北浦和公園〔公園〕
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- 旅行時期:2012/09(約13年前)
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by 横浜臨海公園さん(男性)
浦和 クチコミ:3件
大正10年(1921年)11月に該地に旧制浦和高等学校が設置された。
戦前に於ける旧制帝國大学には権威が有った。
昭和5年(1930年)当時の全国成年男子で帝國大学卒業生は12000名に1名の時代であり、卒業生は「末は博士か大臣か」と言われ、卒業後は半ば身分が終身保障されたも同然だった。
旧制帝國大学に進学する為には旧制高等学校で2年以上在籍し必要単位を修得しなければならなかった。
旧制高等学校とは現在の一部の国立大学教養学部の前身たる高等教育施設である。
因みに、戦前に於ける高等教育機関とは、旧制中学校4年以上在籍し、旧制高等学校以外では、陸軍士官学校、海軍兵学校、海軍機関学校、及び、高等専門学校が存在した。
然し、軍学校が学資全額支給だったのに対し、官立と言えども旧制高等学校学費は安くは無く、昭和8年(1933年)当時に於いて学費生活費全額込で概ね年間130円を要し、殊に、陸軍士官学校が貧乏人子弟の進路とされたのに対し、旧制高等学校進学者は中流以上家庭出身でなければ例え成績優秀でも進学は困難とされた。
旧制高等学校修了者は、殆どの者が旧制帝國大学に進学したが、唯一の例外的存在は東京帝國大学だった。
東京帝國大学とは現在の東京大学だが、現在の東京大学は高校教育課程修了者は出身高校に無関係で受験可能だが、当時の東京帝國大学は受験校指定がされ、例えば第1高等学校(現 東京大学教養学部)出身者は無条件進学が可能だったが、第2高等学校(現 東北大学教養学部)出身者は受験資格自体が存在せず、例え第2高等学校で成績優秀で首席であろうと、東京帝國大学以外の帝大進学しか途が残されていなかった。
文部省は、全国道府県に対し、高等学校設置を決定し漸次実施したが、埼玉県には県庁所在地浦和に大正12年(1923年)4月1日附で高等学校開校が決定し、此れを受け前年たる、大正11年(1922年)11月に入学試験を実施した。
浦和高等学校は東京府に至近の地で、且つ、東京帝國大学受験可能校とした為に、全国の秀才が結集し、後に該校は第1高等学校に次ぐ難関校とされた。
戦後、昭和20年(1945年)5月25日の東京山手大空襲に攻撃参加したB29数機が該高等学校上空から焼夷弾を投下した為に、本館、及び、講堂に命中発火し該施設は全焼した。
昭和44年(1969年)に埼玉大学文理学部は市内下大久保に全面移転し、跡地は整備され昭和47年(1972年)4月1日に浦和北公園として一般公開された。
浦和北公園(うらわ きたこうえん)
さいたま市浦和区常盤9−30
?: 048−833−27272
9:00〜17:00
月曜(祭日の際は翌火曜)、及び、年末年始休園
東北本線(京浜東北線)北浦和駅東口 徒歩4分
http://urawa-ballpark.org/urawakita/
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=555
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2012/09/29
いいね!:51票
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