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 <br />長い旅を続けている中で、一度は共産圏を覗いて見たいと考えていた。ウイーンに滞在中にハンガリーに行ってみようと考えていた。ハンガリーは東側諸国のなかでもドルの強制両替を課されてい国だった。ウイーンのユースホステルに滞在中に在オーストリアのハンガリー大使館の所在地を確認していた。ウィーンに到着の数日後にハンガリー大使館にビザの取得の為に出かけた。 あらかじめ申請用の写真は数枚残していた。20人ほどの人達がビザ取得の為に順番にならんでいた。即日発行ビザだと100シリング<1600円> 翌日発給で70シリングだという。即日発給の場合、2時に発給するという。私は迷わず即日発給をリクエストした。<br /><br />これを貰えれば4時発のルーマニアのブカレスト行きの列車に乗ってブタペストには午後8時には着いているはずだった。 午後2時までに再び大使館を訪れば良かった。ウイーンの駅にザックを預け、ブカレスト行きの発着ホームを確認しているとザックを背負った東洋人が私の方に親しげな雰囲気で近づいて来た。<br />「こんにちわっ!」 <br />「どもっ!こんにちわっ!」私達はお互いに挨拶を交わした。日本人団体客とバックパッカーが言葉を交わす事は何故か少ないが、バックパッカー同士は気軽に言葉を交わすのだ。無精ひげを生やした彼は、日本を出て二ヶ月だという。 私は彼からプロ野球のペナントレースの模様を聞いたり、最近のニュースを聞いたりしていた。日本のどちらから?と私が尋ねると東京の下町だと答えた。俺もそうだよ? と答えると驚いた事に出身小学校が同じだった。名前をお互いに名乗りと、更に驚いた事に彼は私の妹と同級生だったと云う。妹さんにはよく虐められたものですと、云いながら彼は笑った。ご丁寧なことに、彼の姉と私は小学校の同級生でもあった。20分ほど立ち話をしながら、お互い無事に帰国出来たら必ず逢おうぜと言い残し、我々は別れた。手紙で日本に居る妹にこの遭遇を伝えたら、心底ビックリしていた。<br /><br /><br />再びハンガリー大使館に向かいビザの発給の順番待ちで並んでいると、私の背中を叩くものがいた。振り返ると、ザルツブルグのユースホステルで同室となりハンガリー情報をくれた日本人が笑っていた。彼は<ヒッチハイク>でハンガリーに向かう予定だと云う。 <br />彼はどうやら欧州の移動は、ほとんどをヒッチハイクで移動しているようだった。「共産圏は初めてだけど、何とか車、停まるだろ」 何とかなると思うと云った彼に、私は気をつけてな、と呟いた。<br /> <br />ビザの発給を受けた私は再び、ウイーン東駅に向かった。出発時刻は午後4時過ぎとトーマスクックの時刻表で確認していた。預けていたザックを受け取り、駅構内のBANKであらかじめUSドルを小切手で20ドル分だけ両替えした。ドルからオーストリア・シリングに変え、更にハンガリー・フォリントに両替するという二重の手間になるような両替で目減りしたが、1ドル=25フォリントになった。 ハンガリー国内での公定レートは1ドル=18フォリントということは調べて確認していた。 ザルツブルグの銀行で小切手をキャッシュのドルに100ドル分換えていたが、そのドルキャッシュでハンガリー国内の闇市場で共産圏におけるドルの強さを享受するつもりだった。<br />闇レートの場合、公定レートの倍の1ドル=36フォリントになるという。 同じ共産圏でもポーランドに行くとドルは公定レートの5倍で売買されると聞いていたが、一日あたり10ドルの公定レートでの強制両替えを課せられるのが嫌でポーランドは避けていた。 同じ共産圏でも闇ドルレートの国による違いは明らかに経済力の違いと正比例していた。私は発着ホームに向かい歩き始めた。そのホームにたどり着いたとき、私は今までの西側諸国の駅でみた風景や色合い、空気が明らかに異なっているのを感じた。<br />私が乗ろうとしていたウイーン発ブカレスト<ルーマニア>行きの国際列車の名称は<オリエンタル・エキスプレス>となっていた。それは映画でみるような甘美な豪華列車ではなく、東欧の人達が西側で働き帰国するための出稼ぎ列車だった。沢山の東欧系の出稼ぎ帰りの人達がいくつものトランクを抱えながら列車に乗り込もうとしていた。 私は軽い緊張を覚えながら、列車のステップを登っていった。<br /><br />コンパートメントのツーリストクラスに乗り込んだ私は、ザックを網棚に載せ、窓際の席を確保した。このコンパートメントにはまだ乗客は乗り込んでいなかった。古ぼけた車両のサイドテーブルに書かれてる車両情報をみると、ルーマニア鉄道の車両だった。6人掛けの席にやがて一家族とおぼしき人達が入ってきた。席は空いていますか?と尋ねる彼等にどうぞ〜と日本語で答えた。古く大型のトランクケースを幾つも抱えあっという間に網棚は彼等のトランクケースで一杯になった。お互いの拙い英語でのやり取りで、西ドイツで働いていた事、ブカレストに帰る事、国に帰っても仕事が無い事などを聞いた。 お国のコマネチは凄いですな〜と話すと、ユキーオ・エンドーを知っているよと、その50絡みのルーマニア人が答えた。遠藤幸雄氏は東京五輪で個人総合優勝を果たした金メダリストの体操選手だった。<br /><br />学生時代にシーズン・スポーツの選択科目で体操を選んだ私はその大学で教官として教鞭を執っていた金メダリスト・遠藤幸雄氏の指導を冬休みの間、直接受けていたことがあった。遠藤氏は160センチにも満たない小柄な身体だったが、キビキビとした言動と均衡のとれた素晴らしい体躯を維持されていたことが印象に残っていた。子供の頃の東京五輪の活躍を覚えていた私にとっては、金メダリストに指導して貰えるのは妙に得したような気分にさえなった。 そんなことを英語で説明する能力も気力もない私は、曖昧な微笑みを浮かべていた。<br /><br /> この車両はコンパートメントと云えども、ガラス張りになっていてカーテンさえなかった。プライバシーは一切与えないということだろうか? 通路で先ほどから何度もこちらをのぞき込むような中年の女性がいた。やがて、その女性は意を決したようにコンパートメントのドアを開け、小さなボストンバッグを差し出し、この荷物を預かってくれないかと懇願してきた。 私は即座に<ニエット!>と断わった。統制経済を続けている東側の国に帰れば儲かるような商品か何かに違いなかった。列車は定刻を少し過ぎて動き始めた。ウイーンの街並みを抜け緩やかな平原地帯を列車は走り抜ける。 <br />私は車窓の景色を眺めながら食事の準備をしていなかった事を後悔していた。通路の方から先ほどから妙な視線を感じていた。ずた袋を持った長髪の青年が私の方をみていたのだ。<br />やがて彼はコンパートメントのドアを開け、私に話しかけてきた。「英語は話せるか?俺はアメリカ人だ。ブタペストでの宿は決めているのか?」 <br /> 私は質問に答える前に何故 ブタペストに行くと判るんだ?と反問すると、その陰気な目をしたアメリカ人だと云う男は、「朝、お前をハンガリー大使館で見かけたのさ、 ブタペストで宿は見つかるかな?」と再び尋ねてくる。あまり感じのいい印象ではなかった。何よりもハンガリー大使館で私を見かけたというのが、見られていたという感じで気分が悪かった。東洋人は異質な感じだろうから目立ったのだろう。 私は投げ遣りな口調でホテルは決めていないこと。探せば見つかるだろうとだけ無愛想に答え、再び車窓に目を移した。 アメリカ人は何かもっと話したがった様子でコンパートメントのドアを開けたままだっが、私は無視を決め込んだ所為かドアを閉め出ていった。<br /><br />西側のように簡単に簡易宿泊施設が見つかるか、そのアメリカ人も不安に思っていたのかもしれない。それは私とて同様だった。宿泊システムすらどういう形態なのかも皆目見当が付かないままだった。行けば行ったで何とかなると思っていつも旅を続けてきた。やがて列車は国境駅に到着した。 国境越えのコントロールチェックがやって来た。男女ペアの紺の制服を着た係官のパスポートチェックとビザチェックが始まった。年若い女性の係官が私のパスポートを見て私の名前を発音すると感じの悪い笑いを浮かべた。マジャール語<ハンガリー語>で、私の名前に何か変な意味でも有るのかと思った。その係官が去った後は今度は懐中電灯を持った男がコンパートメントに入ってきて座席の下まで照らして怪しいモノが隠し持ち込んでいないか確認していく。更に今度は軍服を着たハンガリー側の二人組の男達が携行品チェックに入ってきた。同室のルーマニア人は全てのトランクの中を開けられていた。 私のザックだけはなんのチェックもなかった。そして最後に車掌がやって来た。私は国境駅からブタペストまでの乗車券の購入を求めた。オーストリア国内はフリーのチケットを持っていたからだ。ハンガリーフォント建てで支払いを済ませた。国境駅でのコントロールチェックの細かさで30分以上の停車時間だった。ハンガリーに入った列車は平原地帯をひたすらブタストに向かった。<br /><br />ブタペスト駅に列車が到着したのは午後八時をまわっていた。<br /> <br />この夜 私は全ての宿での宿泊を拒否されブタペスト駅構内で一夜を過ごす事を余儀なくされる事になる。<br /> <br /><br />            続く<br /><br /><br />

NO1 ブタペスト滞在記 出稼ぎ列車で入国編 

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1979/02 - 1980/01

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kio

kioさん

 
長い旅を続けている中で、一度は共産圏を覗いて見たいと考えていた。ウイーンに滞在中にハンガリーに行ってみようと考えていた。ハンガリーは東側諸国のなかでもドルの強制両替を課されてい国だった。ウイーンのユースホステルに滞在中に在オーストリアのハンガリー大使館の所在地を確認していた。ウィーンに到着の数日後にハンガリー大使館にビザの取得の為に出かけた。 あらかじめ申請用の写真は数枚残していた。20人ほどの人達がビザ取得の為に順番にならんでいた。即日発行ビザだと100シリング<1600円> 翌日発給で70シリングだという。即日発給の場合、2時に発給するという。私は迷わず即日発給をリクエストした。

これを貰えれば4時発のルーマニアのブカレスト行きの列車に乗ってブタペストには午後8時には着いているはずだった。 午後2時までに再び大使館を訪れば良かった。ウイーンの駅にザックを預け、ブカレスト行きの発着ホームを確認しているとザックを背負った東洋人が私の方に親しげな雰囲気で近づいて来た。
「こんにちわっ!」 
「どもっ!こんにちわっ!」私達はお互いに挨拶を交わした。日本人団体客とバックパッカーが言葉を交わす事は何故か少ないが、バックパッカー同士は気軽に言葉を交わすのだ。無精ひげを生やした彼は、日本を出て二ヶ月だという。 私は彼からプロ野球のペナントレースの模様を聞いたり、最近のニュースを聞いたりしていた。日本のどちらから?と私が尋ねると東京の下町だと答えた。俺もそうだよ? と答えると驚いた事に出身小学校が同じだった。名前をお互いに名乗りと、更に驚いた事に彼は私の妹と同級生だったと云う。妹さんにはよく虐められたものですと、云いながら彼は笑った。ご丁寧なことに、彼の姉と私は小学校の同級生でもあった。20分ほど立ち話をしながら、お互い無事に帰国出来たら必ず逢おうぜと言い残し、我々は別れた。手紙で日本に居る妹にこの遭遇を伝えたら、心底ビックリしていた。


再びハンガリー大使館に向かいビザの発給の順番待ちで並んでいると、私の背中を叩くものがいた。振り返ると、ザルツブルグのユースホステルで同室となりハンガリー情報をくれた日本人が笑っていた。彼は<ヒッチハイク>でハンガリーに向かう予定だと云う。 
彼はどうやら欧州の移動は、ほとんどをヒッチハイクで移動しているようだった。「共産圏は初めてだけど、何とか車、停まるだろ」 何とかなると思うと云った彼に、私は気をつけてな、と呟いた。
 
ビザの発給を受けた私は再び、ウイーン東駅に向かった。出発時刻は午後4時過ぎとトーマスクックの時刻表で確認していた。預けていたザックを受け取り、駅構内のBANKであらかじめUSドルを小切手で20ドル分だけ両替えした。ドルからオーストリア・シリングに変え、更にハンガリー・フォリントに両替するという二重の手間になるような両替で目減りしたが、1ドル=25フォリントになった。 ハンガリー国内での公定レートは1ドル=18フォリントということは調べて確認していた。 ザルツブルグの銀行で小切手をキャッシュのドルに100ドル分換えていたが、そのドルキャッシュでハンガリー国内の闇市場で共産圏におけるドルの強さを享受するつもりだった。
闇レートの場合、公定レートの倍の1ドル=36フォリントになるという。 同じ共産圏でもポーランドに行くとドルは公定レートの5倍で売買されると聞いていたが、一日あたり10ドルの公定レートでの強制両替えを課せられるのが嫌でポーランドは避けていた。 同じ共産圏でも闇ドルレートの国による違いは明らかに経済力の違いと正比例していた。私は発着ホームに向かい歩き始めた。そのホームにたどり着いたとき、私は今までの西側諸国の駅でみた風景や色合い、空気が明らかに異なっているのを感じた。
私が乗ろうとしていたウイーン発ブカレスト<ルーマニア>行きの国際列車の名称は<オリエンタル・エキスプレス>となっていた。それは映画でみるような甘美な豪華列車ではなく、東欧の人達が西側で働き帰国するための出稼ぎ列車だった。沢山の東欧系の出稼ぎ帰りの人達がいくつものトランクを抱えながら列車に乗り込もうとしていた。 私は軽い緊張を覚えながら、列車のステップを登っていった。

コンパートメントのツーリストクラスに乗り込んだ私は、ザックを網棚に載せ、窓際の席を確保した。このコンパートメントにはまだ乗客は乗り込んでいなかった。古ぼけた車両のサイドテーブルに書かれてる車両情報をみると、ルーマニア鉄道の車両だった。6人掛けの席にやがて一家族とおぼしき人達が入ってきた。席は空いていますか?と尋ねる彼等にどうぞ〜と日本語で答えた。古く大型のトランクケースを幾つも抱えあっという間に網棚は彼等のトランクケースで一杯になった。お互いの拙い英語でのやり取りで、西ドイツで働いていた事、ブカレストに帰る事、国に帰っても仕事が無い事などを聞いた。 お国のコマネチは凄いですな〜と話すと、ユキーオ・エンドーを知っているよと、その50絡みのルーマニア人が答えた。遠藤幸雄氏は東京五輪で個人総合優勝を果たした金メダリストの体操選手だった。

学生時代にシーズン・スポーツの選択科目で体操を選んだ私はその大学で教官として教鞭を執っていた金メダリスト・遠藤幸雄氏の指導を冬休みの間、直接受けていたことがあった。遠藤氏は160センチにも満たない小柄な身体だったが、キビキビとした言動と均衡のとれた素晴らしい体躯を維持されていたことが印象に残っていた。子供の頃の東京五輪の活躍を覚えていた私にとっては、金メダリストに指導して貰えるのは妙に得したような気分にさえなった。 そんなことを英語で説明する能力も気力もない私は、曖昧な微笑みを浮かべていた。

 この車両はコンパートメントと云えども、ガラス張りになっていてカーテンさえなかった。プライバシーは一切与えないということだろうか? 通路で先ほどから何度もこちらをのぞき込むような中年の女性がいた。やがて、その女性は意を決したようにコンパートメントのドアを開け、小さなボストンバッグを差し出し、この荷物を預かってくれないかと懇願してきた。 私は即座に<ニエット!>と断わった。統制経済を続けている東側の国に帰れば儲かるような商品か何かに違いなかった。列車は定刻を少し過ぎて動き始めた。ウイーンの街並みを抜け緩やかな平原地帯を列車は走り抜ける。 
私は車窓の景色を眺めながら食事の準備をしていなかった事を後悔していた。通路の方から先ほどから妙な視線を感じていた。ずた袋を持った長髪の青年が私の方をみていたのだ。
やがて彼はコンパートメントのドアを開け、私に話しかけてきた。「英語は話せるか?俺はアメリカ人だ。ブタペストでの宿は決めているのか?」 
 私は質問に答える前に何故 ブタペストに行くと判るんだ?と反問すると、その陰気な目をしたアメリカ人だと云う男は、「朝、お前をハンガリー大使館で見かけたのさ、 ブタペストで宿は見つかるかな?」と再び尋ねてくる。あまり感じのいい印象ではなかった。何よりもハンガリー大使館で私を見かけたというのが、見られていたという感じで気分が悪かった。東洋人は異質な感じだろうから目立ったのだろう。 私は投げ遣りな口調でホテルは決めていないこと。探せば見つかるだろうとだけ無愛想に答え、再び車窓に目を移した。 アメリカ人は何かもっと話したがった様子でコンパートメントのドアを開けたままだっが、私は無視を決め込んだ所為かドアを閉め出ていった。

西側のように簡単に簡易宿泊施設が見つかるか、そのアメリカ人も不安に思っていたのかもしれない。それは私とて同様だった。宿泊システムすらどういう形態なのかも皆目見当が付かないままだった。行けば行ったで何とかなると思っていつも旅を続けてきた。やがて列車は国境駅に到着した。 国境越えのコントロールチェックがやって来た。男女ペアの紺の制服を着た係官のパスポートチェックとビザチェックが始まった。年若い女性の係官が私のパスポートを見て私の名前を発音すると感じの悪い笑いを浮かべた。マジャール語<ハンガリー語>で、私の名前に何か変な意味でも有るのかと思った。その係官が去った後は今度は懐中電灯を持った男がコンパートメントに入ってきて座席の下まで照らして怪しいモノが隠し持ち込んでいないか確認していく。更に今度は軍服を着たハンガリー側の二人組の男達が携行品チェックに入ってきた。同室のルーマニア人は全てのトランクの中を開けられていた。 私のザックだけはなんのチェックもなかった。そして最後に車掌がやって来た。私は国境駅からブタペストまでの乗車券の購入を求めた。オーストリア国内はフリーのチケットを持っていたからだ。ハンガリーフォント建てで支払いを済ませた。国境駅でのコントロールチェックの細かさで30分以上の停車時間だった。ハンガリーに入った列車は平原地帯をひたすらブタストに向かった。

ブタペスト駅に列車が到着したのは午後八時をまわっていた。
 
この夜 私は全ての宿での宿泊を拒否されブタペスト駅構内で一夜を過ごす事を余儀なくされる事になる。
 

            続く


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この旅行記へのコメント (2)

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  • shinesuniさん 2005/07/26 04:50:54
    わざわざ書き込み戴き恐縮です。
    モロッコ編などは楽しく読ませて頂いてましたが、ハンガリー編には気が付きませんでした。
    1978年100シリング1600円...。私の90年の感覚だと1100円位ですからやはりヨーロッパやアフリカは夢のまた夢でしたよね...。
    飛行機代だけでも相当かかりますしたよね?
    90年の時点でも闇両替はありましたがいいとこ1.2倍くらいで、リスクを考えるとあまりメリットありませんでした。96年に泊まったプライベートルームのオヤジに両替してもらった時も公定レートの1.15倍位でしたから...。

    ポーランドに至っては全くやみ両替が意味を持たなくなっており(90年にしきりにレストラン等で持ちかけたのですが、レートがむしろ悪くなってました...)がっかりしたものです。

    70年代の貴重な体験有難う御座いました。

    kio

    kioさん からの返信 2005/07/26 22:21:31
    RE: 書き込みありがとうございます。shinesuniさんへ・・・
    shinesuniさん 書き込みありがとうございます!

    >飛行機代だけでも相当かかりますしたよね?

    当時、最安値がパキスタン航空の一年間オープンチケットで22万円でした。
    その代わり、帰途はロンドンーパリーフランクフルトーカイローカラチ
    バンコックーマニラが全てストップオーバー可能で全ての地を訪れて
    きました。 しか〜し 今は航空会社を選らばなければ5万円台から
    欧州往復が出来てしまうんですよね。オマケにマイレージなどという
    面妖なものまで付いてきて(笑) 至れり尽せりで魂消ますよ ホントに・・・


    >90年の時点でも闇両替はありましたがいいとこ1.2倍くらいで、リスクを考えるとあまりメリットありませんでした。96年に泊まったプライベートルームのオヤジに両替してもらった時も公定レートの1.15倍位でしたから...。

    自分は旅行記にも書きましたが、ハンガリー東駅だったか?駅構内でせっせと
    ドル交換をしてました。もう倍に膨れ上がった所為で財布にハンガリー貨幣が
    収まりきらず、1ドル=35〜36フォリント<公定レートは18フォリント>で
    欧州滞在中、ハンガリーが一番に色々な意味で満喫出来たような気がします。
    当時地下鉄が1フォリントでした。




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