2011/05/02 - 2011/05/02
10位(同エリア249件中)
哈桑湖さん
初めての中国旅行です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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張鼓峰事件の記念館です。
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かつては、この地は満州国。
張鼓峰の頂上で、地元の朝鮮族の農民たちは、チャンゴ(朝鮮式の小太鼓)を打ちならして、豚のお供え物を捧げて、儀式を行い、この豚を食していました
張鼓峰一帯の国境線は、日本もソ連も、それほど気にはかけていませんでした。 -
平和な張鼓峰。
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ブリュッヘル元帥(一番右上)、極東ソ連軍の最高責任者。張鼓事件の後に、日本のスパイの嫌疑で拷問にかけられ死亡。目が飛び出して息途絶えていました。
トハチェフスキー元帥(一番左下)、ロシア革命の立役者、スターリンとの対立から、ドイツのスパイとされ銃殺刑。銃殺の指揮をしたのが、ブリュッヘル元帥。このときブリュッヘル元帥は、銃殺の合図をだしたときに、涙をだしていたようです。 -
1936年から1938年まで秘密警察で長官を務めたニコライ・エジョフ。
大粛清(大テロル)を実行。
身長が150センチだったので、「血に飢えた小人」という異名を持ちます。
彼の部下は、人民の敵として粛清者のリストを作成していきます。
そして、リストの作成者も、やがてリストにのっていきます。
後にエジョフは銃殺されます。またレニングラード近くの精神病院に収監された日に、公園の木に首を吊っていたという説もあります。 -
秘密警察長官ニコライ・エジョフの命を受け、極東ロシアに住む朝鮮人を、根こそぎ中央アジアに強制移住させたゲンリフ・リュシコフ。
1938年6月13日、彼は、モスクワ召還の命を受けたのですが、身の危険を感じ、満州国に亡命。
このときから、ソ連軍の国境警備は厳しくなります。
亡命後、東京へやって来ます。そしてソ連での大テロルを発表します。
1945年8月に謎の失踪を遂げます。
満州になだれ込んできたソ連軍の将官と、リュシコフが談笑していたのを見たという関東軍の将校の証言もあります。二重スパイだと。 -
1938年7月9日
ソ連軍は、張鼓峰に現れ、工事を始めます。 -
かつては禿山でしたが、今は木々が茂っている張鼓峰。
この丘の向こうに、ハサン湖(哈桑湖)があります。日本名は長池。
ソ連側は、この丘を、ザオゼルナヤ高地(湖の向こうの高地)と、呼んでいました。
現在は、頂上はロシア領、頂上から西は中国領。 -
張鼓峰事件のモニュメント。
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右が張鼓峰。張鼓峰には、頂上が二つあります。
左は将軍峰。
ここは豆満江を超えた位置にあり、満州国領でしたが、守備責任は朝鮮軍でした。
満州国の地元民たちは、関東軍のことを「内に対しては、虎のようだけど、外に対しては、まるで子猫だ」と、馬鹿にしだしました。
関東軍は、威信に関わる問題だと、朝鮮軍のお手伝いをするといって、辻正信少佐らを派遣しました。関東軍の連中は、朝鮮軍の腰抜けを馬鹿にしました。
朝鮮軍の小磯国昭司令官は、関東軍の連中が来ると、ソ連と揉め事を起こすとして、立ち入りを禁止します。
7月15日、偵察をしていた日本軍憲兵が、ソ連軍に殺害されます。
現地では、戦闘準備が進められて行きます。しかし7月20日、天皇陛下は、武力行使を許可されず、板垣陸相は陛下からお叱りを。
重光葵大使が、リトヴィノフ外相と、モスクワで会談して、張鼓峰からソ連軍の撤退を要求します。 -
防川項、このふもとには、満州国民である朝鮮族の人が、住んでいました。
綺麗な新しい家が。これは、中国政府の援助によるものです。 -
張鼓峰です。
館長さんの説明では、日本軍1500人、ソ連軍4500人の死傷者を出したと。(公式発表は、ソ連軍は、もっと少ない)
現地の師団長・尾高中将は、「とるにたらぬ丘をソ連軍が、占拠したことではなく、帝国陸軍の威信にかかわる問題だ」と、激怒しました。
実際、こうして見ると、とるに足らぬ丘です。 -
防川項です。
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将軍峰です。
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日本軍
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張鼓峰。
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蓮花湖。
日本軍は、丸池と呼んでいました。この池のそばには、良質の湧き水があり、朝鮮軍の日本兵は、そこから飲料水をとっていました。
この池の向こうの小高い丘が、沙草峰です。ここは張鼓峰から北に、2キロあります。
ソ連側の文献では、ベズイミアンナヤ高地となっています。仰々しい名前に感じますが、直訳すると、名前のない高地です。
7月29日、ソ連軍は沙草峰に現れ、工事をはじめます。
現地の最高責任者の尾高将軍は、とるに足らぬ丘への侵犯ではなく、帝国陸軍の名誉にかかわる問題だと。
張鼓峰へのソ連軍侵入に対しては、天皇陛下から、武力行為は禁止されていました。今度の沙草峰へのソ連軍の境界侵犯は、別個の事件ととらえ、武力行為禁止命令は、適切でないと判断してしまいます。
7月29日、佐藤幸徳大佐の歩75連隊は豆満江を渡河します。佐藤大佐は、将軍峰に上って、沙草峰を押さえるには、張鼓峰制圧が不可欠と、判断します。
そして沙草峰を守るためには、張鼓峰の確保が不可欠として、7月31日張鼓峰に夜襲攻撃を行い、夜明け前に頂上を占領します。 -
戦争、勃発です。
張鼓峰と沙草峰は、別個のものか一体のものか、東京裁判で持出されます。当時陸相だった板垣征四郎は、「ソ連軍攻撃のご裁可を得るために画策した」とされ、絞首刑判決の一因となります。この件では、インドのパル判事は、「張鼓事件は偶発事故である」と反論しますが。
沙草峰は、張鼓峰のふもとにあるもので、一体という人もいます。しかし現地では、沙草峰へのソ連軍排撃は、陛下の勅命に反するものではないと、考えてしまいます。沙草峰を制圧し続けるのは、張鼓峰のソ連軍も排除しないとと。
こうして尾高中将は独断専攻で、張鼓峰と沙草峰への攻撃を開始します。全責任は、自らにあるとして。
のちに、東京裁判では、当時の宇垣一成外相は、「張鼓峰と沙草峰が別個のものだという者が、帝国陸軍にいるとは、信じられない」と発言しています。
ソ連軍は張鼓峰を占領しても黙認しつづけ、関東軍から腰抜け呼ばわりされてきた尾高中将にとって、沙草峰へのソ連軍出現は、天与の機会ととらえ、ソ連軍と戦闘を開始したという人もいます。
ソ連軍との衝突の報を受けたことに対し、陛下は「起きたことは仕方ない。これ以上事態を拡大しないように」とのお言葉を発しました。そしてお咎めがなかったことで、尾高中将は、感極まって涙を出したのです。 -
ソ連軍捕虜です。
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佐藤幸徳大佐の率いる部隊です。
佐藤幸徳は後に、陸軍中将となりインパール作戦に従事しますが、独断で抗命し撤退して、多くの部下の命を救うことになります。
佐藤は、インパール作戦については、
大本営、総軍、方面軍、15軍という馬鹿の4乗が、インパールの悲劇を招いたと述べています。 -
お国のために、名誉の戦死を遂げられ、遺族に金鵄勲章が贈られます。
そして英霊に。
本当は、国家の犠牲者なのでは。
英霊に祭上げることで、指導者は責任を回避しているのでは。
もう戦死した人は、戻って来ないのです。 -
村人の生活は、無茶苦茶です。
とるに足らぬ丘に対して、威信をかけた戦争です。
この地は、もともとは日本のものではないのです。
「人の嫌がる軍隊に、志願してくる馬鹿もいる。」
可愛いスウちゃんという兵隊ソングが、ありましたね。 -
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張鼓峰でのソ連軍越境は、帝国陸軍の威信に関わる問題として、現地の朝鮮守備軍には、看過できず戦闘に。
でもそれに巻き込まれた朝鮮族の防川村民は、犠牲者ですね。 -
住民は避難します。
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地図に「无名高地」とあります。
日本語に直すと「無名高地」
これが沙草峰です。
現地を訪れた私には、張鼓峰と沙草峰は、別個のものに見えましたが。
だって2キロも離れています。
沙草峰のソ連軍を、朝鮮守備軍が追い払おうとすると、こんどは張鼓峰からソ連軍が撃って出てくるだろうとは、私でも想像つきます。 -
土の中から。
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1938年8月11日 11時55分
正午をもって停戦の命令が、現地に伝えられます。
ソ連、日本軍陣地とも、一瞬の静寂のあと、歓声が聞こえたと言います。
しばらくして、日本兵が手を振ると、ソ連兵も手を振り返します。ソ連兵は、日本兵にクッキーを、渡したりしています。 -
停戦交渉にやってきた、長勇大佐です。彼がこの大役に選ばれたのは、軍服が一番綺麗だったからです。長勇、田中隆吉とも、危険人物として、この戦闘中には、積極的な役目を、もらえませんでしたが。
長大佐は、ソ連軍将校の前で、「どうぞ、ごゆっくりやってください。戦闘で疲れているので寝させてもらいます」と言って、高いびきで寝入ります。
1937年の南京攻略戦において、中国兵捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じたことで、松井大将からお叱りを受けたとも言われています
南京事件の肯定派からも、大虐殺は否定する部分的肯定派からも、南京事件は彼の責任との声も。この「ヤッチマエ」発言は、長勇が、田中隆吉に言ったことが拡がったようですが。
長勇は、沖縄県民から、よく言われていません。沖縄県民にアメリカ兵にに対し「一人十殺」させろと言った、つまり国際法の適用されないパルチザンになれと。
また沖縄県内で、相次ぐ日本兵の不祥事に業を煮やし、沖縄県の女性を、慰安婦として提供しろと言ったとか。
一方では、彼は大言壮語のきらいがあり、南京事件でも沖縄戦でも、実際にはあまり関わりなかったという説も。沖縄で自決されており、死人に口なしで、責任をおしつけられているだけだとも。
あった、なかったと言われる南京事件。でも当時の日本軍は、兵站を無視した無謀な作戦。将校、下士官、馬、兵隊という軍隊の序列。こういったものが、国際法を逸脱した行為に繋がったのでは。
勿論、戦争に行ったことのない者が、戦争犯罪を犯した個人を、批判するのは間違いです。私だって生きるか死ぬかの極限状態に追い込まれたら、どうなるかです。
長勇作詞 あゝ張鼓峰 が、あります
1 曇りては晴れ 晴れてまた 曇りがちなる北の空 昭和十三 夏遅く
暗雲閉ざす 張鼓峰
2 ソ連の暴虐 懲らさんと 大詔(みこと)のままに 気負い立ち
剣光 燦と月に冴え 進む北鮮鎮守軍
3 鉄血うばう 正勇山(せいゆうざん)爆煙(ばくえん)覆う沙草峰(しゃそうほう) 52(ごーに)高地は 厳(げん)として
将軍山(しょうぐんさん)と 天高し
4 屍山血河(しざんけっか)の誅戦(ちゅうせん)は 皇国(みくに)を守る
丈夫(ますらお)が 祖宗(そそう)に受くる 熱血の赤き誠(まこと)の
精果(せいか)なれ
5 戦雲ここに 収まりて 昇る朝日の 影射(かげさ)せど 国に殉ぜし
武士(もののふ)を 悼みいて鳴くか 虫の声
6 芙蓉千古(ふようせんこ)の 姿貌(すがたかお) 正義を踏みて ゆるぎなき 極東平和の 守護神と 馳(は)せり 北鮮鎮守軍 -
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張鼓峰(右)と将軍峰(左)。
8月11日の夕刻
部下から一身の尊敬を集めている、佐藤幸徳大佐は、張鼓峰の頂上に連隊旗を奉じ、頂上守備だった大隊に号令をかけ、整列後、皇居に向けて敬礼をしました。
そして将兵たちは、涙を流しました。
この張鼓峰の戦闘は、残酷ではありますが、一抹の涼しさも感じられます。
常に将校が先頭に立って戦いました。
またソ連兵の遺体は、白木の棺に納め、花を添えて送り返しています。これには、ソ連側も深い感銘を、覚えたようです。
なお、この戦いの後、張鼓峰は正勇山(せいゆうざん)と名づけられました。
現在の名前は、張鼓峰(チャンクーフェン)ですが。 -
停戦成立ときには張鼓峰の頂上は、朝鮮軍が占領していました。
停戦合意後、ソ連軍は、張鼓峰を占領してしまいます。
1939年春には、頂上にソ連国旗がはためいていました。
あの有名なカチューシャの歌は、露名でハサン湖事件(日本名・張鼓峰事件)の際に出来た歌ということを、ガイドさんはおっしゃっていましたが -
現在の名前は、張鼓湖です。
1938年には、名前はなかったです。 -
少し下流のほうに行きます。52高地です。ここも、激戦地です。
張鼓峰と52高地の中間にある高台が、野口高地です。
野口大尉が、守備していたので、正式に名づけられました。 -
北朝鮮の仏岩峰です。
以前ロシア領のハサン側からこの山を見たとき、張鼓峰だと思ってしまいました。木々が茂って豆満江が見えず、この山には頂上が二つありますから。そして目の前の沼をハサン湖だと。でも地元のロシア人は、ハサン湖へ行くことは、禁止されていると言っていましたが、不思議だなあと。
ウラジオストクから帰国後、ハサン湖は長池と呼ばれていたように、細長い池だったのにと。またドルツェニ湖(最近ロータス湖と改名)と、平行してあったのに、おかしいなあと。
グーグル・アースを見て、やっと間違いに気づきました。
田中隆吉・砲兵大佐は、豆満江対岸のこの仏岩峰から、52高地、張鼓峰の側面からソ連軍に、大砲をぶちこんでいきます。 -
監視塔と展望台です。
ここは観光地です。
外国人でも写真撮影は、大丈夫です。
事件当時の地図には、臥峯と書いてあります。
ここからソ連軍は、52高地の側面に、砲撃を加えます。 -
哨戒所が邪魔して、ハサン湖が右のほうに、一部しか見えません。
ハサン湖は、この哨戒所の北です。
現在は、ロシアではハサン湖に行けるようです。
現在、防川村に、観光用の高い塔を建築しています。
ホテルも建築中です。
この塔が出来れば、ハサン湖は見えます。もう一度行きたいです。
なおハサン湖は、日本名では長池でした。 -
ロシア側のドルツェニ湖、現在はロータス(蓮)湖と、呼ばれています。
日本軍は、盛田池と呼んでいました。
ハサン湖と平行してあります。ほんとうに左右対称な感じです。 -
展望台下の沼です。
これをハサン湖と間違う人がいます。
ハサン湖は北です。
展望台からは一部しか見えません。
高い塔が出来れば、見えます。
高みの見物をされる、ハサン村のロシア人は、気に食わないようです。 -
豆満江と、三国国境地帯です。
当時の地図には、この一体はポドゴルナヤと書かれています。
直訳すると「山の下」
中国の防川地区は、観光客も増えて、どんどん発展していきます。
一方、ロシアのハサン地区は、まるで破産しそうな町です。
まだ今でも、ロシア側は写真撮影が、自国民でも、禁止なのでしょうか。
お商売に関しては、中国人の方が、一枚も二枚も、上手ですね。 -
砂丘公園です。
この砂丘が、日本軍の行動を苦しめたのです。 -
蓮花湖です
この戦いの後に「国境の守り」という歌が。
1)暴虐ソ連の侵入は などか神人許すべき かねて備えし皇軍の 下す鉄槌一撃に うちくだかれしあはれさよ 守りは堅し張鼓峰 譽れは高き正勇峰
2)戦車幾百あまつさへ 空より掃射浴びせかけ 機械の力尽くしつつ 攻むるを防ぐ我軍は 正義の心一筋に 守りは堅し張鼓峰 誉は高き正勇峰
3)攻むるに堅く守るには 尚更難きこの陣地 死守の命令あくまでも 守る将士の心こそ 悲壮の極み世の鑑 守りは堅し張鼓峰 誉れは高き正勇峰
4)皇国の光いや高く アジヤの空に照りはえん ますらお猛男(たけお)のいさをしは 護国の神の神わざと 幾千代かけて伝えまし 守りは堅き張鼓峰 誉れは高き正勇峰 -
この張鼓峰事件とは、何だったのか。
張鼓峰記念館の館長さんは、日本が負けたとおっしゃていました。
停戦時には、張鼓峰の頂上は、日本軍が占領していました。
そして停戦の条件として日本軍は、1キロ後退するという取り決めが。
その後中国軍と日本軍の戦闘が激化していき、この張鼓峰のことは、忘れられていきます。1939春には、張鼓峰の頂上には、ソ連国旗がはためいていたのです。
日露戦争が、勃発したときに、大文豪のトルストイは
「殺生を禁じられた仏教徒と、愛を掲げるキリスト教徒が、残酷に殺し合うとは、何事か。これは必要のない戦争で、私は決して許せない。
国の指導者たちが、砲弾弾雨の中に行け。俺たちはごめんだ。」と言いました。
トルストイに言わせれば、張鼓峰での戦闘も、そうなんでしょうね。勿論、日中戦争も太平洋戦争も。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- kaz-ykさん 2011/07/01 21:57:48
- 初めまして
- 浦潮斯徳さん 今晩は
小生のブログにお越し願い、投票をいただき感謝します。
足跡を辿り、本項に参りました。
有名な事件で名前だけで、明細は知らなかったので興味深く拝見しました。
貴重なご報告有難うございました。
- 哈桑湖さん からの返信 2011/07/01 23:30:19
- RE: 初めまして
- kaz-yk様
お便り有難うございます。
数年前に、ウラジオストクから、この国境の町ハサンにきました。
今回は、中国からです。
今回は祇園のお写真を、見せていただきました。円山公園の近くなんですね。一度は行きたいものです。
あと、淡島神社ですが、夕暮れに行ったので、少し薄気味悪く感じました。
-
- captainfutureさん 2011/05/17 15:44:26
- 初めまして
- おどろおどろしい歴史、写真と共に読み入ってしまいました。
これだけ事前に勉強して行かれると、景色の一つ一つがとても感慨深いものだったでしょうね。
自分もこれからはこれぐらい事前に勉強していくと充実した旅が出来そうだと思いました。
続編楽しみにしております。
- 哈桑湖さん からの返信 2011/05/18 21:38:53
- お便り有難うございます。
- この張鼓峰事件は、日本人は殆ど知りません。高校の歴史教科書の欄外に少し記載のみです。ところが、ロシア人はたいてい知っています。
この張鼓峰事件には、インパールで独断撤退した佐藤幸徳大佐、東京裁判で有名になった田中隆吉大佐、沖縄県民からあまりよくいわれていない長勇大佐が登場します。
そういったことで、とても興味深いです。
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