2008/02/23 - 2008/02/23
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くりぼさん
勝頼公最後の城である新府城から武田家終焉の地、天目山を巡りました。戦国最強を謳われた武田家落日の足跡です。
おぼろなる 月もほのかに雲かすみ
はれてゆくえの 西の山の端(勝頼公辞世の句)
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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天正三年。武田信玄の子、武田勝頼率いる戦国最強と謳われた武田騎馬軍団は、設楽ヶ原(長篠)の戦いにて織田・徳川連合軍の鉄砲に破れ、再起不能となるほどの大打撃を被りました。これより6年ののち、武田家は相次ぐ家臣団の裏切りにより、崩壊を迎えることになります。
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写真は新府城の碑。
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織田軍の攻撃に備えて勝頼の採った策は、堅固な城による甲斐の防衛でした。天正九年、釜無川七里岩断崖上に『新府城』を築きました。築城担当は戦国一の謀将、真田昌幸。二つとない堅固な城となる予定でした。しかし信玄公以来、『人は城・人は石垣・人は堀…』と領内には一つも城を築かなかった武田家がこのような行動に出たことは、とりもなおさず内外のその勢力の衰えを示すこととなり、また昼夜問わない突貫工事は領民の怨嗟を招くこととなりました。 -
写真は新府城付近の看板。
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築城担当は真田昌幸。父は信玄の信濃攻略で活躍した知将、真田弾正幸隆。また息子は大阪の陣で家康を追い詰めた『日ノ本一の兵』真田幸村。また自身も、こののちの関ヶ原の戦いでは上田城に籠りわずか数千にて10万の徳川秀忠軍を足止めしたという戦国最強の謀将。その昌幸の築いた新府城は天然の要害を利用した平山城で、堀の中に突き出た出構えや本丸と二の丸の間の防御用のしととみの構えなど、真田忍軍の戦闘ならではのゲリラ要素満載のカラクリを内蔵していました。 -
写真は道路横の看板。
武田滅亡後徳川家康が再建しましたが、家康はその後北条氏直との戦いでこの城を使用、5倍の敵方を圧倒したそうです。 -
写真は新府城を脇の道路から撮影。
この堅城に籠もっていたなら、ひょっとしたら・・・岩殿の小山田信茂もこのときはまだ臣従していますから、新府-岩殿で連携し持ちこたえ、上杉景勝の援軍を待てばあるいは・・・
歴史に『もしも…』はタブーですが、武田ファンは数々の場面で絶対にそれを思いますよね。
川中島の兵力が温存できていたなら…
三方ヶ原で家康を討ち取っていたなら…
信玄があと1年、生きていたなら…
設楽が原決戦前に長篠城が落城していたなら… -
写真は新府城。
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勝頼は織田徳川連合軍をここ新府城で迎え撃ち、潔く玉砕しよう、と心に決めていました。しかし家臣の小山田信茂は猛反対。この城を捨て小山田領岩殿城へ向かうことを強く勧めたのです・・・
一方築城者の真田昌幸は、『向かうなら上州(群馬県)吾妻城、岩殿は危険である』と説きましたが、勝頼家臣は武田の主君が甲斐を出ることを嫌いまた信濃衆の真田は敵方に寝返る可能性があるとして、意見を入れないばかりか昌幸の岩殿への同行をも拒否したのです。
古府中を出るときは1万人だった軍勢が、このときわずか700名となっていました・・・ -
写真は新府城の階段道路脇より撮影。
勝頼公はじめ武田武士の無念さを思うと、少し怖くなり上には登れませんでした。私には霊感などありませんが、この雰囲気はほんと、怖かったです。
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うつつには思ほえがたきこのところ
あだにもさめぬる 春の夜の夢(北条夫人:この城に暮らしていたのは春の夜の夢ほどもない)
移り住んでから、わずか3ヶ月のことでした。 -
勝頼は苦心して作りあげた新府城を、『敵に利用されるくらいなら・・・』と火を放ち、小山田信茂の治める岩殿城へ向かいました。この時織田徳川連合軍は古府中になだれ込み、武田勢の掃討を行っていました。
勝頼一行は刻々と伝えられる悲報を聞きながら、寺に泊まり山をさまよい、一路岩殿城を目指しました。その間、供の兵も逃亡が相次ぎ、女や子どもを含め100名足らずとなっていました。
・・・いつの間にか、同行していた小山田信茂の姿もなくなっていました。しばらくして勝頼に伝えられたのは小山田の裏切りでした。もうどこにも行くあてのない勝頼が向かった先は、武田家ゆかりの(かつて武田の先祖が一度滅んだ場所・・・)天目山だったのです。 -
武田家終焉の地、天目山、田野。
ここ景徳院には武田勝頼公、北条夫人、信勝公
および将兵や侍女あわせて50名の墓があります。 -
写真中央が勝頼公(37才)、右側が北条夫人(19才)、左側が信勝公(16才)のお墓。
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勝頼公生害石。
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三月十一日、一行は天目山のふもとにおいて、勝頼を探す織田勢滝川一益軍と遭遇しますが、もはやそれは戦闘と呼べるものではありませんでした。最後を悟った勝頼は配下の土屋昌恒に『如何にぞ土屋、敷皮を敷直せ、いざ割腹せん』と言えば土屋も『ご承知仕る』と介錯の構え。その後勝頼は瞑目読経、田野の露と消えました。一時は甲・信・駿・遠を勢力下におき、戦国最強を誇った武田家は、ここに終焉します。
おぼろなる 月もほのかに雲かすみ
晴れて行方の 西の山野の端 (武田勝頼辞世の句)
面影の みおしはなれぬ月なれば
出づるも入るも 同じ山の端 (土屋昌恒返歌) -
北条夫人生害石。
甲府駅前の風林火山展(2008年1月をもって終了)で展示してあった『北条夫人の手記』を思い出さずにはいられませんでした。これは夫勝頼の武運長久を祈って書かれたもので、勝頼を思いやる純粋な気持ちがしみじみと伝わってきて、涙なくしては読めませんでした。一説によると、勝頼は新府城の時点で小山田の裏切りに気付いており、しかしそれを知りながらもあえて都留岩殿方面へ向かったのは、夫人を北条家へ逃がしてやるためだったとも言われています。美しい夫婦愛が一層寂しさをかきたてます。
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黒髪の乱れたる世ぞ はてしなき
思ひに消ゆる 露の玉の緒(北条夫人辞世の句・19才) -
北条夫人辞世の句の碑。
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滅頭地蔵。北条夫人のご遺骸が葬られていると伝えられます。
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旗堅松。
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最後を悟った勝頼は、この松の下で嫡男信勝に武田家伝来の家宝『盾無の鎧』を着用させ、撰甲の礼を執り行ったあと、処しました。 -
姫が淵の絵。北条夫人最後の様子が伝えられています。
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姫が淵の碑。
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土屋惣三 片手千人斬の碑。
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勝頼公の目前に迫り来る織田・徳川勢を、土屋昌恒は身を顧ず防ぎました。片手で蔓をつかみ、片手で敵をなぎ倒す勇姿は、『土屋正恒片手千人斬』として後世に伝えられております。 -
武田慕情の碑。景徳院境内にて。
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近くのそば屋、砥草庵。風情ある佇まいです。
天目山はそばの名所でもあります。 -
名物十割そば。見事なおいしさ。ご主人もとてもいい方です(写真は一日限定20食、十割そば大盛\1200)。
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その後、勝頼を裏切った小山田信茂は織田軍大将織田信忠に『古今未曾有の不忠者』とされ処刑されました。一方忠義を貫いた真田昌幸は上州へ逃れ、本能寺の変後徳川家康に従うことになります。
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敗軍の足跡を辿る史跡めぐりも、なかなか味がありよいものです。勝頼公、ぜひ次回の大河ドラマに取り上げてほしいですね。では、今宵はここまでにいたしとうござりまする♪
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