2010/05/30 - 2010/05/30
789位(同エリア6046件中)
みにくまさん
平城遷都1300年祭、2回目行ってきました。
前回はオープニング2日目の訪問だったこともあり、凄い人で平城京歴史館が見られませんでした。
あれから1ヶ月、多少は観光客も落ち着いたかと思い、前回に行けなかったところも行っておきたいと思ったので、再訪しました。
◎ 今回新たに行った場所・イベント
・平城京歴史館/遣唐使船の2階
・遺構展示館
・あおによしパレード
◎ 前回の旅行記
平城遷都1300年祭 ~はじまりの奈良、めぐる感動~ 「平城宮跡」
2010/04/25
http://4travel.jp/traveler/minikuma/album/10452162/
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平城京歴史館/遣唐使船復元展示
★ 平城京歴史館の入館には、入場整理券が必要です
◎ 整理券配布について
配布場所 平城京歴史館対岸部(エントランス広場)
配布時間 午前 8時50分配布開始 (9時00分〜13時40分入場分)
午後 13時00分配布開始 (14時00分〜16時40分入場分) -
平城京歴史館/遣唐使船復元展示
★ 入場整理券
前回は手にすることができなかった平城京歴史館の入場整理券ですが、今回はサクッとゲットできました。
整理券配布場所に行ったのが10:00くらいで、この整理券で入場できる時間が12:00から。
2時間ほど時間がありますが、その間に他の施設を見てくるなどすると、あっという間に時間が来ると思います。
それから入場整理券は、20分間隔で発券しているので(00分・20分・40分)、時間になって入場口に行った時、同時に入る人で長い時間待たされる、ということも無さそうです。 -
衛士隊の再現
開門 9:00頃
閉門 17:10頃
今回、見ることができなかったもの。
一日2度、かなり早い時間か遅い時間にしか行われないので、私が見るのはちょっと難しいかも。 -
朱雀門
平城宮の正門・朱雀門。その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まって歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。
朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいました。
定番の朱雀門写真を一枚だけ。 -
朱雀門
世界遺産 古都奈良の文化財 平城宮跡
私にとって定番のショット。だがここに来て石碑と一緒に記念写真を撮る人は少ないです。
前回はこの石碑の後ろに自転車が置いてあり、見栄えがよろしくないと書いておきましたが、私の声が届いたのか、改善されていました(*^_^*)
写真右手の木の近くに自転車置き場みたいなのができています。 -
二条大路
二条大路は、幅約35mで朱雀大路に次ぐ規模を持ち、平城宮南辺を東西に通る。
平城宮の正門の朱雀門、南面東門の壬生門、南面西門の若犬養門は、この大路に面して開いていた。 -
シルクロード博記念館(休館中)
もてなしボランティアセンター
いつもひっそりとしているシルクロード博記念館は、もてなしボランティアセンターとして一部利用されていました。 -
シルクロード博記念館(休館中)
昭和63年に開催された「ならシルクロード博」を記念して建てられました。
シルクロードと奈良の関りや文化の華を咲かせた「平城京」に焦点をあて、そこに生きた人々の暮らしを庶民層と貴族層に対比させた形で表現、展示しています(現在休館中)。 -
朱雀門
今回は門の正面を歩くのではなく、ずっと東側の道から遺構展示館方面を目指しています。
正面の道路に比べ、こちら側は圧倒的に人が少なく、静かに散歩できます。 -
平城宮跡
のどかな田園風景。
正確には写真の広場は平城宮跡ではないのかもしれません。 -
第一次大極殿
通常は正面から攻める第一次大極殿。
今回は南東方向から撮影してみました。 -
第二次大極殿
建物があったところは、高台のようになっており、ちょっと見晴らしが良いです。 -
第二次大極殿
基壇跡で記念撮影。
今日のお供はちびくま君です。 -
内裏跡
この辺りは天皇の住まいがあったところ。
都があった当時、建物の柱があった場所にはツゲの木が植えられており、円柱状に刈られています。 -
第一次大極殿
南東方向遠くから撮影。 -
特別史跡 平城宮跡 遺構展示館
Special Historic Site The Heijo Palace Site
Excavation Site Exhibition Hall
特別史跡平城宮跡 遺構展示館では、発掘調査によって見つかった役所の建物跡を、発見時の状態で保存・展示しています。
また、出土した井戸や木樋などの貴重な遺物や、調査研究によって復原した建物模型なども展示しています。
これらの展示を手掛かりに、発掘された遺構や遺物から、往時の平城宮の様子を想像していただければ幸いです。
文化庁 -
特別史跡 平城宮跡 遺構展示館
今回見ておきたかった展示館です。
入館料 無料
開館時間 9:00〜16:30(入館は16:00まで)
休館日 月曜 -
内裏正殿
Main Hall Imperial Domicile
内裏正殿は、大極殿や朝堂が瓦葺き礎石立ちの中国風の建物であったのに対して、檜皮葺きの掘立柱建物という日本古来の様式で建てられています。 -
内裏正殿
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奈良の一刀彫り
建築模型に置かれた人形は、奈良の伝統的な一刀彫りでつくったもの。
奈良の一刀彫りの歴史は、鎌倉時代までさかのぼり、春日若宮の祭礼(おんまつり)を彩る人形として発展してきた。
現在も伝統的な作風である「大まかな刀法」のもとでつくられている。
作者 神箸 勝(号 東林) -
築地回廊
Cloister with tamped earthen wall
築地回廊は、土を幾層にもつき固めた築地塀で中央を仕切り、両側を通路とした格式の高い回廊です。 -
築地回廊
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遺構変遷(いこうへんせん)
Changes in archaeological features
ここに露出展示しているのは、昭和39年(1964)に発掘調査された掘立柱の柱穴の跡です。
柱穴が重なりあっており、建物が何回も建て替えられたことが分かります。
柱穴の重なり方から、柱穴の掘られた順番が分かります。また、柱穴から出土した土器や瓦から建物の年代を推測することができます。
これらの成果を総合して役所建物の変遷を明らかにします。
730年(天平の初め)頃から770年(宝亀の初め)頃にかけて4〜5時期の変遷があることが分かります。 -
遺構変遷(いこうへんせん)
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遺構変遷(いこうへんせん)
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内裏の井戸
Imperial Domicile well
ここに展示されているのは、内裏の井戸の井戸枠で、直径1.7mの杉の巨木をくり抜いて作られています。
井戸があった場所には井戸跡の実物大遺構模型を展示しています。 -
平城宮第二次大極殿基壇の南北断面
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第二次大極殿 屋根の部分復原
Latter Imperial Audience Hall partial roof reconstruction
ここに展示されている屋根は、第二次大極殿の屋根の一部を復原したものです。
研究の一環として、出土した奈良時代の瓦を用いて実際の大きさで復原しました。 -
中庭
Courtyard
この中庭部分からは、奈良時代の掘立柱建物が重なり合った状態で発掘されています。
ここでは重なった建物跡の輪郭を盛土張芝で表示しています。 -
丸形の井戸
Round Well -
四角形の井戸
Square Well
発掘調査でセン積官衙(せんづみかんが)から出土した2つの井戸の井戸枠です。
円形と四角形という異なる形式の井戸枠が用いられてきました。
円形の井戸枠をもつ井戸では、井戸屋形の柱穴がはっきりと確認されました。 -
セン積基壇建物復原模型 1/10
Building on a Platform Faced with Bricks
センを積み上げた基壇や、センを敷いた歩道のある特異な遺構です。
北側の建物には正面に目隠しの塀も設けられています。 -
セン積基壇建物復原模型 1/10
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瓦・セン・土器などの展示
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鬼瓦
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礎石
Foundation stone
平城宮跡の北西部の佐紀池周辺に残されていた礎石を展示しています。
柱を立てる「柱座」を加工した礎石もあります。 -
遺構露出展示
発掘された遺構面を、覆屋の中でそのまま展示しています。 -
遺構露出展示
平城宮では、発掘調査で見つかった遺構を、様々な手法によって現地で分かりやすく展示しています。
尚、遺構を露出展示した以外の部分では、盛土によって地下遺構を保護しています。 -
特別史跡 平城宮跡 遺構展示館
屋外展示 -
宮内省の復原建物
内裏東側のこの一画で見つかった建物群は、天皇家のための仕事をする宮内省関係の役所とみられている。
築地塀で囲まれた東西約50m、南北約90mの区画の中には、瓦葺の正殿を中心に桧皮葺の脇殿や倉庫など6棟の建物があった。 -
宮内省の復原建物
ここでは、発掘調査の成果をもとに、現在残っている奈良時代の建物の姿かたちを参考に、門・築地塀・建物を復原している。
復原にあたっては、できるだけ当時の工法を用いた。 -
役所での仕事
内裏東方のこの一画で発掘された建物群は、天皇家の財政と生活を支える仕事を担当した宮内省の遺構と推定されています。
宮内省に限らず平城宮の役所では、土間に机と椅子を置いて仕事をしていたようです。
復原建物の中に置かれた机は、正倉院宝物の「多足几」を参考に製作しました。 -
役人の道具
紙が貴重であったために、奈良時代には日常の業務には木簡(文字を書く薄い板)を大量に使用しました。
木簡は表面を削り直せば何度でも使えます。
そこで木棺を削るための小刀が、筆とあわせて役人の必需品となりました。
このため役人には「刀筆の吏」とも呼ばれています。 -
宮内省の復原建物
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あおによしパレード
宮内省の復原建物を見た後、大極殿に向かっている時にちょうど「あおによしパレード」に出くわしました。
何時にやるのか、どこでやるのかをしっかりとチェックしていなかったので、まさに今から始まるという絶妙のタイミングで通りかかった奇跡に、我ながら驚きました。 -
あおによしパレード
異文化との交流、仏教の興隆、天平文化の華やかさなど、国のはじまりをイメージするパフォーマンスを演じながら、平城宮跡内をパレードします。
開催場所 平城宮内各所(交流広場・南門広場・第一次朝堂院周辺)
開催期間 2010年4月24日〜11月06日まで
開催時間 11:00〜 14:30〜(それぞれ30分程度)
※ 開催場所や開催時間は、特別行催事により変動します。 -
あおによしパレード
★ トップ写真 ★ -
あおによしパレード
実はこの時、新しいカメラの性能を試す絶好の機会だったので、夢中で撮影を続けました。
最高約8コマ/秒連射&AIサーボAF?
それに、今まであまり使ったことのなかったTBモード(1/1000〜1/1250)で撮影。 -
あおによしパレード
宝剣のようなものは、儀式のための重要なアイテムのようです。 -
あおによしパレード
壺?のようなアイテムも登場。 -
あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
僧侶のような人たちも -
あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
インドの王族とかでしょうか。
当時の人々にとって、世界とは3ヶ国しかありませんでした。
すなわち日本・唐土(中国)・天竺(インド)です。
”三国一の美女”は、世界一の美女と同じ意味で使われていました。 -
あおによしパレード
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あおによしパレード
なので、ここに登場する人物も、日本・中国・インドの人達がイメージされているのではないでしょうか。 -
あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
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あおによしパレード
何だかよく分からないですが、爆発しました(*^_^*) -
あおによしパレード
キャストの方は、カメラを向けるとポーズを取ってくれるなど、サービス満点。 -
あおによしパレード
秒8枚の高速連射で写真を撮りまくる。
AIサーボAF?も、抜群の性能を発揮してくれたようで、大量に写真を撮ったにもかかわらず、ボケたものはほんの少ししかありませんでした。 -
あおによしパレード
あとは今入院中の望遠レンズが帰ってくれば完璧だ。
関係ないけど、GW前に入院した望遠レンズが、いまだに退院する気配が無いので、販売店に連絡してみたのですが、メーカー側いわく「有償の見積書ができたので郵送したところ」なのだとか・・・。
えええっ?!・・・4週間もかかって、やっと見積書???⇒(これ、どう考えても修理忘れてたんだよね。)
もし、私のところにそんな返事が帰ってきたら、猛烈に抗議すところですが、そこは販売店のスタッフが気を使ってくれ「そちらのミスなんだから、大至急無償で直せ!」と、私の代わりに言ってくれました。
結局、退院は6月4日になるそうですが、有償になるはずだった2万円の修理費はタダになりました。 -
あおによしパレード
こちら南門広場でのパフォーマンスは、約10分で終了。
この後もパレードは続き、別の場所でパフォーマンスを行うのでしょう。
けっこう暑い中、お疲れ様です。 -
第一次大極殿
◎ 千人万華
第一次大極殿の完成披露を祝い、1000人のみなさまが心を込めて植え付けた祝祭の花壇です。
植物は、古代の色をイメージした色彩の花を使用しています。
前回の旅行記でトップ写真にしたアングル。
今回も同じ位置から撮影してみました。 -
第一次大極殿
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第一次大極殿
ちびくま君と記念撮影。 -
第一次大極殿
朱雀門の真北約800mに堂々とそびえる「大極殿」。天皇の即位式や外国使節との面会など、国のもっとも重要な儀式のために使われていました。
正面 約44m
側面 約20m
高さ 約27m
直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁(くに)宮に移築され、山城国の国分寺金堂になりました。
大極殿の写真は前回の旅行記にたくさん載っているので、今回は少しだけにしておきます。 -
第一次大極殿内部
前回は大極殿に入るのに15分ほど列に並ぶ時間が必要でしたが、今回は5分くらいとずっと短かったです。
大極殿内部も前回旅行記にたくさん載ってるので、今回は前回の旅行記に載っていないものだけを。 -
第一次大極殿内
高御座外観模型
高御座は、国家儀式の際に天皇が着座した玉座です。
奈良時代の高御座の構造や意匠に関する記録は無く、詳細は不明です。
ここに展示した高御座の模型は、大極殿の機能や広さを体感できるように、大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、各種文献資料を参照して製作した実物大のイメージ模型です。
細部の衣装や文様は、正倉院宝物などを参考に創作しました。
高御座の天辺に乗っていた鳳凰。 -
第一次大極殿内
大極殿内の壁には、十二支の他に各方位を守護する四神が描かれています。
◎ 四神 白虎
西を守護する聖獣で、白い虎の姿をしています。
江戸時代中期の図鑑『和漢三才図会』では虎が500才になると白虎になるといいます。
白は五行思想で西の他、土も表すため土の精であるという説もあります。
対応するのは、色では白、季節では秋、白秋、五行では金、方位では西、臓器では肺、食べ物では辛いもの、環境では大きな道。 -
第一次大極殿内
◎ 四神 玄武
北を守護する聖獣で、亀と蛇を合成したような姿をしていて、四霊獣の一つとされます。
五行思想で北は黒を表すため玄(黒)、甲羅を背負い防御に長けていることから武と呼ばれます。
古代の壺などではしばしば蛇を体に巻き付けた亀の姿で描かれます。
のちに真武玄天上帝という神になります。
対応するのは、色では黒、季節では冬、玄冬、五行では水、方位では北、臓器では腎臓、食べ物ではしょっぱいもの、環境では山や丘。 -
第一次大極殿内
◎ 四神 青龍
東を守護する聖獣で、姿は通常の龍と変わらなく、青い色をしています。
しかし、古代の壺などに描かれている場合は、頭だけは白や黄色のものもあります。
平安後期の説話集「古今物語集」には、夢殿にこもって聖徳太子の魂だけが青龍に乗って中国に渡り、仏教の経典を取って来たという話があります。
対応するのは、色では青、季節では春、青春、五行では木、方位では東、臓器では肝臓、食べ物では酸っぱいもの、環境では川。 -
第一次大極殿内
四神のうち、白虎・玄武・青龍は綺麗に撮影できたのですが、朱雀だけ失敗してしまったので、写真がありません。
このままだと中途半端なので、以下に朱雀のコメントものっけておきます(ちなみにこの写真は玉座です)。
◎ 四神 朱雀
南を守護する聖獣で、四霊獣の鳳凰のこと。
普通は5色の羽を持つ美しい鳥ですが、江戸時代中期の図鑑『和漢三才図会』では背丈が1m以上で、コウノトリ、ツバメ、ニワトリ、蛇、魚、オシドリ、龍などが混じり合った姿をしているとされています。
天下太平のときだけ出現し、鳥の王のような存在で、飛べば多くの鳥がその後に従って飛ぶといいます。
対応するのは、色では赤、季節では夏、朱夏、五行では火、方位では南、臓器では心臓、食べ物では苦いもの、環境では開けた土地。 -
第一次大極殿
東側より撮影。
この後は、先ほど整理券をもらった平城京歴史館/遣唐使船の方へ行ってみようと思います。 -
平城京歴史館/遣唐使船
中国大陸・朝鮮半島との交流と、そこから発展した日本の国づくり。
東アジアにおける国際交流の重要性を見つめ直す契機となるエリアです。
所要時間 約60分
開館時間 9:00〜16:00(春夏フェア期間及び4〜8月の土日祝は17:00まで)
料金 500円 -
遣唐使船復原展示
この遣唐使船を外から見るだけなら特に料金は必要ありません。
前回の旅行記では館内に入れなかったことから、外観だけはしっかり撮影しました。
今回は中に入ることができるのと、遣唐使船の甲板部分に行くことができます。 -
平城京歴史館/遣唐使船
歴史館の前には入館を待つ人の列ができていました。
ただ、この時間に入館する人数が、キッチリと決まっているので、これ以上混むこともなければ、外で長時間待たされることもありません。
私はこの列の最後尾に並んだので、約10分くらい待って入館しました。 -
平城京歴史館
歴史館内は写真撮影が禁止です。
主な展示物は以下の通り。
◎ 平城京VRシアター
外国使節団が見た平城京をコンセプトに、往時の壮麗・壮大な都の姿や華やかな文化を最先端のVR技術により再現。
◎ 遣唐使シアター
アニメーションなどを駆使して、遣唐使の歴史や渡航の様子をドラマチックに再現。
◎ テーマ展示
中国大陸、朝鮮半島をはじめ大陸との交流により発展した我が国の国づくりの歴史や往時の文化・暮らしに焦点を当てたテーマ展示。ストーリー仕立ての映像展示などで、わかりやすく解説します。 -
遣唐使船復元展示
遣唐使船の諸元
全長 30m
全幅 9.6m
排水量 300トン
積載荷重 150トン
◎ 賄い部屋
「吉備大臣入唐絵詞」などの遣唐使船の絵には、甲板の上に3つの屋形があります。
船尾の屋形は遣唐大使の部屋として、真ん中の少し小型の屋形は竃(かまど)を据えて火を扱っていたのではないかと想像しています。
遣唐使船では航海中に何を食べていたのか正確な記録はありませんが、1日あたり干飯1升と水1升を支給した記述がありますから、これが主食でそれに何かの干物などを食べていたと考えられます。
干飯に水をかけてもなかなか柔らかくならないことから、恐らくお湯を沸かして皆に配ったのでしょう。
航海中に火事を出した記録もあります。
夜に明かりを灯したのかもしれませんが、お湯くらいは沸かしたと思われます。 -
遣唐使船復元展示
◎ 遣唐使船の航海
初期の遣唐使船は朝鮮半島に沿って航海しましたが、奈良時代には九州から揚子江の北あたりに向けて直行しました。
磁石も海図も無い時代ですから、星や太陽を見て走り、陸地が見えるとどのあたりかを判断し、目的地に向かうような航海でした。
天気の予測も経験が頼りですから、途中で天候が急変して予想もしなかった所へ到着することもありますが、順調に走ればほぼ1週間で東シナ海を横断できました。
奈良時代に九州を出港した18隻のうち14隻は帰国しています。
帰り着かなかった船の乗員も一部は帰国していますから、当時の航海技術を考えると特に危険な航海であったとは言えないかもしれません。 -
遣唐使船復元展示
◎ 遣唐使船の積荷
日本からは唐の皇帝に献上する品として、水銀や水晶・真珠・瑪瑙(メノウ)などの宝石類、出火鉄(火打石で火を起こすためのもの)、椿油や漆といった日本各地から税として都に集まった貴重な品物が運ばれました。
持ち帰った品物としては、唐の皇帝から戴いた銅鏡や銀器・瑠璃(ガラス)杯や唐三彩・絹織物などの他に、留学生や留学僧の持ち帰る書物・仏像・経典、さらに使節などの人達、技術習得のために派遣された工人などが購入した品々があります。
そのうち幾つかは「正倉院宝物」として現在でも見ることができます。
こうした物だけではなく、唐からは僧侶や彫刻師などの技術者、遠くはペルシャの人も便乗して来日しました。 -
遣唐使船復元展示
◎ 雑居部屋
現代の船旅では個室に寝泊まりしていますが、18世紀ごろには個室を持っていたのは船長くらいで、それ以外はお客さんでも大部屋で雑居でした。今でもフェリーには料金の安い大部屋でゴロ寝の客室があります。
遣唐使船の時代には、もちろんほとんどの人は甲板の下の積荷の間などで寝ていたのでしょう。
甲板の下に棚を吊って寝るようにしていたかもしれません。
甲板の下は屋形の中に空けた穴からの光だけで薄暗かったでしょう。留学生や留学僧といった人達は航海中は何もすることがありません。昼間は屋形の床に空けた明かり取りの穴の周りに座り込み、木の実などをかじりながら議論していたのではないかと想像してしまいます。 -
遣唐使船復元展示
◎ 網代帆
「吉備大臣入唐絵詞」には帆が描かれていませんが、他の絵巻物では遣唐使船には網代帆を描いています。
網代帆は竹や葦を薄く削った物を平に編んで作った綱代を竹で縛ってつなぎ合せた帆です。
網代帆は堅い帆ですから意外に性能が良いのですが、風が網目から抜けるのと重いのが欠点です。中国では19世紀頃まで長い間使われ続けました。
布の帆は風を受けると袋のようになりますので、布製が普及しても中国では帆に竹を結びつけて帆が袋のようになるのを防いでいました。
日本では網代帆を使わず藁を編んだ筵をつなぎ合わせた帆を使いましたが、遣唐使船や江戸時代の朱印船などの絵画では網代帆で描かれています。 -
遣唐使船復元展示
◎ 主舵
船尾の中央には舵があります。甲板上の通行の邪魔になるので舵柄を取り外して置いてありますが、本来は舵柄を舵の頭に差し込んで数人がかりで舵を取りました。
この船では水面から下は造ってありませんが、舵は舵効きを良くするために船体よりも下に突き出ていますから、浅い所では舵が海底に当たらないように少し巻き上げる必要がありました。
風が強くなって船が傾くと、船尾が持ち上がって舵が浅くなって舵効きが悪くなりますから、両舷に小型の舵を取り付けて使うことがあります。
現在でも東南アジアの船などは両舷の舵だけを使っています。船尾の中央に舵を取り付けたのは中国の発明であるという説もあります。 -
遣唐使船復元展示
◎ 遣唐大使の部屋
帆船では船尾に近い所に位の高い人の部屋を設けていました。
この遣唐使船でも、3つある屋形の一番後ろの屋形が遣唐大使の居室だったのではないかと思います。
大使は高位の貴族であったため、大使だけは一人で一つの居室を使っていたでしょう。
ただし、3つの屋形とも甲板の下に空気や光を入れるため甲板を大きく切り抜いていたはずですから、少なくとも昼間は明り取りのために蓋を開けていたに違いありません。そう考えるとたいして広かったとは言えないかも知れません。
絵巻物ではこの上に太鼓を描いている絵があります。艪を漕ぐ時に太鼓を叩いて合図したのでしょう。頭の上で太鼓を叩かれてはと少々気の毒になります。 -
遣唐使船復元展示
◎ 遣唐使船の構造
奈良時代の日本国内で使用していたと考えられる、丸木船に板を継ぎ足した「準構造船」では、とても100人を超える人を乗せて東シナ海を横断する数十日の航海ができるような大型の船は造れなかったと思います。
また細長い丸木船では、大きな帆を上げて走ると転覆の危険があります。
遣唐使船は、恐らく厚い外板の内側に仕切り板のような補強材か、左右の外板をつなぐ梁を入れた「構造船」だったと考えています。
百済船を使用したような記録がありますから、遣唐使派遣のために百済船を建造したのでしょう。百済船はそのような「構造船」だったのではないかと思います。 -
遣唐使船復元展示
◎ 復元にあたって
遣唐使の資料は公式記録として残っていますが、その往復に使用した「船」に関してはほとんど資料がなく、どの位の大きさかを示す数字は残っていません。
大きさを推定する手掛かりとして、奈良時代の資料に約600人を4隻の船で派遣したとの記録があります。船の大きさが同じだったとすれば1隻あたり150人、航行中は何人かは起きているでしょうから、約100人が寝るために必要な面積を考えると、船の長さは25m〜30m、幅は長さの1/3〜1/4程度として7〜10mとなります。この大きさであれば、150人分の水と食料や荷物などを積むのに十分な容積でしょう。 -
遣唐使船復元展示
遣唐使船として教科書などに出ている絵は、大部分が「吉備大臣入唐絵詞」という絵巻物の絵ですが、この遣唐使船を描いた最も古い絵巻物は、最後の遣唐使派遣から400年程あとになって描かれた絵です。
その頃には宋の商人が博多に来ていましたから、宋の船を参考に描いた可能性があります。しかし、実際に唐に派遣されていた時代の船の資料はありませんから、確かな根拠もなしに見慣れた船と違う船を造るのは避けて、「吉備大臣入唐絵詞」と同じに見えるような船を造ってあります。 -
遣唐使船復元展示
2回の平城宮跡訪問で、こちらにある施設はほぼ全部回りきれました。
あと残っているのは、”衛士隊の再現”だけとなりました。
これは、以前は一日3回(9:00〜、13:00〜、16:10〜)だったのですが、2回(9:00〜、17:10〜)に変わってしまったみたいで、時間的にけっこう見るのが難しくなってしまいました。
これで最後なので、できれば完全コンプしたいところですが、開催期間中にもう一回これますかどうか。
◎ おしまい
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この旅行記へのコメント (6)
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- 潮来メジロさん 2010/07/09 12:10:10
- 遣唐使船・・・・。ヾ(^o^)
- みにくまさん、こんにちは! ヾ(^o^)
> 遣唐使船復元展示
> ◎ 遣唐使船の構造
>
> 奈良時代の日本国内で使用していたと考えられる、丸木船に板を継ぎ足し
> た「準構造船」では、とても100人を超える人を乗せて東シナ海を横断
> する数十日の航海ができるような大型の船は造れなかったと思います。
> また細長い丸木船では、大きな帆を上げて走ると転覆の危険があります。
>
> 遣唐使船は、恐らく厚い外板の内側に仕切り板のような補強材か、左右の
> 外板をつなぐ梁を入れた「構造船」だったと考えています。
>
> 百済船を使用したような記録がありますから、遣唐使派遣のために百済船
> を建造したのでしょう。百済船はそのような「構造船」だったのではない
> かと思います。
なるほど、遣唐使船は100人を超える人を乗せていたのですか・・・。
もっと少数の人かと思っていました。(^_^;
でも、遣唐使の前に聖徳太子の時代には、小野妹子など遣隋使を派遣していた訳ですよね。遣隋使船の頃は、もっと小さな船だったのでしょうかね。
百済船を使用したという事は、当時、百済から帰化した技術者などが日本にいて、国内で百済船を建造したという事なのでしょうか。
それとも、百済船を輸入・・・?
「遣唐使船再現プロジェクト」なんてのもありましたよね。
古代の歴史を紐解くのって、ロマンがあって楽しいですね。
ではまた・・・。(^o^)/~~~
(潮来メジロ)
- みにくまさん からの返信 2010/07/09 22:42:52
- RE: 遣唐使船・・・・。ヾ(^o^)
潮来メジロさん、こんばんは〜。
ここの会場には、遣唐使船の復元模型が飾られていたのですが、実際にこういう船が使節として使われていたのかは、よく分からない部分も多いみたいですね。
船に関する資料が非常に少なく、100人乗りという部分も、ほんのわずかな記述から推測したようです。
これよりもさらに時代を遡る遣隋使となると、資料はさらに少なくなりそうですねー。
いずれにしても、当時の使節は、命がけで海を渡ったことだけは間違いなさそうです。
当時の貿易は、物の他に技術・人などの交流も盛んに行われていたとのことなので、船を造る技術は日本にもあったかもしれませんね〜。
考え出すと、本当に謎だらけですねー。
古代人の生活に思いを馳せるのも、なかなか楽しいものですな〜。
では〜(^O^)/
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- coroさん 2010/06/01 10:25:05
- おじゃまします
- あおによしパレード、躍動感あふれる素晴らしい写真ですね。
みにくまさんは、何を撮っても素敵な表現が伝わってきますね。
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近いうちに奈良に出掛けようと考えています。古の都を感じに...
coro
- みにくまさん からの返信 2010/06/01 13:21:05
- RE: おじゃまします
coroさん、こんにちは〜。
あおによしパレードは、約10分間のパフォーマンスでしたが、なかなか貴重な時間になりました。
というのも最近買ったカメラのテストも兼ねていたんですよー。
8枚/秒の高速連射機能を使って、たくさん撮影した中から、綺麗に撮れていたものだけを選んで載せました。
パレードの華やかさと楽しさが少しでも伝わりましたでしょうか(*^_^*)
奈良の1300年祭は、まだしばらく続いていますので、是非楽しんで来てください。
では〜(^O^)/
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- 一歩人さん 2010/05/31 16:07:41
- ふ、ふ、簡潔かな
- みにくまさんへ
ふ、ふ、興味津々。
江戸東京博物館でも模型を見ました。
原寸大のう〜ん、屋根に飾る鯱?じゃなくて、
すみません、思い出せません。
黄金がまぶしくて、なんて。
行きたいなあ。
ありがとうございました。
失礼しま〜す。
- みにくまさん からの返信 2010/05/31 16:39:35
- RE: ふ、ふ、簡潔かな
一歩人さん、こんにちは〜。
ええっと〜・・・鴟尾(しび)のことですかね。
鴟尾(しび)
屋根の一番上(大棟)の両端につける鴟尾。
鴟尾は平城宮大極殿でも恭仁宮大極殿でも出土していませんが、当時、格の高い建物には通常、鴟尾をのせていたので、元々無かったとは考えにくく、金属製だったため、溶かされて再利用されたために残らなかったと考えられます。
高さは平安宮大極殿のために作ったと想定されている鴟尾を元に、約2メートルと考えました。
http://4travel.jp/traveler/minikuma/pict/18901288/
↑金ぴかの鯱の代わりです(^_^;)
東大寺大仏殿にも乗っていました。
ではでは〜(^O^)/
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