1979/02 - 1980/01
1347位(同エリア3205件中)
kioさん
ブタペスト東駅に到着した私は、まず駅構内のツアー・インフォメーションに飛び込み、宿の斡旋と地図のゲットを希望した。IBIZUと書かれたおそらく、国営のツーリスト公社のような組織が入っていた。ホテルの紹介を求めるとカウンター内の無愛想な娘、曰く、ホテルの仲介はしていない。ここではfamily accommodation. しか斡旋していないとだけ無愛想な表情で答えるのみで、 ザックを背負った旅行者が宿を求めて難儀しているというのに、それ以上のアドバイスさえくれない。 私はその時点では<family accommodation.> とは民宿のようなゲストハウスだと云う認識も知識もなかった。自分自身の英語力の無さとサービスという概念に欠けた応対に東側に居るんだという実感が湧いてきた。 無愛想な娘に粘り強く、説明を求める気にもなれなくなった私はザルツブルグのユースホステルで出逢い、ハンガリー情報をくれた日本人が教えてくれたドナウ川を挟んだ高台に有るという<ホテル・シタデラ>に行ってみるとにした。
駅前からタクシーを捕まえホテル・シタデラに行ってくれと云うと返事もせずにタクシーは走り出した。市街を抜け吊り橋型のドナウ川にかかる橋を超えると、タクシーは坂道を登っていく。その辺りは民家も無く、暗い森のような道が続き更に登り詰めたエリアにホテルは在った。平屋造りの石煉瓦で覆われたような外観だった。間口の狭い自動ドアから入っていくと突き当たりがフロントのようだった。私はザックを背負いジーンズを履き、多分疲れた様子だっただろう。私の姿を認めたフロントマンは私がカウンターに近づく10Mも先から両腕を大きく交差して×印を作った。風体で判断されたと感じた私は、×印をしながら私に何事か話してくるフロントマンにに構わず突き進んでいき、彼と目の前で対峙した。「金なら有るっ! ドルチェック<小切手>で幾らでもあるっ!」 疲れ切って苛立っていた私は怒気を含んだ口調で云った。 「部屋は無いっ! 満室だ」それだけ云うと男は踵を返し奥の部屋に引っ込んだ。 腹立たしかったが、部屋の確保を諦めた私は、ホテルから外にでた。
ホテルの外側は石畳の駐車場になっていた。更にそのサイドは芝生のスロープになっていて、そこからは美しくライトアップされた先ほど渡った吊り橋型の橋と、街並が俯瞰で見通せた。 私はザックを傍らに置きその芝生に寝っ転がりながら思案した。時計をみると10時近かった。このまま寝袋にくるまってここで夜を明かすか、それとも駅に戻るか、しかし、こんな場所にタクシーなど来るはずもなかった。東京の5月から6月くらいの気候だった。寝袋にくるまれば、芝生のグリーンベッドも適度な傾斜があって悪くないなと思った。
その時、坂道を一台のバスが喘ぐようなエンジン音を鳴らしながらこちらに向かってきた。このホテルの駐車場の一角にバス停があるのか しばらく停車している。 私はここに留まる考えを改め、バスに乗って兎に角、ドナウ川の向こう側に行こうと思った。 行く先が何処なのかも知らないままバスに私は乗り込んだ。ワンマンカーで車掌は居ない。運転手に幾ら?と尋ねるとマジャール語で答えるから訳が分からない。ウイーンの駅で両替えしたハンガリーフォントの一番小さい貨幣を出したが釣り銭がないらしい。手を振ってダメだという仕草をする。乗客は高校生らしい娘達が5.6人乗っていた。私は彼女達に、両替をお願いできないかと頼むと、様子を察した一人の娘が財布から小銭を出して私の代わりに運転手の元にその小銭を払いにいってくれた。恐縮した私が御礼を言うと 気にしないでと云った感じで微笑んだ。 このバスは駅に行きますか?と尋ねるとイエスと答えた。ついてるぞっ! 私は先ほどのホテルでのやりとりをすっかり忘れていた。気分を良くした私は山の手の中腹からの夜景の眺めを楽しみながら、バスは吊り橋型の橋を渡り市街地に入っていった。
市街に入ってきたバスは駅にほど近い場所で終点になった。 そのバス停の正面は十数階建ての巨大なホテルだった。縦のネオンサインでグランドホテルとあった。それまで安宿ばかりで普通のホテルすらほとんど泊まった事の無かった私は、バスタブ付きの部屋でゆったりと手足を伸ばして疲れを癒したいという強い衝動に駆られていた。ついさっきまでは芝生で寝袋にくるまって一夜を明かしてもいいや、と思っていたが、背負ったザックが殊更重く両肩にのしかかっているような感じになっていた。
宿代が100ドルでも泊まってやるぞ、今までの宿代の一ヶ月分でも構わないという気持ちで私はホテルの中に入っていった。 分厚い赤い絨毯が私の歩く両の足を沈ませる。ロビーは天井の高い吹き抜けになっており 巨大なシャンデリアが吊してあった。その一角にはピアノとバイオリン演奏のコーナーもある。ロビーですれ違う人達も舞踏会帰りなのか、目も眩むようなパーティドレスや夜会服、タキシードで着飾っている。一瞬 ここはホントに東側なのか?西側のホテルに紛れ込んでいるような感覚にすらなった。その中を着の身着のままのベトナムズボンと呼ばれる腿の両サイドに大きなポケットのあるジーパンを履きザックを背負った怪しい東洋人が闖入しているという図だったのかもしれない。 すぐに、ミスター!ミスター!とホテルの制服をきた男から慇懃に呼び止められた。「予約は御座いますか?」と慇懃に聞いてくる。「予約は入れていないが泊めてもらいたい。望むならドルの小切手で先払いしても構わない」すると男は私を伴ってフロントに向かった。フロントマンは私を伴った男から事情を聞いているようだったが、予約簿を確認すると云うこともなく私の風体を一瞥しただけで、部屋は在りませんと短く答えた。OK と私も短く答えその場を離れた。もはや私は腹を立てても仕方がないという達観した気持ちにすらなっていた。
私はその足で駅に向かった。数時間前に到着したばかりの駅だった。ここの待合室のソファーで夜を明かせばいい。ザックの他にサブバックは駅のコインロッカーに預けた。大型ザックは手元に残した。私が旅行者だということを他者に確認させるために必要だと思ったからだ。その考え方は正しかったということは、やがて深夜の駅構内で証明される。待合室っを覗いた私はその光景に一瞬たじろいだ。野戦病院というのはこんな感じに近いんじゃなか?といった待合室の情景だったのだ。粗末な服装でソファーだけでなくテーブルの上にも何人も横たわっている。ジプシーと思われる感じの人が多かった。整然と座ってるという感じではなく、雑然と押し合い圧し合いと6人掛けの長椅子に9人座ってるという感じだった。私は待合室で逗留するのを諦めて駅構内の方へ移動した。駅のエントランスホールがあった。かなりの男達が等間隔で壁づたいに座り込んでいる。私もその一角にザックを降ろし、壁を背にして地べたに座り込んだ。寝袋を取り出し、半身を寝袋に入れて、今日一日のメモ書きを始めた。時間はすでに12時近くになろうとしていた。その間、多くの男達が話しかけてきた。ドルを交換しないかという話がほとんどだった。睡魔には襲われないが兎に角、疲れ果てていた。が、ぼんやりとし始めた私の目を覚ますような事が起こり始めてた。
唐突に私の視界に飛びこんできた、その男達は2人組だった。真っ赤なパンタロンパンツにグレーのジャケット、赤いネクタイ、白いエナメル靴、髭をたくわえ、とにかく違和感のある姿だった。彼等は、この構内で横たわって仮眠している男達を激しく蹴り上げていくのだ。どうやら官憲のようだった。彼等のいでたち、傍若無人な振る舞いや態度を見て、とてつもない違和感を感じた。其の奇妙な、いでたちの2人組は身分証明書の提示を求めながら、それを所有していなかったり、反抗的な態度をとると衆人環視の前で 横たわっている彼らの身体をを力任せに蹴り上げ、やがて引きずるように何処かへ引っ張っていく。やられる男達は全く無抵抗のままだった。やがて2人組みは再び駅構内に戻ってきては、また同じような行為を繰り返し、段々と私の傍に近づいてきた。私はパスポートをすぐに取り出せるようにしていた。国籍不明扱いで蹴られたらりしたら堪らない。やがて彼等はいよいよ私の前にやって来た。私は心臓の鼓動が少し早まったのを感じた。あれほどいた男達も三分の一くらいに減っていった。半身を起こして寝袋にくるまう私をのぞき込む様に赤いパンタロン男が腰を落とす。もう一人は私の旅の足跡を残したワッペンやエンブレムが沢山貼り付けてあるザックを興味深そに?覗いている。 「タベラー<旅行者>?」 私はすぐに「ダー・ヤパンスキー<そう、日本人>」怪しげなロシア語もどきで答えた。日本人旅行者だということは理解出来た様だった。私の様子を舐めるように一瞥する。まったくいい気分ではなかった。腹が立つと同時に微かに恐怖心が湧いてくる。しかし彼等はパスポートの提示を求めることもなく、私の前から立ち去った。去り際に官憲の一人が後にF1で更に名を馳せた日本の自動車メーカーの名前を呟きながら、親指を私に向かって立てたのはご愛敬だった。
やがて睡魔に捕らわれ始めた私はアルミフレームが付いたザックのパイプ部分と私の腰ベルトを長目に改造したチェーンロックで結び眠る体制に入った。。欧州では置き引きをする人より置き引きされる人がトロいと云う考え方なのだ。壁を背もたれにしてうつらうつらし始めた。私はドイツのユースホステルでベッド際に掛けていたお気に入りだったセーターを顔を洗いに行ってる数分の間に盗まれた経験が在ったが、やはり何処かのユースホステルで使用済みの歯ブラシを持っていかれた時は呆れてしまった。他者に置き引きしてやろうと云う気持ちにさせない体制作りを終えた私は、半身を起こし壁にもたれた格好で眠りに入った。やがて 数時間後、私は喧騒に因って目が覚めることになるのだ。それは私がこの国に滞在した2週間で最も活気と人々の生きていくための営みを強く感じた瞬間だった。
続く
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この旅行記へのコメント (8)
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- オリーブさん 2009/07/27 00:43:58
- 小説のような旅行記!
- kioさん、こんばんは!
ブダペストの旅行記が沢山ある中でブダ地区から見た国会議事堂の
表紙のお写真に惹かれて読ませて頂きました。
とっても臨場感溢れる描写にハラハラドキドキしました。
でも、バスの中で出会った女学生の親切にはホッとして感激しました!
良きにつけ悪しきにつけ現地の人達との触れ合いは強く心に残るものですよね。
こんな小説のような魅力的な文章がお書きになれるkioさんが羨ましいです!
また、お邪魔させて頂きます。
オリーブ
- kioさん からの返信 2009/07/27 21:49:07
- RE: 小説のような旅行記!
オリーブさん こんばんわ
書き込み、そしてブタペスト編への投票もありがとうございます。
> とっても臨場感溢れる描写にハラハラドキドキしました。
> でも、バスの中で出会った女学生の親切にはホッとして感激しました!
> 良きにつけ悪しきにつけ現地の人達との触れ合いは強く心に残るものですよね。
仰る通り、些細なことでも琴線に触れるような事柄は幾年経とうとも
深く心に刻み込まれるものだと云うことを今更ながらに感じてしまいますよね。
1978年、バリバリの社会主義国の当時でさえ、ブタペストの若者の目は
西側に向いていたような気がします。
ドナウ川の際で行われた屋外のアマチュア・ロックコンサートに
出かけたのですが、演奏される曲は彼ら<ハンガリー人>のオリジナリティを
感じさせない西側のロックのコピーばかりだったような記憶があります。
ブタペストは自分にとって、思い出深い街で幾篇も旅行記をアップしてしまいました。§^。^§ 自分にとって思い出深い二大都市、それはとても妙な取り合わせ
ですがブタペストとバンコックなんです(^_^メ)
なんだか〜まとまりの無い、妙な返信になってしまいましたが、
オリーブさん 今後とも宜しくお願いします。では では
-
- ちょめたんさん 2006/07/05 16:51:03
- 今日は
- kioさんのマージャル語の意味はなんだったのでしょう?一か月分のホテル代でも泊まろうなんて、よっぽどの衝撃だったんですね。靴がぼろになっていましたか(o∩_∩o)変な目で見られるのは嫌ですね。駅のほうがいいです、でも怖いんですね。あの写真のワッペンが焼くにたったんですね。
kioさんの歯ブラシはどうなったんでしょうね。知りたいです。
- kioさん からの返信 2006/07/06 22:28:43
- ちょめたん さん ブタペスト編 どうもm(._.)m ペコッ
- ちょめたん さん こんばんわ〜
ブタペスト編、投票有り難う〜〜ございますm(._.)m ペコッ
>kioさんのマージャル語の意味はなんだったのでしょう?
女の国境警備官、パスポートを見て私の名前をなぞるように発音し
とても嫌な笑い方をしたもんです。
多分 マジャール語で、う○こ、とか?そんな意味かや?と、、(笑)
>一か月分のホテル代でも泊まろうなんて、よっぽどの衝撃だったんですね。靴がぼろになっていましたか(o∩_∩o)変な目で見られるのは嫌ですね。
別に衝撃ではなく、もう〜くたくたで、へろへろの状態だったんですよん。
大きなバスタブのある部屋で手足を伸ばしたいという衝動に駆られた
ということ。駅前のホテル・グランドという名前に近いホテル名でっす。
M・M@銀座さんがこのホテルに泊まっているようです。
>kioさんの歯ブラシはどうなったんでしょうね。知りたいです。
この長い旅で盗まれたもの・・ セーター、 歯ブラシ、
置き忘れたもの・・・ パスポート、航空券、トラベラーズチェック(・・;)
-
- shinesuniさん 2005/09/14 03:25:01
- 文字に力が...
- kioさんお久しぶりです。
写真が1枚なのに思わず引き込まれてしまいました。
以前にも聞いていましたが、
ブダペストで宿が取れなかったことはなかったのでビックリしました。
イブスがプライベートルーム斡旋するようになったのはこの後なんでしょうか?
豪快な体験でしたね。
- kioさん からの返信 2005/09/14 23:06:29
- RE: 文字に力が... shinesuniさんへ
- shinesuniさん こんばんわ!
そして書き込み有り難うございますm(._.)m ペコッ
<ブタペスト滞在記・宿を探せず右往左往編>を読んで頂いたのですね
有り難うございます!
>ブダペストで宿が取れなかったことはなかったのでビックリしました。
イブスがプライベートルーム斡旋するようになったのはこの後なんでしょうか?
豪快な体験でしたね
いえいえ 続編に書いていますが、駅で夜明かし、早朝の闇市の喧騒で
目覚めた自分は、駅構内のibizuのaccommodationの看板と行列を観て自分も
何となく並び、宿を斡旋してもらいました。プライベートルームの斡旋は
1970年代から既に在りました。自分はとても良いホストファミリーに恵まれ
居心地の良いブタペスト滞在の日々でした。
闇ドル経由の邦貨換算(*^o^*)で一泊500円ほどだったと思います。
ただ 当時の事ゆえ共産圏の宿泊情報も無ければ、
勿論、プライベートルームの斡旋情報などゲットできるはずもありません故に、
紆余曲折しながら安価な宿泊に辿り着くという有様でした。
情報入手はバックパッカー同士の口コミ情報だけでしたね。
今はユースホステルの予約さえネットで可能だというアナログな旅を
続けていた自分に取っては目も眩むような利便性の良さですね。
故に無駄の無い旅行を出来ると云うものです。
自分の場合は無駄に満ち溢れたアナログな旅の日々
ゆえに旅行記ネタには困らないと云う側面もあるかもしれません。
共産圏での闇ドルの威力をアテにしていた不良旅行者の自分に取って、
ブタペストほど居心地の良い日々を過ごした街を他に知りません。
-
- wakabunさん 2005/04/08 23:10:49
- 引き込まれるように読んでしまいました
- kioさん、私の旅行記を読んでくださって&書き込みをありがとうございました。ブダペストときいて、早速きてみました。引き込まれるようにぐんぐんと読んでしまい、もう昔のことなのに、目の前でkioさんが旅をしている情景が浮かんでくるようでした。とっても面白かったです!このような、旅人それぞれが経験する・出会う、さまざまな出来事がかかれた旅行記、大好きです。観光地もいいけれど、そういう現地の出会いってとても心に残りますよね。
それにしても、70年代のブダペストはだいぶ今と違うんだなあという印象を受けました。今も「東」の影響は見受けられたけれど、思っていたよりもずっと「西」でした。EUにも加盟して、さらに西になっているんでしょうね。
セーチェニ、私も行きました!温泉はそこにしかいっていないのですが、kioさんがそこが一番だったというのきいて、そこにしてよかった、と思っています。私が行ったのは2月の真冬だったのですが、寒い中入る温泉プールはまさに天国でしたよ。
また時間のあるときにブダペスト以外の旅行記も読みにきますね!
- kioさん からの返信 2005/04/08 23:32:53
- ブタペストでのあれこれ、思い出しました
- wakabun様 書き込み頂き有難うございます!
>それにしても、70年代のブダペストはだいぶ今と違うんだなあという印象を受けました。今も「東」の影響は見受けられたけれど、思っていたよりもずっと「西」でした。EUにも加盟して、さらに西になっているんでしょうね。
当時はソビエト崩壊より遥かに前の、まだブレジネフが実権を握っていた頃の
東側諸国の一員としてのハンガリーでしたね。
出稼ぎ列車のウイーン発のオリエントエキスプレスで
ハンガリーとのボーダーでの検査とチェックの物々しさは
ちょいと緊張したものです。 闇ドル売りと快適な民宿の所為で
ホントにブタペストの日々は快適でした。
って 今 ブタペストで沈没している日本人が
沢山居ると聞きますが判るような気もします。
>セーチェニ、私も行きました!温泉はそこにしかいっていないのですが、kioさんがそこが一番だったというのきいて、そこにしてよかった、と思っています。私が行ったのは2月の真冬だったのですが、寒い中入る温泉プールはまさに天国でしたよ。
私は彼方此方のブタペスト市内の温泉を行脚しました(笑)
ドナウ川の中洲にも温泉プールが有りましたよ。
セーチェニ温泉ももうちょいと水温が高ければな〜とふと思い出しました(爆)
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