2006/12/23 - 2006/12/23
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フルリーナさん
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昨年に引き続き、
南アフリカの貧民層の方々のためのエイズのホスピスと教育施設
「聖フランシス・ケアーセンター」と
「聖アンソニー教育センター」のために
チャリティーコンサートを開きます。
今回はクリスマスソングなどをクワイヤー・アイノスと能満寺ハンドベル・エコーフラワーズのハンドチャイムが参加します。
私は合唱の指揮をします。
お近くの方、ぜひいらしてくださいね。
会場は国の登録文化財になっています、大谷石づくりの宇都宮聖ヨハネ教会です。
♪12月23日(土)PM3:30開場 PM4:00開演
入場無料、会場で募金をお願いします。
-
先月根本昭雄神父の南アフリカでのエイズの状況などの講演会がありました。
お話は、アフリカ、中国、ロシア・・・に及び、さまざまな大変な状況の報告がありました。
その後、六本木の修道院でさらにお話を伺い、共に祈る時間を与えていただきました。
今日は、そんな中からチャリティーコンサートにむけての準備と祈りとして
根本神父様のお話からご紹介しようと思います。 -
南アフリカは、人口4千万人、じつに、その中HIV患者は500万を超える数です。
2010年までに国民の平均寿命は40歳以下に低下すると予想されるそのエイズの状況は
まさに、大変なものです。
エイズはアフリカ全体が抱える大きな問題であり、
さらにいまや地球規模での大きな問題となっています。
南アフリカのエイズの問題は、
その背景として、大国がもたらした植民地支配の問題・・・貧困やアパルトヘイトがあります。
アパルトヘイトは1948年に法制化され、
もともとアフリカに住んでいた人々は人権をうばられ差別され大きな苦しみを負わされました。
黒人の人たちは、国土の13%にすぎない辺境不毛の地に設けたホームランドといわれるところに住まわせられました。 -
1976年、アパルトヘイト政策を敷く南アフリカ政府は、
白人支配の象徴である「アフリカーンス語」の授業を学校に導入を決定しました。
アフリカーンス語はアパルトヘイトを強化した政府の言語として一般に考えられていたので、
この法令は黒人の人たちを憤慨させました。
そして1976年4月30日、ソウェトの小学校の子供たちが学校へ行くことを拒否してストライキに入りました。
そして彼らの反乱はソウェトの多くの他の学校に広がっていきました。
学生たちは1976年6月16日に、デモ行進を行いました。
*〜*〜*〜
1976年6月16日の朝に、学校でアフリカーンス語の学習を強制されることに抗議するため、
何千という黒人学生がデモ行進のために集まった。
多くの学生はこれから何が起こるかを知らずに登校し、その朝になってデモ行進について知ったが、
大部分が参加に同意した。
抗議は平和的に行うよう意図されており、より広い黒人意識運動からの支援のもとで
ソウェト学生代表評議会(SSRC)の行動委員会によって慎重に計画されていた。
行動委員会が十分な統制と平和的な運動を強調した後、教師達も行進を支援した。
学生たちは行進を始めたが、
すぐに彼らの計画したルート全体に警察がバリケードを築いていたことが分かった。
行動委員会のリーダーは警察を刺激しないように群衆に依頼し、
行進は別のルートに進んだあとオーランド高等学校の近くで終わった。
3,000から10,000人の学生の群衆は学校のエリアに向かって進んだが、
同時に警察が警察官の増員を要求した。
その後に起こった大虐殺に関して、何がきっかけだったのかは様々な風評がある。
学童が石を投げていたと主張した報告があるが、
抗議行動は平和的で子供たちからは乱暴な行動はなかったと主張するものもいる。
警察は石を投げ始めた学生を散らすために催涙ガスのキャニスターを投げた。
ガスにより群集は少し後退させられたが、彼らは歌いながら
「ビバ・アザニア」、「もし我々がアフリカーンス語を話さなくてはならないなら、
フォルスター(大統領)がズールー語を話さなくてはならない」、
「アフリカーンス語反対」といったスローガンのプラカードを振り回し続けた。
ひとりの白人男性の警官がピストルを引き抜き銃を発射したことで、パニックと大混乱が起こった。
学生が金切り声を上げて走り始めると、さらに発砲された。
最初にヘースティングス・ヌドロフ、次に13歳の子供ヘクター・ピーターソンという具合で、
少なくとも4人の子供たちが撃たれた。
彼の死体を撮った写真は警察の暴力のシンボルになった。
学生がパニックになったため暴力はエスカレートした。
政府が黒人を統制するためにアルコールを使っていたと多くの人が信じていたために、酒屋とビヤホールが襲撃された。
救急車が往復するに連れ、救急病院は傷ついて血まみれの子供たちで一杯になった。
収容された子供たちのほとんどすべてが銃弾傷を受けていた。』
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)「ソウェト蜂起」より引用』) -
*〜*〜*〜
この「ソゥエト蜂起」で約200人もの子供たちが犠牲となり銃を受け亡くなりました。
そしてこれに怒った多くの市民が政府が子供たちを殺したことに講義し、
また、白人の学生たちも政府に対する抗議の行進を行いました。
そしてこの悲惨な出来事は多くの国で報道され、南アフリカは、多くの国々から非難を浴びていきました。
「このできごとは、子供たちが彼ら自身の中で考え、話し合い、炸裂していった出来事でした。
町中が、抗議で集まったこどもたちで埋めつくされました。」
そうおっしゃいながら、根本神父様は、この時の子供たちの写真を見せてくださいました。
銃に撃たれ、叫び声が聞こえてくるような悲しい写真でした。
そして暴動の後には、街は血まみれになった子供たちでいっぱいになったそうです。
しかし、この子供たちの犠牲は、アパルトヘイト終焉にむけてのはじまりとなりました。
彼らの尊い命の一つ一つの犠牲が、アパルトヘイトという大きな壁を崩していったのです。
南アフリカはこのような悲惨な歴史を繰り返しながら、次第に変わっていきました。 -
しかし、アパルトヘイトの弊害はいまだに克服されずに
多くの黒人の人たちは、ひどい貧困から抜け出せずにいます。
貧富の差は広がり、貧しい人々はスラムの中で、大変な生活を送っています。
多くの問題がありますが、もっとも重要なのは「いのちの教育」だと根本神父様はおっしゃいます。
これからの未来を背負っていく子供たち・・・そこに希望があると。
しかし、スラムに住む黒人の子供たちには教育を受ける余裕はありません。
そこで根本神父様が働かれていた施設のひとつ「聖アンソニー教育センター」では
スラムの子供たちが無償で教育を受けられる学校です。
政府からの援助もあるようですが、継続してなされているものではないらしく、
援助がストップしては交渉を続け、何とか再開し、
「ことしは学校を閉めずにすんだ・・」という、学校をいつ閉めなくてはならないか・・・
という綱渡りのような状態での教育支援のようです。
(このかわいい子供たちも今は全員亡くなったそうです) -
若い人々は家族のために都会に出て働きます。
そして、家族の生活を支えるために体を売ってお金を得る女性もいます。
そんな中でエイズは爆発的に増え、
潜伏期間が長いエイズは、キャリアだと気づかないままに結婚し、母子感染としても大きく広がってしまっています。
エイズ孤児の数も大変な数にのぼります。
根本神父様はおっしゃいます。
「今、神様が私たちに必死に何かを求め、訴えられているように思うのです。
・・・愛とは何か・・・・ 平和とは何か・・・
今、私達は核戦争の影にも覆われつつあります。
しかし、みんなで何かを求め続け、連帯していけば、
何かの形で<大きな力>になっていくのではないでしょうか・・・」
そうおっしゃいながら、南アフリカで、アパルトヘイトの後の処理問題として行われた
とても珍しい、そしてすばらしい人間の可能性を感じさせてくれる
「真理と和解委員会」についてのお話をなさってくださいました。 -
アパルトヘイト後、南アフリカはさまざまな犠牲と苦しみのもと、新しい道を模索始めます。
その先頭となって指導して行ったのはN・マンデラ氏です。
マンデラ氏は、1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党し反アパルトヘイト運動に取り組みました。
そかしアパルトヘイト政策はさらに厳しくなり、1956年にはANCなどのメンバー156人が逮捕され、
さらに1960年には警官がデモ隊に発砲して69人の非武装の黒人が殺されるシャープヴィル大虐殺が発生しました。
そしてANCのリーダーだったマンデラ氏は62年には逮捕、投獄され25年後の1990年2月11日に,やっと解放されました。
1994年4月に南ア史上初の全人種参加選挙が実施され、マンデラ氏は大統領となりました。
彼は民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、復興へと取り組みました。 -
一方、反アパルトヘイトのもう一つの大きな力・・ツツ大主教がいました。
ツツ氏は、黒人として初めてヨハネスバーグ大聖堂主任司祭となったツツ氏は、
説教などを通して、自由と平等について語りはじめます。
彼のユーモアにあふれた魅力的な人柄は人を引きつけ、良心的な白人への支持も広がりました。
ツツ氏は、積極的に反アパルトヘイトを訴え、黒人を代表して南アフリカ政府に抗議を行い、
外国を訪れてはアパルトヘイトの不当性を説き、
アメリカなどに対しては、南アへの政治的圧力や経済制裁を訴え、
「アパルトヘイトはナチス以来の悪政策」と主張し、非暴力での反アパルトヘイト運動を続けました。
そしてアパルトヘイトに対して、平和的な手段で抵抗を続けている南アの黒人たちの勇気をたたえ、
1984年、ノーベル平和賞が贈られました。
授賞式でツツ氏はこう語りました。
「人々の人間性を無視することは、自分達の人間性を無視することなのです。
抑圧することは、被抑圧者と同じくらい抑圧者の人間性を損ないます。
人間となるには、真に自由になるには、お互いが必要なのです。
私たちは人間の仲間、共同体、平和の中にのみ人間となれるのです。」
その後、アパルトヘイトを強く推し進めてきたボタ大統領が病気で退陣し、
1992年までにアパルトヘイト関連法はすべて廃止されました。
しかし、アパルトヘイトの傷跡は深く、
新しい国を作っていくために、何よりも黒人と白人の人々の和解が必要でした。
そこで、大統領となったマンデラ氏は大胆な、
しかし、まさに「人間の可能性」を示すような方策を打ち出しました。 -
それは
「真理と和解の委員会(Truth and Reconciliation Commission of South Africa)」といいます。
かつて、国家の政策としてはこのようなものは例のないものだったのではないでしょうか・・・。
これは、南アフリカの村々の伝統的な長老たちの話し合いによる解決方法を取り入れたものだそうです。
裁判で解決するには、あまりにも傷の深い、たくさんの悲惨な出来事を経験してしまった人々・・。
その黒人、白人が同じ国民として新しく手を取り合って生きていくために・・・。
マンデラ大統領をはじめとして、南アフリカの人々が選択した道は、
真実を明らかにし、謝罪し、赦しあう・・・という道でした。
つまり、アパルトヘイト時代に起きた人権侵害や暴力事件を明らかにし、
互いに赦しあう・・・そしてそのために「真理と和解委員会」の設置を決め、
その委員長としてマンデラ大統領はツツ大主教を指名しました。
−アパルトヘイトの時代に、多くの罪もない人々が虐殺され、暗殺されていった。
しかし、自らが自分の犯した罪を認め見つめ、心から謝罪するなら、
たとえその人が100人の人を殺していようと赦します−
このような、とんでもなく難しい「罪」と「赦し」の問題に
南アフリカの加害者と被害者の人々は向き合い、話し合い、理解しようとしていきました。 -
その中にこんな話があります。
*〜*〜*〜
バンデ・ブロイクという警官が他の警官たちとともに起こしたことです。
彼らは18歳の少年を銃で撃ち、その遺体を燃やしました。
8年後バンデ・ブロイクは同じ家に戻り、今度は少年の父親をつかまえガソリンを体にかけ火をつけ、
それをおくさんは強制的に見せられたそうです。
「委員会」で、長男と夫を殺されたその奥さんに発言の機会が与えられ、
「バンデ・ブロイク被告にどうしてもらいたいですか。」と尋ねられた奥さんはこう答えたそうです。
「夫の体を焼いた場所へ行って灰を集めてほしい。そうすれば夫をきちんと埋葬してやれるから・・」
警官は頭を垂れ、うなずいそうです。
おくさんはさらに続けました。
「私はバンデ・ブロイクさんに家族全員を奪われました。
でも私にはまだ愛がたくさん残っています。
彼に月に2回ゲットーに来て私と一日を過ごしてもらいたい。
そうすれば私はブロイクさんの母親のようになれますから。
そしてブロイクさんが神に赦されていること、そして私も彼を赦していることを知ってほしいのです。
ブロイクさんを抱き締めていいでしょうか。
そうすれば私の赦しが本物だということがわかるでしょうから。」
そして彼女が法廷の証人台に向かって歩き始めると、
誰かが「アメイジング・グレイス」を歌い始めたそうです。
このとき被告は感極まって気絶してしまったといいます。
*〜*〜*〜 -
もちろん、全ての事柄がこのような話ではないでしょう。
被害者にとって愛する人を殺された人々の痛みは、謝罪されたからといって薄れるものではないでしょう。
赦したいという気持ちと、割り切れない苦しみや悲しみ・・・
もしかしたら捨てきれることのない憎しみとの狭間で揺れ動くこともあると思います。
加害者のほうも、謝罪したからといって、その人の罪が全くなにも行わなかったかのように
白紙になるということではもちろんないでしょう。
謝罪したほうも、赦されたことによってその罪を・・・
もしかしたら今までよりも大きく背負っていくことになるのかもしれません。
本当に悔いる・・・謝罪する・・・とは、そういうことのような気もします。
しかし、それでも、そんないろいろな思いを心におそらく抱いたままであっても、
赦されない罪であることを心に痛く感じながら、罪を告白して真実を明らかにすること
そして、赦すことが自分にできるかどうかわからないままにも赦そうとすること・・・
そんな、お互いの苦しみや葛藤の中で、この法廷はなされていったのではないでしょうか。 -
そして、こうして多くの人々が当時の罪を告白し、被害者に謝罪しました。
多くの人々が寛大な処置によって赦されました。
これは、罪を真実に告白したら、赦しあいましょう・・・という、
そういう伝統のあるアフリカの人々だからできることかもしれません。
しかし、これは人間にとって大きな可能性を感じることのできることですよね。
憎しみは、憎しみしか生み出さない。
そうして、どれだけ長い間、人間は悲しい憎しみや殺し合いの歴史を繰り返してきたことでしょうか。
「・・・赦しあう事・・・とても、そんなことできない」
「・・・そんなこと不条理ではないか・・・」
そう思う方もたくさんおられると思います。
しかし、アパルトヘイトの傷跡を癒す唯一の方法は、
真実を明らかにし、謝罪し、赦しあう事・・・
そう信じて、このとてつもなく難しいと思われることを、やりとげたマンデラ大統領とツツ大主教、
そしてそれを支持した南アフリカの人々・・・
とくに、自らが大きな苦しみと悲しみを背負わされながら、
憎しみではなく、赦しを選択した南アフリカの黒人の方々は
ほんとうにすごい・・・って思います。
そしてこんなことができる「人間」のわたしたちも同じ人間の一人なんだって思います。 -
ツツ氏はこういいます
「 過去に目を閉ざせば同じことの繰り返しです。
過去の真実を見つめなければいけません。
その時初めて、新しい社会を作ることが出来るのです。」
この委員会で約2年半の間に約2万件の事件を扱ったといいます。
その最終報告書をマンデラ氏に渡すとき、ツツ大主教はこう語ったといいます。
「きょうプレトリアから、癒しの水を流そう。
私たちの大地、人々を潤すための癒しの水を。
そして、団結と和解をもたらす癒しの水を。
私達はこの報告書を通して、自分たちの目に獣が宿っていることを知るだろう。
しかし黒人も白人も手をつなぎ、それを乗り越え、未来へと歩き出そう」 -
こうして南アフリカは新しい道を歩き出しました。
しかし、アパルトヘイトの残したものは大きく、まだまだ大きな課題を抱えているようです。
変わりつつある、南アフリカではありますが、貧困という大きな問題はなかなか克服できません。
とくに、貧困層の貧しさ、そして教育の遅れ、エイズの知識不足から来る感染の広がり、
「いのちの教育」、それはコンドームを配れば解決する問題ではないと
根本神父はおっしゃいます。
「いのち」をみつめ、「いのち」を大切にし、「いのち」をはぐくみあう・・・
わたしたちが、これからの未来に向け、
自分の利益だけをおいもとめ、敵を作り、憎しみと破壊への道を選ぶのか・・・
悲しみや苦しみを背負うことになるかもしれないけれども
人々の苦しみや悲しみを理解しあい、自らの非を見つめ告白し、その罪を背負いながらも
赦しあい、助け合い、愛し合っていく道を選ぶのか・・・
この選択は、今の時代に課せられた、地球の未来への大きな分岐点のような気がします。 -
ぼくたちは大人になる。
ぼくたちにはいろいろな肌の色がある。
ぼくたちにはいろいろな言葉がある。
ぼくたちにはいろいろな年齢や体のおおきさがある。
ぼくたちにはいろいろな国がある……
でもぼくたちはひとつの地球にいる。
ぼくたちひとりひとりにひとつのこころがある。
ぼくたちひとりひとりにひとつの命がある。
ぼくたちはいっしょに大人になる。
だからひとりひとりが
こころをひとつにして
いっしょに生きていかないと。
ひとつの家族のように。
『すてきなすてきな世界のために』−ハートソング2−
マティ・ステパネク[著] 廣瀬裕子[訳] -
♪2006年12月23日(土)16:00開演(15:30開場)
会場:宇都宮聖ヨハネ教会
入場無料(皆様のお気持ちで募金をお願い致します)
♪ハンドチャイム : 能満寺ハンドベル・エコーベルフラワーズ
白鳥/サンサーンス
美園にて
平和「ピース」/ウェストン・プリオリー
♪合唱 : 宇都宮聖ヨハネ教会 クワイヤーアイノス
きよしこの夜・もろびとこぞりて
ハレルヤ/ヘンデル
アヴェ・マリア/カッチーニ
パニス・アンジェリクス/フランク 他
合唱指揮 フルリーナ
宇都宮聖ヨハネ教会
日本聖公会 日光真光教会
聖公会北関東学園 愛隣幼稚園
問い合わせ 宇都宮市桜2-3-27
028-622-0335
ぜひ、皆さんのお越しをお待ちしています。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ZISAMAさん 2007/01/28 10:32:52
- 南ア
- フルリーナさん、ご無沙汰しています。
南アのタイトルに惹かれてお邪魔しました。
南アへ行かれたのですか、それとも南アのエイズに関する(日本での)チャリティーコンサートと言う意味ですか。
それはそれとして、zisamaは去年の10月に南アへ行ってきました。
勿論、崇高な目的ではなく観光ですが(笑)。
ところでエイズの事になりますが、エイズは南アだけではなく例えばケニアの海岸地帯のリゾートであるモンバサ、マリンディなどにも、多くの若い娼婦たちによってエイズが広がっています。
ご承知のようにアフリカ中部以南は石油などの資源がなく、先進国の援助と観光で財政を支えています。
zisamaも少しは財政に貢献(?)出来るかなと考え、出来るだけアフリカへ行こうと思い今まで8カ国へ行きました。
しかしながら、南アへ行って何だかむなしい気分を味わってしまいました。
それは去年の10月から、ヨハネスブルグ国際空港が「オリバー・タンポ空港」に名称変更されたことです。
オリバー・タンボとは前アフリカ民族会議(ANC)議長で、現在政権を握っている与党の人々の嘗ての英雄だそうですが、実際にはマンデラほど知られていません。
南アは貧困に苦しみ更にエイズの無料治療も届かず死んで行く多くの人達がいるのに、現在の与党は国民の反対を押し切って名称変更に関わる諸々の膨大な費用をかけて行ったそうで、正に暴挙という他にありませんね。
ちょっとばかり、シリアスな話になってしまい済ませんでした。
実は、zisamaファミリーはン十年前に当時の厚生省(今の厚生労働省)のエイズ撲滅ポスターのモデルになり、少しばかり貢献(?)しました。
お暇な時にでも、平成5年(1993年)のポスターをご笑覧頂ければ幸いです。
http://api-net.jfap.or.jp/siryou/video/s_poster/poster.htm
旅の事ではなくエイズの事ばかりを書いてしまいましたが、フルリーナさんの益々のご活躍を祈念します。
- フルリーナさん からの返信 2007/02/28 22:48:05
- RE: 南ア
- ZISAMAさん すっかりお返事が遅くなって申し訳ありません。
ポスター拝見して、びっくり。
ZISAMAというから、ご年配の方かと思っていましたら、
お若いではないですか〜。
まだいったことのないアフリカ・・・素敵な写真で楽しませていただきました。
ほんとうさまざまな問題や悲しみや不条理なこともいっぱいだけど
すこしでもいい方向に向かうようになるといいですね・・・。
アフリカは、旅行ではなくてチャリティーコンサートです。
ここ数年、南アのエイズ支援のコンサートをしてます。
http://blogs.yahoo.co.jp/fururina2000/44186820.html
http://blogs.yahoo.co.jp/fururina2000/45087691.html
http://blogs.yahoo.co.jp/fururina2000/45094375.html
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