2004/08/27 - 2004/09/04
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bloom3476さん
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その部屋は、裸電球が1本だけ、ぶら下がり埃の溜まった床には事務机があるだけの、がらんとした空間だった。 電球は私と、その男だけを照らし、周囲にいる彼の部下達は、薄暗い壁に
無造作に寄りかかっていた。
フィンランドまで、あと一駅という特急の車内で拘束され、この部屋に連行されてきてから、もう4時間が過ぎようとしていた。
「それで、貴方は何の為に、この国に来たのか?」
今日、三度目の尋問を受けながら、私は、この国に来てからの、1週間を思い出していた。
1枚の絵を見るため
27 - 28 Aug 2004 晴れ 成田- ロンドン – モスクワ
たった1枚の絵を見るために、旅に出る。
そんな動機で、この町に来た。それは、アンドレイ・ルブリョフを見るためだった。モスクワに朝の5時に着き、ホテルに荷を降ろしてトレチャコフ美術館に向かった。 朝一番の館内 誰もいないイコン・セレクションの間で、その絵と再会した。
「救世主キリスト」 と題された158×106 cmの板画は、その横にある「三位一体」と比べると、知名度が低い。 しかし、絵の前に立てば、「神に通じる窓」というイコンの働きに於いて,並ぶ物も無い傑作である事に気がつくはずだ。
私が初めてこの絵を見たのは1988年だった。
当時、ソ連内では個人移動が許されなかったが、密かに団体を離れ、ロシア正教・総首府のザコースク(現在のセルギエフ・ポサド)まで行った。
マルクス主義体制下 半世紀以上も宗教弾圧が続き、特に、この年は国民生活が困窮し、パンの配給さえ滞るような時代だった。外国人など皆無の寺院に入り、ルブリョフが残した絵を捜した。
しかし、そこで見たのは「人はパンのみにて生きるにあらず」というイエスの言葉を立証していたような人々の姿だった。 衣服も粗末ながら、祈りを求め、聖歌を歌う人々の横顔には、澄んだ美しさが在った。見えない中に大事なことを見据える、、そんな人々を前にして、神を信じるって、何なのだろう、、と思った。
(この出会いは、翌年、私は受洗に導いた)
その後、モスクワに戻り、トレチャコフを訪れて、このイコンを見たのだった。
あれから16年がたち、ソ連は崩壊して、資本主義を選択した国家に変貌した。 移動する度にregistrarという手続きをすれば個人旅行も許されるようになっていた。
そうして、私は、ここに、戻って来たのだった。
その絵は 温かく 厳しく 深く 静かに
そこに在った。
それは神の像と呼ぶのは、あまりに人間的だ。 少しだけ悲しそうにも見える表情は、フェルメールが描く悲しみにも似ているし、また運慶の仏が見せる諦念にも通じていた。しかし、その精神に通ずるのは、トレチャコフの別棟にあって、14世紀のティムールのモスクワ侵攻の昔から、現在まで人々の巡礼が途絶えない「ウラジミールの聖母」のような透徹した慈愛なのかも知れない。
気が付くと、もう1時間も、その絵の前に立っていた。
Izmailovo骨董市
今日はイズマイロヴォで骨董市がある事に気が付いたので、トレチャコフを出て、タクシーで町の北西に向かった。
イコンを売る露店は100軒以上もあり、置いてある絵は玉石混合だったが、丹念に廻って、5枚のロシア・イコンを購入した。 店主達は、「Export No problem」を強調して、私からドル紙幣をもぎ取ったが、それらが出国出来る保証などない事を、私も知っていた。それなら何故、買ったのか?と問われたら、明治時代にフェノロサが淋派の絵をボストンに持ち帰った事と同じだと、言い訳したかも知れない。広大な市場には、骨董の他に、毛皮、宝石からイクラ、キャビア等の食料品まで溢れていた。私は、東独に残ったLeica技術者の手になるバルナック・ライカや、ZEISSの中古レンズなどを買って、宿に戻った。
セルギエフ・ポサード
29 Aug 2004 晴れ 黄金の輪 – ペトロザボーツク
外国人である私が、ザコースクやレニングラードという名前に郷愁を覚えるのも可笑しい話だが、どうにも、この町には、あの無骨だが芯のある
名前が相応しい。 ペレストロイカ後、モスクワ郊外に連なる教の名寺院(黄金の環)では、多くの巡礼者達で賑わっていたが、その中でも、総本山の賑わいは別格だった。礼拝堂で祝福うける為に、2時間並んで、聖堂内に入った。
モスクワの街中で、ロシア人の冷たさに、辟易した人でも、ここに来れば、その直向きで、おおらかな心情に、ロシア人が好きになるはずだ。 堂内を埋める熱い祈りと聖歌は16年前と変わらず、この国の信仰の大河を表していた。
寝台列車
モスクワからペトロザボースクへは個室寝台を予約していた。その車内に入ると、妙齢の婦人がいた。 券を確認したが、間違いはない。18:25に列車が動き出し、暫くして車掌が夕食の準備に来た。 個室寝台に夕食が含まれていた事を知らなかったので、駅頭でサンドイッチをつまんでいて損をした。彼女が肉を注文していたので、私は魚を頼んで、彼女に供した。 英語を話さない
彼女が2皿を平らげるのを見ながら、この国で生きていくタフさを学んだ。
食後、彼女はジェスチャーで、着替えるから外に出てくれと促す。食堂車もないので、外で10分待つと、ドアが開き、もう入っていいと招き入れてくれた。 何だか緊張したままで一睡も出来ないまま列車はサンクトペテルブルグを過ぎて北上し、フィンランドと接するカレリア共和国の首都・ペトロザボースクに 9:15 amに到着した。
ピョートルの工場
30 Aug 晴れ ペトロザボースク- キジ島
この不思議な町の名はピョートル大帝がサンクトペテルブルグの地盤建設のため、オネガ湖畔の寒村に製鉄所を造った歴史に由来した。駅に降り立つと、思わずブルッとして、慌ててフリースを着た。 そう、ここは北欧なのだ。
モスクワの旅行代理店:Marlis Travelの現地担当者が地図とフェリーの券を届けに待っていた。木造建築群で世界遺産に認定されたキジ島へ向かうフェリーは、夏場は人気が高く、売り切れてしまう事もあるので、彼等に手配していた。波止場に向かって歩くと、風景も人々の顔もロシアとは大分違う事に気づかされる。長身で肌が透き通る程、白いのは、彼等がヴァイキングの末裔である証明だろう。船着き場は人もまばらだったが、出発時刻になると、何処から来たのかと疑う程、乗客が集まり、満席となって水中翼船は出港した。
この地は、元々、先住民のカレリア族(フィン族に帰する)が、その自然が醸し出すオーラから「祭祀の場」として崇めていた場所だった。
キジとは彼らの言葉で祭祀を意味した。しかし12世紀からロシアが入植を始めて、次第にロシア正教圏となった。厳しい自然に耐える為、彼らは、有り余る木材をふんだんに使って、世にも稀なる神の家を創造した。 釘を1本も使わない技法で、ここまで高く建てられた高層建築は、世界を見回しても他に、法隆寺があるくらいだ。
ヨーロッパを形成した「石の文化」とは別の「木の文化」 ケルトに発する美意識がフィン族に受け継がれ、この祭祀の地に作られたのがこの教会だった。 しかし20世紀に入り、ソ連は、この地域を流刑地と定め、先住民を追いやった。その結果、この建築技法は途絶えてしまった。
1990年、ユネスコは、ここを世界遺産に指定し保全地域としたが。修復技法が失われた寺院は老朽化から崩壊の危機に瀕していた。この史実を知ると、天平の昔から、文化様式の様々な技法を後世に受け継いできた日本の伝統とは、人類史上に、誇る美しい歴史なのだと知った。「守る」だけの伝統を軽んじて来たが、ここに来て、日本の文化継承の奥深い智恵に感心した。
キジー島へ
どんなに、写真やビデオで、その姿を知っていても、それを目の前にして、感動に内震える建築がある。 私にとって、それはイースター島のモアイと、この教会であった。22個もの玉ねぎ屋根が折り重なる様は、ディズニーのファンタジアで「展覧会の絵」の場面に出てくる魔法の教会のようだ。 二つ並ぶ内の大きいプレオブラジェーンスカヤ教会は倒壊の危険の為、閉鎖されていた。 小さい方のポクローフスカヤ教会は見学が出来た。
堂内にあるフレスコやイコンは随分と粗雑な出来だった、我ながら、なんと罰あたりな感想だろう。 島内には、ロシア国内から2つの木造教会が移築され、美しい風景に溶け込んでいた。
その内のミハイル礼拝堂の大小の鐘が鳴って
北国の空に美しい響きが昇って行った。
サンクト・ペテルブルグへ
31 Aug 晴れ サンクトペテルブルグ
前夜、遅くペトロザボーツクを発った寝台車は翌朝 7:11にロシア第二の都に到着した。2日間も寝台車で移動したので、ホテルにチェックインしてバスタブに湯を張って、ざぶんと身を沈めると、緩やかに体の緊張がほぐれていった。
昼過ぎに、宿を出て、エルミタージュ美術館に向かった。 ここに来たのは3度目だが。役所のようなレイアウト、展示方法に、美に誘うディレクションが欠如しているのは、他のロシアの美術館と変わりがない。ダヴィンチもラファエロもテッツィアーノも、レンブラントの傑作も、デューラーや、そして近代絵画ではモネ、セザンヌ、ゴッホ、クールベ、そしてマチスの「ダンス」さえある。 だが、それだけ、、そこに置いてあるだけだ。 コレクションを精選し、「隠れ家」の空間に遊びを仕込んで配したら、どんなに素敵な美術館に生まれ変わるだろう、つくづくと思う。
名もなき画家
夏のサンクトペテルブルグでの優雅な過ごし方の一つに運河巡りがある。 暑さがしずまる午後8時頃、暮れなずむ町の景色を船上で緩やかに眺めると、ラスコーリニコフの舞台が浮かび上がり、あの小説の中に入っていけるようだ。
その舟遊びを楽しんでから、ネフスキー大通りを散歩すると、画家がキャンバスを立ち並べる一角に来た。 その内の一人の画家の絵に眼が止まった。 田舎の人々生活を、丹念に愛らしく描いた画でブリューゲルのような視点が面白い。これは想像して描いたのか、それともモデルとなる町が、在るのか?を訊いた。画家は英語を話さなかったが、近くの画家が、通りの向こうのカフェに走って、英語を話す給仕を連れて来てくれた。 話を聞く内に、その素朴な絵が愛おしくなって来た。 絵の値は、想像していたより高かったが、手持ち現金と外貨を全て集めて彼の前に出すと、喜んで応じてくれた。画家は「私の絵が日本に行くのか、、」とつぶやき、我が子の遠い旅路に、驚きと期待を混ぜたような表情をした。持ち運びの為、キャンバスを額から外して、丸めて貰った。
新学期の朝
1 Sep 晴れ ノブゴロド 日帰り
ノブゴロドは新しい町という意味で、パリのポンヌフと同じく、ロシアでは最も古い町だ。ハンザ同盟の交易で栄えた、この町からノブゴロド派というロシア・イコンの重要な様式が始まったので、その名画群を見るために、鈍行列車で片道4時間かけて、向かったのだった。
今日は新学期の始業日らしく、車内には、小学生が晴れ着を着て、手に一杯の花を持っていた。 これらは担任の先生への贈り物らしく、既に、たくさんの花束を贈られた先生が満面の笑みで座っていた。4時間の鈍行の退屈をどうしたもんか、と案じていたが、鈍行だからこそ見える市丼の人々の素顔、そしてゆっくりと流れていく風景があるもので、都会にいては判らないロシア人の人情に触れられた。12:00にノブゴロド駅に到着しMarlis Travelの女性が笑顔で出迎えてくれた。
ノブゴロド
彼女は真っ白い肌に頬が赤らみ、鮮やかな金髪に笑顔が愛くるしく、まるでチェーホフの舞台から抜け出して来たようだった。この古都を愛していて名所旧跡を丹念に説明してくれた。
贅沢だったが、ガイドを雇って良かった。彼女の案内で、市郊外にあるスパソ教会を訪れた。白い砂糖菓子で造られたような愛らしいフォルムだ。
そして、念願の統合博物館を訪れた。ノブゴロド派のイコンの最高のコレクションがここに在った。 レベルの高い作品ばかりで、これだけ高水準のイコンが揃うのは、トレチャコフの他に、ウクライナのリビヴ市立博物館、フランクフルトのイコン美術館位だろう。 コレクションの中には、海外流出した作品も多く、それらを全て買い戻し、この美術館に寄贈したのがゲッテイ財団で、そればかりか、この美術館の財政援助も、続けていた。 米国の感心する一面をここで知った。博物館の売店はモスクワのどの美術館よりも充実していて、私は家族に琥珀のネックレス、木の玩具、ペトリューシュカの人形などを買った。
異変
4時間かけて、サンクトペテルブルグの駅に 戻ると、暗い構内の奥で労働者達が一列に並ばされて、警察の取り調べを受けていた。彼等は、みなイスラム系だったので、チェチェンに又、何か起こったのか? と心配した。ホテルに戻って、テレビをつけても何も変わった報道はなかった。
ロシア民俗学博物館
2 Sep 晴れ サンクトペテルブルグ--- ヘルシンキ
ロシア美術館を見てから、民俗学博物館に入った。ここはロシアの歴史と、広大なロシアの西から東までの少数民族をジオラマで展示している。西進政策で、シベリアの広大な土地を征服した白系スラブ人の傍らに先住民族の人々が友人として協力している構図ばかりで、「デルスウザーラ」の映画のようだ。 チェチェンで彼等がしたシーンを捜したが見つからなかった。欺瞞で色塗られた展示に大国の奢りを見て博物館を出ながら、『ちゃんちゃら、可笑しい』と口をついた。
特急シベリウス
ロシアのプラットフォームには、似合わない
西欧の客車が停まっている。フィンランド国鉄が運営するサンクトペテルブルグ〜ヘルシンキ間の国際特急・シベリウス号である。 重たい荷物を持って、自分のコンパートメントを捜す。 多くはヘルシンキからの団体客が占めていたが、個人旅客は少ないのか、私だけ誰もいない部屋が割り当てられていた。ピカピカの車内、明るい照明、無駄のないレイアウト、、計算違いのシグナルがコチコチと脳裏で鳴る。
16:50 定刻通り、出発した。 2つ目の駅 Zelenogarskから国境警備隊の役人が6名乗ってきて出国審査が始まった。 団体客の後、30分位して彼らはやってきた。 私は前日、買った油絵だけを申告書に記入していた。 係官は40歳過ぎ位の白色スラブ系の男で、物腰も優しかった。
しかし申告書に書かれた「油絵」の文字を見て、彼は顔を顰めた。 「これを見せて貰えますか?」私は、スーツケースを開けて、丸めたキャンバスを広げ、それを前日、芸術家広場で買った事、金額などを説明した。 「それで、文化省の検査は受けましたか?」と尋ねられた。 絵具や構図を見れば、これが現代の物とは、通関のプロならば判る筈だと、思ったが、私は、ここがロシアである事、そして目の前にいる役人はツアーリ・皇帝の代理人である事を忘れていた。「これは問題ですなあ、、」と云ってから、荷物を全て開けるように命令された。 イコンが出てくるごとに、その男は、「ビンゴ!」て感じでヒューと小さな口笛を吹いた。 男は私に告げた 「取り調べをするので、荷物を持って次の駅で降りなさい」 国境の駅、Vyborgで降りたアジア人と警官の群れを、乗客達が、同情と好奇心で見送っていた。
連行
その言葉が誰からも発せられた訳ではないが、日本語に翻訳すれば、これが「逮捕」なのだな、、と思った。 私は、その事が及ぶ今日の事、明日の事、そして仕事に及ぶ事を思い描いた。
別に手錠をはめられている訳でもないので、荷物を置いて、ここから逃げたら、という悪魔の囁きが聞こえてくる。 静かなパニックに陥りながら、ここで走り出したら、容赦無く、発砲されるだろうと、、もう一つの声がしてくる。
そうだ、ここは大韓航空機を躊躇する事なく撃墜した国なのだ、怯える前に、その事を肝に命じて感情や判断を静めなければならなかった。フィンランド国鉄の特急が去った後、サンクトペテルブルグ行きの鈍行列車が入って来て、私は、そのキップも持たないまま、彼等と乗車した。
尋問
連行先はZelenogorskの駅の外れにあった古ぼけた警備隊事務所の3階だった。 ミシミシと鳴る急な階段を、重たい荷物3つを持って上がった。窓も無く、裸電球が1本だけの無粋な部屋は、取り調べの為の部屋だったのかも知れない。埃のたまった床に、荷物の中身は全部、広げられ、 事務机の上には財布の中のUS$200, EUR 250 がクレジットカードと一緒に並べられた。
外はもう陽が落ちて、7時頃だろう、目の前の役人も、私と遭遇しなければ、家で家族と夕食を囲んでいる頃かも知れない。
その男は部下に、一つ一つのイコンをメジャーで何度も計測させてから、報告書に書かせた。
『これらをどうして申告しなかったのか?』 と問われ、それらがイズマイロボの露店で売られていた土産品であり、文化省に申告する程のレベルではない事を告げた。 「それは、ここでは判らないので、あなたはサンクトペテルブルグの上級尋問所に行き、そこに留まって、審判を受けなければならない」と男は笑みを込めて語った。胃袋がキュウキュウと鳴ったが、それは、昼食を取ってなかったせいだろう、、と思う事にした。
電話
その審判の裁可を仰ぐため、男はサンクトペテルブルグの上官に、目の前の電話で話し始めた。被告である私の目の前で、これ見よがしに電話をしたのも、自らの判断に自信があったからだろう。 しかし、次第に、話すよりも、聴く時間の方が増えていき、表情に不満が充満して行くのが見て取れた。「しかし、閣下、、!」と言っているような、ロシア語のやりとりを、気取られないように私は見つめた。 長い電話が終わって、彼は、疲れ果てたように言った。「貴方は、速やかに、
この国を去らなければならない」
交渉
腕時計を見ると、午後11時を過ぎていた。
1日、3本しかない国際列車は既になく、この町に宿泊するレギストーラ:許可証も無いまま、放り出されようとしていた。 男に町の宿を訊くと、200 EURの三つ星ホテルが駅前にあると、足元を見透かしたように、云う。 仮に、その宿に泊まったとしても、翌日の国際列車を予約するのには、サンクトペテルブルグまで戻らなくてはいけないのだ。 八方塞がりの状況を私に認識させてから、彼は救いの手を差し出した。
「私の友達に云って、貴方をタクシーでヘルシンキまで送ってあげよう」 ヘルシンキまでは、ざっと400kmはある。値段を訊くと、200US$ という。 それで、この場を去る事が出来るならやむを得ないと首を縦に振ると、続いて条件が出された。
「貴方は、不正をしたのだから、そのペナルティをここで払わなければならない。」という。
幾らですか? と訊いても彼は直ぐに答えず、目の前に広げられたユーロ紙幣を差した。ここからは単純な賄賂交渉だった。 100 EURを出すと、通常は250 EURで、貴方はちゃんとそれを持っているという。 ヘルシンキで現金が必要というと、VISAで払えるはずだ、と言う。全てをVISAで購入する事は出来ないと抗弁し、結局、200 EURを彼に渡した。 調書にサインをして、イコン5枚と、油絵は没収された。男の説明では30日間は サンクトペテルブルグの通関事務所に保管されているので、それぞれの文化省の許可証が得られれば、引き取れると言った。 イコンよりも、あの油絵を取られたのが悔しく、画家が云った言葉 「この絵が日本に行くのか、」の旅先が、警察の倉庫の片隅で隠蔽されるのが無念だった。男の友達のドライバーが着いたのは、12時を回っていた。
車に乗り込む時、男は、柔和な顔で、私の耳元に囁いた。
「この事は君のために、一切、語らない方が良い」
国境越え
深夜の国境をロシアの白タクで越えて、相手国の首都に辿り着く。 そんな事が可能なのかを
心配するよりも、あの場所から脱出できた安堵で
いっぱいだったが、英語を解さない運転手に冗談を云う事も出来ない。 国境には巨大なトラックが通関の列を待っていた。 そうか、この道は西側の物資を流通する大動脈なのだ。不夜城のような明るさの検問所で、私のパスポートを見た
係官は、荷物もろくに調べないまま、行け、、と云った。
フィンランドに入り、サービスエリアが見えてきた私は、空腹に目覚めて、運転手に、そこに入るように促した。 ピカピカする深夜のフードコーナーで、ホットドッグを4人分と飲み物を選んで、レジに立ってから、初めて自分が両替もしていない事を思い出した。 恐る恐るVISA OK ? とレジの女の子に訊くと、「No problem !」とLAのマックにいるように彼女は答えた。
空腹を満たしてから、車に戻り、私は疲れて後部座席に横になり、運転手は異国の真夜中のハイウエイを疾走した。5:00am ヘルシンキ港の外れに佇むSAS Radisson Hotelに到着した。 運転手は、月収に相当する200$を受け取ると、仮眠もせずに、手を付けなかったホットドッグを土産に、家族の待つ、あの国へと帰って行った。
ヘルシンキの宿
3 Sep 晴れ ヘルシンキ – タリン
その部屋は真っ白な色調で統一されていた。
建築雑誌の北欧デザインから飛び出してきたような斬新さだった。ロシアのように各階のエレベーターで編み物をしながら、客を監視しているお婆さんもいないし、トイレではふいた紙はゴミ箱でなく、便器に落とし、ノブは1回だけ押せば勢い良く流される国に帰って来たのだ。 ピカピカに輝く蛇口から湯船にお湯を満たし、ざぶんと入った。 ここまでの長かった半日を思い出しながら、何故、あの時、あっさりと釈放されたのか? を考える内に、浴槽で、眠りについていた。
白い朝
朝、目覚めて、ここが何処か判らなかった。
窓の外には白い霧があるようだが、その部屋はそれに輪をかけて白く、まるでハンマースホイの絵の中に飛び込んだようだ。
もう朝食が始まっていたので、ダイニングに降りると、高級そうな日本人ツアーの人達と出会った。
キャビアも、ふんだんに盛られたビュッフェからたくさんの料理を取り、久しぶりの日本語を聴きながら、朝食を愉しんだ。 そして、コーヒーを飲みながら、新聞に目をやると、第一面の写真に釘づけになった。
それは、2日前に南オセチアで起こった小学校占拠事件が2日間の膠着状態の後、ロシア軍の 特殊部隊が突入して、100名以上もの子供達とテロリスト達が犠牲となった事件を報じていた。
現地紙の他、TIMESやDaily Mail読んで、私は初めて、この事件の概要を知った。
ノブゴロドに向かう列車の中で見た始業式の花束が、そこから南に400km下った土地で血に塗られていたのを知って茫然となった。 そして、その惨劇の背景にある、もっと大きい憎しみの
連鎖に、ロシアが抱える矛盾の大きさを知った。
あの時、この事件が起こっていたから、それ以外の問題をたとえ小さくても抱え込まない、(それが西側に属する人種なら、なおさらだ、)そんな判断でサンクトペテルブルグの上官は渋る部下を叱咤して私を釈放させたのではないか?
そんな考えがよぎった。
バルト海クルーズ
気持ちを切り替え、旅を精一杯楽しむ事にした。
宿の前に広がるバルト海を見たら、市内を周るよりも、この海の向こうに行ってみようと思った。
TALLINKというフェリーに10時に乗って正午にエストニアのタリン港に着いた。港から旧市街までは歩いてすぐだった。 ハンザ同盟の都市の面影の濃い町並みには、つい10年前まではソ連の抑圧下にあった雰囲気など微塵も感じられなかった。 ここから東に行けば、サンクトペテルブルグなのに、国民の意識はEUの連帯へと突き進んでいる。
ラエコヤ広場に着いて、路地を歩き、私の予感が当たっていた事にほっとした。 ロシアとの国境が緩く、西欧からの観光客が来やすい事を結び付ければ、それがあるはずだ、、と考えていた。
北ヨーロッパ最大のイコン市場
店に入って、壁にかけられたイコンの量に圧倒されたのである。 それは、イズマイロボのレベルとは格が違い、中には、ミュージアム・ピースのレベルまで展示されていた。 これは、買って
国外に持ち出す事が出来るのか? と訊くと、店主は「この町は北ヨーロッパ最大のイコン・マーケットなのです。 そしてエストニアはEU圏内ですから、何処にでも持ち出せます」、胸を張って答えた。 私は、千載一遇の機会と思い、昼食を取るのも忘れて、店主達とアラブ流の値段交渉を愉しみ、結局、5軒の店から8枚のイコンを クレジットカードの限界まで使って手に入れた。 重さ20kgに膨れたキャリーを引いて、フェリーに乗り、税関申告も無いまま、ヘルシンキに入国した時には、江戸の敵を長崎で、、と思った。
ヘルシンキ音楽祭
船の中で新聞を読んで、ヘルシンキ音楽祭が
開催中で、今夜は、ハーゲン・クアルテットの公演がある事を知った。 彼らの来日公演の賛辞を覚えていたので、行きたくなったが、今日の今日とて、券が残ってるか? 調べる術も無かったが、ダメモトで行ってみようと、思い、宿に荷物を置き、タクシーを呼んで、運転手に、その記事を見せて向かった。 車は高速道路をひた走って、その町が随分、郊外にある事を知った。竹芝桟橋から新宿に行く位の距離を走って、森の中にある瀟洒なホールに着いた。 当日券のスタンバイをお願いした。軽食を取って、窓口に戻ると、銀髪のおばさんが「今日はラッキーでしたね」と笑顔で25EURのチケットを渡してくれた。 演目は、彼らの十八番のベートベンの弦楽四重奏曲だ。
8月後半から始まるヘルシンキ音楽祭は、若手から巨匠までバランスの取れた人選で、かつ意欲的な演目を組み合わせていて、国外からも来訪者の多い、音楽祭だ。 毎日、市内で2−3のコンサートが開かれ、どれも、演奏家と聴衆が親密な触れ合いが出来るように、小規模のホールが選ばれている。 私の席はハーゲン・クアルテットから、わずか4m位の位置で、彼等の演奏の真っただ中に落とされたような官能を味わった。 幕間に、隣席の英国から来た老夫婦と話すと欧州の中でも、値段が抑えられて、それでいて意欲的なプログラムがあるので、彼等はこの音楽祭に、もう3年も通っているとの事だった。
夫婦は3日後にある五嶋みどりのヴァイオリンコンサートを聴いてから帰国すると云った。 アンコールの演奏が終わったのが、午後10:30位で、それから、彼らと一緒に、電車でヘルシンキまで戻り、車中、音楽談義に花を咲かせた。
真夜中のヘルシンキは多くの建物が内部を薄い明りで照らし、短い夏の景色に華やかさを与えていた。 中央駅から、路面電車に乗ってホテルに向かいながら、この1週間のジェットコースターのような日々を思い出した。
こんな思いをしても、私はロシアが好きだ。
モスクワのような都市を歩く時には「親切」という言葉を期待してはいけないが、田舎に行けば、トルストイの童話に出てくるようなお爺さん、お婆さんを見て、この国の人々の懐の広さを好きになるはずだ。 果物に例えれば ざくろ に似ているかも知れない。外側は無骨で、食指を拒むような堅い皮に包まれているが、一皮を剥くと、その中には真っ赤な宝石が詰まっているからだ。
この国には、私の知らない愉しみが、そして私の知らない悲しみが、まだまだ、あるのだ、それを知る為に、また旅してみたい。
サンクトペテルブルグの画家はその後、どんな絵を描いているだろう? あの町に戻り、その新しい絵に出会うのが、彼への返礼かも知れない。そう振り返りながら、2004年の夏の旅は終わった。
追記: その後、ロシアはグルジアに侵攻し、再び大国の牙を剥き始めた。チェチェンでの特務機関の殺戮を報道した女性記者は頭部を狙撃され暗殺された。ロシア検察庁は、これを未だに立件していない。
2009年現在、私はロシアを再訪していない。
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