2008/04/11 - 2008/04/11
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フロッガーさん
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ちょっと前の話になりますが、先週末に家の用事で喜連川の庁舎に行っていました。喜連川町はさくら市という宇都宮の北にある町です。
その庁舎は目立つ大手門が目印です。隣のお丸山公園は桜の名所として、早乙女の桜トンネルと共に喜連川の桜の名所です。
ちょっと満開を過ぎた時期だったのですが、下から見るとまだ結構咲いているので上まで登って行って見る事にしました。庁舎側からは「シャトルエレベーター」というケーブルカーのような物があって山頂まで行くことができます。自分はせっかくなので歩いて上まで登りました。ちなみに、山頂側に駐車場があるのでそのほうが楽です(笑)
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役場駐車場。大手門と、左奥が庁舎です。
お丸山公園は文治二年(1186)塩谷惟広によって築城された城跡です。塩谷惟広は源義経の軍に従軍し「源平合戦」において功績を挙げました。その後、源頼朝から塩谷地を与えられ城を築いたのが喜連川城の始まりとされています。この城は倉ケ崎城と言い、通称は喜連川城と呼ばれ以後天正の頃まで歴代の塩谷氏の本拠地となっていた場所でした。天正十八年 (1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、当時の城主塩谷惟久は参戦する機会を失っていました。そして惟久は秀吉の怒りを恐れて行方をくらませたために、惟広以来17代・400年超続いた喜連川塩谷氏は滅亡することになったのです。 -
そして、喜連川の地は後に喜連川家の本拠地になりました。喜連川家は足利尊氏の血筋であり、足利将軍家の末裔として江戸時代には徳川幕府・特に徳川家康から信任され、喜連川藩が置かれていました。古河公方に習って喜連川公方と呼ばれた格式高い家柄でした。喜連川氏は五千石の家級でしたが、徳川幕府はその石高の中で唯一の大名として格式上十万石・実高は一万石を与えて「高家」として厚遇したそうです。喜連川氏は幕末になるまで15代続きました。
麓の、シャトルエレベーター乗り場のすぐそばにはお茶屋さんもあります。 -
現在の喜連川庁舎がある場所は喜連川家の居館跡になります。大手門は平成三年に復元されました。居館や陣屋は明治九年(1876)に焼失しましたが、この庁舎とその奥にある図書館・体育館がある一帯が敷地だったそうで、かなり広いものだったそうです。
で、シャトルエレベーター。歩いて登っていくすぐ横を通ります(^▽^;) -
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そして、中腹まで来ると橋があって市街地を見渡せます。
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振り向くと、スカイタワーが見え始めます。
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そして、スカイタワーの場所まで。ここが山頂で、売店や駐車場もあります。
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公園内では、しだれ桜も満開でした。
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とりあえず、スカイタワーの下には2本の桜が植わっていて満開でした。
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そしてお丸山公園から帰る途中に早乙女の桜トンネルを通るのですが、近くを歩いた事がなかったので行って見る事にしました。
近くで見ると葉桜になりかけで 4割くらいは散ってしまっていましたが、菜の花が満開で遠目からは綺麗でした('-'*) 下から登ってトンネルの上に出たのですが、歩道がないので怖かったです。車に乗ってるとわからないものですねぇ(;´▽`A``。 -
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喜連川神社の参道から早乙女の桜トンネルを見ている狛犬です(笑)
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