2016/02/01 - 2016/02/01
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MechaGodzillaⅢ&703さん
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■瀬野川公園の蒸気機関車D51(愛称デゴイチ)/広島県広島市安芸区上瀬野町
瀬野川公園には国鉄山陽本線「瀬野-八本松」間で後押しした蒸気機関車D51(愛称デゴイチ)が展示されている。公園にはデイキャンプ場が併設され、近くに緑化公園がある。
1894年(明治27年)6月10日に、現JR山陽本線が三原から広島まで線路がつながった時、瀬野に蒸気機関車の基地がつくられた。
瀬野から八本松までの間が。急な坂で曲がりくねっている所が沢山あるため、列車がしっかり前に進み走れるように蒸気機関車が列車の後押しをした。
その後、瀬野機関区と駅も大きくなり、一番多い時には25両もの蒸気機関車が活躍した。
しかし、蒸気機関車の煙突から吐き出す黒い煙のため、瀬野のスズメは「黒いスズメ」と言われ、米や野菜などの農作物がうまく育たず、洗濯物などが汚れ、住んでいる人たちは迷惑していた。
また、煙突から飛び出した火の粉が、わら屋根の家に飛び散って火事になったり、1日に2回も山火事が起きたこともあった。
技術の進歩により、1963年(昭和38年)に、列車を電気で動かすようになり、蒸気機関車が列車を後押しする雄姿を見ることはなくなった。
展示されている蒸気機関車は、1943年(昭和18年)に造られてから、主に北陸本線を走り、その後、山口線に移り、1975年(昭和50年)まで活躍した。
山口県の長門機関区を最後に蒸気機関車としての仕事を終えた。
当初、瀬野川公園入口の国道2号沿いに展示されていたが、瀬野川公園が作られた時に公園の中に移設された。
∇デゴイチの愛称で親しまれたD51蒸気機関車
デゴイチの愛称で親しまれた蒸気機関車で、貨物用として1936 (昭和11) 年から10年間に1,115両も作られました。
D51形は、近代化標準機の第一号、最多の新製両数、輸送の貢献度から日本を代表すると言える蒸気機関車です。
∇わたくし自身SLには詳しくないので調べてみました…概要(ニコニコ大百科より)
鉄道の事をあまり知らない方々でも名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。1936年から製造が始まったこの機関車は、太平洋戦争中に大量生産されたこともあり、その数は1115両にものぼる。
日本国内で、後にも先にもこれだけの数が製造された機関車(電気、ディーゼル込み)はD51ただ一形式である。
親父達が子供の頃は重連の運用が日本のあちこちで見られ、中でも峠越えのためD51の三重連が貨物列車を引くという光景は奥羽本線の矢立峠、伯備線の布原信号所(当時)などでひときわ輝く被写体となった、ああ羨ましい。(しかし当時、数の多いD51は鉄道ファンからあまり見向きされていなかったようだ)
昭和50年12月24日に追分機関区配備の241号機が牽引した貨物列車が、蒸気機関車牽引の最終列車となった。
その数ゆえに国内には数多くのD51が静態保存されているが、動態保存機はJR東日本が所有するD51 498号機と、京都の梅小路機関車館のD51 200号機の二両しかない。
国外向けとして台湾、サハリンに同形式の車両が納入されている。
本形式の派生形式として、従台車を2軸として軸重を軽くして線路規格の低い路線に投入することを目的としてD61が改造された。
また、戦時中の状態不良機からボイラーを転用し旅客用蒸気機関車としたC61が誕生している。
・1次型(1?85号機・91?100号機)
1936?38年製の93両は、給水温め器を線路方向に置き、当時の流行から流線型の形状を部分的に取り入れ、砂箱と蒸気ドームを煙突から一体のカバーで覆った姿として登場し「なめくじ」の愛称で親しまれた。
特にこの中の2両(22・23号機)は、ドームをキャブまで延長した姿で登場し、「スーパーなめくじ」と呼ばれたが、保守・点検に不評で後に一般的な姿に戻された。
1次型は給水温め器を煙突後部に置いた事から動輪の軸重が動輪毎に異なり、列車を引き出す際の空転が多かった。
・標準型(86?90号機・101?954号機)
上記のような1次型の欠点を改善すべく設計変更された形式で、給水温め器を枕木方向にし、C57やC58に見られる砂箱と蒸気ドームのみを一体のカバーで覆った姿で登場した。
この後製造されたD51はこの姿となった。量産試作として86?90号機が浜松工場にて製造されている。
1943年度以降に製造された車輌は、代用木材の使用。工数の削減が行われており、準戦時型と呼ばれる。
尚、950?954号機は胆振縦貫鉄道の編入機で、番号の関係から勘違いし易いが準戦時型ではなく標準型である。
・戦時型(1001?1161号機)
太平洋戦争の激化に伴い製造されたグループで代用木材を多用し、ドームのカマボコ化や舟底テンダー等、同時期に製造されたD52と共通点を多く持つ。
番号も1001号機?(955?1000号機は欠番)へ飛んで製造されている。粗悪な材料を使いながらボイラーの昇圧も行われ、空転を抑える為にコンクリート製の死重を載せて空転を抑えていた。
しかし、粗悪な材料をボイラーに用いた為に状態不良機が多く、戦後ボイラー換装と標準型に準ずる為の改造を行っているが、使用上問題のないドームやテンダー等は戦後もそのまま使用された。
・D51型のスペック(標準型)
全長 19,730mm 全高 3,980mm 軌間 1,067mm 動輪周馬力 1,280PS
∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町
広島県熊野町は、広島市・呉市・東広島市の3都市を頂点とした三角形のほぼ中央に位置し、周辺を500m級の山々に囲まれた高原盆地です。
気候は、比較的温暖な瀬戸内沿岸部に属していますが、標高が200m余りあることから、平地部より1?2度程度気温が低いのも特徴です。
また、熊野町は江戸時代の後期から伝わる筆の製造が盛んであり、日本で生産される筆の約8割が熊野町で生産されています。ここにも昔ながらの町並みが残っています。
【 手記 】
義母の世話(通院)をしたあと、ちょっと東広島市の某所で所用があったのでその道中にD51(愛称デゴイチ)が展示されている瀬野川公園へ立ち寄ってきました。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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∇瀬野川公園/広島県広島市安芸区上瀬野町
義母の世話(病院送迎)をしたあと、ちょっと東広島市の某所で所用があったのでその道中にD51(愛称デゴイチ)が展示されている瀬野川公園へ立ち寄ってきました。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
D51形は、近代化標準機の第一号、最多の新製両数、輸送の貢献度から日本を代表すると言える蒸気機関車です。貨物用として1936 (昭和11) 年から10年間に1,115両も作られました。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
瀬野川公園には国鉄山陽本線「瀬野-八本松」間で後押しした蒸気機関車D51(愛称デゴイチ)が展示されている。公園にはデイキャンプ場が併設され、近くに緑化公園がある。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
1894年(明治27年)6月10日に、現JR山陽本線が三原から広島まで線路がつながった時、瀬野に蒸気機関車の基地がつくられた。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
瀬野から八本松までの間が。急な坂で曲がりくねっている所が沢山あるため、列車がしっかり前に進み走れるように蒸気機関車が列車の後押しをした。
その後、瀬野機関区と駅も大きくなり、一番多い時には25両もの蒸気機関車が活躍した。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
しかし、蒸気機関車の煙突から吐き出す黒い煙のため、瀬野のスズメは「黒いスズメ」と言われ、米や野菜などの農作物がうまく育たず、洗濯物などが汚れ、住んでいる人たちは迷惑していた。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
また、煙突から飛び出した火の粉が、わら屋根の家に飛び散って火事になったり、1日に2回も山火事が起きたこともあった。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
技術の進歩により、1963年(昭和38年)に、列車を電気で動かすようになり、蒸気機関車が列車を後押しする雄姿を見ることはなくなった。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
展示されている蒸気機関車は、1943年(昭和18年)に造られてから、主に北陸本線を走り、その後、山口線に移り、1975年(昭和50年)まで活躍した。
山口県の長門機関区を最後に蒸気機関車としての仕事を終えた。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
当初、瀬野川公園入口の国道2号沿いに展示されていたが、瀬野川公園が作られた時に公園の中に移設された。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
わたくし自身SLには詳しくないので調べてみました・・・。以下、概要はニコニコ大百科より。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
鉄道の事をあまり知らない方々でも名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。1936年から製造が始まったこの機関車は、太平洋戦争中に大量生産されたこともあり、その数は1115両にものぼる。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
日本国内で、後にも先にもこれだけの数が製造された機関車(電気、ディーゼル込み)はD51ただ一形式である。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
親父達が子供の頃は重連の運用が日本のあちこちで見られ、中でも峠越えのためD51の三重連が貨物列車を引くという光景は奥羽本線の矢立峠、伯備線の布原信号所(当時)などでひときわ輝く被写体となった、ああ羨ましい。(しかし当時、数の多いD51は鉄道ファンからあまり見向きされていなかったようだ)
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
昭和50年12月24日に追分機関区配備の241号機が牽引した貨物列車が、蒸気機関車牽引の最終列車となった。
その数ゆえに国内には数多くのD51が静態保存されているが、動態保存機はJR東日本が所有するD51 498号機と、京都の梅小路機関車館のD51 200号機の二両しかない。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
国外向けとして台湾、サハリンに同形式の車両が納入されている。
本形式の派生形式として、従台車を2軸として軸重を軽くして線路規格の低い路線に投入することを目的としてD61が改造された。また、戦時中の状態不良機からボイラーを転用し旅客用蒸気機関車としたC61が誕生している。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
・1次型(1?85号機・91?100号機)
1936?38年製の93両は、給水温め器を線路方向に置き、当時の流行から流線型の形状を部分的に取り入れ、砂箱と蒸気ドームを煙突から一体のカバーで覆った姿として登場し「なめくじ」の愛称で親しまれた。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
特にこの中の2両(22・23号機)は、ドームをキャブまで延長した姿で登場し、「スーパーなめくじ」と呼ばれたが、保守・点検に不評で後に一般的な姿に戻された。
1次型は給水温め器を煙突後部に置いた事から動輪の軸重が動輪毎に異なり、列車を引き出す際の空転が多かった。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
・標準型(86?90号機・101?954号機)
上記のような1次型の欠点を改善すべく設計変更された形式で、給水温め器を枕木方向にし、C57やC58に見られる砂箱と蒸気ドームのみを一体のカバーで覆った姿で登場した。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
この後製造されたD51はこの姿となった。量産試作として86?90号機が浜松工場にて製造されている。
1943年度以降に製造された車輌は、代用木材の使用。工数の削減が行われており、準戦時型と呼ばれる。
尚、950?954号機は胆振縦貫鉄道の編入機で、番号の関係から勘違いし易いが準戦時型ではなく標準型である。
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∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
・戦時型(1001?1161号機)
太平洋戦争の激化に伴い製造されたグループで代用木材を多用し、ドームのカマボコ化や舟底テンダー等、同時期に製造されたD52と共通点を多く持つ。
番号も1001号機?(955?1000号機は欠番)へ飛んで製造されている。粗悪な材料を使いながらボイラーの昇圧も行われ、空転を抑える為にコンクリート製の死重を載せて空転を抑えていた。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
しかし、粗悪な材料をボイラーに用いた為に状態不良機が多く、戦後ボイラー換装と標準型に準ずる為の改造を行っているが、使用上問題のないドームやテンダー等は戦後もそのまま使用された。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
・D51型のスペック(標準型)
全長 19,730mm 全高 3,980mm 軌間 1,067mm 動輪周馬力 1,280PS
古い文献にはD51を「凸一」と記したものもあるそうです。 -
∇瀬野川公園・蒸気機関車D51/広島県広島市安芸区上瀬野町
この呼び名の由来には諸説がありはっきりしませんが、一説には標準型の場合正面の上部に給水暖め機が付いており、これが人の顔の「おでこ」の部分に「一」の字が書かれている様に見えるからと言われています。 -
∇筆の里熊野町の町並み/ 広島県安芸郡熊野町出来庭
筆の里熊野町の町並みです。ここにも昔ながらの町並みが残っています。 -
∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町出来庭
広島県熊野町は、広島市・呉市・東広島市の3都市を頂点とした三角形のほぼ中央に位置し、周辺を500m級の山々に囲まれた高原盆地です。
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∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町中溝
気候は、比較的温暖な瀬戸内沿岸部に属していますが、標高が200m余りあることから、平地部より1?2度程度気温が低いのも特徴です。
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∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町中溝
また、熊野町は江戸時代の後期から伝わる筆の製造が盛んであり、日本で生産される筆の約8割が熊野町で生産されています。 -
∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町中溝
人口は約26000人を数え、その内1500人が筆司という筆づくりの技術者です。 -
∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町中溝
昔のメインストリート -
∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町中溝
熊野町郷土館前 -
∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町中溝
熊野町郷土館・・・日本一の筆の産地として君臨する筆の都熊野町ならではの伝統と歴史を現代に紹介する施設です。(ひろしま観光ナビより) -
∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町中溝
昔のメインストリート -
∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町中溝
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∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町萩原
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∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町萩原
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∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町萩原
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∇筆の里熊野町の町並み/広島県安芸郡熊野町萩原
以上、ヒマつぶし日記でした。でもこの日はこのあとお勤めもあり、少々忙しかった^^;;ハハ
THE END. それでは、また~。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 横浜臨海公園さん 2016/02/13 15:09:07
- 瀬野八本松補機
- Mecha Godzilla?&703さま、こんにちは。
旅行記を拝見させて頂きました。
件の区間でD50型、C52型、及び、D52型が補助機関車として使用されてされていたのは存じておりましたが、D51型が使用されていたという話を初めて耳にし、少なからず驚いております。
横浜臨海公園
- MechaGodzillaⅢ&703さん からの返信 2016/02/14 06:03:23
- RE: 瀬野八本松補機
- 横浜臨海公園さん おはようございます。いつもお世話様です。
> 旅行記を拝見させて頂きました。
> 件の区間でD50型、C52型、及び、D52型が補助機関車として使用されてされていたのは存じておりましたが、D51型が使用されていたという話を初めて耳にし、少なからず驚いております。
そうなんですかー。横浜臨海公園さんが驚かれたということはめずらしいことなんですね。
山陽本線には50数年前、沿線に母の実家があったため里帰りで母と何度か乗ったことがあります。バスの方が便利だったので汽車の回数は少なかったです。当時、母の実家からモクモクと煙を出しながら上っていく汽車を見ていた記憶があります。
ありがとうございました。それでは、またよろしくお願い申し上げます。
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