2007/10/12 - 2007/10/14
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satoshi.s2さん
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高知旅行とお墓参りをして来ました。
一日目
→名神茨木IC・瀬戸大橋・坂出IC→丸亀城→南国IC→穀(昼食)→高知城→竹林寺→武市半平太旧宅→居酒屋はま→
<娘宅宿泊>
二日目
→天然色市場→奈半利町(グラスボート乗船)→中岡慎太郎生家→北川村温泉(入浴・昼食)→岩崎弥太郎生家→寺尾鮮魚店→尾長鶏センター→
<娘宅宿泊>
三日目
→南国IC→お墓参り→鳴門北IC→鯛丸(昼食・休憩)→名神茨木IC→
岩崎弥太郎
天保5年(1834年)、地下浪人岩崎弥次郎の長男として当時の安芸郡井ノ口村に生まれました。弥太郎はわずか10数歳で他人に漢詩を献じ、書を講じ、14歳の時に、13代土佐藩主であった山内豊照に秀才を認められます。そして21歳の時(1854年)、彼は単身江戸へ遊学に出ました。
生家には、幼少の弥太郎が大志を膨らませたという、日本列島を形どった庭石が残っています。
かなりの勉強家ぶりが伺えますが、幼い頃は、畑を荒らすかなりの“悪ガキ”だったという話もあります。
江戸で勉学に励んでいた弥太郎ですが、江戸へ出てわずか1年、酒席での喧嘩がもとで投獄された父親の事を知り、高知に帰ってきます。そして、父親の免罪を訴えたことにより、弥太郎自身も投獄され、その後、村を追放されます。
村を追放された弥太郎は、現在の高知市鴨田に住み、現在の高知市長浜で少林塾を開いていた吉田東洋のもとに入門し、才能を認められます。
ちなみに、吉田東洋は安政元年(1854年)に不敬罪(主君をないがしろにしたとされる罪)により蟄居(ちっきょ)。翌2年後に開いたのが“少林塾”です。
安政5年(1858年)の吉田東洋の政治復帰と共に、弥太郎は土佐藩に登用されることになります。そして、この頃から長崎へ視察に行き、海外事情を学び始めます。
慶応3年(1867年)、弥太郎は土佐藩の商社である土佐商会の長崎駐在員として長崎に赴任します。翌年には、土佐商会が大阪に移りますが、その後も、知恵と力のある弥太郎は土佐藩の代表者として手腕をふるったと言います。
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
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