1995/03 - 1995/03
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worldspanさん
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95年3月、新ユーゴスラビアのニシュに滞在後、陸路列車でベオグラードに向かった。当時ボスニアとクロアチアとも戦時体制だったが、新ユーゴ(第三のユーゴ)は、同族のセルビア人が戦火をまみえているにも拘わらず、テロの抑止のために列車には絶えず連邦軍兵士が巡回にあたってはいたものの、首都ベオグラードは、隣国の2国で泥沼の戦争をしているとは思えぬくらい落ち着を払い平穏だった。そして経済制裁の最中にあるにも拘わらず品物もあふれている。
だがベオグラードの安宿は戦争の影響がモロに露出していた。シングルやツインルームはセルビア人の需要があるみたいだが、8人用のドミトリーの5部屋は全て空室、私一人が独占状態だった。当時のユーゴはドイツ・アメリカ主導で経済制裁が断行され、先進諸国の欧米人がユーゴに入国する事が困難だった。更にユーゴはボスニアやクロアチアのセルビア人勢力への支援国家である烙印を押されていたので、外部からの旅行者はほとんどいない。
そんな中、セルビア人の日本人への反応はどうかと言えば、大変好感を持たれ、自分が日本人だと分かるとセルビア人達は大変親切になった。元々ユーゴスラビアはチトーの時代から日本との親交があり、セルビアに限らずクロアチアでも親日家が多い。そして更にボスニア内戦では国連やNATO軍が反セルビア色が強くなる中、明石康事務総長特別代表が中立を維持していた為、セルビア人にとり日本人に対する印象はとても良かった。
そしてセルビア人に話しかけられる時には明石さんの話題がしばしばのぼった。明石さんがボスニアのセルビア軍への空爆を阻止していたために、ムスリムに対するセルビア人の虐殺を招いたとして、NATO諸国の中では評価されていないが、実際には中東の石油利権のためにムスリム勢を支援するアメリカと、クロアチアを支援するドイツがセルビア軍への空爆を強く求め、あくまで中立路線にこだわる明石さんの足を引っ張り、思うよう仕事をさせなかった事を忘れてはならない。またこうしたNATO諸国の思惑により、国連の無力さも露呈した。
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 タクシー ヒッチハイク
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
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2003年12月
日本政府からの援助で送られたバス。日本とユーゴスラビアは以前より比較的良好な政治関係があり、ボスニア内戦ではクロアチア・ムスリム側を贔屓する欧米に対し国連の明石氏はセルビア人、ムスリム人関係なしに平等な目で見ていたという評価もあり、日本人に対し大変好意的に受け止められています。セルビアは第二次世界大戦では敵国にありながらも大変な親日国家でもあります。 -
2003年12月
空爆された政府官庁の建物。 -
1995年3月
国会議事堂。ミロシェヴィチ政権が倒れる時議事堂周辺では大きなデモが起こりました -
95年当時のベオグラード中央駅。当時ユーゴは経済制裁に喘いでいましたが、見た目には品物があふれていました。
ルーマニアやブルガリアからの闇貿易が横行していたからなのですが、物価はビックリするほど高かったです。 -
1995年3月
中央駅の立派な駅舎。 -
96年当時にはまだ市内に自販機が設置されていました。日本以外の国でこうして路上に自販機が設置されているのはこの地域が治安が良い証拠です。空爆後、この自販機もなくなっていました。
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1995年3月
ベオグラードの新市街地区。共産主義の建物とは思えません。ソ連が旧東欧を支配していた1989年まではユーゴスラビアは東欧圏で最も自由で最も経済力のある国でした。 -
1995年3月
国立美術館、だったと思います・・・。
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