オビエド旅行記(ブログ) 一覧に戻る
<br />「 ピレネーの向こうはアフリカだ 」 <br /><br /> そう言い放ったのは、あのナポレオンだった。 <br />かつて地球上の1/3を支配し、その領土に陽が落ちる事は無いと謳われた大スペインに対してだ。 凋落を始めた隣国に、随分な言い様だと思うが、この喩えは今でもフランス人の口から、よく出てくる。 確かにパリから飛行機に乗ってくると、眼下に広がる荒涼とした大地に、このままサハラ砂漠に続いているような印象を受け、それが移民問題とリンクされているからかも知れない。 <br /><br /> そんなフランス人でさえ、1000年間に渡って憧れ、そして歩き続けてきた街道があった。 <br /><br />それがフランス国境からビスケー湾沿いに連なるバスク〜カンタブリア〜アストゥリアスを抜けてガリシアの聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラへと続くCamino del Norteである。内陸と違い、気候が穏やかにして、湿潤な風土は、農産や牧畜を潤わしただけでなく、巡礼者の視線にも緑の恵みを与えた。 <br /><br />そして、いつしか、この地域は グリーン・スペイン と呼ばれるようになった <br /><br />風薫る5月、その道をローカルバスに乗り、<br />気に入った街で途中下車してロマネスクの古寺を巡り、夜は石畳の路地を歩いて、地元の親父達で賑わうBarをハシゴしよう! そんな大人の愉しみの企みで旅程表が、びっしりと書き込まれて、いよいよ出発の日を迎えた。 <br /><br />via SEOUL <br />28 Apr 2010  雨 成田&#8211;仁川 <br /><br />GWの前日、退社後、ソウル行きの最終便に<br />飛び乗り、20:40 仁川空港に着いた。私をここに途中降機させたのは、3ヶ月前にLufthansaから届いた一通のDMだった。3日間だけ売り出された欧州早割りの設定が、Won安も加わってOPEN JAWで63000円! ピーク時期にしか休みが取れないサラリーマンに取って、ICNという空港コードは旅の連立方程式の主要な基数だ。<br /> <br /> 宿泊は空港近くのアパートメントホテルを利用、至近、至便で20畳程のワンルームにキングベッドの他に台所や洗濯機まで揃っていた。 洗濯機を回しながらゆっくりと風呂に入った。浴後は1Fにある居酒屋で遅い夕食を取ってから就寝した。 <br />  <br />16時間の旅路 <br />29 Apr   晴れ 仁川〜ミュンヘン〜ビルバオ <br /><br /> 空港の職員食堂で5000Wonのビビンバを朝食に取った。洗面器のような器に盛られた色鮮やかな 野菜に、旅立つ元気を貰って、Lufthansaに搭乗した。 12:00 満席で離陸、そして17:15 陽がまだ高いミュンヘンに到着した。<br /><br /> 前日のソウルは 気温、僅か5°そこから初夏の欧州に移動した。 19:25 再出発して 22:05 スペイン北部のハブ空港であるBilbaoに到着した。乗り継ぎも入れ、16時間の長旅だったが、まだまだ気が抜けない。 市内バスでバスターミナル(以後 BT)に向かう。 <br /> 高速道路の先にビルバオの顔となったグッゲンハイム美術館の銀色の塊が夜空に浮かび上がって来る。バスはそこに激突するのではないと思う程、建物のすぐ横を通過して、15分でBTに着いた。   <br /> 懐からSmart Phoneを出して、Navi Computer+GPSを起動させた。今度の旅は連日、バス移動なので、Google MapでBTの半径200m以内+40 Euro以内の宿を「付近検索+レビュー」を参考に予約していた。Google Mapに登録してあるホテルを呼び出し、方位を確かめてからながら真っ暗な街を歩き、薄暗いビルに小さく貼られたHostalSan Mamesの看板を見つけた。 ソウルの宿を出てから、20時間たって私は、ようやく眠りにつけた。<br /> <br /><br />ビスカヤ橋 WCH <br />30 Apr  11° 晴れ ビルバオ〜オヴィエド <br /><br />5:00起床 宿の前のSan Mames駅からC1線に乗りPortugalete駅まで15分 川沿いに、朝霧を突き抜けて世にも奇妙な建造物が見えてきた。 <br /> <br /><br /> これが世界遺産のビスカヤ橋WCHである。川を移動する車や人は、橋の上部にから吊るされた水上キャビンに乗り込み、それが頻繁に川を往復する仕掛けだ。乗船料?は0.3 Euro 側を渡し船も運行してるが、殆どの人は、このキャビンに乗る。 エッフェルの弟子が、この独創的な橋を建設したのが1893年、それから117年を経過しても、街に役立っている。凄いもんだなあ、と感嘆してから、 対岸のBarに入り、冷えた体をスペイン式にテ・コンレッチェとトルティーヤの朝食で温めた。 <br />  <br />地球上 最古のアートを目指す <br /><br /> 宿に戻り、目の前のBTから8:30のALSAのバスでSantanderに向かう。ALSAはスペイン北部の バス網を一手に支配している会社だ。9:50に着いてから、今度は1日に4本しかないカンタブリア州の公営バスに乗り換えて、Santillana del Marに11:10 着。 美味しそうなタベルナを見つけて、そこに荷物を置き、Taxiを呼んでもらう。  <br /> 目指すは、アルタミラ洞窟!そうあの小学校の教科書に載っていた、世界遺産中の世界遺産だ! 1万5000年前の壁画は1985年から、壁画保存の為、非公開とされ、その隣に、同じで大きさの洞窟を再現して、アルタミラ博物館WCHとして 公開している。 20名位の人数限定で、30分おきに洞窟内ツアーが開催されていて、平日だったので、30分待ってから洞窟内に入れた。 そこは広大な洞窟で、本物と寸分違わず再現されているが、とてもこれがレプリカだとは思えないリアルさだ。 <br /><br /> そして、各所にホログラフィーで、15000年前の人々の生活が再現されていて、何故、ここにあの絵が描かれたのか? を説明している。 最奥部の天井に、あの教科書の写真に出てた牛の絵を見つけた。 それは岩の凹凸を上手く活用し、浮き彫りのように描かれていて、驚くほどの躍動感がある。 地球上最古のアートに感動して、ここに来て良かったと思った。 <br /> <br /><br />ガウディの気紛れ亭 <br />  <br /> サンティリャーナ・デル・マルに戻り、昼食を取った。12Euroの定食:カンタブリア・シチュー(隠元豆とブータン・ノワールの煮込み)烏賊墨リゾット、シードル、ドルチェを取る。 カンタブリアからアウストリアスにかけて、この豆を使った煮込みが多い。それから、また公営バスに乗って、隣町のComillasに 14:00到着 バス停の前の土産物屋に入り、名産のチョコレート、エスカルゴの缶詰、絵葉書等を買う。ここで、荷物を預かって貰い、街を歩く。街道から離れた、この街を目指してきたのは、ガウディがカタルーニャ以外で創った、世にも不思議な住宅を見たかったからだ。<br />それが、この地の豪商だったコミーリャス家の依頼で作られた El Capriccio de Gaudi である。<br /> <br /><br /> キューバ貿易によって財を成し、侯爵にまで上り詰めた、一族は時のスペイン王・アルフォンソ12世を頻繁に、この地に招いた。王族の避暑地であったサンタンデールから近い事もあり、 貴族や富裕層達も、この景勝の地に別荘を築くようになり、段々と文化の香り高い街と成って行った。そこに、やってきた新進気鋭の建築家は、何が飛び出して来るか判らないようなビックリ箱の家をこの高雅な街に残した。「El Capriccio = 気紛れ」と名付けられた家は次の世界遺産の候補となっている。土産物屋の前に広がるコミーリャス家の広大な敷地の丘には、侯爵家の居城であったネオ・ゴシック様式のソブレジャーノ邸が建っている。 その丘まで歩いて、左側に回ると、木立の中に突然、それはある。 思わず、アングリと口を開けてしまう程、その建築はオカシナ建物だった。 まさにガウディの遊び心満載で、童話でしか見た事がない「お菓子の家」が目の前に建っている驚きだった。 ここは数年前まで日本人が買取り、レストランとして営業していたが、現在は修復下にあり内部に入る事は出来なかった。 <br /><br /><br /><br /> この街は、他にも魅力的な風景が多くあり、それが観光地でなく町として生きているのが魅力だ. 定食屋を覗くと、15 Euroの献立に、採れた海産物の料理が並んでいる。中でもマッドクラブのパエリヤに涎が出た。次は、この街で泊まろう!蟹に後ろ髪を引かれながらも、バス停へ急いだ。<br /> <br /><br />アストゥリアス州へ<br /><br />TaxiでSan VicenteのBTに着きまたALSAのバスに乗り換えてOviedoを目指す。 カンタブリアを抜けて、ここからはアストゥリアス州に入る。 バスは海岸と内陸を蛇行しながら走る。その景色は、まるでトスカーナの丘がリアス式海岸に点在しているような美しさだ。まさにグリーン・スペインの絵巻を見ているようだ。 18:45 OviedoのBTに到着。Renfe(国鉄)の駅前まで歩き、Hostal Oviedに投宿。 宿のマダムは中年巡礼者に、一番奥の部屋を与えてくれた。キング・ベッドにバスタブ付で38 Euroはお値打ちだった。 <br /><br /> 洗濯を手短にして、カテドラル広場まで歩き、La Mas Barataという街一番のBarで夕食を取る。 ダイニングと立呑とあったが殆どの紳士淑女達が立呑で、ピンチョス(小皿)を摘まんでいるので、私もそちらのカウンターで高椅子に座って注文をする。 ベガ・シシリアで誉れ高いAlionをグラスワインで頼むと、おとうしで小さなフライパンにパエリャが乗ってくる。追加で、小エビとシャンピニオンのソテーも取った。どれも旨いし、銘酒を取って僅か9 Euro 安いなあ、、サンセバスチャンなら倍するかなあ、、と思いながら、この街がどんどん好きになっていった。ハシゴして、もう一軒、今度は親父度のもっとディープな店に入り、ピンティアを頼み、ガリシア産タコのポテトソースがけで12Euro。   リベラ・デル・デュエロの銘酒に酔ながら、この町で檀一雄のように沈もうか、、と夢みて オヴィエドの夜は更けた。 <br /><br /><br />アストゥリアス王国の夢  <br />1/ May   小雨- 曇 オヴィエド〜レオン <br />  <br /> 実は、この日のために、今度の旅を計画したと云っても過言ではない。 9世紀に、この地を治めたアストゥリアス王国の遺跡を訪れる事だ。遺跡がある街の北西のナランコ山までバスが通っていたが、一時間に一本だけなので、歩いて向かう事にした。またSmartphoneを取り出し、Google Mapでルート検索してGPXに変換してあったファイルを呼び起こす。 これでオフラインでも、目的地までのナヴィゲーションが出来る。途中から冷たい小雨が降ってきた。この辺りは高級住宅地らしく休日の早朝の静けさを破る足音に、あちこちから番犬が吠えて出迎えてくれた。ホテルを出てから25分でSantaMariadelNaranco教会に到着した。朝靄に包まれて緑の丘に朴訥な聖堂が建っている。 <br /><br /> 聖堂の外観は11世紀に始まるロマネスク建築やシトー派寺院の建築構造に近いので、プレ・ロマネスク様式と呼ばれている。この聖堂群を知ったのは地球の歩き方のオビエドのページでだった。 僅か3cm四方の写真ながら、緑の丘に立つ、San Miguele de Lillo聖堂の素朴なフォルムを見た瞬間に、私は一目惚れした。以来、サンチャゴ・コンポステーラに三度も巡礼をする機会を得ながらも、ついぞ足を伸ばせずにいた。 イベリア半島の西端の、この地にだけ、何故このような建築が存在したか? あの丘に立って、その謎を解き明かしたい、そんな宿願叶っての今日を迎えていた。  <br />普段は閉ざされている聖堂が一時間に一回だけガイドが鍵を開けて説明してくれる<br /> <br /><br /> 彼女の説明によると、レコンキスタの始まる前から先住していた西ゴート族の王の元へ、当時、 世界の頂点に輝いていたビザンティン帝国の職人達が招かれ、この聖堂造営に寄与したと云う。    <br />私は内陣を支える柱頭の網目文様に注目した。似た文様を遥か東方、アルメニアのエチミジアン教会で見た話を告げ、ビザンティンとケルトの関与も尋ねる、「あなたの云われるようにケルト人達はガリシア一帯を西ゴート族と共生しながらいたから、その影響もあるだろう、、」と頷いてくれた。 それから扉を閉めて、山を200m登って、San Miguele de Lillo教会 WCH に着いた。<br />「あー、ようやく、この丘に立てた」 眼前に在ったのは まさにロマネスクという美意識の原石とも呼ぶべき美しさと精神性に満ちた建築だ。南仏にあるル・トロネ修道院はコルヴィジェから安藤忠雄まで魅了しその建築に影響を与えたが、私は、この建築が持つ静謐と内省から、白井晟一の建築美学を感じた。<br /> <br /><br />聖ヤコブ伝説 <br />  <br />この聖堂は実はアストウリアス王国の王の離宮として造営された。 当時、イベリア半島は、西ゴート王国を駆逐したウマイヤ朝の支配下にあったが、半島の北西にあり、あまり地政学的魅力に乏しかった、この地域はムスリム勢力の支配から逃れ、キリスト教圏の飛び地となっていた。  <br /><br /><br /> その形勢が逆転して行くのは西暦718年 西ゴートの末裔を名乗るペラヨが、キリスト教徒をまとめて、イスラムと戦い、初めて勝利してからだ。ペラヨは、ここオヴィエドにアストウリアス王国を築いた。 そこから、1492年までの800年間もの長きに渡って、イスラム vs キリスト教のロングバトルが続いて行く、これが再征服運動:レコンキスタであるが、後に西欧全体の大義に昇格して行く戦いの、第一歩が、この王国から始まった。  <br /><br /> <br /> 当時のウマイヤ朝は、メッカを都とし、東はトランスオクシアナ、西はジブラルタルから北アフリカまでを治める超大国であった。 ペラヨが反旗を翻した戦いは、云ってみればアメリカに北ベトナムが戦いを挑むような賭けであったろう。 この局地戦に勝利に導く為、ペラヨはこれをキリスト教徒にとっての「聖戦」であると印象づけた。 その大義を庶民にまでも浸透させ、半島の領土回復を全キリスト教圏の命題として転化させる為、彼等は一つのシナリオを描いた。それが聖ヤコブ伝説(遺骸発見〜サンチャゴ・デル・コンポステーラ聖堂造営)と歴史家は見ている。王国は後に、レオンに首都を移転してカスティーリャ王国を名乗り、それが拡大して、スペイン王国となり、遂にはハプスブルグ帝国へと変貌して行った。 <br /> 聖ヤコブ伝説は、遠くフランス、ドイツにまで伝わり、エルサレム、ヴァチカンに続く第三の聖地として崇められるように神話化されていった。11世紀になり、エルサレムはオスマン帝国にあり、ヴァチカンでさえ遙か彼方に思えた時代にあって、イベリア半島の西端は、西欧の民衆達の熱望する巡礼地へと変貌した。フランスの各地からは聖地を目指す街道が作られ、道中の各所にも寺院や病院などの巡礼者をサポートするインフラが整備されて行った。 ここから、経済活動ではない人々の移動、つまり「旅」が始まったと云われている。 現在でも、毎年、50万人もの巡礼者が、フランス国境から、自分の足だけで、サンチャゴ・コンポステーラを目指す。 その巡礼は951年に、このオヴィエドの王宮から、始まったのだ。 苔生した建物は、今は訪れる人も少なく、美しい自然の中にひっそりとしている。<br /><br /><br />オヴィエドの街 <br />  <br /> 帰路はバスで山を降り10分でカテドラル広場に戻った。今日はメーデーで、広場は民族衣装を着た人々が伝統の踊りを披露していた。面白いのは、男達が身につけているバグパイプとスカートだ。ケルトの出自をガリシアだけでなくアストウリアスでも間近で見られて、生きた歴史の教科書のようだ。 カテドラルに併設して考古学博物館があり、先史時代からの装飾品、宝物などがあり、ヒッタイトの末裔達の遠い旅路を示していた。 <br /><br /> <br /> <br />  街で1番と云われるレストランに入り、祝日メニューの昼食を注文した。海老とトマトのサラダ、ハマグリとエンドウ豆のポタージュ、オッソブーコ、クレープシュゼット、コーヒーが付いて25 Euroだった。給仕がシードル酒をサーブする儀式が面白く、この土地の食文化の豊かさを堪能した。<br /> <br />レオンへ <br />  <br /> 14:30のバスに乗り、ビスケー湾を離れて内陸へと南下する。 景色から、どんどん緑が少なくなっていく。 16:15 レオン着 この町はアストゥリアス王国が都を移転した先であり、巡礼路の中の最大の要所だ。 BTから川を越えて、左側に歩く事10分 豪壮な館が見えてくる。 格調高い玄関口には黒服の守衛が、進んでくる異国のバックパッカーに警戒の視線を投げかけている。 <br /> 私は、おもむろに「amigos DE PARADORES」と刻印された金色のカードを差し出すと、彼の表情に笑顔が戻った。<br /> <br /> そう、ここが スペインに93あるパラドールの中で、五つ星の付くたった二軒の内の宿 San Marcos なのだ。(因みにもう一軒はサンチャゴ・コンポステーラの寺院の目の前にある、Reyes Catolicosだ。) 予算 40 Euroを旨とするバジェット・トラベラーが、ここに泊まるのには訳がある。 一つは、この建築自体が、一つの美術品だからだ。 16世紀から200年もの歳月をかけて建設されたこの館は、王が巡礼者達のために作った病院兼修道院で、建物の長さは100mにも及ぶ。プラテレスコ様式の回廊の他、大きな礼拝堂も館内に併設している。客室や館内は16世紀の内装を見事に改修し往時の美術品で飾られている、まさに美術館に泊まるようなものだからだ。 <br /><br /> しかし、そんな贅を尽くした宿も、昨今の観光不況には苦戦していて、前年の11月に顧客宛のDMで早期割引のキャンペーンを流していた。その中で、僅か75 Euroのシングルが、この日に空いていたので、予約した次第であった。 部屋に荷物を置き早速、館内を回った。 中庭を取り囲むように長方形の建物があるのは、Reyes Catolicosと同じだが、ここには、巨大な礼拝堂が館内に有った。 ここで結婚式をあげて食堂で披露宴をするのが、 この地方のセレブの流儀らしい。 <br /> <br /> まだ陽が高いので、高名なカテドラルに向かった。パラドールからは裏通りを10分程、北上すると天を突き刺すようにカテドラルが見えて来る。 久しぶりに大勢の観光客を目にする。 聖堂に入ると、ステンドグラスの光に魅了された。 まさにレオン王国の絶頂期の栄華を光で留めている。この聖堂が、銀の道の交易で潤ったレオンの豪族達の力だけで造営されたのだから、帝国の偉大さは、想像するに難くない。シャルトルやサントシャペル以外に、もうステンドグラスは無いと思っていた無知を恥じた。 中世の美の後は近代! ガウディの作ったポティーネス館を訪れた。館は現在は、おもちゃ博物館として公開されている。 エル・カプリッチョから8年後 39歳の時に、この町に移り住んだガウディが作った建築で、館の前には、建築ノートを見ながら考え込むガウディの姿がブロンズで残されていて、横に座って天才と2 shot出来る名所になっている。<br /> <br /> <br /> 宿に戻り、深々としたベッドに倒れこんだ。強行軍のつけが、どっと出てきて、夕食にも立てずに眠りこけた。 2:00に目が覚めて、大理石の浴槽で肩まで湯に浸かった。 洗濯をしながら、ここが東方からの巡礼者にも格安で旅の疲れを癒してくれた事に感謝した。 <br /><br />ロマネスクのシスティーナ <br />2/ May   快晴 レオン 〜 アビラ〜サラマンカ <br />  <br /> 久しぶりに寝坊をする。ダイニングだと20 Euroもするので、サン・イシドロ教会まで歩き、開館までの間、Barで朝食を取る。そこまでの道路には50m置きに聖ヤコブのシンボルであるホタテのマークがブロンズで道に刻印されて道標となっている。 この裏通りと思えた道が正式の巡礼路だったのだ。 バックパックから前方にビデオカメラを固定して歩いている青年に会った。 ベルギーから自分が歩く全行程を駒撮りで記録しているという。 それは、いつかホームページで公開するのか?と訊くと、自分だけの記録に過ぎない、、と語った。 巡礼者は誇示する為に歩いているのではなく、内省する旅路だという事を気づかされる出会いだった。 <br /> <br /><br /><br /> 10時になってからサン・イシドロ教会の地下聖堂への扉が開いた。 王族の一族の霊廟が並ぶ空間は、現在の教会の半地下にあるが、ヴォールトが組まれて丸天井がある。その天井一杯に、12世紀に描かれた聖書の寓画が完璧に残っている。 中世の人々の信仰観が絵説き本のように表されている。「ロマネスクのシスティーナ」と讃えられるがピッタリの喩えだ。 頭上から突然、賛美歌が聞こえてきたので、慌てて、管理人に「ミサに行って来る」と頼んで、外に回り、近代の聖堂に入った。 スペイン語なので説教はもちろん判らないが、「主の祈り」の場面では日本語で唱えた。 30年前にブルゴスを訪れた時、サント・ドミンゴ・シロスの教会までヒッチハイクで辿り着き、初めてグレゴリオ聖歌を生で聞いた。 それと同じような調べで、この聖歌合唱も構成されていて、眼だけでなく耳でも福音に接した日曜日・ドミンゴの朝であった。 教会の門前の土産屋で、その寓画を陶板にした物を気に入って買った。<br /> <br /> <br /><br />不惑の決断 <br />  <br /> 昼食は歩き方に掲載の La Mejiloneraでムール貝の陶板焼き、チーズ・コロッケをシードル酒で味わった。これで4.7 Euro <br />13:20のバスで16:08 AvilaのRenfe駅に到着。 しかし、なんと次の17:15の特急は4両編成だけの全車指定席だったが、全て売り切れで、今日はもう便が無いという。タクシーでBTに行くと、バスも22時まで無い。路頭に迷う。 駄目もとのプランを考えて、タクシーを拾い、Renfe駅を指示したが、まだ時間があるので、この車で世界遺産の要塞を巡る事にした。 南仏のカルカッソンヌに似てAVILAの要塞WCHの中は土産物屋とファースト・フードが多く、その中を観光客が歩いている。 うーん、これはtaxiで廻るだけで十分だ。  <br /> <br /> 運転手が懸命に解説してくれて15 Euroのチャーター代はお得だった。17:05 Renfe駅に着くと Salamanca行きの特急:AVEが入線していた。 窓口で訊いてもキャンセルは出てない。 私は、キャリーを持ってそのまま乗車した。 無銭乗車で3倍の請求をされても、このままサラマンカに今夜中に到着してないと、宿の予約、行程が全部、無駄になるからだ。 それから、特急のドアで見た車掌さんが思慮深そうな女性だったので、事情を説明出来ると直感したのも、この大胆な行動を裏打ちしていた。 発車しても席に行かずに立っている人が4-5人居たが、10分後には私だけになっていた。 サラマンカまで向かう線路は単線で広大な風景の中、特急が疾走した。 <br /> <br />ようやく、あの車掌さんが現れた。目礼をした。 「チケット無いのね」「うん、そうなんだ」 「じゃあ、9 Euro」って言っているらしい、、(全部スペイン語)携帯端末から出てきたTicketを貰うと、「席に座りたい?」「えー、あるの」「付いていらっしゃい」と促されて、窓側・進行方向の席に座れた。( まあ、時には、こんな事もあるさ、、※ でも良い子は絶対に真似しないでね、、) <br />一つ星のBarへ<br />  <br /> 18:25 Salamanca駅に到着 流石にスペイン一の大学都市だけあって、駅はCarrefourも併設する駅ビルだ。 TaxiでHostal Italiaに向かう。 ここは大きなビルにある宿泊施設 受付の女性も大変に親切だ。 大きな部屋にキングベッド、そしてバスタブも!これで40 Euroはお値打ちだ。 入浴・洗濯をしてから、宿を出る。 この宿を選んだのは、市場の北側にある Van Dyck通りにある1軒のBarに歩いて行けるからだ。 その店は Tapas Taveleといい、ミシュランで2008年から一つ星を獲得している今注目のBarだ。<br /><br /> <br /> カウンターに4名、テーブルが3つしかない、誠に家庭的なサイズの店だ。一つ星を冠しても、その姿勢を変えず、一皿が殆ど3-4Euroという良心的な価格を堅持していた。以前、同じ大学都市のボローニャで見つけたエノテカの簡易食堂みたいで、店主の「みんなに旨いもん食わせたい」  そんなオーラが感じられる店だった。<br /> <br /> <br /> 明らかにエーリアンである私に店主は優しく英語で応えてくれて、店のお勧めデギュスタシオンを注文した。 ワインはALIONをグラスワインで頼んだ。前菜はアスパラガスのポタージュ、一番皿が鱈のピルピル、二番皿が豚の耳のフライとフォアグラのソテー載せ、三番皿がパルミジャーノを振りかけたイベリコステーキ、ドルチェにソルベ もう最後はコーヒーも入らない位、満腹になった。 これで30 Euroだ。 サンセバスチャンのALONA BERRIと互するお値打ちのBARだった。 <br /><br /> やはり、イベリコの産地を控えるサラマンカ そこの市場の人々を相手にする店の心意気を十二分に堪能した店だった。  あまり良い思いをしたせいか、怖い夢を見た。 でも、夢でだけ、<br />うなされるなら、明日も怖い夢を見ても良いと、メフィストフェレスのように思った。 <br /><br />コロンブスの青春<br />3/ May 快晴サラマンカ〜セゴビア〜マドリッド <br /> <br />6:30起床 宿の外に出るとブルッとする寒さだ。欧州の天気はいつも夏と冬が春にある。マヨール広場に行くが広場はまだ起きたばかり、眠そうな給仕達が椅子を広場に出している。ここの裏手に市場があるので、覗いて見た。 半地下に2階建てで肉屋、魚屋が店を並べている。その中で、一番ディスプレィが地味な店に、主婦が行列を作っていた。 やはり、この市場でも観光客相手と、そうでない店があるのだ。 その店でイベリコハムを品定めした。 最高級のベジョータは流石に高いので、自宅用に300g 友人用にレセボを1kg購入して、200gずつ真空パックして貰った。<br /> <br /><br /> 鮮度も価格も大満足でサラマンカのお土産として一番喜ばれた。市場を出るとコンパスをノートの上で計測している学生と、それを見守る教師のブロンズ像があった。<br /> <br /> <br />これが若き日のコロンブスだった。ユダヤの出自のため、人生の荒波を与儀なくされたマイノリティの青年を、大航海へと羽ばたかせたのは、欧州にあって早くからアラブ人の科学(数学、天文学、医学、航海術)の講座を持っていた創立1534年のサラマンカ大学であった。彼はクロアチアから遥々、ここまで留学し、サン・エステバン修道院で寝食を保護されて当時、最先端の航海天文学を身に付けて行ったのだ。 その若き日の苦悩する青年の像が市場の裏に建っているのは何故なのだろう。そのサラマンカ大学に行き、学食で朝食を取った。構内のお店で、18世紀の天文振り子時計のレプリカを息子への土産で買った。(150Euro) <br /> <br />それから新旧カテドラルWCHとサン・エステバン修道院を見てから、宿に戻り、TaxiでBTまで行った。 出発まで20分あったのでBarに行くと、イカフライとトリッパの土鍋があったので速攻で食べた。 飲み物を入れて4 Euro 安い!旨い!早い!の三重丸だった。 13:15 出発 AVILAを経由して Segoviaに16:20到着した。 またTaxiに荷物を入れてセゴビアの街 WCHを回った。<br />初めに白雪姫の似合うアルカサル城、そしてローマの水道橋を駆け足、、といってもTaxiに乗ってただけだが、スピード観光した。セゴビアのRenfe駅でAVEが停るのは郊外の駅の方だ。 <br />これボラないかな? 程、郊外に走ってから、<br />モダンなRenfe駅に到着した。 <br /> <br />マドリッドへ<br /><br /> 実を言うと、この街には来たくなかった。 30年前に来た時は名店ボティンの仔豚でお腹を壊したし、その後の治安の悪さはつとに名高かったからだ。 そんな印象を吹き払ったのがスペイン在住の料理家・丸山久美さんのブログで、今夜はそのお薦めの1軒で最後の夜を地元親父的に楽しもうと画策していた。 18:52 チャマルティン駅到着 SOL駅に移動して Hostal Comercialに投宿荷物を置いてすぐにGOYA駅まで移動して歩いて10分で到着した。<br /><br /> <br /> 外観は非常に渋い。観光客がまず辿り着けない地域なので、突然の闖入者に、あれって顔で迎えられた。 臆せずにカウンターの席に座ってCAVAを頼むとチョリソーのおとうしが出てくる。 それからハモン・イベリコ・ペジョータを半人前頼んだ。旨いなあ、、とでれでれになる。続いてマドリッド名物のコシードのスープ、それからガリシアのタコを頼んだ。ご当地でない品を最後に頼んだので、少し高くて合計37 Euroだった。  しかし落ち着いた親父度満点の店でマドリッドの夜を締めくくれて満足して宿へ帰った。<br /><br /> <br />マハとの逢瀬<br /> 4/ May   快晴 マドリッド〜ソウル <br /><br />  6:00 起床してゆっくりと入浴した。 清々しい気持ちになって王宮に向かった。中央郵便局で息子や友人達への絵葉書を投函した。そこからプラド美術館に向かうと、既に30mもの行列が出来ていた。 9:00 開館と同時に入館した。先ずはベラスケスのラス・メニーナスを見て、プラドに来た事を実感してから、見迷路のような展示室を廻った。ボッシュの悦楽の園の前で日本人ツアーの一団に入り現地ガイドの説明に聞き入る。 やっぱり、静かな部屋で絵と対峙したい!と展示室を彷徨う内に、ひっそりと誰もいない展示室に踏み込んだ。 そこに在ったのが「着衣のマハ」「裸のマハ」だった。ゴヤの筆は傍で見ると亡羊としてるのに、二つの絵を見据える程の距離で見ると、朦朧とした輪郭が視線の先で、立体化して生めかしい幻惑を生んでいる。私は、始めて<br />ゴヤの凄さを実感した。 <br /> <br /><br />これらの傑作に再会できただけでも、やはりマドリッドに来て良かったと思った。プラドのキヨスクでマハが持っていた扇子の<br />レプリカを購入してから、後ろ髪を引かれながら、美術館を後にし、近くの海軍博物館で古い海洋地図のレプリカと船員のキーホルダーを買ってから、10:30に宿に戻った。11時チェックアウト <br />地下鉄を2回乗り換えてバハラバ空港に到着。心配してたスリ強盗チームも出没しなかった。<br /><br /> 空港でスモモの果実酒パチャンを3本買った。 T-2に移動してLHのコードシェアのSpan Airにチェクイン。 重量32kgに膨れた荷物もお咎めなしでソウルまでスルー。 お腹が空いたが機内食がもうすぐなので我慢する。13:55  離陸 しかし、あろうことか機内サービスはSpan Airの規定で有料 サンドイッチが5 Euro! サラマンカのBTならちゃんとした昼食が取れる程だ。 意地でも我慢して、フランクフルトまでの2時間を耐えた。  16:55 Frankfult着 すぐにソウル行きに乗換え出発 隣に座った韓国美人は230日間かけてヨーロッパを隈なく旅してきた。女の一人旅様々な武勇伝を聴いていると時間も忘れ、あっという間でソウルに到着した。<br /><br />旅のベクトル<br /> 5/ May   快晴 ソウル〜東京 <br /><br /> 11:35 ICN 到着 着陸 80分前に朝食を食べていたにも関わらず、空港に着くなり、あの職員食堂に駆け込んだ。 今度はビビンバに加えて、冷麺も頼んだ。このビビンバと、スパンエアーの、あの痩せたサンドイッチが同じ値段なんて許せないとブツブツ言いながら口一杯の口福を感じた。<br />AREXで金浦空港まで行き、荷物を預けてから、ソウル駅に行き、ロッテマートで海苔を買ってEMSで親戚に送った。惣菜をあれこれ買ってから空港に舞い戻り、20:20発のJL機で 22:30 羽田空港に到着した。私の旅は無事に終わった。<br /><br /><br /> レオンで会った巡礼者は、今、何処まで辿り着いたかな、  旅とは 外側の発見だけでは無く、自分自身の内省への旅でもあるんだな、、とその颯爽な後姿を思い出していた。

北スペイン古寺巡礼   幻のアストゥリアス王国を訪ねて

12いいね!

2010/04/28 - 2010/05/05

3位(同エリア23件中)

0

0

bloom3476

bloom3476さん


「 ピレネーの向こうはアフリカだ 」

そう言い放ったのは、あのナポレオンだった。
かつて地球上の1/3を支配し、その領土に陽が落ちる事は無いと謳われた大スペインに対してだ。 凋落を始めた隣国に、随分な言い様だと思うが、この喩えは今でもフランス人の口から、よく出てくる。 確かにパリから飛行機に乗ってくると、眼下に広がる荒涼とした大地に、このままサハラ砂漠に続いているような印象を受け、それが移民問題とリンクされているからかも知れない。

そんなフランス人でさえ、1000年間に渡って憧れ、そして歩き続けてきた街道があった。

それがフランス国境からビスケー湾沿いに連なるバスク〜カンタブリア〜アストゥリアスを抜けてガリシアの聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラへと続くCamino del Norteである。内陸と違い、気候が穏やかにして、湿潤な風土は、農産や牧畜を潤わしただけでなく、巡礼者の視線にも緑の恵みを与えた。 

そして、いつしか、この地域は グリーン・スペイン と呼ばれるようになった

風薫る5月、その道をローカルバスに乗り、
気に入った街で途中下車してロマネスクの古寺を巡り、夜は石畳の路地を歩いて、地元の親父達で賑わうBarをハシゴしよう! そんな大人の愉しみの企みで旅程表が、びっしりと書き込まれて、いよいよ出発の日を迎えた。

via SEOUL
28 Apr 2010 雨 成田–仁川

GWの前日、退社後、ソウル行きの最終便に
飛び乗り、20:40 仁川空港に着いた。私をここに途中降機させたのは、3ヶ月前にLufthansaから届いた一通のDMだった。3日間だけ売り出された欧州早割りの設定が、Won安も加わってOPEN JAWで63000円! ピーク時期にしか休みが取れないサラリーマンに取って、ICNという空港コードは旅の連立方程式の主要な基数だ。

 宿泊は空港近くのアパートメントホテルを利用、至近、至便で20畳程のワンルームにキングベッドの他に台所や洗濯機まで揃っていた。 洗濯機を回しながらゆっくりと風呂に入った。浴後は1Fにある居酒屋で遅い夕食を取ってから就寝した。

16時間の旅路
29 Apr 晴れ 仁川〜ミュンヘン〜ビルバオ

空港の職員食堂で5000Wonのビビンバを朝食に取った。洗面器のような器に盛られた色鮮やかな 野菜に、旅立つ元気を貰って、Lufthansaに搭乗した。 12:00 満席で離陸、そして17:15 陽がまだ高いミュンヘンに到着した。

前日のソウルは 気温、僅か5°そこから初夏の欧州に移動した。 19:25 再出発して 22:05 スペイン北部のハブ空港であるBilbaoに到着した。乗り継ぎも入れ、16時間の長旅だったが、まだまだ気が抜けない。 市内バスでバスターミナル(以後 BT)に向かう。 
高速道路の先にビルバオの顔となったグッゲンハイム美術館の銀色の塊が夜空に浮かび上がって来る。バスはそこに激突するのではないと思う程、建物のすぐ横を通過して、15分でBTに着いた。   
懐からSmart Phoneを出して、Navi Computer+GPSを起動させた。今度の旅は連日、バス移動なので、Google MapでBTの半径200m以内+40 Euro以内の宿を「付近検索+レビュー」を参考に予約していた。Google Mapに登録してあるホテルを呼び出し、方位を確かめてからながら真っ暗な街を歩き、薄暗いビルに小さく貼られたHostalSan Mamesの看板を見つけた。 ソウルの宿を出てから、20時間たって私は、ようやく眠りにつけた。


ビスカヤ橋 WCH
30 Apr 11° 晴れ ビルバオ〜オヴィエド

5:00起床 宿の前のSan Mames駅からC1線に乗りPortugalete駅まで15分 川沿いに、朝霧を突き抜けて世にも奇妙な建造物が見えてきた。 


これが世界遺産のビスカヤ橋WCHである。川を移動する車や人は、橋の上部にから吊るされた水上キャビンに乗り込み、それが頻繁に川を往復する仕掛けだ。乗船料?は0.3 Euro 側を渡し船も運行してるが、殆どの人は、このキャビンに乗る。 エッフェルの弟子が、この独創的な橋を建設したのが1893年、それから117年を経過しても、街に役立っている。凄いもんだなあ、と感嘆してから、 対岸のBarに入り、冷えた体をスペイン式にテ・コンレッチェとトルティーヤの朝食で温めた。

地球上 最古のアートを目指す

宿に戻り、目の前のBTから8:30のALSAのバスでSantanderに向かう。ALSAはスペイン北部の バス網を一手に支配している会社だ。9:50に着いてから、今度は1日に4本しかないカンタブリア州の公営バスに乗り換えて、Santillana del Marに11:10 着。 美味しそうなタベルナを見つけて、そこに荷物を置き、Taxiを呼んでもらう。 
目指すは、アルタミラ洞窟!そうあの小学校の教科書に載っていた、世界遺産中の世界遺産だ! 1万5000年前の壁画は1985年から、壁画保存の為、非公開とされ、その隣に、同じで大きさの洞窟を再現して、アルタミラ博物館WCHとして 公開している。 20名位の人数限定で、30分おきに洞窟内ツアーが開催されていて、平日だったので、30分待ってから洞窟内に入れた。 そこは広大な洞窟で、本物と寸分違わず再現されているが、とてもこれがレプリカだとは思えないリアルさだ。 

そして、各所にホログラフィーで、15000年前の人々の生活が再現されていて、何故、ここにあの絵が描かれたのか? を説明している。 最奥部の天井に、あの教科書の写真に出てた牛の絵を見つけた。 それは岩の凹凸を上手く活用し、浮き彫りのように描かれていて、驚くほどの躍動感がある。 地球上最古のアートに感動して、ここに来て良かったと思った。


ガウディの気紛れ亭

 サンティリャーナ・デル・マルに戻り、昼食を取った。12Euroの定食:カンタブリア・シチュー(隠元豆とブータン・ノワールの煮込み)烏賊墨リゾット、シードル、ドルチェを取る。 カンタブリアからアウストリアスにかけて、この豆を使った煮込みが多い。それから、また公営バスに乗って、隣町のComillasに 14:00到着 バス停の前の土産物屋に入り、名産のチョコレート、エスカルゴの缶詰、絵葉書等を買う。ここで、荷物を預かって貰い、街を歩く。街道から離れた、この街を目指してきたのは、ガウディがカタルーニャ以外で創った、世にも不思議な住宅を見たかったからだ。
それが、この地の豪商だったコミーリャス家の依頼で作られた El Capriccio de Gaudi である。


キューバ貿易によって財を成し、侯爵にまで上り詰めた、一族は時のスペイン王・アルフォンソ12世を頻繁に、この地に招いた。王族の避暑地であったサンタンデールから近い事もあり、 貴族や富裕層達も、この景勝の地に別荘を築くようになり、段々と文化の香り高い街と成って行った。そこに、やってきた新進気鋭の建築家は、何が飛び出して来るか判らないようなビックリ箱の家をこの高雅な街に残した。「El Capriccio = 気紛れ」と名付けられた家は次の世界遺産の候補となっている。土産物屋の前に広がるコミーリャス家の広大な敷地の丘には、侯爵家の居城であったネオ・ゴシック様式のソブレジャーノ邸が建っている。 その丘まで歩いて、左側に回ると、木立の中に突然、それはある。 思わず、アングリと口を開けてしまう程、その建築はオカシナ建物だった。 まさにガウディの遊び心満載で、童話でしか見た事がない「お菓子の家」が目の前に建っている驚きだった。 ここは数年前まで日本人が買取り、レストランとして営業していたが、現在は修復下にあり内部に入る事は出来なかった。 



この街は、他にも魅力的な風景が多くあり、それが観光地でなく町として生きているのが魅力だ. 定食屋を覗くと、15 Euroの献立に、採れた海産物の料理が並んでいる。中でもマッドクラブのパエリヤに涎が出た。次は、この街で泊まろう!蟹に後ろ髪を引かれながらも、バス停へ急いだ。


アストゥリアス州へ

TaxiでSan VicenteのBTに着きまたALSAのバスに乗り換えてOviedoを目指す。 カンタブリアを抜けて、ここからはアストゥリアス州に入る。 バスは海岸と内陸を蛇行しながら走る。その景色は、まるでトスカーナの丘がリアス式海岸に点在しているような美しさだ。まさにグリーン・スペインの絵巻を見ているようだ。 18:45 OviedoのBTに到着。Renfe(国鉄)の駅前まで歩き、Hostal Oviedに投宿。 宿のマダムは中年巡礼者に、一番奥の部屋を与えてくれた。キング・ベッドにバスタブ付で38 Euroはお値打ちだった。 

洗濯を手短にして、カテドラル広場まで歩き、La Mas Barataという街一番のBarで夕食を取る。 ダイニングと立呑とあったが殆どの紳士淑女達が立呑で、ピンチョス(小皿)を摘まんでいるので、私もそちらのカウンターで高椅子に座って注文をする。 ベガ・シシリアで誉れ高いAlionをグラスワインで頼むと、おとうしで小さなフライパンにパエリャが乗ってくる。追加で、小エビとシャンピニオンのソテーも取った。どれも旨いし、銘酒を取って僅か9 Euro 安いなあ、、サンセバスチャンなら倍するかなあ、、と思いながら、この街がどんどん好きになっていった。ハシゴして、もう一軒、今度は親父度のもっとディープな店に入り、ピンティアを頼み、ガリシア産タコのポテトソースがけで12Euro。  リベラ・デル・デュエロの銘酒に酔ながら、この町で檀一雄のように沈もうか、、と夢みて オヴィエドの夜は更けた。


アストゥリアス王国の夢 
1/ May 小雨- 曇 オヴィエド〜レオン

実は、この日のために、今度の旅を計画したと云っても過言ではない。 9世紀に、この地を治めたアストゥリアス王国の遺跡を訪れる事だ。遺跡がある街の北西のナランコ山までバスが通っていたが、一時間に一本だけなので、歩いて向かう事にした。またSmartphoneを取り出し、Google Mapでルート検索してGPXに変換してあったファイルを呼び起こす。 これでオフラインでも、目的地までのナヴィゲーションが出来る。途中から冷たい小雨が降ってきた。この辺りは高級住宅地らしく休日の早朝の静けさを破る足音に、あちこちから番犬が吠えて出迎えてくれた。ホテルを出てから25分でSantaMariadelNaranco教会に到着した。朝靄に包まれて緑の丘に朴訥な聖堂が建っている。

聖堂の外観は11世紀に始まるロマネスク建築やシトー派寺院の建築構造に近いので、プレ・ロマネスク様式と呼ばれている。この聖堂群を知ったのは地球の歩き方のオビエドのページでだった。 僅か3cm四方の写真ながら、緑の丘に立つ、San Miguele de Lillo聖堂の素朴なフォルムを見た瞬間に、私は一目惚れした。以来、サンチャゴ・コンポステーラに三度も巡礼をする機会を得ながらも、ついぞ足を伸ばせずにいた。 イベリア半島の西端の、この地にだけ、何故このような建築が存在したか? あの丘に立って、その謎を解き明かしたい、そんな宿願叶っての今日を迎えていた。 
普段は閉ざされている聖堂が一時間に一回だけガイドが鍵を開けて説明してくれる


彼女の説明によると、レコンキスタの始まる前から先住していた西ゴート族の王の元へ、当時、 世界の頂点に輝いていたビザンティン帝国の職人達が招かれ、この聖堂造営に寄与したと云う。    
私は内陣を支える柱頭の網目文様に注目した。似た文様を遥か東方、アルメニアのエチミジアン教会で見た話を告げ、ビザンティンとケルトの関与も尋ねる、「あなたの云われるようにケルト人達はガリシア一帯を西ゴート族と共生しながらいたから、その影響もあるだろう、、」と頷いてくれた。 それから扉を閉めて、山を200m登って、San Miguele de Lillo教会 WCH に着いた。
「あー、ようやく、この丘に立てた」 眼前に在ったのは まさにロマネスクという美意識の原石とも呼ぶべき美しさと精神性に満ちた建築だ。南仏にあるル・トロネ修道院はコルヴィジェから安藤忠雄まで魅了しその建築に影響を与えたが、私は、この建築が持つ静謐と内省から、白井晟一の建築美学を感じた。


聖ヤコブ伝説

この聖堂は実はアストウリアス王国の王の離宮として造営された。 当時、イベリア半島は、西ゴート王国を駆逐したウマイヤ朝の支配下にあったが、半島の北西にあり、あまり地政学的魅力に乏しかった、この地域はムスリム勢力の支配から逃れ、キリスト教圏の飛び地となっていた。 


その形勢が逆転して行くのは西暦718年 西ゴートの末裔を名乗るペラヨが、キリスト教徒をまとめて、イスラムと戦い、初めて勝利してからだ。ペラヨは、ここオヴィエドにアストウリアス王国を築いた。 そこから、1492年までの800年間もの長きに渡って、イスラム vs キリスト教のロングバトルが続いて行く、これが再征服運動:レコンキスタであるが、後に西欧全体の大義に昇格して行く戦いの、第一歩が、この王国から始まった。 

 
当時のウマイヤ朝は、メッカを都とし、東はトランスオクシアナ、西はジブラルタルから北アフリカまでを治める超大国であった。 ペラヨが反旗を翻した戦いは、云ってみればアメリカに北ベトナムが戦いを挑むような賭けであったろう。 この局地戦に勝利に導く為、ペラヨはこれをキリスト教徒にとっての「聖戦」であると印象づけた。 その大義を庶民にまでも浸透させ、半島の領土回復を全キリスト教圏の命題として転化させる為、彼等は一つのシナリオを描いた。それが聖ヤコブ伝説(遺骸発見〜サンチャゴ・デル・コンポステーラ聖堂造営)と歴史家は見ている。王国は後に、レオンに首都を移転してカスティーリャ王国を名乗り、それが拡大して、スペイン王国となり、遂にはハプスブルグ帝国へと変貌して行った。 
聖ヤコブ伝説は、遠くフランス、ドイツにまで伝わり、エルサレム、ヴァチカンに続く第三の聖地として崇められるように神話化されていった。11世紀になり、エルサレムはオスマン帝国にあり、ヴァチカンでさえ遙か彼方に思えた時代にあって、イベリア半島の西端は、西欧の民衆達の熱望する巡礼地へと変貌した。フランスの各地からは聖地を目指す街道が作られ、道中の各所にも寺院や病院などの巡礼者をサポートするインフラが整備されて行った。 ここから、経済活動ではない人々の移動、つまり「旅」が始まったと云われている。 現在でも、毎年、50万人もの巡礼者が、フランス国境から、自分の足だけで、サンチャゴ・コンポステーラを目指す。 その巡礼は951年に、このオヴィエドの王宮から、始まったのだ。 苔生した建物は、今は訪れる人も少なく、美しい自然の中にひっそりとしている。


オヴィエドの街

 帰路はバスで山を降り10分でカテドラル広場に戻った。今日はメーデーで、広場は民族衣装を着た人々が伝統の踊りを披露していた。面白いのは、男達が身につけているバグパイプとスカートだ。ケルトの出自をガリシアだけでなくアストウリアスでも間近で見られて、生きた歴史の教科書のようだ。 カテドラルに併設して考古学博物館があり、先史時代からの装飾品、宝物などがあり、ヒッタイトの末裔達の遠い旅路を示していた。


 
街で1番と云われるレストランに入り、祝日メニューの昼食を注文した。海老とトマトのサラダ、ハマグリとエンドウ豆のポタージュ、オッソブーコ、クレープシュゼット、コーヒーが付いて25 Euroだった。給仕がシードル酒をサーブする儀式が面白く、この土地の食文化の豊かさを堪能した。

レオンへ

 14:30のバスに乗り、ビスケー湾を離れて内陸へと南下する。 景色から、どんどん緑が少なくなっていく。 16:15 レオン着 この町はアストゥリアス王国が都を移転した先であり、巡礼路の中の最大の要所だ。 BTから川を越えて、左側に歩く事10分 豪壮な館が見えてくる。 格調高い玄関口には黒服の守衛が、進んでくる異国のバックパッカーに警戒の視線を投げかけている。
 私は、おもむろに「amigos DE PARADORES」と刻印された金色のカードを差し出すと、彼の表情に笑顔が戻った。

 そう、ここが スペインに93あるパラドールの中で、五つ星の付くたった二軒の内の宿 San Marcos なのだ。(因みにもう一軒はサンチャゴ・コンポステーラの寺院の目の前にある、Reyes Catolicosだ。) 予算 40 Euroを旨とするバジェット・トラベラーが、ここに泊まるのには訳がある。 一つは、この建築自体が、一つの美術品だからだ。 16世紀から200年もの歳月をかけて建設されたこの館は、王が巡礼者達のために作った病院兼修道院で、建物の長さは100mにも及ぶ。プラテレスコ様式の回廊の他、大きな礼拝堂も館内に併設している。客室や館内は16世紀の内装を見事に改修し往時の美術品で飾られている、まさに美術館に泊まるようなものだからだ。

しかし、そんな贅を尽くした宿も、昨今の観光不況には苦戦していて、前年の11月に顧客宛のDMで早期割引のキャンペーンを流していた。その中で、僅か75 Euroのシングルが、この日に空いていたので、予約した次第であった。 部屋に荷物を置き早速、館内を回った。 中庭を取り囲むように長方形の建物があるのは、Reyes Catolicosと同じだが、ここには、巨大な礼拝堂が館内に有った。 ここで結婚式をあげて食堂で披露宴をするのが、 この地方のセレブの流儀らしい。
 
まだ陽が高いので、高名なカテドラルに向かった。パラドールからは裏通りを10分程、北上すると天を突き刺すようにカテドラルが見えて来る。 久しぶりに大勢の観光客を目にする。 聖堂に入ると、ステンドグラスの光に魅了された。 まさにレオン王国の絶頂期の栄華を光で留めている。この聖堂が、銀の道の交易で潤ったレオンの豪族達の力だけで造営されたのだから、帝国の偉大さは、想像するに難くない。シャルトルやサントシャペル以外に、もうステンドグラスは無いと思っていた無知を恥じた。 中世の美の後は近代! ガウディの作ったポティーネス館を訪れた。館は現在は、おもちゃ博物館として公開されている。 エル・カプリッチョから8年後 39歳の時に、この町に移り住んだガウディが作った建築で、館の前には、建築ノートを見ながら考え込むガウディの姿がブロンズで残されていて、横に座って天才と2 shot出来る名所になっている。

 
宿に戻り、深々としたベッドに倒れこんだ。強行軍のつけが、どっと出てきて、夕食にも立てずに眠りこけた。 2:00に目が覚めて、大理石の浴槽で肩まで湯に浸かった。 洗濯をしながら、ここが東方からの巡礼者にも格安で旅の疲れを癒してくれた事に感謝した。

ロマネスクのシスティーナ
2/ May 快晴 レオン 〜 アビラ〜サラマンカ

久しぶりに寝坊をする。ダイニングだと20 Euroもするので、サン・イシドロ教会まで歩き、開館までの間、Barで朝食を取る。そこまでの道路には50m置きに聖ヤコブのシンボルであるホタテのマークがブロンズで道に刻印されて道標となっている。 この裏通りと思えた道が正式の巡礼路だったのだ。 バックパックから前方にビデオカメラを固定して歩いている青年に会った。 ベルギーから自分が歩く全行程を駒撮りで記録しているという。 それは、いつかホームページで公開するのか?と訊くと、自分だけの記録に過ぎない、、と語った。 巡礼者は誇示する為に歩いているのではなく、内省する旅路だという事を気づかされる出会いだった。



10時になってからサン・イシドロ教会の地下聖堂への扉が開いた。 王族の一族の霊廟が並ぶ空間は、現在の教会の半地下にあるが、ヴォールトが組まれて丸天井がある。その天井一杯に、12世紀に描かれた聖書の寓画が完璧に残っている。 中世の人々の信仰観が絵説き本のように表されている。「ロマネスクのシスティーナ」と讃えられるがピッタリの喩えだ。 頭上から突然、賛美歌が聞こえてきたので、慌てて、管理人に「ミサに行って来る」と頼んで、外に回り、近代の聖堂に入った。 スペイン語なので説教はもちろん判らないが、「主の祈り」の場面では日本語で唱えた。 30年前にブルゴスを訪れた時、サント・ドミンゴ・シロスの教会までヒッチハイクで辿り着き、初めてグレゴリオ聖歌を生で聞いた。 それと同じような調べで、この聖歌合唱も構成されていて、眼だけでなく耳でも福音に接した日曜日・ドミンゴの朝であった。 教会の門前の土産屋で、その寓画を陶板にした物を気に入って買った。



不惑の決断

 昼食は歩き方に掲載の La Mejiloneraでムール貝の陶板焼き、チーズ・コロッケをシードル酒で味わった。これで4.7 Euro
13:20のバスで16:08 AvilaのRenfe駅に到着。 しかし、なんと次の17:15の特急は4両編成だけの全車指定席だったが、全て売り切れで、今日はもう便が無いという。タクシーでBTに行くと、バスも22時まで無い。路頭に迷う。 駄目もとのプランを考えて、タクシーを拾い、Renfe駅を指示したが、まだ時間があるので、この車で世界遺産の要塞を巡る事にした。 南仏のカルカッソンヌに似てAVILAの要塞WCHの中は土産物屋とファースト・フードが多く、その中を観光客が歩いている。 うーん、これはtaxiで廻るだけで十分だ。

運転手が懸命に解説してくれて15 Euroのチャーター代はお得だった。17:05 Renfe駅に着くと Salamanca行きの特急:AVEが入線していた。 窓口で訊いてもキャンセルは出てない。 私は、キャリーを持ってそのまま乗車した。 無銭乗車で3倍の請求をされても、このままサラマンカに今夜中に到着してないと、宿の予約、行程が全部、無駄になるからだ。 それから、特急のドアで見た車掌さんが思慮深そうな女性だったので、事情を説明出来ると直感したのも、この大胆な行動を裏打ちしていた。 発車しても席に行かずに立っている人が4-5人居たが、10分後には私だけになっていた。 サラマンカまで向かう線路は単線で広大な風景の中、特急が疾走した。
 
ようやく、あの車掌さんが現れた。目礼をした。 「チケット無いのね」「うん、そうなんだ」 「じゃあ、9 Euro」って言っているらしい、、(全部スペイン語)携帯端末から出てきたTicketを貰うと、「席に座りたい?」「えー、あるの」「付いていらっしゃい」と促されて、窓側・進行方向の席に座れた。( まあ、時には、こんな事もあるさ、、※ でも良い子は絶対に真似しないでね、、)
一つ星のBarへ

 18:25 Salamanca駅に到着 流石にスペイン一の大学都市だけあって、駅はCarrefourも併設する駅ビルだ。 TaxiでHostal Italiaに向かう。 ここは大きなビルにある宿泊施設 受付の女性も大変に親切だ。 大きな部屋にキングベッド、そしてバスタブも!これで40 Euroはお値打ちだ。 入浴・洗濯をしてから、宿を出る。 この宿を選んだのは、市場の北側にある Van Dyck通りにある1軒のBarに歩いて行けるからだ。 その店は Tapas Taveleといい、ミシュランで2008年から一つ星を獲得している今注目のBarだ。

 
カウンターに4名、テーブルが3つしかない、誠に家庭的なサイズの店だ。一つ星を冠しても、その姿勢を変えず、一皿が殆ど3-4Euroという良心的な価格を堅持していた。以前、同じ大学都市のボローニャで見つけたエノテカの簡易食堂みたいで、店主の「みんなに旨いもん食わせたい」  そんなオーラが感じられる店だった。

 
明らかにエーリアンである私に店主は優しく英語で応えてくれて、店のお勧めデギュスタシオンを注文した。 ワインはALIONをグラスワインで頼んだ。前菜はアスパラガスのポタージュ、一番皿が鱈のピルピル、二番皿が豚の耳のフライとフォアグラのソテー載せ、三番皿がパルミジャーノを振りかけたイベリコステーキ、ドルチェにソルベ もう最後はコーヒーも入らない位、満腹になった。 これで30 Euroだ。 サンセバスチャンのALONA BERRIと互するお値打ちのBARだった。 

やはり、イベリコの産地を控えるサラマンカ そこの市場の人々を相手にする店の心意気を十二分に堪能した店だった。  あまり良い思いをしたせいか、怖い夢を見た。 でも、夢でだけ、
うなされるなら、明日も怖い夢を見ても良いと、メフィストフェレスのように思った。

コロンブスの青春
3/ May 快晴サラマンカ〜セゴビア〜マドリッド

6:30起床 宿の外に出るとブルッとする寒さだ。欧州の天気はいつも夏と冬が春にある。マヨール広場に行くが広場はまだ起きたばかり、眠そうな給仕達が椅子を広場に出している。ここの裏手に市場があるので、覗いて見た。 半地下に2階建てで肉屋、魚屋が店を並べている。その中で、一番ディスプレィが地味な店に、主婦が行列を作っていた。 やはり、この市場でも観光客相手と、そうでない店があるのだ。 その店でイベリコハムを品定めした。 最高級のベジョータは流石に高いので、自宅用に300g 友人用にレセボを1kg購入して、200gずつ真空パックして貰った。


鮮度も価格も大満足でサラマンカのお土産として一番喜ばれた。市場を出るとコンパスをノートの上で計測している学生と、それを見守る教師のブロンズ像があった。
 

これが若き日のコロンブスだった。ユダヤの出自のため、人生の荒波を与儀なくされたマイノリティの青年を、大航海へと羽ばたかせたのは、欧州にあって早くからアラブ人の科学(数学、天文学、医学、航海術)の講座を持っていた創立1534年のサラマンカ大学であった。彼はクロアチアから遥々、ここまで留学し、サン・エステバン修道院で寝食を保護されて当時、最先端の航海天文学を身に付けて行ったのだ。 その若き日の苦悩する青年の像が市場の裏に建っているのは何故なのだろう。そのサラマンカ大学に行き、学食で朝食を取った。構内のお店で、18世紀の天文振り子時計のレプリカを息子への土産で買った。(150Euro)

それから新旧カテドラルWCHとサン・エステバン修道院を見てから、宿に戻り、TaxiでBTまで行った。 出発まで20分あったのでBarに行くと、イカフライとトリッパの土鍋があったので速攻で食べた。 飲み物を入れて4 Euro 安い!旨い!早い!の三重丸だった。 13:15 出発 AVILAを経由して Segoviaに16:20到着した。 またTaxiに荷物を入れてセゴビアの街 WCHを回った。
初めに白雪姫の似合うアルカサル城、そしてローマの水道橋を駆け足、、といってもTaxiに乗ってただけだが、スピード観光した。セゴビアのRenfe駅でAVEが停るのは郊外の駅の方だ。 
これボラないかな? 程、郊外に走ってから、
モダンなRenfe駅に到着した。 

マドリッドへ

 実を言うと、この街には来たくなかった。 30年前に来た時は名店ボティンの仔豚でお腹を壊したし、その後の治安の悪さはつとに名高かったからだ。 そんな印象を吹き払ったのがスペイン在住の料理家・丸山久美さんのブログで、今夜はそのお薦めの1軒で最後の夜を地元親父的に楽しもうと画策していた。 18:52 チャマルティン駅到着 SOL駅に移動して Hostal Comercialに投宿荷物を置いてすぐにGOYA駅まで移動して歩いて10分で到着した。


外観は非常に渋い。観光客がまず辿り着けない地域なので、突然の闖入者に、あれって顔で迎えられた。 臆せずにカウンターの席に座ってCAVAを頼むとチョリソーのおとうしが出てくる。 それからハモン・イベリコ・ペジョータを半人前頼んだ。旨いなあ、、とでれでれになる。続いてマドリッド名物のコシードのスープ、それからガリシアのタコを頼んだ。ご当地でない品を最後に頼んだので、少し高くて合計37 Euroだった。  しかし落ち着いた親父度満点の店でマドリッドの夜を締めくくれて満足して宿へ帰った。


マハとの逢瀬
4/ May 快晴 マドリッド〜ソウル

  6:00 起床してゆっくりと入浴した。 清々しい気持ちになって王宮に向かった。中央郵便局で息子や友人達への絵葉書を投函した。そこからプラド美術館に向かうと、既に30mもの行列が出来ていた。 9:00 開館と同時に入館した。先ずはベラスケスのラス・メニーナスを見て、プラドに来た事を実感してから、見迷路のような展示室を廻った。ボッシュの悦楽の園の前で日本人ツアーの一団に入り現地ガイドの説明に聞き入る。 やっぱり、静かな部屋で絵と対峙したい!と展示室を彷徨う内に、ひっそりと誰もいない展示室に踏み込んだ。 そこに在ったのが「着衣のマハ」「裸のマハ」だった。ゴヤの筆は傍で見ると亡羊としてるのに、二つの絵を見据える程の距離で見ると、朦朧とした輪郭が視線の先で、立体化して生めかしい幻惑を生んでいる。私は、始めて
ゴヤの凄さを実感した。 


これらの傑作に再会できただけでも、やはりマドリッドに来て良かったと思った。プラドのキヨスクでマハが持っていた扇子の
レプリカを購入してから、後ろ髪を引かれながら、美術館を後にし、近くの海軍博物館で古い海洋地図のレプリカと船員のキーホルダーを買ってから、10:30に宿に戻った。11時チェックアウト 
地下鉄を2回乗り換えてバハラバ空港に到着。心配してたスリ強盗チームも出没しなかった。

空港でスモモの果実酒パチャンを3本買った。 T-2に移動してLHのコードシェアのSpan Airにチェクイン。 重量32kgに膨れた荷物もお咎めなしでソウルまでスルー。 お腹が空いたが機内食がもうすぐなので我慢する。13:55  離陸 しかし、あろうことか機内サービスはSpan Airの規定で有料 サンドイッチが5 Euro! サラマンカのBTならちゃんとした昼食が取れる程だ。 意地でも我慢して、フランクフルトまでの2時間を耐えた。 16:55 Frankfult着 すぐにソウル行きに乗換え出発 隣に座った韓国美人は230日間かけてヨーロッパを隈なく旅してきた。女の一人旅様々な武勇伝を聴いていると時間も忘れ、あっという間でソウルに到着した。

旅のベクトル
5/ May 快晴 ソウル〜東京

11:35 ICN 到着 着陸 80分前に朝食を食べていたにも関わらず、空港に着くなり、あの職員食堂に駆け込んだ。 今度はビビンバに加えて、冷麺も頼んだ。このビビンバと、スパンエアーの、あの痩せたサンドイッチが同じ値段なんて許せないとブツブツ言いながら口一杯の口福を感じた。
AREXで金浦空港まで行き、荷物を預けてから、ソウル駅に行き、ロッテマートで海苔を買ってEMSで親戚に送った。惣菜をあれこれ買ってから空港に舞い戻り、20:20発のJL機で 22:30 羽田空港に到着した。私の旅は無事に終わった。


レオンで会った巡礼者は、今、何処まで辿り着いたかな、  旅とは 外側の発見だけでは無く、自分自身の内省への旅でもあるんだな、、とその颯爽な後姿を思い出していた。

同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス
航空会社
ルフトハンザドイツ航空

PR

この旅行記のタグ

12いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

スペインで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
スペイン最安 383円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

スペインの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから海外旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP