2000/10/05 - 2000/10/08
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MUSA Taizo 牟佐退蔵(PenName)さん
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「竹富島和やか祭見物記」
Tuiiya (牟佐 退蔵)
TV中継が夕闇の中に、首里城を映し出している。
沖縄サミットに参加した首脳たちが次々に夕食会へ乗り付けてきていた。内庭の一角に、白装束の男たちが待ち構えている。伝統の群舞「エイサー」を披露しようという踊り手たちだ。頭に結わえた紫布が肩に垂れ下がっている。晴れ舞台に備えて最後まで各々が踊り姿の確認をしている。左手に握った太鼓を打ち鳴らそうとして、撥を寸前で止めながら、隣同士でお互いの動きを整え合っていた。たとえ、稽古でも心を込めた精神性の高い所作に見えた。あれは青年たちだったろう。沖縄の若者が自分たちの一挙手一投足にまで繊細な神経を向けているな、と画面からさえうかがえた。
ディナースピーチに日本の首相が立ち上がった。グラスを差し上げ、世界の首脳に向かって「皆様方のお名前を刻んであります。今晩は沖縄特産の品々を用意いたしまして」と得意顔だった。が、総理大臣までが、観光土産物屋の店長よろしく懸命の売り込みでもあるまい、とぼくには感じられた。
そんな、モノじゃないのだ、沖縄を語るのは。沖縄の心は、もっと違う、もっと違うところにある――そう叫びたかった。
ぼくの出会った沖縄、もちろんほんの一端だけれど、受け止めたことどもを、いま書き残しておきたい。
■ 現代棟梁に誘われて
待望の旅に出た。行き先は、日本列島の南西、沖縄県八重山郡竹富町に属する竹富島である。
水先案内は大工の棟梁、田中文男さん。この島の民家保存に並々ならぬ関心を寄せ,村おこしにも協力してきている。
棟梁とはもう五、六年前から、世界の森と緑を守ろうと東京・代々木で続く社会人交流の学習会「森林塾」(小澤普照塾長)で知り合い、いつも啓発されてきた。一昨年夏、棟梁の仕事ぶりが、東京・京橋のINAXギャラリーで「現代棟梁 田中文男展」という展覧会にまとめられ、ますます惹かれていた。
何しろ、「大工というのはな、馬鹿で出来ず、利口で出来ず、中途半端じゃなお出来ず、ってんだ」などとその話はいつも痛快で明瞭、とても魅力がある。竹富島との交流について聞いてから「ぜひ、連れて行って欲しい」とお願いしてあった。やがて昨年八月、旅行日程の前触れがあった。
竹富島。
どこかで聞いたことはあるが、何も知らない。だれが住み、何をしているのか、どんな海なのか、どうやって行くのかさえわからない。それでも、行きたい。ともかく南へ、南の島へ。行けばわかるさ、何とかなるさ。わかるまでは、わからないのが当たり前だ。
しかし、「備えあれば、憂い無し」ともいうからなあ。
と、そこへやはり心配り豊かな棟梁から「島のビデオを見ておいた方がいいと思うンですよ」と生地の茨城訛りで電話があった。同行の方々も紹介しよう、という心遣いである。
九月末、新宿二丁目にある棟梁の会社「真木」へ出かけた。たまたま知人の告別式があったものだから、午後六時半の約束には、とても間に合わない。駆け込んだときには、もう八時前であった。
ところが、事務所には一人の婦人の背中が見えるだけ。立ち上がって振り向いた顔は、INAXギャラリーの入沢ユカさんであった。田中さんの仕事を展覧会にまとめる企画を実現した人で、会うのは二度目だ。「お待たせしました」と謝ると、「私もいま着いたばかり」という。さらに、島へ同行する社員の中村美和子さんは「社長もちょっと遅れていますので」とつけ加えた。もう一人の同行者、アラスカ大学顧問という糸永正之先生の姿もない。
あれれ、どうなってんだ。こんなことで、予習会ができるのかしら。
ボクの顔色を見て中村さんが申し訳なさそうに「ビデオを見ておいて、と社長が言っていましたから」とスイッチをいれた。こちらの用意は手際がよろしい。
ビデオは「民俗資料 日本の祭り 竹富島」というシリーズで「種取祭」を紹介するものだった。三人で一緒に見始めた。
島、空と海、民俗衣装、祈り・・・たちまちそれとわかる沖縄琉球メロディー。中村さんはすでに見たことがある様子で「この後、一同が祠に入るのですが、そこは撮影を許されていないのですよね」などと訳知りの説明をしてくれる。
独特の音楽が奏でられている。ああ、文字はまどろっこしい。音楽を伝えるには、五線譜が必要だ。アイウエオでは、音楽にならず、悔しいことだ。抑揚のある節回し、祝詞のように、どこからどこまでが音節かわからないような言葉の連続。わからないけれど、仕方がない。しばらくは、情緒に浸っていよう。
とこうするうちに田中さんが戻ってきて、俄然面白くなった。映像の説明がリアルなのだ。
「客のおひねりが気になるンだよな、小さな子は」
「あっ、これはおれの島の愛人だ」
「神司は神官と巫女の両方を兼ねたようなもの」。なるほど、なるほど。
どうやら、五穀豊穣と安寧を願う島を挙げての祝祭とわかってきた。そう、南の島には今なお純朴な気風が残り、厳格に伝統を守っているらしい。そいつをタイミングよく見られるというのだ。ああ、有り難や。
同行五人がやっとそろった。糸永先生が現れた。しかもお仲間二人を引き連れて登場した。フロアーは、たちまち狭くなってしまった。会議用の長机の周りに六人もすわり、それぞれに話し始めるものだから、もう狭いだけでなく、うるさくなってしまった。この雰囲気が棟梁を囲むユニークな人脈の特徴なのだろう。賑やかに、真面目に。
「まあ、一杯やりながら」と田中さん。中村さんと同僚のT君が缶ビールやおつまみを運んで来る。気分が良くなってきた。
ビデオ「種取祭」は終盤に近づく。祭りのハイライトは最後の七,八日目に続く芸能の奉納である。「この足のリズムは、やっぱり東南アジアのものですなあ」と糸永先生の観察は視点が高い。「こいつは、ブータンの公使格だから」と田中さん。糸永さんはヒマラヤ方面の専門家らしいとわかった。
予習は終了。いや、その前段が終り、後段が近くの飲み屋で続いた。入沢さんは「これは大変なメンバーになりましたね」と飲み、糸永さんも「ぼくはブータン語が出来ますので」と飲む。田中さんも「十四歳から酒も修業してンだ」と飲む。ぼくだって十九歳から飲み始めた。こいつァ、先行きが大変だァ。
手元に持たされた資料は、「技術の風土記 沖縄・竹富島の家造り」(普請研究第二十二号・1987年11月)、「竹富島に何が可能か」(東京ソルボンヌ塾・1996年10月)の二冊と中村さんがまとめた「竹富島・種取祭り視察」予定表。前二者は田中さんが長く主宰してきた勉強会の記録である。ボクはボクで要領よく東京・有楽町のふるさとセンターで、「竹富町の概要」(平成9年版)というパンフレットを手に入れ、これは入沢さんにも提供しておいた。
資料には、手に持ったとたん中身までわかったような気持ちにさせる魔力がある。出発までに読めばいいや、と思っていたが実際は積読状態。町の概要パンフを広げて、竹富島は石垣島と西表島の間にある小島、と認識できただけだ。これでは、死料、まったく役には立っていない。
■ 同行四人、いざ
十月四日朝。約束の午前十時二十五分に着いた羽田空港で、「糸永先生不参加」を伝えられた。何と九州のお母さんの具合が悪く、そちらに向かったらしい。いや、残念、あれこれブータン事情を聞こうと思っていたのだけれど。
同行四人。そろってリュック姿なのに、旅慣れを感じた。
午前10時55分羽田発JAL903便はほぼ満席の乗客を乗せ、定刻遅れで離陸した窓際に入沢さん、真中にぼく、通路側が田中さん。中村さんは離れてテレビスクリーンのまん前の席。「私はあっちで」としばらくでも一人でいた方が気休めになるのだろう。その辺りの社員の心理は棟梁もわかるから、「お前は、あっちかァ」とわざと淋しそうな口調で了解を与えていた。大人同士のかばい合いだな、などとうつらうつらしていたら・・・
沖縄だ。
もやっていた水平線が近づくにつれ、白波が岩礁に砕けて散るのがはっきりしてきた。
札幌に暮らしていたかれこれ十七、八年前に2年続きで、沖縄正月ゴルフツアーに参加して以来だ。島影に向かって、「お久しぶり」「よろしく」と口に出したくなる気持ちである。
着陸態勢に入ると、島の建物の白さが目につく。そしてなぜか突然、屋良朝苗さんの顔が思い出された。かつての知事には、日焼けした顔に信念の目があった。基地の島、沖縄返還、本土復帰などの言葉が浮かんできた。新聞やテレビで報道される、のぼりを掲げたデモや抗議集会のシーンがよみがえってきた。
昔も今も、沖縄は何かが違う特別の土地なのだ。同じ国の中にあっても、「内地」や「本土」などと違いが強調される。
那覇着午後一時二十五分。空も空港の建物も行き交う人の顔も、明るい。
那覇空港は大空港になっていた。海洋博の前後で姿は変わったのだろう、昔の面影はない。港の桟橋近く、白い小さな建物に入り、パイナップルを売りつけられたせせこましい印象は消えている。
棟梁は建築士だからすぐに「関空のマネだね」と診断した。
JAL機からアプローチを経て一度ロビーに出ると、目に入るものがとてもカラフルだ。土産物屋の明るさは、羽田とは違う。お菓子、酒、果物、アクセサリー・・・何をとっても赤、オレンジ、黄の暖色に包まれ、ブルーの包装紙も地中海ブルーのように黄味と緑とが混じっていて明るい。
ロビーをうろつく人の中にも半パンツやタンクトップがいて、“リゾッチャ”姿が目立つ。さて、到着の安心と開放感につられ、お決まり空腹感が出てきた。
棟梁は心得て「どこかで、食事にしましょう」と提案してくれる。入沢さんとレストランを求めてやみくもにエスカレーターで降ると、中村さんが追っかけてきて「社長が、上の方にいいところがあると言っています」と伝える。逆戻りして空港ロビーの最上階にいくと、今度は入沢さんの目の色が変わる。「食べ物は疎かにできません」と次々に店の構え、たたずまいを見比べるのだ。落ち着いたふだんの話し振りとは異なる意欲的な顔つきだ。
「ここに決めます」と沖縄そば屋に入るまでに、やれやれ二十分は過ぎた。中継時間は短いゾ。
そば屋「天龍」に入った。先客の一人の母親が「ソーキそばでいい?」と子どもに聞くと、その未就学児とおぼしきが「何が、あるン?」と生意気な口調で返事をしていた。着席しメニューを眺め、「ぼくは、これ」と「ソーキそば」を指差しておいて、「ちょっと失礼」と手洗いへ。手を清めて戻ってくると、「はい、どうぞ」ともう鉢が待っていた。
薄く茶色っぽいスープの中に、ベージュ色の麺がある。キシメンほどではないが、やや幅広で、長さは普通のラーメンと変わらない。刻んだネギがパラパラッと。肝心なのは麺の上に、でんと豚の骨付き角煮が乗っていることだ。
そのラフテーにしゃぶりつくと、とろけるようだ。分厚い肉と脂身、その下にコラーゲンのような透明質、さらに、コリコリの骨。おいしい!
最初、骨の塊を口から出して、鉢の隅に戻していたが、入沢さんが目ざとく「全部食べられますね」と教えてくれた。そうか。真似をすると、これが止められない口当たり。コリ、コリ、コリ・・・三切れとも、平らげた。骨付きラフテー入りを「ソーキそば」とよび、角煮だけがのっかかっているのを単に「沖縄そば」と区別するとか。
四人とも満足顔で店を出た。「おい、こっちだ」と田中さんは石垣島行きの搭乗口へ急ぐ。
■ 基地の島
棟梁は、那覇発石垣行き南西航空JTA615便の搭乗口に我々を導いた。
ところが、搭乗口では乗客が相当たむろしているのに、係員の姿はない。定刻は14:40となっているから、もう十五分前だというのに。ま。これが南国ムードか。
で、手持ち無沙汰の棟梁は、すぐわきの売店を指差しながら中村さんに「何か、飲むもの」と目配せしている。彼女も気が利くから「アイスクリームもありますよ」と早返事している。ボクはただ、怪しい乗客はいないかと観察し、空港の内外に目を配っていたが、すぐにアイスクリームに熱中した。
だらだらとした搭乗が続き、午後三時過ぎ機体は遅れて動き出した。しかし、すぐにストップ。機内に「滑走路手前で、許可を待っています」のアナウンス。窓からのぞくと、我々が向かう滑走路に自衛隊戦闘機が三機現れて、逆V字に並び、エンジンをふかして一斉に飛び立っていった。それを待って「皆さん、ただいま離陸します」とまさにうんざりした声が響いて、搭乗機は滑走路に入った。戦闘機の離陸から一定の間隔でも置くのだろうか、定刻からとっくに四十分も過ぎていた。
沖縄の軍事優先の一端に出くわした。
だが、少し先を急ごう。
沖縄本島那覇空港から石垣島石垣空港まで、機上約一時間。曇り空からJTA機が降下すると、民家が目に入ってくる。ほとんどが二階建てで、内地の建物より総じてひと回り大きい。石垣市の人口は知らないが、空港周辺の人家は離れ離れに建っていて、空間が広い。しかし、まとまった緑はなく、大木は見つからない。ゴルフ練習場があった。着陸。空港ロビーは狭く、迎えの人たちは半そで白シャツ姿が多い。
表に出てタクシーに乗り、波止場へ急ぐ。「急ぐ」という言葉を頻繁に繰り返しているような気がするが、それは、棟梁が几帳面な性格からか先を急ぐからだ。「職人は時間を大切に」という教えなのだろう。
低いヤシやソテツの木が道路沿いに整然と並んでいる。赤かわらの民家の寿命を聞くと、「百年はもつな」と、棟梁が短く答えた。庭先の樹木は、八重山イヌマキ。棟梁は博学だ。
離島行きのフェリー波止場に着いた。出港までの待ち時間、ここでは缶ビールを飲みながら過ごした。波止場の木のベンチに腰掛けていると、ほっとする。ビールの泡立ちさえ、愛おしくなってきた。
もう少しで、目的地だ。
竹富島行きの客船「第十八あんえい丸」に乗り込む。岸壁から船に渡した踏み板を乗客は一列で進む。入沢さんは足が不自由で、杖をついている。少し不安だったが、後ろから見ていると巧みにバランスをとって甲板に降りた。
それにしても、先を争うこともない乗船で、ここらものんびりムードをかもし出す要因だろう。都会の行列は、すぐに団子状態になり易く、時に殺気立つ。
曇り空は気のせいか、少し暗くなってきた。船は岸壁から離れ、舳先を転じた。港内の海面は静かだったが、突堤の灯台を過ぎて外海へ出ると、風が強まり,波頭が船体に当たるのが感じられる。
船室へ入り操舵室をのぞくと、船長は左手に舵をとり、右手はポケットで操縦をしていた。波と風を計算できているのだろう。
十月四日、午後四時五十分、ついに竹富島に上陸した。東桟橋だという。「ヤッホー、着いたぞ」。内心、わくわくしてくる。
コンクリートの桟橋にはこれまたコンクリートでできた柱と屋根だけの四角い待合所が三棟立っている。屋根の上にはシーサー。
桟橋にはボックス型の車が数台待ち受けていた。船から降り立った乗客を次々にピックアップして去って行く。棟梁はあちこち見渡していたけれど、なかなかお目当ての車は来ないらしい。はて。
やがて顔見知りを見つけたらしい。「あっ、俺の女がいた」と叫んで、車の運転席に走り寄って何やら話し込んでいる。見えない顔に「後から、宿へ」という棟梁の声が聞こえる。えっ、まさか。どうなっているのだろう。
一台の小さな車が走ってきた。運転手は若い娘で、顔は真っ黒だ。歯だけが白く、メガネをかけていて、車から外に出てきたのを見ると、マラソン選手のように、しまった足をしている。棟梁との話が通じて車に乗り込む。前列に棟梁とボク、後ろに入沢さんと中村さん。窮屈な車だ。
走り出したのだけど、行き先をいわない。ぼくは不安になった。旅先というものは、つまらぬことが気にかかる。第一、自ら名乗らないのだから、躾の悪い娘だ。こんなのばかりかなあ、竹富島の娘は。
それに、波止場からの道は立派なアスファルト道路で、周囲こそ南方系の草や木立だけれど、結構車が行き交う。“エキゾチック”には、少々程遠い。いいのかなあ、こんなところへ来たけれど・・・
アスファルト道路が切れた辺りから道は狭まり、両側は石垣、路面は砂地の道になってきた。ブーゲンビリヤの赤い花が顔をのぞかせて、ヤシの高い枝も見え始めた。「やっぱり南国だァ」と感じ入っていると車は最初の曲がり角で左にハンドルを切り、無愛想娘が「着きました」と車を止めた。
なあんだ、もう着いたのか。降り立ったのは「民宿大浜荘」の前であった。石垣の切れ目から屋敷内に入る。どうやら家のつくり、建物の配置には、島独特の共通スタイルがあるらしい。ま、後から見物してみるか。
「いらっしゃいませ」と耳に心地よい挨拶があったような気がする。食堂で女将らしき人物が部屋割りを指示してくれた。ボクは棟梁と、奥の二階家の一階小部屋へ通された。中村、入沢両人は別棟の二階へ。「じゃあ荷物を置いたら、ちょっと島見物へ出ましょう」と棟梁がいう。
民宿「大浜荘」の風呂場やトイレの配置もつかめないが、ともかく外回りから見て回るらしい。「はあい」と返事をして、間もなく全員が玄関前に集まった。
■ 竹富島だア!
時に一九九九年一〇月四日、記念すべき竹富島探訪が始まった。
棟梁が「俺の女だ」と称する女性が、観光ガイドとして案内に立ってくれるのだ。「宿へ来い」は、この意味だった。
乗りこんだ観光ハイヤーの運転席に名札があった。與那国光子さんという。お年はまあ、「お若い」。RV車の客席は三列で、九人は乗せられそうだ。車体の前面に「竹富観光バス」と赤字で大書してある。
さて光子さんはといえば、随分エネルギッシュな女性だ。まず、話し振りが威勢がいい。
「さ、出発しましょう」と大浜荘前から大きな声で走り出すと、道中会話が途切れない。地理,風土、気候、歴史、島の生活をよどみなく説明して聞かせる。まことにもって客を飽きさせない。ぼくはメモをとるのに精一杯だ。
次に動きがはやい。皆治海岸やコンドイ浜でも、車を停めると、四人が表に出揃う前に、運転席から外に出て案内の位置に立っている。身をこごめて車から降りた客に、直ちに説明を始める。
「島には農協も銀行もありません。郵便局だけです」
「国から町並み保存の指定を受け、赤かわらの平屋に統一されています」
「小中学校の給食室です、児童二十九人と教職員十八人のまかないをしています」と話が続いた。
棟梁はといえば、我々の満足顔に自分も満足して、まるで“旦那”の態度でそばに立っている。
何やら賑やかの鳴り物が聞こえてくる。我が貸し切り観光バスは「ビジターセンター」と看板のある建物の前で停まった。広場で二十人ほどの若者が紅白の紐を持ち、足踏みしながら踊っている。大樹の葉陰に立ってみている。
「種取祭」のリハーサルだった。案内の光子さんとあいさつを交わしたリーダーが「さあ、もう一回」と仲間を励ましている。熱心なものだ。若者たちは「ヨォッ」、「ヨォッ」の掛け声を繰り返しながらケンケンのような動作で前後に動き、時にぐるりと体を回す。あっ、そうか、馬の踊りだ。手にしている紐は、手綱なのだ。勇ましく、両足をそろえてはねるのは、疾走する乗馬の姿であった。ふーん、ということは、昔沖縄には馬がいたのかな。
踊り手たちを動かしているのは、沖縄蛇皮線(三線)のメロディー。建物の前に三人の演奏者が立ち、自在に弾く。ストップがかかって、また途中から始めるのに、三人がそろってジャジャ、ジャジャ、ジャジャン、とぴたりそろう。それにつれて踊り手の先頭に並ぶ三人が小太鼓を抱えているのだけれど、三線の響きに巧みにリズムを合わせる。
「オオッ」と棟梁が声をかけたところに、作務衣を着て日焼けした顔の男が立っていた。島の中央部だったろう。車を降りると、「紹介します、こちらが、ヨシノリ、ウエセドヨシノリ、島の若大将」という。ぼくはただ「よろしく」というしかなかった。入沢さんは「初めまして。お噂はよく聞かされていました」といい、中村さんは「お世話になります」と、女性たちは丁寧な挨拶をした。ビジネスマンのように名刺を交換するわけでなく、「ジョン」とか「イワン」と親しく知り合うまるで欧米式の出会いである。それでも、どんな字を書く「ウエセド」やら「ヨシノリ」やら、わからないから少々面食らった。仕方なく、しばらくはお客様を装うしかなかった。
「展望台に、どうぞ」とヨシノリさんが指差す方向に直径十五?、高さ十?くらいのマウンドがあり、その上に高さ三,四?の展望台が立っている。「あそこから島が一望できます」といわれて、登った。幅四十?ほどの鉄はしごを恐る恐る登ると、タタミ半畳ほどの展望台になっている。中村さんと二人で立つだけで、狭い。なるほど四方が見渡せるが、周囲の木立で、海は目に入らない。最高点は標高二〇・五?地点である。
低いけれど、島のてっぺんにいるだけで、青い空が近づいた気になった。
観光バスで島巡りが続く。島の最高地点、ンプフル丘から、すぐ脇の木立の中に家の前でバスは徐行した。「あたしの家」と光子さんが言った。ガジュマロの陰にやはり赤かわらの住家があったが、石垣塀が無く、玄関の出入り扉が開け放ったままになっていた。物騒だとも思ったが、開けっぴろげで「いい島なのだなあ」とも感じた。
光子さんは「私は今年、神司に選ばれたから」とさりげなく話した。
もう辺りが暗くなってきたのだが、バスは典型的な屋敷の前まで来て停まった。降りて、棟梁を先頭に隣の二階建ての建物に入っていくと、先回りしたヨシノリさんがいた。名刺を出されてわかった。
上勢頭芳徳。ルビもふってある名刺の名前の下には「竹富島喜宝院蒐集館」と「集落景観保存事務局」と書いてある。棟梁が道中で「キホウイン」を繰り返していたのは、ここのことだったと、わかった。
芳徳さんは島の風土と伝統を伝える博物館の館長であり、町並み保存の推進役であったのだ。どうもぼくはすぐにモノを聞くのが下手だなあ。
これで安心だ。以後、ぼくは親しみをこめて「よしのりさん」と呼ぶことにした。所狭し、と置かれた展示品の説明が、また面白いのである。
「竹富島喜宝院蒐集館」はお寺と倉庫が一緒になったような郷土博物館である。
その通りだった。もらったパンフレットによれば、喜宝院は一九四九年に故上勢頭亨氏が開設した日本最南端のお寺、ということである。蒐集館は一九六〇年に同氏が創立した民俗資料館で、島で使用された道具や生活用具約四千点の資料が展示されている。人頭税関係、染織、儀礼に関する用具なども網羅されている。
「ワラサン」が目を引いた。藁算は結縄とも称されるらしい。長さ五,六十?の一本の藁縄を想像してもらいたい。太さは、ま、親指かそれよりやや太い。編んだ縄の棒の途中から何本もの縄の枝が伸びている。その長さは十?前後で、太さは藁一本のもあれば、四,五本をまとめたのもある。壁に展示された格好は、大きな縄製のムカデみたいだ。
説明には「文字の無い庶民の生活から生まれた百姓の智恵」とある。芯の硬さ、長さ、高さを組み合わせて数字を表し、昭和十年ごろまで用いたという。
薄暗い展示室で、芳徳さんの説明は熱を帯び、入沢さんやぼくの視線の先を追って説明は終わらないのである。
竹富島の初日から、疲れた。次から次へ興味深く、話が面白いのだ。あれもこれも聞きたいのだ。
そして、酒だ。大浜荘の夕食は、特産ニガウリなどの野菜の混ぜ炒め(チャンプル)とカツレツのご馳走。さっそく棟梁が「センセイ、頼みましょう、酒を」といって民宿女将に「はい、泡盛一本」と注文する。酒盛りでは、だれもがセンセイになってしまうらしい。
四人で飲みながら、一日の活動報告会のようになった。といっても驚いているのはボクと中村さんの二人の駆け出しレポーターで、入沢さんは評論家、棟梁は解説者といった役まわりである。
拾い集めた話題は、こんな風だった――竹富島には、竹が無く、石垣島から取り寄せる▼島の飲料水は海底の送水管で石垣島からまかなわれる。犬が見つけた井戸もあるが、島全体には不十分▼島には交番はなく、警察官もいない。町役場は石垣市に置かれている▼県の花はデイゴ▼屋根瓦は建て替えをしても、必ず再利用する▼墓は共同の土地に、共同で亀甲墓(かめこうはか)をつくる▼パパイヤの実はメスからで、オスは花のみ、実なし▼ハイビスカスは赤花、ゴショバナ、仏花などと呼ばれ、お祝いの花束贈呈には使わない・・・・
一つ一つの話題が泡盛のお陰でふくらみ、酒盛りは終わらない。件の民宿娘が、迷惑顔をするほどだ。
■ 祭り気分に酔いながら
目覚めると、棟梁はもうごそごそやっている。前夜はなんだか、よく飲んだなあと思い返すが、最後はどうなってお開きになったのやら、てんで覚えていない。それにしても、頭は全然痛くない。あの酒量にしては考えられない。気分は良好。有難きは、泡盛効果。
「さあ、起きるぞ」。今日こそは訪問のメーンエベント、お祭りの日だ。
朝食をすませて、三々五々繰り出した。「お宮の前で、落ち合いましょう」と約したからだ。小さな島で、迷うこともあるまい。祭りの賑わいは、すぐに聞こえてくるだろう。
あても無く大浜荘を出た。曇り空だが、空気は暖かい。石垣にそって足の向くまま、気の向くまま・・・ハッピー、ハッピー。東京ではこんな気分は味わえない。
どの家でも、人の出入りがさかんだ。のぞくともなしに目を向けると、座敷で三、四人の婦人が白い麻の衣装に着替えている、中には履いているモンペを脱ごうとしている女性もいる。ウヘヘ。目に悩ましいが、この人たちは芸能に出演するのだなとわかった。なるほど、顔にはすでにおしろいを塗りたくっている。口紅も濃い。
その家をやりすごして、次の角を曲がると、お社のたたずまいがうかがえた。すると、あの家は楽屋代わりだったのか。興奮してきた。
旅には危険がつきものだ。地震、雷、火事、親父。すり、強盗、かっぱらい、置き引き。けが、病気、中毒・・・数え上げればきりが無い。
だが、何が恐ろしいといって、知ったかぶりほど危険この上なく、やがて気まずく恥ずかしいものは無い。
手にしたパンフレットの受け売りや、他人の一言を鵜呑みにし、訳知り顔でしゃべったりするのはやめにしたい。
ボクは年の功でそう考えているので、種子取祭のレポートも自分の体験と感懐の報告に限る。理論や背景説明は専門書に委ねたい。
話はそれたが、そう思うには理由がある。竹富島の数日間は、定年間近のわが身を自由のままに振舞いたいのである。自然と土地の人の中に身を任せ、気持ちをサラにして、その色と音に染まりたいのである。出かける前に望んだことだし、実際に南の島の空気に包まれていると、身も心も「ナチュラル」になってくるように感じる。
五年前、生まれて初めてモンゴルを訪ね、ウランバートル近くの平原に立ったとき、ぼくは「ああ、ここは前にも来たことがある。ああ、ここで死んでもいい」と感じたものだ。人と自然の親しみのある雰囲気がそう思わせた。
今、沖縄では違う。島の空気に包まれて、思う。「こんな空気のところは、初めてだ。ここで生きて行きたい」と。
この違いは、いつか解き明かせるのだろうか。モンゴルでは景色が大きすぎて、人間がその空に吸い込まれてしまったのか。一方、同じ大きな空の下の沖縄とはいえ、小さな島では、足が確実に地についているってことだろうか。
お祭りの場所はもう人で賑わっていた。石の大鳥居、参道と広場、石段が目に入った。さらに小鳥居があってその先に、石のほこらへ通じる道。その道をつぶして大きな舞台がしつらえてある。前面だけでなく、客席は三方から舞台を囲む形になっている。客席といっても頭上にテントこそ張ってあるが、ござが敷いてあるだけで、早くも荷物を広げ陣取っているグループもある。
この祠に、ご祭神が祀られている。島の守り神が置かれた神聖な場所の一つで「世持御獄」と書いて、ヨモチオタケ、と読む。これは後から資料でわかったのだが、初めのうち棟梁や光子さんらはただ「オン」としかいわなかったので、何のことやらわからなかった。
祭りはご祭神に芸能を奉納して、秋の収穫を祈るという組み立てで「種子取祭」と称する。豊穣を期待する儀礼だけれど、芸能では種を蒔く作業と物語が展開される。種子取り祭、種取祭、種子取祭とさまざまなポスターに出くわしたが、島人の発音はタントゥイとか、タナドゥイと聞こえた。
落ち合った棟梁の動きが活発だ。観客席の周りをひと回りしながら、見知った顔に挨拶したり、化粧をした出演者を冷やかしたり、中村さんに「飲み物はあるか」と聞いたりしている。そのうち、祠の外に置かれた長机の「受付」に向かって、用意した紙包みを差し出している。そうか、ご祝儀だ。
ボクは、どうしたらいいのだろう。中村さんが何か教えてくれるだろう。「世持」が「世慣れた」と同義に聞こえてくる。
鳥居にいたる参道のある広場を「庭」と称して、昼過ぎから祭りが動き出した。プログラムの一つ一つを、実はメモしたのだけれど、余り意味は無い。手元に何も資料がなく、タイトルも意味合いもわかってはいない。
あっ、昨日練習していた馬踊りの若者たちがやってきた。ドーランを塗って、眉墨濃く、顔がきりっとして見える。「馬乗り」の列を支配して動かしたカネ叩きの少年は赤い衣装、赤い鉢巻で現れたが、終わると仲間のところへ走ってきて、これまた化粧を整えた三人娘に誉められていた。
見よ、大浜荘の女将が登場した、そろいの芭蕉布の着物にクワをかついで踊る。前へ、後ろへ、力強いはだしの足が庭に躍る。ターバンのような白い被り物が愛嬌だ。婦人たちはおしなべて小柄だ。同じ婦人たちの格闘技バージョン、「腕棒」や青年たちの棒術踊りも勇ましかった。前者は演技か、実際かわからないが、肩で息をしながら腕をからめて戦う老婦人の姿に、観衆から大きな拍手が寄せられた。
庭の演芸が続く。ぼくは石垣に腰をおろして、写真を写したり、メモをしたりで楽しんでいた。何か次第に、「一緒に楽しみましょうよ」といった雰囲気になっている。
あれぇ、あの無愛想な民宿娘も来ているゾ。同じ年頃の都会風の娘さんと親しそうに話をしている。近づいてきたので「面白いねえ」と話し掛けると「とっても楽しいです、ホント」と眼鏡越しの目がうれしそうだ。聞いてみると、実は大浜荘で長期アルバイトをしていて、そばの娘さんは東京からやって来た女子大の同級生フレンドだという。そうか、そうか。ぼくの考え違いだった。ぶっきら棒でも、口数が少ないのでもなく、無駄口は叩かず懸命に仕事をやっていたのだな、この娘は。偉い。働きながら、見知らぬ土地の人を知ろう、文化に触れようとするのは、まったく立派なものだ、いま時の娘としては。あっぱれ!
■ 整え、整う雰囲気
演目が進むうち、太鼓囃しが赤鉢巻の少年に音頭をゆだねて登場したとき、何故か涙が湧いてきた。手元のメモには「サッサッサササ」の文字が残っているのだけれど、確かなリズムは思い出せない。「六十歳の来し方を」ともメモしてある。
何か心中、昔のことを呼び覚ます音色があったのだろうか。三十数年も会社員生活を続け、間もなく迎える定年退職の時が、頭を離れなかったようだ。
この場の空気を支配するのは、何なのだろう。
次々と繰り広げられるプログラムを見ながら考えていた。やっと、思い至ったのが「整」という漢字だった。そう、場が整っているのである。
婦人たちの「マミドゥマ」は、クワをふるい、種をまく仕草に色気があった。「整色」という言葉はあるかしら。
青年らが右肩脱いだ鉢巻、菅笠姿の「ジッチュ」は「整若」を感じた。抑制された若さに、規律があった。素足の婦人たちが、「ヨーハイナー」の掛け声をそろえる「マサカイ」には、そろって美しい老いを見た。「整老」と呼びたい気高さが感じられた。
六十四人が踊る「祝種子取」では終始、ハァーヨイヨイの拍子が乱れず、「整拍」というべきか。歩様、振り上げる腕やそろって一方を向く顔、腰を回す時の力の入れ具合、掛け声、そして、ヒューヒューと吐く息づかいさえも、見事に整っているのである。
演技者の心情が、取り囲む観客に広がる。やがて庭には、和やかな空気が整ってくるのであった。
庭から舞台に場所を移して「奉納芸能」が続いた。舞台と観客席はテントに覆われている。舞台は十?四方で、観客席はゴザが敷かれ、奥へスロープになり、かれこれ五百人ぐらいが舞台を囲んでいる。
公民館長が主催責任者として挨拶に立った。「アメリカハラ、イタリアハラ、ドイツハラ・・・通訳が必要だけな」と笑いを誘った。この祭りにあちこちから見物客が来ている。
「皆さん」という呼びかけだろう。前日発表された政務次官人事で、地元出身で与党の一角を占める公明党代議士が「沖縄開発庁次官」に任命されたことが披露され、祝意が述べられた。後から聞いたが、島に創価学会信者はいるかいないかわからないほど少ないそうだ。党派よりも地域代表の意味が強調されているのだ。
進行役が来賓を紹介した。舞台かぶりつきの最前列に陣取る来賓のほとんどは男性たちで、婦人は一人だけだった。続く説明は「お客さんのリボンに赤と黄色がありますが、これによってご接待の質と量が違います」とやって場内大笑い。棟梁のご祝儀で我々は黄色リボン。ただし、このリボン、安全ピンで留めるだけの簡易なもので、薄いTシャツに挿すと針がいつ心臓を刺すかわからない物騒な代物。「笑いすぎるな」の注意書きみたいだ。
いよいよ舞台での芸能奉納が始まった。
舞台のそでに演目を大書しためくりがあり、観客に親切だった。「長者」「弥勒」と儀式のような踊りが始まりで、三つ目は「鍛冶工」。島に鉄が伝わり、農耕が始まった歩みを回顧する芸能である。トッテンカン、の鍛冶工が火傷の指を耳たぶで冷まそうとして、仕草に客席から笑いが起こった。
ボクの左後ろのおばさんが中村さんに解説をしている。役柄には「家筋があるの」、「あれは、学校の先生がやっとるのよ」とか、「ほら、あれは蚕をつむいでいるところ。ここから、種まきで、その後は収穫」と。周りの人たちが顔を向けて聞くと、ますます解説に熱が入る。知らぬことなし、のはずだ。幕間に自己紹介をして、島出身だけれど、今は石垣島に住み、「子どものころは、出ていたもの」という。鑑賞には頼りの助っ人が見つかってよかった。
目の前に座る茶髪の娘さんに聞くと「もう六回目です」と胸を張り、佐賀から来たという。「へぇー」とぼくは感心する。その隣の奈良から来たという婦人は、ひざに厚い本を開き、舞台の進行を見守っている。熱心だなあ、とのぞき込めば「どうぞ」と見せて下さった。
沖縄県竹富島の種子取祭台本集「芸能の原風景」(全国竹富島文化協会編、瑞木書房)であった。隣の入沢さんがすぐに「買いましょう」と提案し、中村さんが広場の売店に走っていった。ぼくは入沢さんの本を半日占有して間に合わせたが、やっぱり帰り際に買い求めた。
開幕の三題が終わると、公民館長による祭り貢献者の表彰があった。最初は九十二歳嫗(おうな)で、客席の解説おばさんによると「昭和五十二年だっか、重文に指定されたのよ」。名うての踊りの名人だったそうな。舞台に上がった足の運びにぎこちなさが無い、小柄だけれど腰も曲がっていないおばあさんだった。表彰されるのは男女半々だったが、総じて顔つきと足取りは女性パワーが優勢だった。ああ、ボクはこの先どんな風に老いていくのだろう。
テントの下にいたので気づかなかった。急に雨音がして、庭のほうが暗くなっている。テントを雨が強く打つ。時に、午前十一時五十五分。
みるみるテントから雨水が落ちてくる。客席全体を山型に大きなテントが覆ってあるのだけれど、隅の方はテント布が反り返っているから雨水がたまる。支えきれずに、ザッーとまとめて落ち、端のほうにいる客が「ヒャー」と騒ぐ。
するとどこからか竹棒もった青年が現れ、整然とテントの下から突き上げてたまった雨水を落とす。それでハプニングの場内は少し落ち着いたが、無情の雨はますます強くなってきたみたいだ。
表彰式が終わって進行役がアナウンスした。「カメラの紛失の届けがありました。竹富島ではいまだ失せモノはありませんので、総務の方までよろしく」
雨は強弱を繰り返して続いた。舞台の「赤馬節」はちょっと踊り手に不安があった。だから、その後の「早口説」は出色だった。紫と黒の衣装で母娘の交情を描いて、胸打つ響きが伝わった。「しきた盆」は七十代の婦人が踊ったが、脱帽。
降り始めて三十分。午後零時二十三分、陽光が差してきた。通り雨だったのだ。客席に缶ビールが振舞われた。ボクも遠慮せずにキリンビールを受け取り、口を切った。気温は二十度を超えている。「乾杯」と入沢さんと中村さんに声をかけて飲む。棟梁はどこへ行ったのだろう、さっきから姿が見えない。
舞台に紹介を受けた東京郷友会会長という人物が立った。紋付袴に白装束の若い会長がマイクを握った。「ホーヘェー」とわけのわからない第一声のあと「標準語で挨拶すっからな」と断りを入れ、続けた。東京には三百四十世帯の竹富出身者がいる、一月には新年会、六月ニャアと訛って、定期総会、九月には敬老会を開いたという。このあたり島言葉で喋っていたのが「種取には約百人以上来ているヨ」と語尾の発音でまた笑いを呼んだ。
四十三歳の会長は、異郷の島出身者が二世時代に入ったことを示す。東京、沖縄本島、石垣に「郷友会」があり、それぞれ千人の規模だという。
■ 泡盛も出てきた!
初日舞台の芸能奉納は、なんと三十一点。
いつ、終わるのやら、と気にかかるけれど、飽きはしない。
記録の意味もあるから、題目だけ全部羅列しておこう。
「まんのーま節」。「安里屋節」は聞き覚えのあるメロディー。「与那羅王」はこの日最初の一人踊り。「世持」は四人でせりふの受け答えがある。「種子取節」も四人で、カスタネットが響く。「赤またー節」は腰に紫帯を巻いた踊り手が強い太鼓を響かせた。
後ろで「あれは電器屋さんよ」と例のおばさんが説明している、とすると舞台のわきから写真をとっているのが亭主だ。あれっ、また雨だ。天気が変わりやすい。客の不安を紛らわすかのように、弁当が配られ始めた。
「上原ぬ島節」は退屈に見えたが、足首、ひざ、腰、首と関節の大切さがわかる曲だ。「世曳き」は収穫の喜びを示し、客席と「アイヤ、サッサ」と拍手で結ばれた。幼子におひねりも飛んだ。そこへ棟梁が戻ってきたが、手に泡盛のビン、いやもう少々きこしめしてきた顔色だ。で、「あの、おひねりに子どもが気になってしょうがないンだよな」と現実的な解説をしてくれた。なるほど、子どもが下がるとき、振り向いて未練気な目をしていた。予習の時聞いたような着眼だ。
泡盛をちびりちびりやりながら、ボクはいい気持ち。
雨は降り止まない。テントの下で奉納芸能は続く。客席は、飲んだり食ったりしながら、時に手拍子を打ちながら演目を楽しんでいる。
「仲良田節」「美童」「三人天川」。「伏山敵討」は客がうろうろするのを憚るほどの熱演だった。敵討ちの場面では、刀が曲がり、敵味方ともに体がふらふらになってしまった。
「真栄節」、あごの線の美しい踊り手。「大浦越路節」。「ゆばなうれ」では思わず涙をこらえきれなかった。お囃子、太鼓の音頭にボクの胸は打たれた。
一転、「がいじんな」は喜劇で、学校の先生が欲深い男を熱演した。誤ってごみ箱に捨てられた札束をめぐって、いやまあ、底抜けにおかしいドタバタの村芝居である。そこらのさんまや伸助の場当たりな軽底の笑いとは違う。
「古見ぬ浦節」はささらを用いた歌だが、テキストと歌詞が違った。「鳩間節」も女踊り。そう、何故か男踊りは、ここまで無かった。「かりゆし」「護身の舞」。「ペーク漫遊記」はバカ殿が村娘に横恋慕し、娘の許婚とその両親まで島流しにしたものの、最後は大殿様に罰せられる泣き笑い狂言。
「組長刀」の後、最後の演目は「曽我の夜討」。
すべてが終わったのは、午後七時ごろだったかしら。
気分は、もう満腹、満腹。涙あり、笑いあり、心が自然に揺れ動いた至福の長興行だったなあ。
芸能奉納の夜も、島人の行事は続いていた。「世乞い(ユークイ)」といって、家々を回って豊作祈願するセレモニーがあり、ボクたちも行列が最初に訪れた家をのぞいた。神司女の光子さんも座敷でかしこまっていた。庭のボクたちにも、泡盛とつまみになる蛸足とニンニクの和え物が振舞われた。
引き揚げた民宿では、田中棟梁を知る建築関係の若い娘さんやどこかの大学教授らも交えて、大酒盛りが続いた。もっとも同宿の別の娘さんには「お静かに」とにらまれたけど。それでもボクは、客を送りがてら他人の宿に乗り込み、そこでもしこたま泡盛を飲んだ。帰り道、空には黒雲が流れていたが、小さな星も光っていた・・・ように思う。
翌六日、ぼくたちは隣の西表島を駆け足で回った。足跡を残しただけ、野生生物保護センターで「見たつもり」のバーチャル自然観察ですませた。
夕方に戻った竹富島では、まだ芸能が続いていた。気分転換もよろしく、ぼくは「鬼捕り」の芝居に浸り、再び泡盛モードに復帰した。
■ さらば、竹富島よ
島での最後の夜、ボクたちは飲みすぎた、前夜以上に。
棟梁は「喜宝院では、所蔵品リストが出来てないのよ。ちゃんとリストを作らなくっちゃ、研究も進まないだろう」と話し始めた。1987年に文化庁が島を「重要伝統的建造物群保存地区」に選定し、町並み保存が地域開発、つまり観光産業の出発点になったという。しかし、各地で伝統的な民家の調査と保存に努めてきた棟梁には、我慢がならない。島が建物だけに頼っている、というのだ。「自分たちの先祖が使ってきた民具や道具を、もっと大切にしなくっちゃ」と訴える。遅れて現れた芳徳さんも、ご意見ごもっともと、謹聴していた。棟梁は東京で役所を回ったりしながら、資料保存の賛同者を募っている。
喜宝院問題が糸口で、棟梁は入沢さんと、人生とは何ぞやとか、いかに生きるべきかと大議論を展開して終りがなかった。ボクはといえば、どこかの先生や芳徳さん、後から加わった光子さんを相手に祭の印象を声高に語り、「祭こそ村起こし、島起こしのエネルギー源。ボクもこれから、祭りのある地域作りに学ぼう」と偉そうに演説した。冷静だったのは泡盛や焼き鳥を買いに走った中村さんだけだったろう。
どれだけ飲んだことやら。
かくて祭りの九日目、十月七日の朝は辛かった。酔っ払っていたのに棟梁の偉大ないびきで眠れず睡眠不足。帰途につく波止場では太陽がまぶしく、足元はふらついた。
ボクでさえそうなのだから、年輩の棟梁は朝飯がのどを通らないまま高速艇に揺られ、上陸した石垣島の波止場で尻餅をついた。低血糖の症状が出たのだ。ああ、あー、申し訳ないことをしてしまったものだ。救急車で病院へ運び、医者の治療に頼ることになってしまった。ぼくと入沢さんは予定通り、一足先に帰京、棟梁たちは小康を得てから東京へ戻ったと報告を受けた。
いま、三泊四日の旅を思い起こすと、「早く島へ戻りたい」という思いに捉われる。サンダルで歩き回った島の白い道が懐かしい。光るホタルをマムシの目と見まちがえて脅えた石垣が恋しい。民宿の親父さんの、ゆったりした歩調を見習いたい。
そうだ、サミット参加の首脳たちが、あの祭の客席に座り、島人たちと舞台を楽しんだとしたら、どうだったろう。よほど沖縄の人たちの誇りや喜びを汲み取っただろう。
もしかしたら、世界には政治家の及ばない、もっと違った平和で豊かな生き方があると思い知ったかも知れない。基地のない、老若男女が生き生きと語り、伝統と文化を尊ぶ社会づくりの共同宣言が生まれたかもしれない。そうでなくても、総理大臣は、沖縄の心を世界に伝え、何百億円かの予算節約は出来ただろう。(完)
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 船 JALグループ
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