二層建て・総檜造りの鮮やかな朱塗りの神門です!
- 4.0
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
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by hiroさん(男性)
御茶ノ水・本郷 クチコミ:13件
『神田明神 随神門』は、一ノ宮に縁結びの神とされる”だいこく様”の「大己貴命(おおなむちのみこと)」、二宮に商売繁盛の神とされる”えびす様”の「少彦名命(すくなひこなのみこと)」、三ノ宮にあらゆる勝負運の神とされる平安時代中期の関東の武将「平将門命(たいらのまさかどのみこと)」の3柱を祭神として祀る『神田神社』の神門です。
『神田神社』の歴史は、社伝によると奈良時代初期の730年(天平2年)に武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町・将門塚周辺)の地に「大己貴命」を祀ったのが始まりとされています。
平安時代中期には935年(承平5年)の「平将門の乱」により討ち取られた将門の首が神社近くに「将門塚」として葬られいましたが、疫病が流行したのを機に将門の祟りであるとされて供養が執り行われ、1309年(延慶2年)に『神田神社』の相殿神として祀られています。
戦国時代には「太田道灌」や「北条氏綱」などの武将によって手厚く崇敬されるようになり、1600年(慶長5年)の天下分け目となる「関ヶ原の戦い」では、「徳川家康」が『神田神社』で戦勝祈祷を行ない『神田神社』の例祭である「神田祭」の日に見事に勝利したことにより、徳川将軍家に崇敬されるようになっています。
江戸時代初期の1616年(元和2年)には、江戸城増築に伴い江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し徳川幕府により荘厳な社殿が建立され、「江戸総鎮守」として『神田明神』を名乗り江戸庶民からも崇敬を受けるようになっています。
1923年(大正12年)の関東大震災では、江戸時代後期を代表する「社殿」ほかを焼失、1945年(昭和20年)の東京大空襲では1934年(昭和9年)に日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート造による耐火構造で再建された「社殿(国登録有形文化財)」以外を焼失しています。
現在の『随神門』は、1975年(昭和50年)に「昭和天皇御即位50年」記念事業として銅板瓦棒葺の入母屋造りの屋根を持つ二層建ての総檜造りで朱塗りによる鮮やかな神門となっており、外廻りの欄間には金箔貼りの四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)の彫刻と同じく境内側には金箔貼りの「因幡の白兎」などの神話をモチーフにした彫刻が配置され、合わせて伝統的なテーマをもとにしつつオリジナルなデザインで描かれた文様で装飾が施されています。
この『随神門』の外側正面には、「松下幸之助」氏が奉納した戦国武将の「加藤清正」自らが熊本城域内に植えたと伝わる樹齢500年の楠を使用した門前の守護神である「豊磐間戸神像」(右側)と「櫛磐間戸神像」(左側)が安置されています。
そのほか『随神門』の境内側には、氏子総代が奉献した神馬一対の像が配されています。
今回は久しぶりに日曜日の昼時に『神田神社』を参拝しましたが、「だいこく祭」の期間中と合わせて「四條流庖丁儀式」も執り行われており、いつも参拝者の絶えない人気の神社ですが境内は大勢の参拝者で賑わい『随神門』の写真撮影も思うようにはいきませんでした。
また、「神田明神文化交流館(EDOCCO)」が2018年(平成30年)12月にオープンしており、境内の配置も依然と若干異なっていました。
以前参拝した際に「神馬・神幸(みゆき)号」(愛称:あかりちゃん)がいた付近には「だいこく様尊像」が配置されており、”あかりちゃん”がいなくなったのかと心配しましたが、「社殿」東側にあたる「獅子山」脇の少し狭いスペースでしたが”あかりちゃん”にも会うことができて少し安心しました。
境内は、『随神門』や「社殿」のほかに見どころや撮影ポイントも沢山ありますが、『随神門』などの建物の写真撮影をする場合は人出の少ない午前中の早い時間帯をお勧めします・・・
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 総武線・丸の内線:御茶ノ水駅、千代田線:新御茶ノ水駅、銀座線:末広駅より各々徒歩5分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- いつも参拝者の絶えない人気の神社です。
- バリアフリー:
- 3.5
- 随神門と道路の段差は勾配を付けて車椅子でもスムーズに通行できます。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 二層建て・総檜造りの鮮やかな朱塗りが目を引きます。
クチコミ投稿日:2020/02/12
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