1993/01/10 - 1993/02/11
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がおちんさん
雲南省には個性的な少数民族が多く住んでいますが、その中でも特に強い印象を受けたのがワ族(ワは人偏に瓦)でした。
人類は岩洞から出てきたという神話や、原始的な習慣、特に最近まで行われていたという首狩りの風習と要塞化された村などは、雲南に住む他の少数民族には見られない独特なものです。
そんなワ族の村を訪れることは雲南好きの私にとって憧れのひとつでしたが、ミャンマー国境に接していることや、アヘンの流入による麻薬問題などで公安の警備が厳しいとされ、気軽に行ける場所ではありません。
ところが1992年の末、雲南省の多くの「対外未開放地区」が一斉に開放され、その中にはワ族の中心地である西盟県も入っていました。もう、これまでのようにコソコソ行動したり、公安を気にすることなく堂々と僻地の旅ができる!
朗報を聞き、喜び勇んで雲南に向かいました。
※トップの写真は、阿ワ山の夜明け。
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1992年の末、雲南に住む知人から、「雲南のかなりの地区が開放された」との連絡があった。
そこには私が興味を持ついくつかの地域も含まれており、特に西盟は最も訪れてみたい場所のひとつだった。なぜなら、そこにはワ族が暮らしているからである。 -
1990年に雲南民族学院で少数民族史を学び、最も興味をひかれたのが、邱鍔鋒教授によるワ族の授業だった。
「首狩り」を行っていたというだけでも、ワ族は他の少数民族とは異彩を放っていたし、豊作を願って首を狩るという宗教的な理由に加え、仇討ちによる首狩りが相次いで村同士が対立し、敵の襲撃を防ぐために村が要塞化されていたという話を聞いて驚いたものだ。
邱鍔鋒先生はワ族研究における第一人者であり、1957年の初めに調査隊として西盟に派遣された。当時は思茅までしか道路がなく、そこから西盟までは馬で向かったそうだ。調査隊は24名で、西盟ワ族の中心区であった馬散、岳宋、中課などで詳細な調査が行われた。その内容は雲南人民出版社の『ワ族社会歴史調査』全4巻に記されている。正に首狩りが行われていた時代の記録であり、大変貴重な資料である。 -
邱先生は聶錫珍先生と共にワ族の歴史故事である「スガンリ」の調査を担当された。『ワ族社会歴史調査』第2巻のP158〜P209、窩努寨の頭人によって口述されたスガンリ伝説を、ワ語と国際音声表記と中国語で記録したのがそれである。邱先生と聶先生は後に結婚され、ともにワ族の研究をされた。
その後、文革の嵐が吹き荒れて研究は中断し、1980年3月に再開、記録の見直しや方言の調整など補充をおこなった。『ワ族社会歴史調査』が刊行されたのは1983年11月だから、調査から本になるまで27年近くも経っている。また、文革時代は紅衛兵に見つからぬよう、必死に原稿を隠していたそうだ。
邱先生は誠実で朴訥とした話し方をする人だった。最後の授業のときに、調査当時の原稿を見せてくれた。紙質の薄い中国製ノート(便箋)に、細かく丁寧な文字でぎっしり書かれてあり、大切に保管してきたことが伺えた。貴重な写真も多く撮ったが、当時は現像技術が低かったために、
「失敗して無駄にしてしまった」と残念そうに語っていたのを憶えている。 -
西盟県の略図。
赤丸印が、今回の旅で訪れた所。 -
1993年1月10日〜18日
今回は羽田から中華航空の台北・香港経由バンコク行きに乗り、タイで中国のビザを取ることにした。台北までは妻が同行し、中正紀念堂や故宮博物院などを見て過ごす。また、花蓮まで足を伸ばしてタロコ渓谷を観た。
1993年1月18日〜2月3日
台北からバンコクに飛び、中国ビザを申請。昆明への飛行機チケットがなかなか取れず、1週間待っている間にチェンマイに行く。 -
1993年2月4日(木)
バンコクから飛行機で昆明へ到着。ほぼ1年ぶりの雲南旅行となる。
昆明に着いたとたん、独特なガソリンの臭いがして懐かしくなる。街では人民があちこちで痰を吐き、服務員は不親切だ。タイから来ると快適度のギャップが大きいけど、だからこそ中国旅行は面白いのかも。
バス駅で切符を買うために並んでいたら、横にいたオッサンが突然咳き込み、口から唾とひまわりの種のカスが飛んで、私の頬に張りついた。当然、オッサンは知らん顔。なんてこった。
さらにバスの中では、隣に座った兄ちゃんが梅の種をプッと飛ばしたが、狙いがはずれて私のバックパックに張りついた。まさに「口害」だ!
でも、そんなこと気にしていたら中国は旅できない。こちらもサッサと中国モードに切り替える。カーッ、ペッ! -
1993年2月5日(金)
昆明から10時発のバスで景洪に向かう。去年に比べて道が整備され、所々有料になっていた。西双版納までは1泊2日の行程となる。初日はあっという間に墨江に着いた。写真は墨江の宿。古くて汚いが、寝るだけなら充分だ。しかし以前は1泊1元だったのに、外国人は10倍の10元になっていた。こんなボロ旅社が茶花賓館のドミと同じ料金を取るとは、どういう了見だ。(ちなみに中国人は1元のままだった)シャワーは別料金だし、コストパフォーマンス悪すぎ。
1993年2月6日(土)
2日目の昼頃にバスが思茅に着くと、とつぜん運転手による「思茅止まり」の宣告があり、乗客は全員降ろされた。もちろん乗り継ぎのバスなど用意されておらず、3時間後の思茅始発のバスに乗り換えなくてはならなくなった。当然、一般の乗客も乗ってくるので、座席数が足りなくなる。だから窓口には「乗り継ぎ手続き」をしようとする乗客が殺到、しまいには他の旅客とケンカが始まり、公安が来るはめになった。そんな殺伐とした空気の中、切符売りの女性が窓口を閉めて昼食に行ってしまったので、列に並んだ人民は大騒ぎ。実に中国らしい展開となる。
幸い、私は通路に座ることでバスに乗せてもらえることになった。墨江の宿で知り合った漢族のオジサン乗客が「あの日本人も乗せてやってくれ」と運転手に頼んでくれたようだ。旅は道連れか。ありがとうオジサン。中国人は他人に愛想悪いけど、いったん知り合うと途端に親切になったりする人もいる。何とかバスに乗れたものの、ひどいポンコツで2回も故障し、景洪に着いたのは21時頃になってしまった。なんと長い一日だったことか。
景洪は1年で大きく様変わりしていた。街にはバイクタクシーが登場しており、曼景路に行くと二車線になっててビックリ。元ゲストハウスは下品なネオンをキラキラさせた「カラオケと踊りを見せるレストラン」に変わっており、あちこちから大音量で音楽が聞こえてきた。
常宿にしていた玉池旅社も例外でなく、食堂の二階を大きく改造し、やはりカラオケをガンガン鳴らし、ダイ族踊りのショーをやっていた。店員は増えていたし、店構えも立派になったが、情緒が無くなってしまった。店が忙しくて、私は夕食を注文することができず、従業員といっしょに賄い料理を食べる。部屋は以前のままでホッとしたが、何せうるさくて眠れない。漢族の団体客が夜遅くまで大騒ぎするからである。大して金にならないバックパッカーよりも、漢族の団体に飲み食いしてもらったほうが儲かるのはわかる。しかし、景洪がこんな街になってしまうとは・・・。
なにか大切なものを失った気持ちになった。 -
1993年2月7日(日)
景洪にはとてもいられないので、翌日はガンランパに移動した。
ここも市場はにぎやかになったが、素朴さが消えていた。ダイ族料理の象池飯店は漢族の経営となり、アイニ族食堂も無くなっていた。西双版納の魅力が失せていくのが悲しい。バンブーハウスは部屋を増設中で、アイゴンおじさんは屋根の修理に忙しい。名物のディナーは10元に値上げされており、私以外に注文する人がおらず(注文は2人前から)、ここでもおじさん家族と一緒に食事をすることになった。泊り客は多いけど、以前のような風情が感じられない。
夜、おじさんに酒をおごってもらった。これがアイゴンさんと最後の酒になるなんて、このときは思いもしなかった。
※写真はガンランパの市場で撮った「川海苔」を売るダイ族おばさん。今回、西双版納で撮った写真はこの1枚のみだった。
1993年2月9日(火)
景洪に戻り、バス駅で瀾滄行きの切符を買おうとしたら、開放されたことを知らない窓口の女係員(以前から態度最悪だった人物)が、「あんたは外国人か?」なんてつっけんどんに聞いてきたので、「広東人だ」と答えて切符を手にした。アホに関わるだけ時間の無駄である。
1993年2月10日(水)
景洪から瀾滄に移動。瀾滄の宿では、深夜に公安の表敬訪問(笑)を受けた。ここの公安は以前から「未開放地区を訪れた外国人旅行者」を捕まえて罰金をせしめることで知られていたが、開放されてしまってはタバコを強請るぐらいが関の山だ。さっさと旅行目的と次の訪問地を伝えて、早々にお引取りいただいた。公安には何度も睡眠妨害をされているが、これも中国旅行の醍醐味と考えて楽しむしかない。(その後、知人の話では瀾滄の公安から通過パーミット料金を請求されたという。何とも性質の悪い奴がいたようだ) -
1993年2月11日(木)
朝のバスで、瀾滄から西盟へ向かう。
悪路と山道の連続で、中国もよくぞこんな場所まで解放したものだと思う。
『西盟県概況』によると、ここら一帯は豊富な鉱物が埋蔵されているのだそうな。
なるほど。 -
車窓から西盟の雲海が見えた。
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おお、絶景だ。
西盟県は、高い所だと2000メートル以上あり、昼と夜の温度差が激しい。
冬は毎日雲海を望めるそうだ。 -
西盟には昼頃に到着。
バスで一緒になった漢族の男性は西盟で小吃(食堂)をやっており、昼飯をごちそうになった。酒も飲まされて酔っ払ったが、まだ時間も早いのでワ族の村へ向かう。
目的地は「大馬散村」だ。ここは旧ワ族社会で最大勢力を誇った村であり、ワ族世界の中心だった所である。 -
まずは「小馬散村」を目指すべく、トレイルを歩き始める。
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昼は寒い位だったのに、午後になると太陽が照らしつけて暑くなった。
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日差しが相当にキツイが、太陽を遮る場所が少ない。
これが堪えた。
酔いは醒めたけど、咽喉が渇く。 -
山深い、アワ山の眺め。
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馬散に行く途中、ラフ族の村とワ族の村を通過した。
ラフ族は民族衣装が見れたものの、ワ族の村では着ていなかった。 -
ワ族はラフ族の首は狩らない。その理由は、「昔、ラフ族の首を狩って背負ったところ、その首が噛み付いたから」だという。
だからワ族の村の近くには、ラフ族の村があるのだそうだ。
喉が渇いたので、ラフ族の村で茶を飲ませてもらった。 -
山道を歩き続ける。
向かいの山はミャンマー領だ。 -
地元の人から「馬散までは1時間半で着く」と言われたものの、途中で道がわからなくなり、かなり時間をロスした。
午後の日差しが強くてバテたせいもある。 -
牛を追う人がいた。
村は近い。 -
ようやく、馬散村(小馬散)に着いた。
西盟を出てから3時間が経過していた。 -
村の人が木のコップに入った酸っぱい飲み物を出してくれた。
ワ族は茶を飲む習慣が無く、ブライと呼ばれる水酒を好んで飲む。アルコール度数は低いが、多く飲めば酔う。 -
竹筒に入ったブライ(水酒)。
チューブ(ストロー)で直飲みもOKだ。 -
ブライ(水酒)は、小紅米を発酵させてつくる。
ワ族の村に滞在中、何かと飲まされた。
「ニャッブライ」(酒を飲む・飲もう)は一番耳にした言葉だ。
ちなみにプーラン族では「ニューブライ」という。プーラン族はワ族と近い関係だそうだ。どちらも言葉はモンクメール系に属しており、肌の色も黒い。 -
ワ族の家には石臼と丸太を用いた「足踏み式脱穀システム」が備わっている。
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おばさんが脱穀を始めた。
足で踏むと、丸太の杵が持ち上がる。 -
足を離すとズドンと臼をつく。
ニワトリも一瞬のスキをついて米をつつく。
ワ族おばさんとの共同作業が続く。 -
一休みして先へ進もうと思ったが、村の人から「今日はここに泊まって、明朝、大馬散に行けばいい」と言われた。
好意に甘えることにする。
運のよいことに、明日は大馬散で「蓋房子」(家の新築祝い)の祭りがあるそうだ。ここ小馬散でも家の新築を見かけたが、祭りは行わないという。 -
夕陽に照らされた、アワ山。
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向かいの山はミャンマーである。中国の地図と違い、実際は村のすぐ先が国境となる。
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中央の山はブラグデ(巴戛得)と呼ばれ、ワ族の伝説「スガンリ」に出てくる人類の発祥地となった洞窟があるという。ミャンマー領になるので、行くことはできない。
※ところが後日、岳宋の村人から「希望するなら(内緒で)連れて行ってやる」と言われて喜んだ。歩いて6時間の距離だという。しかし、ワ族の村に滞在中ずっと下痢が続き、体力が無くなってしまい断念した。
せめて、どんな所なのか詳しく教えてくれと頼むと、「山の中腹に洞窟があるだけだ」とのことだった。 -
アワ山の落日。
最後まで見たかったが、家の人に「飯だ」と呼ばれたので戻る。 -
この村には、2ヶ月前から電気が通っている。しかし、スイッチは無い。夜から朝までは裸電球がつきっぱなしで、明るくなると勝手に切れるそうだ。
馬散村(小馬散)には、民族服を着ている人は見かけなかった。大馬散に行けば見られるという。
写真を撮り忘れたが、夕食は菜っ葉汁と赤米。夜食に雑炊(モック・煮爛飯)を出された。またブライ(水酒)を何杯も飲まされた。
突然来たのに、歓迎してくれて感謝あるのみ。 -
ワ族のいろりは二段になっている。網の上に肉を置いて燻製をつくる。野生動物やねずみなども燻製にする。
スガンリの伝説に、雷神(元は村に住んでいた)が姉妹と性交するという過ちを犯してしまい、田畑が不作となるシーンがある。
神々の間では「誰が過ちを犯した」ということになり、雷神は「私ではない、私ではない」と嘘をついたが、それを見ていたねずみに「彼らは性交した」と告げられ、雷神は手を縛られて叩かれる。そして他の神々(動物)に財産を取られ、村を追われて天に上ったというストーリーだ。
そこの記述に、雷神はまず「囲炉裏の網に上り、次に上の段に上り、次に屋根に上り、天に上った」という様子が詳しく書かれている。
『スガンリ』に出てくるとおりの囲炉裏を見て、ワ族にはまだ伝説の世界が生き残っていることを実感できた。 -
夜遅く、遠くから「ドンドン」と音が聞こえてきた。クロック
(木鼓)の音だ。
「ミャンマーからの音だ」という。
木鼓はワ族にとって神聖な祭品であり、道具である。首狩りをして木鼓を打つと、農耕神であるムイック神が気づいてくれるのだ。また、木鼓は村同士の連絡や、戦闘の際にも使われるが、西盟ワ族の木鼓は首狩りが禁止になったので全て廃棄された。馬散村にはレプリカがあるが、本物の木鼓は西盟文化館に保存されている一組(2個)だけだという。
となると、ミャンマー領に住むワ族は、ひょっとしたら首狩りの風習が残っているかもしれない。邱鍔鋒先生にそのことについて訊ねたことがあるが、先生は「残っている可能性がある」と答えた。1989年に西盟でワ族の調査をされた鳥越憲三郎教授(倭人のルーツや久高島イザイホーの研究者)の本によると、西盟でも1978年までは首狩りが行われていたようである。公には1958年以降は首狩りは無くなったということだが、事実とは異なるらしい。
1957年に邱鍔鋒先生がワ族の村に滞在中、夜中にとつぜん木鼓が鳴らされ、村中が殺気立ったという。何があったのか問うと、「他の村の連中が襲撃に来たので返り討ちにする」と返答があった。幸い、敵は村の中までは入ってこなかったそうだが、邱先生は「もしや自分も首を狩られるのではないか」と戦慄したそうだ。
再び「ドンドンドン」という音が聞こえてきた。かなり大きな音だ。襲撃は夜に行われることが多かったという。もしかすると、ミャンマー側の村では今まさに戦闘が行われているのかもしれない。あるいは村同士の会議の合図だろうか。真っ暗なアワ山に響き渡る木鼓の音を聴き、色々と考えをめぐらせた。
夜中、用を足しに外に出ると満天の星が素晴らしい。感動に浸りたいけど、下痢に苦しみ余裕が無い。またノミかダニかわからないけど、体が痒くてたまらず、床下の牛の鈴の音も相まってぐっすり眠れなかった。朝方に冷え込むと、痒みは治まった。
※写真は囲炉裏の網に置かれた、野生動物の肉
西盟・大馬散村の蓋房子 ワ族の世界を訪ねる(2)〜雲南の旅1993へ続く
http://4travel.jp/travelogue/10679740
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