2011/07/24 - 2011/07/24
315位(同エリア477件中)
ひま人さん
洗礼名をジュウストといった高山右近が高槻城主であった頃、キリシタンであった領民は、その8割にも及んだといいます。天正15年(1587年)6月、秀吉によって伴天連追放令が発布され、高山右近が追放された後は、キリスト教はこの地から消滅し、キリシタンも一斉に姿を消したに思われましたが、大正8年(1919年)に千堤寺地区でキリシタン遺物が発見され、隠れキリシタンの存在が明らかになりました。高槻市・茨木市・豊能町に点在するキリシタンの足跡と、キリシタン大名・高山右近という人物に迫ってみました。
高山右近記念聖堂の門を入って左に、イタリヤの彫刻家ニコラ・アルギィニによって彫られた大理石の高山右近像。これはローマの高名な教会関係者から寄贈されたものといわれている。
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス JRローカル 私鉄
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高槻城跡、石垣。高槻城は南北朝の入江氏の居城に始まります。永禄12年(1569年)に和田惟政が城としての基礎を固め、天正元年(1573年)に高山右近が町屋を城内に取り込み本格的な城郭としました。
江戸時代、高槻城は北摂唯一の城郭として重要な役割を果たします。豊臣家が滅んだ大坂夏の陣から間もない元和3年(1617年)、江戸幕府は高槻城を直接改修し、寛永13年(1636年)頃の城主・岡部宜勝は新たに出丸を設けました。慶安2年(1649年)には永井直清が長岡(京都府)から入城し、明治に至るまで城は高槻藩三万六千石の譜代大名・永井家の居城となります。 -
高槻城桝形門の石垣石。
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高槻城跡公園、市民に公開されている。
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野見神社本殿、創始は宇多天皇の時代とされ、高山右近が城主になり、領内の神道・仏教への弾圧が始まり、野見神社もこの時に打ち壊された。家康の高槻直接支配によって、野見宿祢とスサノウノミコトを再び右近の天守教会堂の跡に勧請し、野見神社は再興された。
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野見神社拝殿の東側境内に永井神社がある。明治に至るまで続いた藩主永井家の祖先を祀っている。
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高山右近天守教会堂跡。高山右近は天文21年(1552年)、高山飛騨守友照の嫡男として生誕。8歳の時に両親や家臣団とともに高山の地を離れて大和榛原の沢城へ移り、11、12歳の時に、父・友照の影響で洗礼を受け、ジェストと名乗って日本を代表するキリシタン大名となりました。しかし、キリシタン禁教令によりマニラに追放され、マニラ到着後40日ほどで熱病にかかり死亡。63歳であった。
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高山右近記念聖堂・カトリック高槻教会。ジェスト高山右近を郷土の誇りとして顕彰するため、右近没後350年を記念して新聖堂が完成し、高山右近記念聖堂とされました。聖堂は、マニラ郊外のアンチポロにある聖母大聖堂を模した建物だそうです。
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高槻城城跡公園にある、高山右近像。
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高槻市立しろあと歴史館、高槻城三の丸の一画に建つ。江戸時代の高槻を資料や映像、模型などで楽しく紹介するとともに、市内に眠る文化財の収集や保存、調査研究を行っています。
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高槻市立歴史民俗資料館、江戸時代中頃、城下の紺屋町に建てられていた商家(旧笹井家)を移築復元したものです。「しろあと歴史館」の分館として、ふるさとの暮らしや生業を語る生活用具、農具、漁具などの民俗文化財をほぞん、展示しています。建物は市有形文化財に指定されいます。
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茨木市立キリシタン遺物史料館、キリシタン大名、高山右近がキリスト教禁教令にふれ追放されてからは、キリスト教はこの地から消滅したかに見えた。しかし、大正8年(1919年)に今の茨木市千堤寺地区でキリシタン遺物が発見されてから、隠れキリシタンの存在が明らかになりました。この時の信仰の対象となったものが、隠れキリシタンの遺物として、展示されています。
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高山右近生誕地記念碑、本名を友祥(ともなが)、幼名を彦五郎と呼ばれた右近は、大阪府豊能町高山で生まれましたことは意外に知られていません。
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右近の祖母マリヤの墓。
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キリシタン禁止の高札場、
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