ロシア旅行記(ブログ) 一覧に戻る
初めてソ連を意識したのは高校生の時。最果てを目指して辿り着いた納沙布岬の沖に小さな島影が見えていた。いわゆる北方領土と呼ばれる複雑な事情の島々である。根室側の展望台の望遠鏡から覗くと、ひっきりなしに巡視船が行き交う姿が見え、その緊張感漂う風景はまさにボーダーとして僕の目に焼きついた。<br /> <br /> それから4年後、僕はトーマスクックを鞄に入れて、新潟発ウラジオストク行き「アントニーナ号」の船上の人となった。今からお話することは、全て15年前の出来事ですので、旅行情報としての価値は極めて低いことをご了承ください。<br /><br />初めての海外旅行は船でと決めていたが、搭乗した瞬間からそこはロシアだった。机を並べたロシア人の前で乗船手続き。渡された小さな紙には3日間のスケジュールが記載されていた。「時計の針を一つ進めて下さい。」言われるまま時計を合わせると17:00。ということはスケジュール表のAfternoon Teaだ!そこでさっそく食堂へ。着席すると紅茶とチョコレートケーキが出された。そして船は汽笛をあげて出航。学割の利く安い船賃にあまり期待していなかったが、料理はコース仕立て、スケジュールは映画や避難訓練、ショータイムなどで埋められて結構忙しい。ちなみに船内のウオッカは一杯60円。こうして徐々にロシアの雰囲気に慣れてゆけるのはまさに船の醍醐味だと思った。<br />あっという間の3日間の船旅を終えて、初めて踏む外国の地面はウラジオストクの埠頭。出迎えの人混みに圧倒されながらも、丘の上のウラジオストクホテルにチェックインできてホッとしたのをよく覚えている。当時外国人に開放されて間もないウラジオストクの街は、殆ど観光地化されておらず、百貨店での買い物の仕方、バスでの切符のリレー等、社会主義の名残をあちこちで見ることができた。またロシア人(ソ連人)の感覚を知る、興味深い機会もあった。海軍博物館でのこと。案内役の水兵さんが原爆のコーナーで「アメリカは日本に余計な事をした。」と言うので、日本に同情してくれるのかと思ったが、彼はこう続けた「原爆を落とさなくても、ソ連の侵攻によって日本は降伏した。」兎にも角にも不思議な街である。魚も美味しいし、雰囲気は欧州の港町。是非再び訪れたい異郷である。<br /> <br /> ロシア号の発車時刻は午前1時。深夜のウラジオストク駅は人気も少なく、ただ早口なロシア語のアナウンスだけが響き渡っていた。何番線から出るといった案内も見つけられず、不安な思いで幾つも線路を跨いだ。何とか目当ての車両に辿り着いたのは発車直前で、世界最長の特急列車の旅の始まりは非常に慌しいものになってしまった。さらに驚いたことに、案内された2等コンパートメントは10代の美人姉妹と母親の3人連れだった。自己紹介すると、彼女達は小さなサクランボの様な果物を広げて勧めてくれた。<br /> 食堂車では300円ほどでコース料理が食べられた。しかしいつもガラガラでメニューも乏しかった。同室の家族は水に入ったバターやライ麦のパン等、1週間分の食料を持ち込んでおり、食堂車は高いなんて話をしているうちに何となく行き辛くなって、彼女達のおこぼれに与る様になった。こちらも日本の菓子や、駅の露店で買ったジャガイモ等を供出する内に、お母さんのオリガは午前10時と午後3時に必ず「コーヒー?それとも紅茶?」と聞いてくれるようになった。彼女は机の下の段ボールをいつも「私達のレストラン」と呼んでおり、娘のナターシャから「ママ、もうわかったから」と突っ込まれていた。第2外国語で習ったばかりのロシア語を駆使しながら、お互いの家族のこと、住んでいる街のことを話した。彼女たちは北欧のムルマンスクから、ウラジオストクに赴任している父親に会いに来た帰りだという。窓の外を一緒に眺め、おはよう・おやすみを繰り返す想定外のホームステイ。ウラジオストクからモスクワの1週間は、あっという間だった。<br /><br /> 勿論この列車は非常にスリリングでもあった。ロシア号は数時間走って7〜8分停車というパターンの繰り返しで、駅に着くと多くの外国人乗客が買い物や運動にホームに降り立つ。どの駅でも人や貨物を満載して「ハリコフ」や「ボロネシ」といった行き先表示板を付けた列車が退避しており、この特急列車が最優等であることがうかがえた。そしてホームの露店で売っているアイスクリームやヨーグルトは本当に美味しく、飛ぶように売れていた。<br /> そして事件はオムスクで起きた。例によってホームをぶらぶらしているといきなり列車が動きだした。停車時間は車内の時刻表でチェックできるのだが、ついのんびりしてしまっていた。慌ててタラップの手すりに手をかけたその時、突然背後から羽交い絞めにされ、列車から引き摺り下ろされそうになった。必死に抵抗してその手を引き離し乗車することができた。後から思えば、ホームで片言の日本語で話しかけられたが、その連中に上着を狙われたのかもしれない。この騒動で車両中の人が集まって心配してくれた。特に無愛想だったお婆さん車掌まで涙を流して「良かった」と言ってくれたのは少し感動した。また一部始終を見ていた別の人は、車内の時刻表のスベルドロフスク(現エカチェリンブルグ)を指差して、「この付近ではこの間列車強盗が出たから注意しろ」という。混乱するロシアにあって、外国人旅行客や比較的裕福な中流家庭が利用するこの特急列車はしばしば犯罪に巻き込まれるらしい。そう言われて改めて客車をよく見ると窓ガラスが割れたり、ひびが入ったりしている個所がある。<br /> スベルドロフスク到着は深夜である。間もなく到着かとどきどきしながら景色を見ていたら、車掌がやってきて通路側の雨戸?を全て下ろしていった。さらに各コンパートメントを回って、窓の雨戸を下すように指示していた。そうして列車は静かに停車して、静寂の中再び動き出した。危険な星を命がけで走り抜ける漫画、銀河鉄道999をご存じだろうか。ロシア号もまさにそんな旅路をひたすらモスクワ目指して驀進していた。<br /> 7日目、ロシア号の旅も間もなく終了である。車内で遊び相手だったナターシャとドミトリーのお父さんから家に泊まりに来いという有難い申し出を受けた。実は車両にはもう一人同じ行程の日本人学生がいて、彼とよくドミトリーのコンパートメントへ遊びに行っていたため、トランプ等のゲームを通じて彼の家族とは打ち解けていたのだった。モスクワの代表建築ウクライナホテルにも未練があったが、一般家庭に泊まれる機会は滅多にないということで、二人でお邪魔することにした。最後の停車駅ヤロスラブリを過ぎると皆下車準備を始める。7日間の旅の終わりは飛行機の着陸間際の様な妙な静けさ、そして厳かな雰囲気が車内に漂っていた。そしてロシア号はモスクワ郊外の尾久、鴬谷といった感じのプシキノやオスタンキノ駅を通過して終点のモスクワ・ヤロスラブリ駅に到着した。同室のオリガ母娘はそのままレニングラード駅へ向かうという。お互いの住所を交換して、共に旅の無事を祈った。彼女に貰ったおはじきの様なモスクワ地下鉄で使えるジェトン(トークン)は、今も大切にしまってある。<br />       <br /> ドミトリーの家はモスクワ郊外のプシキノ市にあった。高層アパートが並ぶ典型的な衛星都市で、ドミトリーの父親セルゲイさんはそんなアパートの一角に住む警察官だった。旅の疲れも癒えぬ間に母親のリューバさんは心づくしの手料理をこしらえてくれた。何かのために用意していたささやかな日本土産をたいそう喜んでくれて、翌日はモスクワっ子と自慢するリューバさんの案内でレーニン廟の衛兵交代や、大理石の地下鉄駅やアルバート通りを見て回った。最後はサンクトペテルブルグ行きの夜行列車まで見送ってくれた。別れ際に渡された紙袋にはソーセージとパンとトマトときゅうりが入っていた。汽車旅で親戚の様な家族が出来たのは、後にも先にもこの時だけだった。<br /><br /> サンクトペテルブルグはロシアの中で最も垢抜けた街に見えた。グム百貨店の品揃えも豊富で、洒落たカフェがここかしこにあった。威圧感のある建物と殺伐とした表情で何で生業を立てているのかよく分からない人々の多かったモスクワに比べ、いかにもヨーロッパといった気取った雰囲気が漂っていた。エルミタージュ美術館や鉄道博物館(指示棒を持った女性が模型を動かしたりして説明してくれる)をじっくり回り、マールイ劇場ではバレエのジゼルを鑑賞した。<br /><br />そしてロシア最後の日の朝。僕はサンクトペテルブルグのフィンランド駅で途方に暮れていた。うっかり寝坊してしまい、予約していたヘルシンキ行きのレーピン号に乗り遅れたのだった。間に合わなかったくせに、あと70ドルで追いついてみせるという運転手のタクシーに乗る気も起らず、呆然としていた。「とりあえず国境まで行けば接続もあるだろう。」そう思ってレーピン号の20分後に出るビボルグ行きの急行列車に飛び乗った。車内に旅行者の姿はなく、明らかに異邦人としての居心地の悪さはあったものの、ロシア号とはまた違った、素顔のロシアの汽車旅が出来た気がする。終点ビボルグに着いたのは昼を回っていた。駅の窓口に聞くと「フィンランド行きの特急の切符はもう無いからサンクトペテルブルグに戻ってバウチャーを再発行して貰え」という。外国人がビザ取得時に提出した行程を逸脱することは認められていないので当然の説明である。ショックを受ける僕を憐れんでか、「乗れるか分からない」とした上で、ヘルシンキ行きのバスが出ているというホテルを教えてくれた。出発は15:00、運賃は27ドル(ルーブル不可)と確認して地図を買い、銀行のマークを頼りに旅行小切手を換金すべく街を歩いた。僕は一か八かバスでの出国に賭けることにした。憧れてやって来たものの、正直、食事の調達にさえ一苦労のこの国を旅することに少し疲れてもいた。<br />ビボルグはロシアの他の都市とは異なる、妙な明るさと清潔さを持った街だった。しかし銀行はつぶれていたり、チェックを扱っていなかったりで、時間だけが過ぎて行った。鞄をひっくり返しても手持ちは現金17ドルと1万5千ルーブル。「やはりサンクトペテルブルグへ戻らなきゃダメか・・・」そんな時、警察官に声を掛けられた。「今10ドル持ってるのだが、1ドル=1010ルーブルでどうだ」。闇両替だ!レートも悪くないし、渡りに船とはこのこと。握手をして、いとも簡単に28ドルが出来上がった。<br />こうして無事フィンランド行きのバスに乗り込むことができたが、問題は出国審査である。勝手に予定を変更してサンクトペテルブルグへ戻されるかも知れないという不安が募り、ロシア最後の街並みをみて感傷に浸る余裕はなかった。バスはフィンランドの会社が運行しており、一刻も早くロシアを出たいと言わんばかりの高速で未舗装の白樺林を走り抜け、遂に国境の検問所に到着した。バスで越境する日本人が珍しいのか、かなり念入りに書類をチェックされた。そして所持金を全部出せという。いわれるままに腹巻型貴重品入れからお金を取り出すと、厳めしい軍人が急に笑い出し「オー、ハラマキ!」と叫んだ。「俺は知っている。これは腹巻きというんだ。」と言う様なことを同僚に自慢していた。そして二人で珍しそうに千円札をひっくり返したり、裏返したりして見ていた。「これは誰だ?」と聞くので「作家だ。」と答えた。「おい、こっちのは1万円だぜ。これは誰だ?」「学者。」「この千円で何が買えるんだ?」「・・・昼食かな。」「おまえはロシア語をレニングラードで習ったのか」「いや、日本で少し」およそ出国に関係ない会話が和やかに続くと、最後に「これは土産だ」といって押収品らしいチェリー酒のミニボトルをくれた。「有難う。ロシアをとても気に入ったよ」と言うと手を振ってくれた。結局荷物は何ひとつ見ず、鞄も開けられなかった。そして次はパスポートコントロールである。ブースの前に立つと同い年くらいの軍人が青い目で上目使いに見た。少しゾクッとしたが「スパシーバ ダスビダーニア(有難う、さようなら)と言うと、少し驚いた顔で「ダスビダーニア」と返してきた。<br />こうして無事ロシアを出国することができた。振り返れば夢の様な二週間だった。労働とサービスの考え方の違い、変革の混乱を生きているロシア人のたくましさ、社会主義がもたらした世界有数の教育水準の高さと芸術の浸透等、隣国にして知り得なかった世界が確かに存在していた。<br /><br /> この旅を通して、旅行者をもてなすことを学び、そして道があればどこへでも行けるという事を悟った。<br />

最初の海外旅行

7いいね!

1993/07/23 - 1993/08/05

4000位(同エリア6075件中)

0

0

TETSUYA

TETSUYAさん

初めてソ連を意識したのは高校生の時。最果てを目指して辿り着いた納沙布岬の沖に小さな島影が見えていた。いわゆる北方領土と呼ばれる複雑な事情の島々である。根室側の展望台の望遠鏡から覗くと、ひっきりなしに巡視船が行き交う姿が見え、その緊張感漂う風景はまさにボーダーとして僕の目に焼きついた。
 
 それから4年後、僕はトーマスクックを鞄に入れて、新潟発ウラジオストク行き「アントニーナ号」の船上の人となった。今からお話することは、全て15年前の出来事ですので、旅行情報としての価値は極めて低いことをご了承ください。

初めての海外旅行は船でと決めていたが、搭乗した瞬間からそこはロシアだった。机を並べたロシア人の前で乗船手続き。渡された小さな紙には3日間のスケジュールが記載されていた。「時計の針を一つ進めて下さい。」言われるまま時計を合わせると17:00。ということはスケジュール表のAfternoon Teaだ!そこでさっそく食堂へ。着席すると紅茶とチョコレートケーキが出された。そして船は汽笛をあげて出航。学割の利く安い船賃にあまり期待していなかったが、料理はコース仕立て、スケジュールは映画や避難訓練、ショータイムなどで埋められて結構忙しい。ちなみに船内のウオッカは一杯60円。こうして徐々にロシアの雰囲気に慣れてゆけるのはまさに船の醍醐味だと思った。
あっという間の3日間の船旅を終えて、初めて踏む外国の地面はウラジオストクの埠頭。出迎えの人混みに圧倒されながらも、丘の上のウラジオストクホテルにチェックインできてホッとしたのをよく覚えている。当時外国人に開放されて間もないウラジオストクの街は、殆ど観光地化されておらず、百貨店での買い物の仕方、バスでの切符のリレー等、社会主義の名残をあちこちで見ることができた。またロシア人(ソ連人)の感覚を知る、興味深い機会もあった。海軍博物館でのこと。案内役の水兵さんが原爆のコーナーで「アメリカは日本に余計な事をした。」と言うので、日本に同情してくれるのかと思ったが、彼はこう続けた「原爆を落とさなくても、ソ連の侵攻によって日本は降伏した。」兎にも角にも不思議な街である。魚も美味しいし、雰囲気は欧州の港町。是非再び訪れたい異郷である。
 
 ロシア号の発車時刻は午前1時。深夜のウラジオストク駅は人気も少なく、ただ早口なロシア語のアナウンスだけが響き渡っていた。何番線から出るといった案内も見つけられず、不安な思いで幾つも線路を跨いだ。何とか目当ての車両に辿り着いたのは発車直前で、世界最長の特急列車の旅の始まりは非常に慌しいものになってしまった。さらに驚いたことに、案内された2等コンパートメントは10代の美人姉妹と母親の3人連れだった。自己紹介すると、彼女達は小さなサクランボの様な果物を広げて勧めてくれた。
 食堂車では300円ほどでコース料理が食べられた。しかしいつもガラガラでメニューも乏しかった。同室の家族は水に入ったバターやライ麦のパン等、1週間分の食料を持ち込んでおり、食堂車は高いなんて話をしているうちに何となく行き辛くなって、彼女達のおこぼれに与る様になった。こちらも日本の菓子や、駅の露店で買ったジャガイモ等を供出する内に、お母さんのオリガは午前10時と午後3時に必ず「コーヒー?それとも紅茶?」と聞いてくれるようになった。彼女は机の下の段ボールをいつも「私達のレストラン」と呼んでおり、娘のナターシャから「ママ、もうわかったから」と突っ込まれていた。第2外国語で習ったばかりのロシア語を駆使しながら、お互いの家族のこと、住んでいる街のことを話した。彼女たちは北欧のムルマンスクから、ウラジオストクに赴任している父親に会いに来た帰りだという。窓の外を一緒に眺め、おはよう・おやすみを繰り返す想定外のホームステイ。ウラジオストクからモスクワの1週間は、あっという間だった。

 勿論この列車は非常にスリリングでもあった。ロシア号は数時間走って7〜8分停車というパターンの繰り返しで、駅に着くと多くの外国人乗客が買い物や運動にホームに降り立つ。どの駅でも人や貨物を満載して「ハリコフ」や「ボロネシ」といった行き先表示板を付けた列車が退避しており、この特急列車が最優等であることがうかがえた。そしてホームの露店で売っているアイスクリームやヨーグルトは本当に美味しく、飛ぶように売れていた。
 そして事件はオムスクで起きた。例によってホームをぶらぶらしているといきなり列車が動きだした。停車時間は車内の時刻表でチェックできるのだが、ついのんびりしてしまっていた。慌ててタラップの手すりに手をかけたその時、突然背後から羽交い絞めにされ、列車から引き摺り下ろされそうになった。必死に抵抗してその手を引き離し乗車することができた。後から思えば、ホームで片言の日本語で話しかけられたが、その連中に上着を狙われたのかもしれない。この騒動で車両中の人が集まって心配してくれた。特に無愛想だったお婆さん車掌まで涙を流して「良かった」と言ってくれたのは少し感動した。また一部始終を見ていた別の人は、車内の時刻表のスベルドロフスク(現エカチェリンブルグ)を指差して、「この付近ではこの間列車強盗が出たから注意しろ」という。混乱するロシアにあって、外国人旅行客や比較的裕福な中流家庭が利用するこの特急列車はしばしば犯罪に巻き込まれるらしい。そう言われて改めて客車をよく見ると窓ガラスが割れたり、ひびが入ったりしている個所がある。
 スベルドロフスク到着は深夜である。間もなく到着かとどきどきしながら景色を見ていたら、車掌がやってきて通路側の雨戸?を全て下ろしていった。さらに各コンパートメントを回って、窓の雨戸を下すように指示していた。そうして列車は静かに停車して、静寂の中再び動き出した。危険な星を命がけで走り抜ける漫画、銀河鉄道999をご存じだろうか。ロシア号もまさにそんな旅路をひたすらモスクワ目指して驀進していた。
 7日目、ロシア号の旅も間もなく終了である。車内で遊び相手だったナターシャとドミトリーのお父さんから家に泊まりに来いという有難い申し出を受けた。実は車両にはもう一人同じ行程の日本人学生がいて、彼とよくドミトリーのコンパートメントへ遊びに行っていたため、トランプ等のゲームを通じて彼の家族とは打ち解けていたのだった。モスクワの代表建築ウクライナホテルにも未練があったが、一般家庭に泊まれる機会は滅多にないということで、二人でお邪魔することにした。最後の停車駅ヤロスラブリを過ぎると皆下車準備を始める。7日間の旅の終わりは飛行機の着陸間際の様な妙な静けさ、そして厳かな雰囲気が車内に漂っていた。そしてロシア号はモスクワ郊外の尾久、鴬谷といった感じのプシキノやオスタンキノ駅を通過して終点のモスクワ・ヤロスラブリ駅に到着した。同室のオリガ母娘はそのままレニングラード駅へ向かうという。お互いの住所を交換して、共に旅の無事を祈った。彼女に貰ったおはじきの様なモスクワ地下鉄で使えるジェトン(トークン)は、今も大切にしまってある。
       
 ドミトリーの家はモスクワ郊外のプシキノ市にあった。高層アパートが並ぶ典型的な衛星都市で、ドミトリーの父親セルゲイさんはそんなアパートの一角に住む警察官だった。旅の疲れも癒えぬ間に母親のリューバさんは心づくしの手料理をこしらえてくれた。何かのために用意していたささやかな日本土産をたいそう喜んでくれて、翌日はモスクワっ子と自慢するリューバさんの案内でレーニン廟の衛兵交代や、大理石の地下鉄駅やアルバート通りを見て回った。最後はサンクトペテルブルグ行きの夜行列車まで見送ってくれた。別れ際に渡された紙袋にはソーセージとパンとトマトときゅうりが入っていた。汽車旅で親戚の様な家族が出来たのは、後にも先にもこの時だけだった。

 サンクトペテルブルグはロシアの中で最も垢抜けた街に見えた。グム百貨店の品揃えも豊富で、洒落たカフェがここかしこにあった。威圧感のある建物と殺伐とした表情で何で生業を立てているのかよく分からない人々の多かったモスクワに比べ、いかにもヨーロッパといった気取った雰囲気が漂っていた。エルミタージュ美術館や鉄道博物館(指示棒を持った女性が模型を動かしたりして説明してくれる)をじっくり回り、マールイ劇場ではバレエのジゼルを鑑賞した。

そしてロシア最後の日の朝。僕はサンクトペテルブルグのフィンランド駅で途方に暮れていた。うっかり寝坊してしまい、予約していたヘルシンキ行きのレーピン号に乗り遅れたのだった。間に合わなかったくせに、あと70ドルで追いついてみせるという運転手のタクシーに乗る気も起らず、呆然としていた。「とりあえず国境まで行けば接続もあるだろう。」そう思ってレーピン号の20分後に出るビボルグ行きの急行列車に飛び乗った。車内に旅行者の姿はなく、明らかに異邦人としての居心地の悪さはあったものの、ロシア号とはまた違った、素顔のロシアの汽車旅が出来た気がする。終点ビボルグに着いたのは昼を回っていた。駅の窓口に聞くと「フィンランド行きの特急の切符はもう無いからサンクトペテルブルグに戻ってバウチャーを再発行して貰え」という。外国人がビザ取得時に提出した行程を逸脱することは認められていないので当然の説明である。ショックを受ける僕を憐れんでか、「乗れるか分からない」とした上で、ヘルシンキ行きのバスが出ているというホテルを教えてくれた。出発は15:00、運賃は27ドル(ルーブル不可)と確認して地図を買い、銀行のマークを頼りに旅行小切手を換金すべく街を歩いた。僕は一か八かバスでの出国に賭けることにした。憧れてやって来たものの、正直、食事の調達にさえ一苦労のこの国を旅することに少し疲れてもいた。
ビボルグはロシアの他の都市とは異なる、妙な明るさと清潔さを持った街だった。しかし銀行はつぶれていたり、チェックを扱っていなかったりで、時間だけが過ぎて行った。鞄をひっくり返しても手持ちは現金17ドルと1万5千ルーブル。「やはりサンクトペテルブルグへ戻らなきゃダメか・・・」そんな時、警察官に声を掛けられた。「今10ドル持ってるのだが、1ドル=1010ルーブルでどうだ」。闇両替だ!レートも悪くないし、渡りに船とはこのこと。握手をして、いとも簡単に28ドルが出来上がった。
こうして無事フィンランド行きのバスに乗り込むことができたが、問題は出国審査である。勝手に予定を変更してサンクトペテルブルグへ戻されるかも知れないという不安が募り、ロシア最後の街並みをみて感傷に浸る余裕はなかった。バスはフィンランドの会社が運行しており、一刻も早くロシアを出たいと言わんばかりの高速で未舗装の白樺林を走り抜け、遂に国境の検問所に到着した。バスで越境する日本人が珍しいのか、かなり念入りに書類をチェックされた。そして所持金を全部出せという。いわれるままに腹巻型貴重品入れからお金を取り出すと、厳めしい軍人が急に笑い出し「オー、ハラマキ!」と叫んだ。「俺は知っている。これは腹巻きというんだ。」と言う様なことを同僚に自慢していた。そして二人で珍しそうに千円札をひっくり返したり、裏返したりして見ていた。「これは誰だ?」と聞くので「作家だ。」と答えた。「おい、こっちのは1万円だぜ。これは誰だ?」「学者。」「この千円で何が買えるんだ?」「・・・昼食かな。」「おまえはロシア語をレニングラードで習ったのか」「いや、日本で少し」およそ出国に関係ない会話が和やかに続くと、最後に「これは土産だ」といって押収品らしいチェリー酒のミニボトルをくれた。「有難う。ロシアをとても気に入ったよ」と言うと手を振ってくれた。結局荷物は何ひとつ見ず、鞄も開けられなかった。そして次はパスポートコントロールである。ブースの前に立つと同い年くらいの軍人が青い目で上目使いに見た。少しゾクッとしたが「スパシーバ ダスビダーニア(有難う、さようなら)と言うと、少し驚いた顔で「ダスビダーニア」と返してきた。
こうして無事ロシアを出国することができた。振り返れば夢の様な二週間だった。労働とサービスの考え方の違い、変革の混乱を生きているロシア人のたくましさ、社会主義がもたらした世界有数の教育水準の高さと芸術の浸透等、隣国にして知り得なかった世界が確かに存在していた。

 この旅を通して、旅行者をもてなすことを学び、そして道があればどこへでも行けるという事を悟った。

同行者
一人旅
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス

この旅行記のタグ

7いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

ロシアで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ロシア最安 422円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

ロシアの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP