1995/03 - 1995/03
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worldspanさん
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ブダペストで体調を崩していたが日程の都合で、予定通り陸路ザグレブへと強行した。 体調の悪い私に追い討ちをかけるように、到着当日の天候は大雪、気温は低くザグレブ初日は身体に堪えた。
当時クロアチアは内戦の最中にあった。ユーゴ国境近くにセルビア人が比較的多く居住する東スラボニア、ボスニアとの国境沿いで同じくセルビア人達が多く居住するクライナ地方はクライナ・セルビア共和国として独立を宣言していた。そのクライナ・セルビア軍はザグレブ近郊の町カルロヴァツが占領、首都のザグレブもその射程圏内に入っていた。ところがザグレブでは不思議な事に戦時体制と言う緊張感を余り感じない。私の訪れた三月は丁度クライナ・セルビア人共和国とクロアチアとの間で停戦協定が結ばれていたせいかもしれないが、しかしこれまでにも停戦が双方から何度も破られ、あってないようなものだった。それでいて平穏に感じるのは実に不思議だ。当時新ユーゴスラビアの列車内には連邦軍兵士が巡回し、テロ防止に努めているのとは全く様相が異なる。
クロアチアでは東西スラボニア及びクライナにセルビア人が多く居住していたのには歴史的背景がある。クロアチア・ダルマチアはオーストリア・ハンガリー帝国領、ボスニア、セルビアはオスマン・トルコ帝国支配下だった。そしてこの国境に当たる東西スラボニア、クライナは両国の緩衝地帯だった。その為オーストリア・ハンガリー帝国はオスマン帝国から逃れてきたコソボのセルビア人をこの地に殖民させ、セルビア人社会が形成されたと言われている。
その後第二次世界大戦ではクロアチアはナチスに組し、ウスタシャと呼ばれるファシスト集団がセルビア人大量殺戮を行い、セルビア側でもチェトニクと呼ばれるファシスト集団が形成され、両者泥沼の殺戮を繰り返した。そして近年クロアチアでは民族主義者トゥジマンがリードし、「クロアチア人のための純血国家」と言うクロアチア人の民族自決権に基づき、91年に独立を宣言し、クライナやスラボニアのセルビア人はこの民族主義の動きに危機感を持ち、自らの自治の為に独立に反対し、内戦へと突入した。
この時私はザグレブで体調が悪化したために、長居することなくオーストリアへと陸路抜けてしまったが、ザグレブで知り合った青年の家族が内戦により引き裂かれた話や、家族が殺された話を聞き、学生生活での研究の方向性を決定つける程の影響を与えられた。
96年内戦が終わりまもなくして、再度クロアチアに訪れた。この時激戦だったカルロヴァツやクライナ・セルビア共和国の首都、クニンを通ることができたが、戦争の傷跡が生々しく残り、声を失うばかりだった。そして余りのショックにシャッターを殆ど押すことができなかった。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー ヒッチハイク
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
-
1995年3月
13世紀に建設された聖マルコ教会。クロアチアは10世紀にクロアチア王国として建国されましたが、その後、クロアチア王国は内紛やハンガリー王国のバルカン半島への伸張もあり、ハンガリー王が兼任する事となります。1102年以後事実上ハンガリーがクロアチアを支配する形になりますが、クロアチアがハンガリーと一定の権利を得るのは1867年のナゴドバ(協定)が結ばれて以後の事です。第一次世界大戦後、南スラブ族の統一が叫ばれていた中でクロアチアはセルビア人やスロベニア人と足並みを揃え、ユーゴスラビア(南スラブ民族の国)を建国します。しかし、トルコ支配にあり、クロアチアやスロベニアと比べると後進地域にあるにも拘らず、政治的にはセルビア人優位に動かされ、クロアチア人には独立まで不満がくすぶり続けます -
96年7月
激戦地になったかつて自称独立国「クライナ・セルビア共和国」の首都だったクニン。古来セルビア人が多く住む地域でした。現在クライナはクロアチア政府に制圧された為、多くのセルビア人はこの地から難民として去っていきました -
クライナ地方ばかりではなく、スプリットやザダールといった、ダルマチアの主要都市近郊の民家もこうした砲撃や銃撃の後が生々しく残った民家が数多く残されていました。
-
96年7月
クライナ地方はクロアチアのボスニアの国境沿いに位置しています。かつてボスニアがオスマントルコの支配を受けていた時、クライナ地方はオーストリア・ハプスブルク帝国に取り重要な緩衝地帯でした。その為、オスマントルコの支配から逃れてきたセルビア人をこのクライナに殖民させたのが、そもそものクライナ地方のセルビア人の歴史の始まりです。セルビア人はクロアチアの91年の独立の時、自治権の剥奪や、圧制を恐れ自ら武装し、セルビア本国の援助もあり、独立を宣言しました。当然クロアチア政府はそれを黙認する事はできず、クロアチアは泥沼の内戦に突入します -
96年7月
内戦で落とされた橋。第二次世界大戦時、ユーゴスラビア(第一のユーゴ)はナチスドイツに解体され、クロアチアはナチスの保護国として「クロアチア独立国」となりました。当時のクロアチアではファシズムが横行し、ウスタシャと呼ばれるファシズム集団達は、「セルビア人狩り」を行い、多くのセルビア人は彼らにより虐殺されてしまいます。もちろんセルビア人の地域ではその逆もあったわけですが、クライナのセルビア人たちはこうした暗い過去が呼び起こされ、それを政治が利用した為に再び同様の民族浄化の内戦に突入
する事となりました。 -
96年7月
橋が落とされた為、こうした仮設の浮き橋を利用して渡ります。当時まだ地雷撤去もままならず、滞在した民家の主人に、地方に行く時は絶対に道路から外れた場所を歩かぬように注意をされました。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 56さん 2014/11/23 06:43:23
- 中欧史
- worldspanさん
おはようございます。
クロアチアの旅行記を読んでくださって
ありがとうございました。
短い旅行期間中に、せめて1つくらい
紛争の爪あとを目に焼き付けようと
思っていたのですが、機会がとれませんでした。
ちょっとは歴史をと思えど、複雑で理解度は
低く、唸っていたところでworldspanさんが
「中欧史」専門だったことを思い出して
お邪魔しました。
この国を歩いて、人と話してからもっと
この国のことを良く知りたいなと思いました。
スプリットの旅行記、情景が思い浮かぶよう
です。きゅうりの天ぷら+お砂糖は思い出の
味ですね〜
56
- worldspanさん からの返信 2014/11/24 17:05:37
- RE: 中欧史
- 56さん
こんにちは。
コメントありがとうございます。
私がクロアチアに訪れたのはちょうど戦争中だった95年と、終戦後数か月後の96年、そして2003年でした。
95年の頃はザグレブから60キロ離れたカルロヴァツという町はクライナ・セルビア人共和国の勢力に占領され、その後の奪還時にも激戦となったので、戦争の跡が残っていると思います。ちなみに戦時中にザグレブに訪れた時はとても静かでした。とはいえ、カルロヴァツを占領したセルビア人勢力から砲弾が撃ち込まれ、95年5月にはザグレブでも死傷者が出たことは記憶にあります。
96年に訪れた時にはプリトヴィツェ周辺もクロアチア軍とセルビア人勢力が争っており、地雷原になっており、クロアチアでは市街から離れた場所では絶対に道路から外れた場所を歩いていけないと言われていました。今は大丈夫たと思いますが・・・。
一番印象に残っていたのはザダール周辺やクライナ・セルビア人共和国の首都クニン、といった、スプリットからザグレブに向けたルートでの黒こげになった民家をいくつも見かけた時には声を失ってしまいました。
今でもザダール周辺は銃弾跡などは多く残っていると思います。
因みに少しだけ写真を撮っているので、以下に掲載しています。
http://4travel.jp/travelogue/10132315>
worldspan
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