2010/12/06 - 2010/12/06
308位(同エリア362件中)
ka-keikoさん
- ka-keikoさんTOP
- 旅行記325冊
- クチコミ0件
- Q&A回答1件
- 547,167アクセス
- フォロワー5人
高速道路を今治湯ノ浦ICで降りて196号線を南下。
PR
-
196号線を南下し 線路より手前で右折。
世田霊園で駐車して 登山開始。
帰りに栴壇(せんだん)寺(世田薬師)に立ち寄った。 -
「世田山山頂」と標識が出ているのでこの道を登った。
今日の登山口はこの標識にする(9時50分)。 -
-
-
「笠松山1.6Km」「奥の院400m」の標識。登山口から13分(10時3分)
-
シダ類の道。
-
不動明王造立中 1人200円で見学できると立て札があったが誰もいなくてカギがかかって入れなかった。
「奥の院まで200m」の標識もあった(10時12分) -
階段を登れば奥の院。
「世田山、笠松山」の標識は左を向いていたが「奥の院」へ先に行ってみる事にした。 -
奥の院。登山口より33分(10時23分)
-
奥に大館氏明公のお墓があった。
延元元年(1336)6月、九州から足利尊氏の軍勢が京都に侵入したので、後醍醐天皇は京都を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
そして「尊氏追討」が諸国の武将に発せられ
尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)の両皇統が並びたち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な合戦が各地で展開。
伊予でも、南北両朝廷の運命をかけた世田山合戦が行われた。
大館氏明公は新田義貞の甥にあたり 世田城主となって伊予の宮方(南朝)を守っていたが1342年北朝方細川頼春の大軍1万余騎が攻め入り遂に力尽き 城に火を放ち17勇士と共に切腹した。氏明は38歳、これを世田山の合戦と言う。この墓は1837年氏晴(17代)が建立。
世田山城はその後も2度の大戦1364年と1479年がある。 -
-
奥の院からも山頂に行けるようなので引き返さずそのまま進んだ。
-
339mの世田山頂上(10時45分)。登山口から55分。
-
笠松山に向かう。
-
-
-
-
ピークが山頂かと思ったが---。
周りは焼けている感じ。 -
木々の間から山頂が見えた。
-
-
笠松山の全景。
長い階段が見える。 -
こちら側からも長い階段で降りる。
-
水大師との分岐点(11時3分)。
-
余りにも焼けこげた木々ばかりだったので帰ってからネットで調べたら
笠松山は2008年8月24日に山林火災があり48時間で107haの山林が焼失と書かれていた。アンテナ工事の人のタバコの不始末らしいと書かれていた。
自然が焼失すると元に戻るのに時間がかかる。
火災から2年たった今も焼けた木々がそのまま立っている。 -
-
二等三角点。カメラの調子がイマイチで---なぜか縮小サイズ。
-
二等三角点と笠松山頂上を見て。
-
笠松山(357m)山頂のお堂(11時18分)。登山口から1時間28分。
-
山頂から。
-
山頂から。
-
下山。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
下山後、栴壇(せんだん)寺(世田薬師)に立ち寄った。
-
栴壇(せんだん)寺(世田薬師)にて。
-
世田霊園近くの岩山。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
42