年(1753年)、額済納旧土尔扈特旗の行政軍事組織の建設が始まった。外蒙古57旗と内蒙古49旗もまだ発足していないし、新彊烏恩蘇吉格(ウニンスクジクト)盟もまだ隷属していないことから、清朝政府はこの土地を直轄地とし、“特別旗”とした。( 清は明の政治制度をほとんど継承し、辺境地域−藩部−を監督する理藩院を設置し、地方行政は直轄地の中国本部・満州・台湾と、藩部の蒙古・青海・チベット・新疆とに分けた)。
【自然景観】
『黒風』砂嵐
この居延地方は海洋性気候風と台風的な風のあることでよく知られている。その数は必ずしも一定していないが、“陸上台風”として知られている 壁の黒風(沙暴)などは西北地区に住む人々以外にはあまりわかる人はいないであろう。
沙暴!それを額済納では黒風と称している。砂嵐が一旦起こると、よく冴え渡った青空も忽ちあたり一面の暗黒となり、8〜9級の暴風が身体を包み大量の砂粒が身体を叩きつけ、全く防ぎようのない状況となる。また、黒風が通り過ぎた土地では、軽くても人畜に死傷や損害が見られ、交通や生産も一時的に麻痺してしまうことになる。
さらに甚だしい出来事は、歴史上の一時期、西北地域で繁栄を示した“黒水国”が黒風の来襲によって、一夜のうちに全城が砂によって埋没してしまったと伝えられていることである。このため、人々は黒風が吹き始めると、虎のことを話しただけで顔色が青ざめるように非常に恐れる。このことは、すべての人々が持っている黒風に対する考え方であって、もし、あなたがたが無限に広がる見渡すかぎりのゴビ沙漠に立って、黒風が徐々に進んでくるのを見るならば、ここは、まさに独特の世界であると感じるにちがいない。当然のことながら、このようなことはきわめて貴重な機会であるといわねばならない。地理的条件のほかに、適当な時間、例えば、太陽の照射角度とか空気の透明度等の要因もまた必要である。さらに、このような中でもとりわけ大事なことは、個々人が厳しい自然条件の下で、自然の美しさに対して勇敢な探索精神をどの程度持っているかということが必要である。
『戈壁蜃楼』(ゴビ沙漠の蜃気楼)
額済納旗は見わたすかぎり広漠たる沙漠の中に位置するが、この大地を詳しく観察してみると、思いもかけなかった珍しい現象に遭遇する。晴天で空の美しい日にゴビを俯瞰すると、その色は眉墨のような紺青色(青黛・セイタイ)をしている。山々は居延の西方に群がり、弱水は東を流れ、沼沢や湖沼は恰も空の星屑か、盤上に散らばった碁石のように広い範囲にわたって数多く分布している。
その中に、一本の白い帯が曲がりくねりながら南の方へ続いている。遠くから眺めれば道路のように見えるが、近づいてみると、これらは古代の烽燧の遺跡跡であることに気づく。これら烽燧の歴史にも、また、滄海桑田のような激しい変遷があることを思わざるを得ない。すでに城壁や城牆は崩壊して途切れ途切れになっており、何も残されていないように見えるけれども、細部にわたって注意深く目を凝らして見ると、それらは一つのまとまりをなしていて、断裂することなく、真っ直ぐに河西回廊の奥深くまで伸びていることがわかる。
居延より弱水に沿った両岸には、土盛りの小山の上に烽燧が整然と配置されており、これらは皆、古戦場としての歴史の気迫が感じられる。夏の日の午後、荒涼たるゴビの平原は、酷暑灼熱の大地であり、たびたび足元から旋風(つむじ風)が巻き上がり、それらが旋回しながら地上を離れ、見事な形を保ちつつ大空高く昇って行くのを見ることができる。これは、一種独特のゴビ沙漠で見られる珍しく不思議な光景である。
天気の良い早朝、遠く果てしなく広がるゴビを眺めていると、遠くに涛涛たる海面や魚が群泳しているような光景が見える。ある時には波浪逆巻き、汹涌
澎湃として秋の大水のような波涛が見られたり、大小の漣が漂っていたりする。天地の相接する付近、淊淊たる湖上には、一面に幻のような濃霧が立ち込め、その中から忽然と高楼やビル、望楼や楼閣が出現し、五光十色の光柱の彼方に工場や田野をはじめ、盛んに馬車が往来する街(繁華街)まで出現する。これが“海市蜃楼”(蜃気楼)である。そこにあるものは皆見えたり隠れたりして、不思議な光や色彩の中に包まれている。人々は常にゴビ沙漠の“海市蜃楼”に夢と不思議な世界を想像するに違いない。海市蜃楼は蒙古語で“哲日格 ”(ジェルゲルゲン)という。
『居延海』
居延海は、今日で天鹅湖(テンウ)といわれるが、ここは達来呼布鎮の東南60kmに位置し、巴丹吉林沙漠の北部辺縁にある。別名を北湖ともいう。古弱水の帰着点で、歴史前には西北最大の湖の一つであった。漢初には一つの大湖をなしていた。伝えられるところによると、老子はこの地で北の仙人になったといわれる。また、居延海はいつも隠隠とした紫色をしているという。
「張掖県誌古蹟篇」の中の記述によると、かつて、居延海は流砂の中に、仙人の足跡のように広がり、眩しいばかりに輝いていた。匈奴民族が居延海一帯に勢力を広げていた頃は“天地”と称し、祭祀を祭っていたといわれている(詳細は「張掖県誌古蹟篇」の《建置沿革》)。
漢の時代には居延澤(チレストハイズ)と称し、魏・晋時代には西海とも呼ばれた。唐以降は一般的に居延海と称した。その後、湖面は額済納河の下流の河道が変遷するたびに移動していった。元時代になると、哈班(ハバン)、哈巴(ハバ)、喇失(ラヤ)の3湖に分かれていたが、現在は、古居延海の外に蘇泊
淖尔蘇木の北にある蘇泊淖尔(ソゴノール・淡水)と嘎順淖尔(ガシュンノール・鹹水)の二つの湖ができ、それぞれ東・西居延海と呼ばれている。西居延海である嘎順淖尔に至る河道は既に土砂で塞がってしまい、次第に湖水も涸れてきている。このため、上流からの水はすべてソゴノールへ向かったのである。東居延海である蘇泊淖尔は、浩渺たる湖面一面に靄が立ち込めており、空と水面は一色に繋がり、湖上では水鳥が群舞し、湖中には多種の淡水魚が回遊している。これに比して今日の古居延海はいっそう広漠とした壮観さがあり、それは額済納旗一であるといわれている。
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 鉄道 レンタカー 徒歩 飛行機
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