
2008/10/13 - 2008/10/13
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しんちゃんさん
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二宮尊徳が亡くなる前に言いました「余の死近きにあるべし、余を葬るに分を越ゆることなかれ。墓石を立つることなかれ。碑を建つることなかれ。ただ土を盛り上げてその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにてよろし。必ず余の言に違うことなかれ。」と言ったそうです。二宮尊徳終焉の地を、いつか訪問したいと思っていました。亡くなってから、154年経った現在ですが、苦労した開墾の跡と記念碑が残っていました。写真は「報徳仕法農家住宅」といわれ、二宮尊徳の意思を継いだ子、弥太郎「二宮尊行」が吉沢村の金助のために建た簡素な作りで農業生活の機能を重視した「報徳仕法」の考えを重視した農家です。
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報徳二宮神社に見学に行きました。
「今市田植唄」がありました。「至誠 勤労 分度に 推譲 報徳教えは 今市の宝」 -
「報徳二宮神社」御祭主(主神)二宮尊徳命
【―中略、晩年の嘉永六年(1853年)徳川幕府の命を受け旧日光神領八十九カ村の復興に尽力し、安政三年(1856年)報徳役所にて七十歳で逝去され、手厚く埋葬された。即ち、『栃木県史跡二宮尊徳の墓』である。葬列は報徳役所のある春日町より続いたという。】続く -
続きです【その後、尊徳終焉の地であるという全国唯一の由緒を持つこの霊地に明治三十一年神社が創建され、今日まで学問・経営の神様として信仰されている。尊徳命の建て直しの方法は「報徳仕法」と呼ばれ普遍性を持つことから、政治経済に携わる人々にも大きな影響を与えた。また全国に報徳社が結成され弟子たちによって継承された尊徳命の思想は「報徳運動」として実践されている。】報徳二宮神社 社務所説明版より
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社務所【二宮尊徳翁遺訓「人生れて学ばざれば生れざると同じ 学んで道を知らざれば学ばざると同じ 知って行うこと能はざれば知らざると同じ 故に人たるもの必ず学ばざるべからず 学をなすもの必ず道を知らざるべからず 道を知るもの必ず行はざるべからず」】報徳二宮神社の掲示板に掲げてありました。
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【昭和32年8月27日指定栃木県指定史跡「二宮尊徳の墓」1基 昭和32年8月27日指定「二宮尊徳(1787〜1856)は江戸時代末期の農政家・思想家であり、相模国足柄下郡栢山(かやま)村(現神奈川県小田原市)の農家に生まれ、通称を金次郎、尊徳と称した。尊徳は、勤倹力行(きんけんりっこう)して藩家老家再興をした手腕を買われ、文政4年(1821)に小田原藩主大久保忠真(たださね)の命を受け、下野国桜町領の荒村復興を実施することになり、その後半生を下野で過ごすこととなった。桜町領を復興させたことにより、各地で教えを乞われ指導し著しい効果を挙げ、現在でも水路等の成果が各地にのこっている。これらの実績により幕府に日光神領89ケ村の復興を命ぜられ復興開発方法書を書き、嘉永6年(1853)には今市に報徳役所を設置して日光神領復興に全精力を注いだ。しかし、安政3年(1856)に事業半ばで報徳役所において70才で死去した。今市の如来寺で埋葬が行われ、現在の地に埋葬された。】説明版からです。
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二宮尊徳の言う通り「墓石を立つることなかれ。碑を建つることなかれ。ただ土を盛り上げてその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにてよろし…」忠実に守ったお墓でした。
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二宮尊徳のお墓です。質素、堅実、誰のために何をしたのか?有名人のお墓とは思えない、飾らないお墓!!思わず唸ってしまいました。
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お墓の南側にある銅像
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「報徳文庫」と称して博物館がありました。入館料300円
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尊徳文庫の鍵を開ける準備をする巫女さん。【「二宮尊徳翁遺訓」「水車の回るは半ばは天道にして半ばは人道なり」翁曰はく、それ人道は言ふれば、水車の如し、その形半分は水流に順ひ、半分は水流に逆うて輪廻す。丸に水中に入れば回らずして流れるべし、また水を離るれば回ることあるべからず。それ仏家にいはゆる知識のごとく、世を離れたるごとし、また凡俗の教義も聞かず義務も知らず、私欲一遍に着するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。ともに社会の用をなさず。故に人道は中庸を尊ぶ。水車の中庸はよろしきほどに水車に入りて半分は水に順ひ半分は流水にさかのぼりて運転滞ほらざるにあり、人の道もそのごとく、天理に順ひて種を蒔き、天理に逆うて草を取り、欲に従ひて家業に励み欲を制して義務を思ふべきなり。 今市報徳二宮神社】
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「報徳文庫」二宮尊徳博物館【「交際の道は碁将棋にならえ」二宮尊徳翁遺訓より 翁のことばに、交際は人生に必要なものだが、世間の人は交際の道を知らない。交際の道は碁将棋の道にのっとるのがよろしい。将棋の道というのは、強いものが駒を落として、相手の力と相応する程度にしてさすのだ。はなはだしく差のある場合には、腹金とか歩三兵というまでにはずすのだ。これが交際上必要な理法であって、自分が富んで才芸があり、学問がある場合に、先方が貧しければ、富をはずすがよい。先方が才能がないならば、才をはずすがよい。無芸ならば芸をはずすがよい。無学ならば学をはずすがよい。これが将棋をさすときの法であって、このようにしなければ交際はできないのだ。また、自分が貧しくて、才能がなくて、無芸無学ならば、碁を打つときのように心得るがよい。先方が富んだ人で、才もあり学もあり芸もあったら、何目も置いて交際するがよい。これが碁の道だ。こういう理法は、碁将棋の道ばかりでなくて、人と人と相対するときの道も、これに従うべきものだ。今市報徳二宮神社】
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「如来寺」「今市報徳二宮神社」より北側歩いて5分くらいの場所にあります。
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「如来寺」本堂
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下野第四番札所「聖観世音」如来寺境内にあります。
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「如来寺」扁額
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「報徳仕法役所跡」二宮尊徳59歳、、弘化一年(1844年)日光神領復興見込み調査を命じられる。次の年「日光神領復興仕法雛形六十四巻」を幕府に提出する。67歳嘉永六年(1853年)日光神領復興仕法着手の命を受ける。69歳、今市の報徳仕法役所が完成、入居する。この場所がここです。役所の建物は残っていません。倉だけが残っています。現在の建物は昭和33年に加藤武男氏が寄贈したものです。
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「報徳仕法役所跡」の「二宮尊徳廻村の像」昭和30年(1955年)没後百年を記念して銅像建設発起人会が発足。栃木県下小中高学校職員生徒より寄進を仰ぐ。同年十一月十七日除幕式。費用百万円。
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「報徳役所書庫」あるいは「仕法役所書庫」有形文化財、今市報徳振興会館参観資料より転記します。【二宮尊徳が嘉永六年(1853年)日光神領の復興を命じられ、安政二年(1855年)に報徳役所60坪を建築したとき、土蔵書庫が狭小のために拡張したのがこの書庫である。石材は地元の板橋石(大谷石に似ている)で、同所の六左衛門が運搬した。大工、左官等、延べ413人で建築した防火施設である。収蔵された十五年間にわたる仕法記録一万巻は、戊辰戦争の時、福島県相馬に避難した。書庫は明治五年以後転々とし、最後は栃木市の小江沼家に買い取られたが、小江沼家が市に寄贈、百年祭を機にここに復元した】報徳道研修「いまいち一円会編」より、参考にさせていただきました。A4版により約38頁の立派な資料を無料で頂きました。ありがとうございました。
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「報徳役所書庫」あるいは「仕法役所書庫」は安政六年(1859年)完成。間口2.5間、奥行き2間、延坪10坪、当時の経費73両だそうです。
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昭和33年に加藤武男氏が寄贈した建物は「今市報徳振興会館」と名前が付けられました。当時は結婚式をここで挙げられた方々が多数いたようです。加藤武男氏は今市市小代(こしろ)出身で、この建物を寄付した跡地に別荘を建て現在は敷地建物を市に寄贈。地元の方々が建物を利用して「小代行川庵」(こしろなめかわあん)と言うお蕎麦屋さんを経営。広大な敷地は駐車場付き大きなケヤキの木が立ち、お蕎麦屋とは思えません。池には鯉が泳ぎ、料亭並みです。旨い事請け負います。話がそれました…
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現在でも「今市報徳振興会館」には竃(かまど)が残っており、某放送局の番組でも使用され放映されているそうです。4個のかまどは中々ないぞ!ご飯を食べて見たい!
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中庭に面した廊下には二宮尊徳の歴史等掲げられていました。首が疲れる!
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「無利息金証文」野州河内郡轟村13人が連盟で証文を書きました。拾両でしょうか?達筆で読めない!一両は現在の1000万円くらいだそうです。
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十三人の名前と印鑑、証書はコピーですが、どうしてか分かりますか?
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【報徳役所に於いて先生並(並びに)に門弟の使用なせしものなり 寄贈者今市市轟(とどろく)狐塚トミ】貴重な机が展示してありました。
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栃木県南東部、四地区の報徳仕法地の説明版、桜町(さくらまち)、茂木(もてぎ)、烏山(からすやま)、東郷(ひがしごう)、合計91村(4箇所は茨城県)石高合計80000石、二宮尊徳36歳から66歳までに行われました。
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報徳仕法地の北東部、日光89村20965石高、尊徳67歳から没年まで。東郷(ひがしごう)地区はダブルため略。
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昭和33年に加藤武男氏が寄贈した「今市報徳振興会館」と、市から説明を委託された方です。名前を聞くの忘れました。説明ありがとうございました。「退職前は先生ですか?」大体この様な方々に多い職業を聞きました。「サラリーマンです」違った!
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正面玄関、見学は使用人が使用する“使用人玄関”を利用します。
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東側に広がるガラス戸、大広間が二間あります。
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「二宮堀」が残っているというので、見学に行きました。詳しい地図が無いので地元の方に聞きました。
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道祖神の裏手に小川がありました。岸はコンクリートで固められ、流れは速く昔の面影は、あまりありません。
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「二宮堀」日光市、七里〜野口〜和泉〜平ケ崎〜千本木という村々を通り安政一年(1854年)完成しました。6.3Kmあるそうです。
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「馬力神」「十九夜塔」等は判読できましたが、古い物は無理でした。
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「二宮堀」耕地整理等で流れは変わっていると思いますが、小川にしては水量は多いでした。
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下流に「水神碑」があるというので探しに行きました。「これか!」違いました。新しい道が出来ており、移動したかな?地元の方2人に聞きましたが「水神碑?」「知らないね!」
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川は「田川」と「二宮堀」がありました。川を間違えました。「二宮堀」はJR今市駅西側400m位の住宅地にありました。原町公民館の敷地にポツンと立っていました。
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「二宮堀」工事:嘉永七年(1854年)閏七月五日−二十三日。全長:二五一八.五間(4.6km)、野口落水堰−千本木行川(なめがわ)。人足: 村四五九人、破畑六二七人、合計一〇八六人。 経費:48両二分二朱余。日光御神領仕法中、最長の用水堀。地元の熱望に応え、二宮弥太郎の綿密な設計、指導により完工した。文政以来の畑田成の願望が成就し、二三四町歩を潤し、一六三戸の生活を向上し、現在も恩恵に浴している。昭和52年10月日光市教育委員会寄贈。今市ロータリークラブ。
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家の家の間を縫うように流れていました。
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上流は原町公民館の下に隠れていました。
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「二宮堀」「水神碑」漢字が…右側には“嘉永七甲寅歳六月十四日”と彫られています。
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「二宮先生開墾の地」記念碑を探しに行きましたが、これまた大変!案内書には今市第二小学校交差点にあるように記入してあります。「あった!」でも違いました。
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今市第二小学校に入ってみれば、なにかヒントがあるかな?
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小学校に入ってみましたが、休日のためサッカーで遊ぶ子供はいただけ。二宮金次郎銅像が西口にありました。
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校庭の南側、国道121号沿いにある「庚申塚」これまた違う!地元の年配の方2人に聞きましたが「知らないね〜〜!」
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根性で捜しました。どこかに絶対あるはずだ!今市第二小学校、校庭の東側にありました。
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説明版からです【「二宮先生開墾地記念碑」(今市・瀬川入会地の大開発地)期間:安政六年(1859年)九月八日〜十一月十二日。入用金:百六十一両余、所要人足、四千二百四十二人。開発面積:五町五反四畝一五歩(約55ヘクタール)(5.5の間違いでは?)二宮尊徳の指導の下に行われた日光神領の報徳仕法(農村復興仕法)では、荒地起返(おきかえ)し(荒地化した元耕地の再開発)を中心に、併せて地味の良い有望な未開発の新規開発も積極的に進められ、合わせて二十五町四反八畝四歩が新たに耕地となった。】続く
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続きです【今市・瀬川入会地の開発は、報徳仕法最大の開発地で、南側に隣接する今市大谷向(だいやむこう)の大開発地(安政六年十月二日〜翌年五月十三日、五町四反四畝二七歩とともに十町歩余(ほぼバイパスの両側)が神領随一の美田に生まれ変わったのである。この記念碑は、昭和十年(1935年)に今市農会が建立した。平成九年十二月 今市市教育委員会】バイパスは新しいバイパスが完成しています。
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旧バイパスの両側に美田への開発地も現在は商業施設が立ち並びます。見学は駐車場がないため、隣のスーパーマッケット等の駐車場を借りましょう!
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説明版からです【「日光市指定 有形文化財(建造物)「報徳仕法農家住宅」木造平屋 建坪三十坪 間口七.五間 奥行四間 この建物は、二宮尊徳が日光神領の農村復興に成果を挙げた尊徳仕法の轟村一村式仕法による農家である。二宮尊徳の意思を継いだ子弥太郎(尊行)が、農家の再興を相続した金助のために、慶応元年(1865年)に建てた住宅である。】
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説明版より?【この恩典に発奮した金助は、連年開発に励み見事に再興を成し遂げ、さらに夜業の縄(なわ)ないを八年間続け、二両を受領している。これも「小を積んで大を為す」の報徳原理の実現として興味をひく。母屋の内部は、十九.五坪の四間の板敷と十.五坪の土間に馬屋があり、簡素な造りは農業生活の機能を重視した報徳仕法の考え方によるものである。もともとは轟の大嶋家屋敷に保存されていたが、県道拡幅により移転が必要となったため、同じ豊岡地区のこの地に移築したものである。】
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説明版より?【大黒柱や梁材等使用できるものはそのまま用い移築した。屋根材については、当時は茅葺(かやぶき)であったが、防火および維持管理上鋼板を使用した。このような農家は、江戸時代の一般的な住居であり、当時の農家生活の状況をうかがうことができる民族学上の好資料でもある。平成二十年 日光教育委員会】
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馬小屋は同じ家屋にありますが、牛小屋は別の建物だったような気がします。馬は貴重だったのでしょうね?
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一番奥(西側)の二間、八畳間が二部屋あります。
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普段は小さな戸から出入りするのでしょうか?天気の良い日は一回り大きな戸を空けたのでしょうか?
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「報徳仕法農家住宅」木造平屋は日光市(旧今市市)「かたくりの湯」駐車場にあります。住所は日光市町谷1866番地1にあります。
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