2011/06/12 - 2011/06/12
185位(同エリア251件中)
ひま人さん
今年の大河ドラマ「江ー姫たちの・・」で話題になっている、三姉妹の中の姫「初」が大溝城の京極高次に嫁いできました。JR西の湖西線「近江高島」駅で下車、地元の観光ボランティアの案内で、近江高島の歴史に触れるべく町中を歩いた。北国街道西近江の街並みを進み、ガリバーホール(市民会館)で講演を聞いた後昼食タイム。午後より、水路のある旧城下町筋を経て、陣屋惣門跡、大溝城跡、乙女ケ池、池端の人麻呂歌碑を見て、駅に戻った。
有意義な歴史散歩の一日であった。写真は乙女ケ池。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル
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北国街道西近江路の街並み。近江高島駅の東側の町並みを貫く道は、織田信長が柴田勝家に命じて北国街道(東近江路)を整備するまで、越し国(北陸)と京を結ぶメインルートでした。伊勢鈴鹿関・美濃不破関とともに古代日本三関の一つだった愛発関(あらちのせき)を超えて北陸へ通じるので<愛発越え>とも呼ばれました。
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ガリバーホール(市民会館)、近江高島駅前に大きなガリバー像が設置されているが、ガリバーは町づくりのキャラクターで、駅南西の山麓に、未来を担う青少年に夢と希望と冒険心を持ってもらうための施設として「ガリバー青少年旅行村」が開設されています。
市民会館にもその名を冠している。 -
江戸時代(1619年)、伊勢・上野城から移封されて二万石で大溝に着任した分部光信が、城が荒廃していたので城下町の建設に力を注ぎました。通りの中央に水路を通すなど、水の恵みを巧みに利用した城下町形成であったことがうかがえます。
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陣屋惣門、大溝陣屋の正門。宝暦5年(1755年)秋に大修理して今に至っている。棟瓦には分部氏の定紋が残り、大溝陣屋関係建造物でただ一つ現存する貴重な遺構です。平成15年春の調査で「大溝惣門」と墨書きされた宝暦5年11月23日の紀年銘を記した棟札が発見された。
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陣屋惣門の分部氏の定紋の棟瓦。
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大溝城跡。
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大溝城跡の石垣。大溝城は新庄城にいた織田信澄(のぶすみ)が、天正6年に築城したもので、高島郡内の商家や寺院などを移して城下町を造りました。本丸の南東の乙女ケ池は琵琶湖の内湖で、古地図によると、大溝城はこの内湖を巧みに利用した水城であり、「鴻湖(こうこ)城」とも呼ばれました。江戸時代には分部光信(わけべみつのぶ)が大溝藩主になると、この地を陣屋として12代光謙(みつのり)の明治維新までその統治が続きました。
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大溝城天守台跡。
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乙女ケ池、万葉の時代、「香取の海」と呼ばれた乙女ケ池一帯は、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていました。その後は、大溝城の外堀で、恵美押勝が挙兵に失敗し、高島郡三尾崎で捕えられ、「勝野の鬼江」で断罪されたと伝えられる地で、壬申の乱で落城したと伝えられる三尾の城も背後の山中にあったと言われ、幾多の歴史を秘め湖面にロマンをただよわせています。
現在は、面積8.6ha、平均水深1.6mの内湖となり、ブナ、ブラックバスなどが生息し、特にバス釣りのメッカとして多くの釣り人に親しまれています。 -
万葉歌碑。西近江路は、大和と北陸地方を結ぶ最短路として早くからひらけ、遠く北陸へ赴任する宮人や旅人の重要な交通路でした。万葉人が、都と北陸地方との往き帰りに高島での旅の抒情を詠んだ歌が幾首も残されています。
「大船の 香取の海に 碇おろし 如何なる人か 物思はざらむ」
(香取の海に碇を下ろして、いかなる人が物思いをしないであろうか。
どんな人でも恋の心は悩むものを)
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