チトワン国立公園周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
ポカラからチトワンへの車窓3月28日(土)   関 口 道 潤<br /> <br /> ポカラのペンション・トゥシタを出発したのは午前9時ころ。私たちはマヤさんに依頼してチャーターした10人乗りワゴン車で、次の目的地チトワンへ向かった。私のネパール訪問は4度目、林博之さんとはインド佛跡巡拜の途次、陸路を経てルンビニを訪問しているが、他のものは初めて。その4度訪問している私でさえ、ネパールはつかみ所の無い国だ。だから他の参加者はさらに理解できないところが多かったと思う。旅行案内書によると「ネパールの国土は、距離にして東西885km、南北145〜241km。北部のヒマラヤ山脈と南部のマハーバーラタ山脈との間の複雑な山岳地形にある。また、南部のインド国境までの50km幅ほどの地域には、タライと呼ばれる平原が広がる。インド亜大陸は、今から一億年以上昔はアジア大陸から離れていて、両大陸の間は広い海であった。そのインド亜大陸が7000万年前にアジア大陸にぶつかりこれを押しあげ始めたことにより、2500万年から1000万年前にかけてヒマラヤ山脈が形成された。海底は山頂となり、チベットは高原となった。」と記されている。私たちは26日午後1時頃、カトマンズに到着し、タメル地区のフジ・ホテルにチェックインした後に、スワヤンブ・ナートとパシュパティ・ナートという仏教寺院とヒンドゥー寺院に参詣した後に、パシュパティ・ナート近くにあるマヤ・ラマさんの家に立ち寄り、ここで、12年前の9月30日、ヒマラヤ、サガルマータ県ソル・クンブー地区にあるトプテン・チョリン僧院への到着寸前、ヘリコプター墜落事故で殉死したガイドのプルパ・シャルパさんの13回忌法事を営んだ。つまり今回の旅はプルパ・シェルパさん鎮魂の旅だった。ただ遺族のマヤ・ラマさんから「先生が今度ネパールに来たら、私がネパールを案内します」という呼びかけがあったので、このような形態となった。通常なら、法事だけを済ませ、遺族とは別にネパール観光も出来るのだが、マヤ夫人の好意をあり難く受けるのは、そのまま、ガイドとしてのマヤさんに仕事をして頂く事になるので、少し冷酷な様でもあったが、あえて甘える事にした。<br /> 法事が終わり、私たちは再びタメル地区に戻り、夕暮れのカトマンズ中心部を散策しながら、「ふる里」という名前の食堂で夕食をとり、フジ・ホテルで一宿し、翌日午前11時ころの国内線でポカラに向かった。飛行機での直線距離は130キロほどだから、所要時間は35分だった。カトマンズの標高は1200メートルから1300メートルであるが、ポカラは標高800メートル〜900メートルで、カトマンズよりは少し低い位置になり、これから向かうチトワンは標高50メートル〜200メートルとさらに低くなる。そんなあたりから8000メートル級のヒマラヤを望むのだから、これは実に変化に富んだ景色だ。<br /> ポカラからチトワンに向かうには、一旦、カンマンズ方面への「プリティヴ・ハイウエー」で90キロほど走るとムグリンの町に出る。ここから110キロほど東がカトマンズ、南に55キロほどでナラヤンガートがある 私たちの車はポカラ空港を通り過ぎ、やがてポカラ市内からの道にぶつかり、これを右折するとセティー川を渡り、まもなくポカラゲートという料金所を通過する。幾つかの小さな川を渡りながら、平坦な道を南東方向へと進んだ。沿道は田園風景が広がり、ちょうど日本の丹波山地の街道を思い出させるが、まだ田植えはされていないところが多かった。車の右手にはポカラ方面から流れてくるセティー・ガンダキ川が近くになったり、少し離れたりしながら、川に沿って走るのだが、いつの間にか右手の川が見えなくなったと思っていると、今度は左手に大きな川が見えてきた。最初は「いつの間にセテイー川を渡ったのか」と思っていると、ガイドのミグマルが「先生、この川はマルシャンディーです」と教えてくれた。ミグマルの正式名はミグマル・レインジェン・ラマといい、マヤさんの兄の子で、マヤさんからは甥に当たるが、子供の頃からマヤさんの家で親子同然に暮らしていた青年だ。彼は15年ほど以前に名古屋に来て、仕事をしながら3年間ほど日本語を学んだ。非常に人懐っこい青年で、私も自分の息子のように呼んでいた。さらに少し進むともう一つ別な川がこの川に合流する。それはカトマンズ方面から流れるトリスリ川だ。私たちの車は高い大きな橋を渡ると、直ぐにムグリンの三叉路にぶつかり、右折してナラヤンガート方面へと向かった<br />ヒマラヤ山脈の南がマハーバーラタ山脈であり、この山脈がヒマラヤとの間に平地や渓谷、河岸段丘を形成するのが、大方のネパールである。マハーバーラタ山脈の南側に開け、インドと国境を接する地域がタライ平原となる。マハーバーラタ山脈は東西に長く、この山脈がネパールを一種独特な地形や文化を育んだといってよい。そしてこの山脈が東西のほぼ中間地点で南北を結ぶ渓谷を形成するのが、ムグリンから南に流れ出るトリスリ川であり、その渓谷に沿って、インドとカトマンズを結ぶ幹線道路として整備されたのがこの国道だった。セテイー川はもう少し下流で合流している。私たちがこの国道に入った途端、急に大型トラックが多くなり、そのためか、舗装道路も所々で穴が開いたり、でこぼこになって走りにくい箇所が随所に見られた。対向車はインド方面から多くの生活物資を積んだ大型トラックで、大半はインド財閥系の自動車会社「タタ」製だった。<br /> 長い下り坂の渓谷道路を暫く進むと、やがて平坦な場所へ到着した。ここはどうやらタライ平原の入り口のようだ。ポカラの宿を出るとき、ペンション「トゥシタ」の主人ラジェスさんが教えてくれた「沙羅林」はこの辺りだと思っていると、いつの間にか国道の両側が高い木立となっていた。私はミグマルを通して運転手に尋ねようとしているうちに、最早、その林は疑いを入れる隙間が無いようにどこまでも、沙羅の木立が続いていた。20メートルから30メートル近くもあろうと思われる細長い樹木の梢には、あの浅黄色の可憐な花びらが幾重にも咲き満ちている。<br /> サラノキとはフタバガキ科の落葉喬木で、学名はshorea robustaだが、日本人にとって、「沙羅双樹」という言葉のほうが親しみやすい。この樹木は熱帯性植物のため、古来、中国やわが国には自生しないので別な樹木である「ナツツバキ」や「白雲木」などがこれに見立てられるようになった。私は仏陀世尊がクシナガラで涅槃に入られたときに、その身に降り注いだというインド固有の、本物の「沙羅の花」を、しかも現地で見たいと願い、このたびチトワンを訪れることにした。その途中のナラヤンガートの森でこの華を見ることとなった。3月下旬はまだ三分咲きほどだろうか。しばらく沙羅の花を観賞し再び車を走らせると右手に「ディヤロ・バンガロー」という旧王室の別荘があり、その先のトリリス川には長いつり橋が掛けられていたが、この橋の対岸が「デヴガート」という宗教上非常に重要な町があり、ここに幾つもの寺院や教育施設があるという。この町の西側から流れてくるカリ・ガンダキ川とトリリス川が合流して名前をナラヤニ川と変えるのだが、こうした大河の合流地点は、インド文明では古来シヴァ神とヴィシュヌ神がともに宿る聖地「ハリハラ・チェトラ」として崇められて来たという。ナラヤンガートとは「ナラヤニの岸」という意味で、この町の通称だが、行政上はバラトプル市の一部である。ミグマルの話では、この市は近くナラヤニ市と改名するとのことだった。<br /> ナラヤンガートを西に進めばマヘンドラナガル、東に向かえばカーカルビッタというネパール南部に広がるタライ平原を横断するマヘンドラハイウエイである。私たちはブル・チョークという交差点を左折して、しばらく市街地を走ると、やがて道は渋滞なのだろうか、車は道の左端に駐車した。トイレ休憩でも取るのかなと思っていると、やがて道一杯に行進してくる鮮やかな民族服の一団があった。「先生、デモです」とミグマルがいう。私は一瞬悪い予感に襲われた。それは今回、ネパールへの出発以前の3月13日、私は気になる情報を入手した。それは3月8日時点で、「南ネパールのストライキにより、チトワンへと、チトワンからの陸路移動が困難になっている」という内容だった。その後、このデモは収束したのだが、私に入った第一報は「何よりの問題は、現在チトワンのアクティビティーが通常通りできなくなっている、これは、チトワンのロッジ従業員が今回の騒動の中心になっている「タルー族」であり、仕事どころではなくなっている」というものだったからである。そのため、チトワンに行っても、ロッジ営業やアクティビティー実施自体が、通常通りできていないとなれば、チトワン行きは中止しなければならなかったからだ。しかし一時間後の状況も全く予測できないのがネパールであり、明日以降、状況がよくなるかもしれないし、悪くなるかもしれない。しかしながらプルパさんの冥加が有ったのだろう。事態は好転した。「3月13日15時時点でソウラハにあるロッジからもらった情報によると、明日3月14日以降、カトマンズ〜チトワン間、ポカラ〜チトワン間を運行するバス会社が共同し、一日一本のバスの運行を、順番に再開する予定であるとのこと。」との情報(ヒマラヤンアクティビティー)が入ったので、私は何とかチトワンへは入れるという感触を持ち、関係者に確認すると、「もう大丈夫だ」との回答を得たので、内心安堵していた。そこでこのデモに出逢ったので、当然ながら内心動揺した。しかしデモ行列は民族衣装をまとった男女が整斉と行進している。中にはチベット仏教のラマ僧も混じっている。ミグマルが「先生、この行列はグルン族です」と言った。私たちの仲間が、この行列を写真撮影しようとしているので、私は「少し遠慮したほうがよいのでは」と声を掛けたが、逆にデモの参加者が携帯電話のカメラでこちらの方を撮影しながら、笑顔を見せている。車からデモの様子を伺ううちに、このデモはそれほど過激なものでなく、どちらかといえば、週末に行われた労働条件の改善や、平和のための行進だったようだ。20分ほどで、車は通常通り走行を再開した。右手に「バラトプル空港」を見ながらマヘンドラ・ハイウエーを東に進むと、やがて道の両側は高い広葉樹の林となっていた。いや、この記述は冷静になった帰国後のものだが、その時の私は「あっ!、ここにも沙羅の林がある」という感歎と嗚咽にも似た言葉を発した。ナラヤンガートの手前で見たのと同じ林がどこまでも続いているのだ。しかしその時、この森が「世界遺産チトワン国立公園」へと連なっている沙羅樹林であることには気がついていなかった。私たちの車は林を抜けると広々とした田園風景となり、多少の民家も見られるようになったところの右手にアーチ型のゲートがあり、そのゲートをくぐって行くと、今度は田園風景というよりは原野に近い田舎道を進む事になった。仲間の誰もが「間もなくチトワンに到着する」と実感した。国道を右折したのは「タディ・バザール」という集落の「ゾウラハ・チョーク」(チョークとはネパール語で交差点の意味)だった。道は原野を進むかと思っていると右手奥には農村らしい集落があり、今度はいつの間にか川原の中を走り、その次には堤防に出たかと思うと、やがて少し大きな川があり、そこに掛けられた橋を渡ると、今度は比較的整備された田園風景となった。この辺りが「チット・ラサーリ」というツーリストバスの終点となっているらしい。私たちの行くソウラハのロッジはもう近いのだろうか、あちこちにホテル(ロッジ)の看板が見えてきた。私が予約を入れて、マヤさんに再確認をしてもらったのは「リバーサイド・ホテル」だったのだが、結果的にマヤさんが申し込んだのは「ホテル・リバーサイド・リゾート」という別のホテル(ロッジ)だった。私たちが先ほど渡ったのが「ラプティ川」であり、この川のほとりにロッジがあると思い、そのロッジだから、川があれば、「もう直ぐそば」と考えるのは当然である。しかし、私たちが渡ったのはラプティ川の支流となるカゲリ川だった。いろいろと想像を巡らせながら進むと、車は田んぼの中に高い並木のある道を進み、左からの道と合流して、右折するとゾウラハの街が見えてきた。街中には馬車が何人かの乗客を乗せて走ったり、頭上に荷物を載せて歩く女性の服装が一際鮮やかだった。商店が増えてきたと思われる辺りに、右に曲がる道があり、ここを入って間もなく、左側に「Chitwan riverside resort」とかいた看板があり、左折すると私たちのロッジに到着した。午後2時近かった。<br />リバーサイド・リゾートのパッケージツアー<br /> ホテルの敷地は二千坪ほどあるだろうか。ーというよりは川のほとりの静かな林の中にロッジ、レストラン、東屋、ベンチや楽椅子が設備されていると言った方が近い。東屋でオリエンテーションがあり、それに先立って天然果汁の飲み物が振舞われた。「ウェルカム・ドリンク」と書かれていた。甘さは強くないが上品な味のジュースだった。私たちの宿泊した「ホテル・リバーサイド・リゾート」は私たちのようなチトワンの自然に親しみたい訪問者に種種なアクティビティーを織り交ぜたパッケージ・ツアーを用意している。私たちもそのツアーに参加したわけである。<br />タルー村への散策<br /> 私たちはこの中の2泊3日のコースを選んだ事になっていたが、正直なところ、マヤさんが勤めていた旅行社に依頼して、マヤさんが予約してくれていた。少し遅めの昼食を戴いてから、私たちの予定では最初に「エレファント・サファリ」という、象の背中に乗ってチトワンの森や川、沼等の自然を観察する予定だったが、われわれの到着が遅かったので、この日はホテル近くにあるタルーという先住民族の民家への散策となった。参加者6人とマヤ、ミグマルのガイド二人に、現地案内人がついて総勢九人でぞろぞろと田舎道を歩き始めた。気温は28度ほど、少し熱く感じられたが、それほど蒸し暑い事はない。ホテル前の道を100メートルほど北に進むと、田舎道に出る。右に行けばゾウラハの商店街に、左に行けば象の繁殖センターへの道となる。<br /> 象の背に揺られて森林散歩ー3月29日(日)午前8時、私たちは「エレファント・サファリ」に出かけた。ガイド以外、参加者全員が初めての体験だった。案内書には「象がホテルまで迎えに来る」と書いてあったが、私たちは徒歩で面の通りまで出て、左手、西方向に少し歩くと右側に大きなホテルの庭があり、そこには3メートルほどの木製の櫓があった。ちょうど滑り台の滑降スロープのないものという感じだった。そこにはすでに二頭の象が待っていた。ガイドの案内に随い、象乗り櫓に登った。2.5メートルほどの小ぶりの象と、3メートルほどの大振り象であったが、私は後者に乗った。象遣い、日東、マヤ、ミグマル、私の5人。前には象遣い、林、戸倉、山田夫妻の5人だった。背に揺られて2時間ほどの森林散策だったが、先ず西に向かって歩くとやがて「象繁殖センター Elephant Breeding Center」という看板があった。そのまま三キロほど進むとカゲリ川の向こう岸にある施設である。象の飼育センター( EBC )は1985年にロイヤルチトワン国立公園( RCNP )で設立されたネパール唯一のEBCである。 EBCには20頭の象が繁殖目的で飼育されている。EBCは、象の繁殖と森に戻すための訓練を行っている。「現在チトワンに何頭の象がいるのか」という質問に、象遣いは「六十頭です」と答えた。しかしその中の22頭が「エレファント・サファリ」用に使役されているとのことだった。ネパールの象は一時絶滅したので、インドから移入して、繁殖を試みているのが、この繁殖センターの役目だとのことだった。私たちはそちらへは行かず、右折して北に向かって、しばらくは現地農民が田植えをしている田んぼの農道を進み、やがて「国立公園入口」の料金所を経て、いよいよ本格的に森林散歩となった。森林は鬱蒼としていたが、その樹木の名前を訊ねると「ベラル」の木という回答を得た。葉は菩提樹に似ているがもう少し分厚い。少し薄暗い林の中にはシカの親子やイノシシが見られ、梢にはサルが時折現れる。あまり聞きなれない鳥の声が耳に入ったので、名前を訊くと「サル」と言う鳥だとのことだった。象遣いはかなり若い青年と見たので、名前と年齢を訊ねると「ラッチ・ミカル、四十歳」との回答だった。少しおかしいと思ったので聞き直すと、それは象の年齢で、「自分の名はヒラルル・クマル、十八歳」と答えた。何でもこの象は元インドで木材の運搬などに使われていたが、年を取ったメスなので、半年ほど以前にネパールへ売られてきて、現在自分とペアを組んで「エレファント・サファリ」に専念しているとのことだった。この象を購入するには日本円で400万円程度が必要だとも語った。しばらく鬱蒼とした林を行くと、目の前に小さな沼池が開けて、その沼に3メートルほどと二メートルほどの背中の硬い鉛色の動物が頭を水に付けて休息していた。ミグマルが「先生Rhinocerosです。リノは日本語で何ですか?」と逆に質問してくる。私が「アジア・イッカクサイか?」と言うと、「そうです。そのサイです」と答えた。このサイは母親と息子で、昼寝の最中のようだった。さらに鬱蒼とした林を進むと、今度はかなり開けた野原に出た。遥か向こうに孔雀が羽を広げていた。そこからさらに進むとやがてあまり大きくない川辺に出た。カゲリ川のようだ。川の向こうから鮮やかな民族服を纏った女性が5〜6人、頭の上にたくさんの木の枝を乗せて歩いてくるのに遭遇した。この辺りは国立公園と集落との緩衝地帯となっており、原住民だけは生活に必要な薪や木材の採種が許されているらしい。鮮やかな民族衣装に気を取られていると、今度はマヤさんが「先生あそこにワニがいます」と声を掛けてくれた。そのとき、はるかかなたの森に沙羅の花が見られたので、私はすかさずヒラルルに「あちらの森へは行けないのか」と尋ねると、「あそこへ入ると捕まる」との返事だった。つまり国立公園内へは、ソウラハで営業する象は入れないという事だ。ゾウラハでの「エレファント・サファリ」は午前8時、10時、午後1時、午後3時の4回で、一回の所要時間は2時間弱とのことだった。私たちは象の散策を終えて、一旦ホテルに戻り、ここでさらにラプティ川での象の水浴びを鑑賞するために公園入り口のあるラプティ川に行った。<br />「ジープ・サファリ」で満開の沙羅華を堪能するー3月29日(日)<br /> 昼食後、私たちは急遽、ジープ・サファリをお願いして、国立公園の奥へと入る事になった。ミグマルにそれを話すと、彼は、もう森林散策には堪能しすぎて、それ以上は行きたくない態度だった。しかし、私としては沙羅の花を十分に観賞するために折角ここまでやってきて、そのまま引き返す手は無い。ミグマルが「先生、ジープは1人日本円で1100円かかりますよ、これから午後カヌーに乗って象のブリーディング・センターへ行けば、それはツアー料金に含まれています。」と、何とか思い留まらせようとする。私は「費用はすべて私が支払います。」と言えば、次には「一度乗ってしまうと4時間は戻れませんよ」と返答する。「それで好いから頼んでください」と私が引導を渡した。彼は渋々申し込み手続きを済ませた。私たちは昼食後、専用車に乗って1キロほど離れたラプティ川畔の公園入口事務所に行った。ここは川幅60メートル、水深70〜100センチほどで、ここには橋が掛けられておらず、10人程乗れる丸木舟(カヌー)があった。最初にジープ・サファリ用の経費を支払って乗船した。カヌーは水面を滑るようにして数分で対岸に着いた。川原には既に私たちのジープが待機していた。屋根は無く、少し旧式な車だったが、これで4時間の森林散策へ臨んだ。車は西に向かって森林の道路を進んだ。道路と言ってもジープがいつも走るために自然に出来た道という感じだった。最初に少し鬱蒼とした森を進んだが、直ぐに草原に出た。日本の景色なら差し詰め川の葦原という感じだが、この草はエレファント‐グラス【elephant grass】というイネ科チカラシバ属の多年草。熱帯アフリカ原産で、牧草にし、高さ4〜5メートルに達し、葉は下垂する。葉身長は三〇〜一二〇センチ。「ネピアグラス」とも言われている。私たちの泊まっているロッジも、エレファントグラスが使われているとのことだ。焼いて残った茎を並べ、外側から土を塗って作ったシンプルなロッジである。屋根にもエレファントグラスが使われ、表面には薄く切った石が葺かれている。このエレファントグラスは象が好んで食べる草なのだが茎の太さも二センチ位はあり、草というより竹といった感じ。雨期の湿気対策には最適の工法で、チトワンに昔から暮らすタルー族から伝わったものという。草原の少し奥に木造の櫓があり、そこに大きな象が何かの訓練を受けていた。もともとこの時間はリバーサイド・リゾートから四キロほど西に行った「象の繁殖センター」(エレファント・ブリーディング・センター)を訪問して、象の飼育情況や生態を観察するはずだったのだが、私のどうしても『満開の沙羅樹林』を見たいという、我ままから急遽変更したのだった。<br /> チトワンのアジアゾウは繁殖センターで育て、原野に戻す事業が進められているが、まだそれほどたくさんのゾウが自然に戻ったのではない。少し走ると今度は検問所のような場所があったので立ち寄ると、兵隊が駐屯しており、一羽の孔雀が飼われていた。この孔雀は怪我をしたために保護されているとの事だったが、間近にゆっくりと孔雀を見ることが出来た。そこを出てさらに車が進むと、エレファント・グラスや広葉樹がまばらに立っているが、木は沙羅樹ではなかった。シカの親子やサルは時々見られた。その他はなかなか見られないと思っていると遥か向こうのほうに鳥が飛んでいた。「先生、孔雀です」とミグマルが声を掛けた。さらに進むと右側五百メートル程の所に沼があり、その畔にサイが見えた。ミグマルが午前と同じように「先生Rhinocerosです。リノは日本語で何ですか?」と逆に質問してくる。私が「イッカクサイか?」と言うと、「そうです。そのサイです」と答えた。ともかく面白い男だ。車は既に30分ほど走っているが、沙羅樹はまだどこにも見られない。私が少し心配しているのを見て取ったミグマルは口を開き、「もう少し行くとサルの林になります。チトワンの林の75パーセントはサルの木です。」と励ました。さらに5分ほど走ると広葉樹の林が見えてきた。高い梢は薄着色で占められている。初めはかすかに見られる程度だったが、チトワンの奥深くへと進んでゆくうちに、あたり一面が沙羅の林となった。頭上20メートルから30メートルほどの梢には薄黄色の可憐な花を数え切れないほどたくさん見える。ジープを止めていただくと、足元には馬耳木と呼ばれるとおり、馬の耳に似た、沙羅の大きな枯葉が何重にも重なってちりばめられた、その上に、あの涅槃の佛身に降り注いだ小さな沙羅の花びらが、既に落ち、また新しく降り注いでいた。その花の蜜香は淡く実に上品な匂いだ。ジャスミンの香りに似て、そうでもなく、藤の花の香りに近いがも同じではない。その香が何千本、何万本、いや何十万本、何百万本と、延々と続く沙羅樹林一杯に立ち込めており、時折シカの親子が散歩していたり、水辺では一角犀がたたずんでいたりする、時間が止まっているような空間だった。 ジープがまた走り始めたが、周囲はすべて沙羅樹の林だ。この林はいわゆるジャングルー密林の趣ではない。日本で言えば差し詰め「高原の白樺林」という感じだ。ただし背丈は遥かに高い。ひとたび沙羅樹林に替ったら、もうそのままの林がどこまでも、どこまでも続いている。左側に少し大きめな湖が見えてきたが、湖岸一面に沙羅の花が見えている。そんな中をときどき白い煙が上がっていたが、それは野焼きをしている所だった。自然林ならそんな事をする必要は内容に思うが、林の所々で見られた。私たちが進む車道へもその火が燃え移ってくるところもあった。<br /> 30分ほどの見学の後に、ジープは復路に就いた。一面の沙羅樹林をどこまでもどこまでも続いていた。帰路で気がついたことだが、野焼きの火は沙羅樹の幹をかなり黒焦げにしている。どの幹も黒いがみんな元気に茂って蜜香の花を咲かせている。何とも不思議な光景だ。途中で右手に公園内の立派なロッジがあり、そのそばには小川に清水が流れている。公園内とゾウラハの何れのロッジを選ぶかで、計画段階では躊躇したが、次回もしその機会があれば公園内に宿泊したいと思った 途中草原で立ち寄り、辺りの沙羅の花を何回も望遠レンズで撮影を試みたが、結果は必ずしもはかばかしくなかった。公園入口のラプティ川畔に着いて、しばらくの間、夕暮れの景色を眺めたり、ベンチに坐って悠久の流れと一体になったような感覚になった。岸には象の水浴や、柱に繋がれたラクダが居たり、街道を駅馬車が走ったり、何とも幻想的な風景で、正にチトワンの休日だった。ロッジに帰ってからはチトワン最後の夕食をとった。停電は日常茶飯というよりは、「電力均等配電」(loadshedding)という、何とも致し方ない、電力不足の苦肉策のために、私たちはロウソクや懐中電灯などの薄明かりで静かなチトワンの夜を過ごした。   <br />

仏陀涅槃の花ー沙羅華満開のチトワン国立公園へ

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2009/03/25 - 2009/04/01

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erindojunさん

ポカラからチトワンへの車窓3月28日(土)   関 口 道 潤
 
 ポカラのペンション・トゥシタを出発したのは午前9時ころ。私たちはマヤさんに依頼してチャーターした10人乗りワゴン車で、次の目的地チトワンへ向かった。私のネパール訪問は4度目、林博之さんとはインド佛跡巡拜の途次、陸路を経てルンビニを訪問しているが、他のものは初めて。その4度訪問している私でさえ、ネパールはつかみ所の無い国だ。だから他の参加者はさらに理解できないところが多かったと思う。旅行案内書によると「ネパールの国土は、距離にして東西885km、南北145〜241km。北部のヒマラヤ山脈と南部のマハーバーラタ山脈との間の複雑な山岳地形にある。また、南部のインド国境までの50km幅ほどの地域には、タライと呼ばれる平原が広がる。インド亜大陸は、今から一億年以上昔はアジア大陸から離れていて、両大陸の間は広い海であった。そのインド亜大陸が7000万年前にアジア大陸にぶつかりこれを押しあげ始めたことにより、2500万年から1000万年前にかけてヒマラヤ山脈が形成された。海底は山頂となり、チベットは高原となった。」と記されている。私たちは26日午後1時頃、カトマンズに到着し、タメル地区のフジ・ホテルにチェックインした後に、スワヤンブ・ナートとパシュパティ・ナートという仏教寺院とヒンドゥー寺院に参詣した後に、パシュパティ・ナート近くにあるマヤ・ラマさんの家に立ち寄り、ここで、12年前の9月30日、ヒマラヤ、サガルマータ県ソル・クンブー地区にあるトプテン・チョリン僧院への到着寸前、ヘリコプター墜落事故で殉死したガイドのプルパ・シャルパさんの13回忌法事を営んだ。つまり今回の旅はプルパ・シェルパさん鎮魂の旅だった。ただ遺族のマヤ・ラマさんから「先生が今度ネパールに来たら、私がネパールを案内します」という呼びかけがあったので、このような形態となった。通常なら、法事だけを済ませ、遺族とは別にネパール観光も出来るのだが、マヤ夫人の好意をあり難く受けるのは、そのまま、ガイドとしてのマヤさんに仕事をして頂く事になるので、少し冷酷な様でもあったが、あえて甘える事にした。
 法事が終わり、私たちは再びタメル地区に戻り、夕暮れのカトマンズ中心部を散策しながら、「ふる里」という名前の食堂で夕食をとり、フジ・ホテルで一宿し、翌日午前11時ころの国内線でポカラに向かった。飛行機での直線距離は130キロほどだから、所要時間は35分だった。カトマンズの標高は1200メートルから1300メートルであるが、ポカラは標高800メートル〜900メートルで、カトマンズよりは少し低い位置になり、これから向かうチトワンは標高50メートル〜200メートルとさらに低くなる。そんなあたりから8000メートル級のヒマラヤを望むのだから、これは実に変化に富んだ景色だ。
 ポカラからチトワンに向かうには、一旦、カンマンズ方面への「プリティヴ・ハイウエー」で90キロほど走るとムグリンの町に出る。ここから110キロほど東がカトマンズ、南に55キロほどでナラヤンガートがある 私たちの車はポカラ空港を通り過ぎ、やがてポカラ市内からの道にぶつかり、これを右折するとセティー川を渡り、まもなくポカラゲートという料金所を通過する。幾つかの小さな川を渡りながら、平坦な道を南東方向へと進んだ。沿道は田園風景が広がり、ちょうど日本の丹波山地の街道を思い出させるが、まだ田植えはされていないところが多かった。車の右手にはポカラ方面から流れてくるセティー・ガンダキ川が近くになったり、少し離れたりしながら、川に沿って走るのだが、いつの間にか右手の川が見えなくなったと思っていると、今度は左手に大きな川が見えてきた。最初は「いつの間にセテイー川を渡ったのか」と思っていると、ガイドのミグマルが「先生、この川はマルシャンディーです」と教えてくれた。ミグマルの正式名はミグマル・レインジェン・ラマといい、マヤさんの兄の子で、マヤさんからは甥に当たるが、子供の頃からマヤさんの家で親子同然に暮らしていた青年だ。彼は15年ほど以前に名古屋に来て、仕事をしながら3年間ほど日本語を学んだ。非常に人懐っこい青年で、私も自分の息子のように呼んでいた。さらに少し進むともう一つ別な川がこの川に合流する。それはカトマンズ方面から流れるトリスリ川だ。私たちの車は高い大きな橋を渡ると、直ぐにムグリンの三叉路にぶつかり、右折してナラヤンガート方面へと向かった
ヒマラヤ山脈の南がマハーバーラタ山脈であり、この山脈がヒマラヤとの間に平地や渓谷、河岸段丘を形成するのが、大方のネパールである。マハーバーラタ山脈の南側に開け、インドと国境を接する地域がタライ平原となる。マハーバーラタ山脈は東西に長く、この山脈がネパールを一種独特な地形や文化を育んだといってよい。そしてこの山脈が東西のほぼ中間地点で南北を結ぶ渓谷を形成するのが、ムグリンから南に流れ出るトリスリ川であり、その渓谷に沿って、インドとカトマンズを結ぶ幹線道路として整備されたのがこの国道だった。セテイー川はもう少し下流で合流している。私たちがこの国道に入った途端、急に大型トラックが多くなり、そのためか、舗装道路も所々で穴が開いたり、でこぼこになって走りにくい箇所が随所に見られた。対向車はインド方面から多くの生活物資を積んだ大型トラックで、大半はインド財閥系の自動車会社「タタ」製だった。
 長い下り坂の渓谷道路を暫く進むと、やがて平坦な場所へ到着した。ここはどうやらタライ平原の入り口のようだ。ポカラの宿を出るとき、ペンション「トゥシタ」の主人ラジェスさんが教えてくれた「沙羅林」はこの辺りだと思っていると、いつの間にか国道の両側が高い木立となっていた。私はミグマルを通して運転手に尋ねようとしているうちに、最早、その林は疑いを入れる隙間が無いようにどこまでも、沙羅の木立が続いていた。20メートルから30メートル近くもあろうと思われる細長い樹木の梢には、あの浅黄色の可憐な花びらが幾重にも咲き満ちている。
 サラノキとはフタバガキ科の落葉喬木で、学名はshorea robustaだが、日本人にとって、「沙羅双樹」という言葉のほうが親しみやすい。この樹木は熱帯性植物のため、古来、中国やわが国には自生しないので別な樹木である「ナツツバキ」や「白雲木」などがこれに見立てられるようになった。私は仏陀世尊がクシナガラで涅槃に入られたときに、その身に降り注いだというインド固有の、本物の「沙羅の花」を、しかも現地で見たいと願い、このたびチトワンを訪れることにした。その途中のナラヤンガートの森でこの華を見ることとなった。3月下旬はまだ三分咲きほどだろうか。しばらく沙羅の花を観賞し再び車を走らせると右手に「ディヤロ・バンガロー」という旧王室の別荘があり、その先のトリリス川には長いつり橋が掛けられていたが、この橋の対岸が「デヴガート」という宗教上非常に重要な町があり、ここに幾つもの寺院や教育施設があるという。この町の西側から流れてくるカリ・ガンダキ川とトリリス川が合流して名前をナラヤニ川と変えるのだが、こうした大河の合流地点は、インド文明では古来シヴァ神とヴィシュヌ神がともに宿る聖地「ハリハラ・チェトラ」として崇められて来たという。ナラヤンガートとは「ナラヤニの岸」という意味で、この町の通称だが、行政上はバラトプル市の一部である。ミグマルの話では、この市は近くナラヤニ市と改名するとのことだった。
 ナラヤンガートを西に進めばマヘンドラナガル、東に向かえばカーカルビッタというネパール南部に広がるタライ平原を横断するマヘンドラハイウエイである。私たちはブル・チョークという交差点を左折して、しばらく市街地を走ると、やがて道は渋滞なのだろうか、車は道の左端に駐車した。トイレ休憩でも取るのかなと思っていると、やがて道一杯に行進してくる鮮やかな民族服の一団があった。「先生、デモです」とミグマルがいう。私は一瞬悪い予感に襲われた。それは今回、ネパールへの出発以前の3月13日、私は気になる情報を入手した。それは3月8日時点で、「南ネパールのストライキにより、チトワンへと、チトワンからの陸路移動が困難になっている」という内容だった。その後、このデモは収束したのだが、私に入った第一報は「何よりの問題は、現在チトワンのアクティビティーが通常通りできなくなっている、これは、チトワンのロッジ従業員が今回の騒動の中心になっている「タルー族」であり、仕事どころではなくなっている」というものだったからである。そのため、チトワンに行っても、ロッジ営業やアクティビティー実施自体が、通常通りできていないとなれば、チトワン行きは中止しなければならなかったからだ。しかし一時間後の状況も全く予測できないのがネパールであり、明日以降、状況がよくなるかもしれないし、悪くなるかもしれない。しかしながらプルパさんの冥加が有ったのだろう。事態は好転した。「3月13日15時時点でソウラハにあるロッジからもらった情報によると、明日3月14日以降、カトマンズ〜チトワン間、ポカラ〜チトワン間を運行するバス会社が共同し、一日一本のバスの運行を、順番に再開する予定であるとのこと。」との情報(ヒマラヤンアクティビティー)が入ったので、私は何とかチトワンへは入れるという感触を持ち、関係者に確認すると、「もう大丈夫だ」との回答を得たので、内心安堵していた。そこでこのデモに出逢ったので、当然ながら内心動揺した。しかしデモ行列は民族衣装をまとった男女が整斉と行進している。中にはチベット仏教のラマ僧も混じっている。ミグマルが「先生、この行列はグルン族です」と言った。私たちの仲間が、この行列を写真撮影しようとしているので、私は「少し遠慮したほうがよいのでは」と声を掛けたが、逆にデモの参加者が携帯電話のカメラでこちらの方を撮影しながら、笑顔を見せている。車からデモの様子を伺ううちに、このデモはそれほど過激なものでなく、どちらかといえば、週末に行われた労働条件の改善や、平和のための行進だったようだ。20分ほどで、車は通常通り走行を再開した。右手に「バラトプル空港」を見ながらマヘンドラ・ハイウエーを東に進むと、やがて道の両側は高い広葉樹の林となっていた。いや、この記述は冷静になった帰国後のものだが、その時の私は「あっ!、ここにも沙羅の林がある」という感歎と嗚咽にも似た言葉を発した。ナラヤンガートの手前で見たのと同じ林がどこまでも続いているのだ。しかしその時、この森が「世界遺産チトワン国立公園」へと連なっている沙羅樹林であることには気がついていなかった。私たちの車は林を抜けると広々とした田園風景となり、多少の民家も見られるようになったところの右手にアーチ型のゲートがあり、そのゲートをくぐって行くと、今度は田園風景というよりは原野に近い田舎道を進む事になった。仲間の誰もが「間もなくチトワンに到着する」と実感した。国道を右折したのは「タディ・バザール」という集落の「ゾウラハ・チョーク」(チョークとはネパール語で交差点の意味)だった。道は原野を進むかと思っていると右手奥には農村らしい集落があり、今度はいつの間にか川原の中を走り、その次には堤防に出たかと思うと、やがて少し大きな川があり、そこに掛けられた橋を渡ると、今度は比較的整備された田園風景となった。この辺りが「チット・ラサーリ」というツーリストバスの終点となっているらしい。私たちの行くソウラハのロッジはもう近いのだろうか、あちこちにホテル(ロッジ)の看板が見えてきた。私が予約を入れて、マヤさんに再確認をしてもらったのは「リバーサイド・ホテル」だったのだが、結果的にマヤさんが申し込んだのは「ホテル・リバーサイド・リゾート」という別のホテル(ロッジ)だった。私たちが先ほど渡ったのが「ラプティ川」であり、この川のほとりにロッジがあると思い、そのロッジだから、川があれば、「もう直ぐそば」と考えるのは当然である。しかし、私たちが渡ったのはラプティ川の支流となるカゲリ川だった。いろいろと想像を巡らせながら進むと、車は田んぼの中に高い並木のある道を進み、左からの道と合流して、右折するとゾウラハの街が見えてきた。街中には馬車が何人かの乗客を乗せて走ったり、頭上に荷物を載せて歩く女性の服装が一際鮮やかだった。商店が増えてきたと思われる辺りに、右に曲がる道があり、ここを入って間もなく、左側に「Chitwan riverside resort」とかいた看板があり、左折すると私たちのロッジに到着した。午後2時近かった。
リバーサイド・リゾートのパッケージツアー
 ホテルの敷地は二千坪ほどあるだろうか。ーというよりは川のほとりの静かな林の中にロッジ、レストラン、東屋、ベンチや楽椅子が設備されていると言った方が近い。東屋でオリエンテーションがあり、それに先立って天然果汁の飲み物が振舞われた。「ウェルカム・ドリンク」と書かれていた。甘さは強くないが上品な味のジュースだった。私たちの宿泊した「ホテル・リバーサイド・リゾート」は私たちのようなチトワンの自然に親しみたい訪問者に種種なアクティビティーを織り交ぜたパッケージ・ツアーを用意している。私たちもそのツアーに参加したわけである。
タルー村への散策
 私たちはこの中の2泊3日のコースを選んだ事になっていたが、正直なところ、マヤさんが勤めていた旅行社に依頼して、マヤさんが予約してくれていた。少し遅めの昼食を戴いてから、私たちの予定では最初に「エレファント・サファリ」という、象の背中に乗ってチトワンの森や川、沼等の自然を観察する予定だったが、われわれの到着が遅かったので、この日はホテル近くにあるタルーという先住民族の民家への散策となった。参加者6人とマヤ、ミグマルのガイド二人に、現地案内人がついて総勢九人でぞろぞろと田舎道を歩き始めた。気温は28度ほど、少し熱く感じられたが、それほど蒸し暑い事はない。ホテル前の道を100メートルほど北に進むと、田舎道に出る。右に行けばゾウラハの商店街に、左に行けば象の繁殖センターへの道となる。
 象の背に揺られて森林散歩ー3月29日(日)午前8時、私たちは「エレファント・サファリ」に出かけた。ガイド以外、参加者全員が初めての体験だった。案内書には「象がホテルまで迎えに来る」と書いてあったが、私たちは徒歩で面の通りまで出て、左手、西方向に少し歩くと右側に大きなホテルの庭があり、そこには3メートルほどの木製の櫓があった。ちょうど滑り台の滑降スロープのないものという感じだった。そこにはすでに二頭の象が待っていた。ガイドの案内に随い、象乗り櫓に登った。2.5メートルほどの小ぶりの象と、3メートルほどの大振り象であったが、私は後者に乗った。象遣い、日東、マヤ、ミグマル、私の5人。前には象遣い、林、戸倉、山田夫妻の5人だった。背に揺られて2時間ほどの森林散策だったが、先ず西に向かって歩くとやがて「象繁殖センター Elephant Breeding Center」という看板があった。そのまま三キロほど進むとカゲリ川の向こう岸にある施設である。象の飼育センター( EBC )は1985年にロイヤルチトワン国立公園( RCNP )で設立されたネパール唯一のEBCである。 EBCには20頭の象が繁殖目的で飼育されている。EBCは、象の繁殖と森に戻すための訓練を行っている。「現在チトワンに何頭の象がいるのか」という質問に、象遣いは「六十頭です」と答えた。しかしその中の22頭が「エレファント・サファリ」用に使役されているとのことだった。ネパールの象は一時絶滅したので、インドから移入して、繁殖を試みているのが、この繁殖センターの役目だとのことだった。私たちはそちらへは行かず、右折して北に向かって、しばらくは現地農民が田植えをしている田んぼの農道を進み、やがて「国立公園入口」の料金所を経て、いよいよ本格的に森林散歩となった。森林は鬱蒼としていたが、その樹木の名前を訊ねると「ベラル」の木という回答を得た。葉は菩提樹に似ているがもう少し分厚い。少し薄暗い林の中にはシカの親子やイノシシが見られ、梢にはサルが時折現れる。あまり聞きなれない鳥の声が耳に入ったので、名前を訊くと「サル」と言う鳥だとのことだった。象遣いはかなり若い青年と見たので、名前と年齢を訊ねると「ラッチ・ミカル、四十歳」との回答だった。少しおかしいと思ったので聞き直すと、それは象の年齢で、「自分の名はヒラルル・クマル、十八歳」と答えた。何でもこの象は元インドで木材の運搬などに使われていたが、年を取ったメスなので、半年ほど以前にネパールへ売られてきて、現在自分とペアを組んで「エレファント・サファリ」に専念しているとのことだった。この象を購入するには日本円で400万円程度が必要だとも語った。しばらく鬱蒼とした林を行くと、目の前に小さな沼池が開けて、その沼に3メートルほどと二メートルほどの背中の硬い鉛色の動物が頭を水に付けて休息していた。ミグマルが「先生Rhinocerosです。リノは日本語で何ですか?」と逆に質問してくる。私が「アジア・イッカクサイか?」と言うと、「そうです。そのサイです」と答えた。このサイは母親と息子で、昼寝の最中のようだった。さらに鬱蒼とした林を進むと、今度はかなり開けた野原に出た。遥か向こうに孔雀が羽を広げていた。そこからさらに進むとやがてあまり大きくない川辺に出た。カゲリ川のようだ。川の向こうから鮮やかな民族服を纏った女性が5〜6人、頭の上にたくさんの木の枝を乗せて歩いてくるのに遭遇した。この辺りは国立公園と集落との緩衝地帯となっており、原住民だけは生活に必要な薪や木材の採種が許されているらしい。鮮やかな民族衣装に気を取られていると、今度はマヤさんが「先生あそこにワニがいます」と声を掛けてくれた。そのとき、はるかかなたの森に沙羅の花が見られたので、私はすかさずヒラルルに「あちらの森へは行けないのか」と尋ねると、「あそこへ入ると捕まる」との返事だった。つまり国立公園内へは、ソウラハで営業する象は入れないという事だ。ゾウラハでの「エレファント・サファリ」は午前8時、10時、午後1時、午後3時の4回で、一回の所要時間は2時間弱とのことだった。私たちは象の散策を終えて、一旦ホテルに戻り、ここでさらにラプティ川での象の水浴びを鑑賞するために公園入り口のあるラプティ川に行った。
「ジープ・サファリ」で満開の沙羅華を堪能するー3月29日(日)
 昼食後、私たちは急遽、ジープ・サファリをお願いして、国立公園の奥へと入る事になった。ミグマルにそれを話すと、彼は、もう森林散策には堪能しすぎて、それ以上は行きたくない態度だった。しかし、私としては沙羅の花を十分に観賞するために折角ここまでやってきて、そのまま引き返す手は無い。ミグマルが「先生、ジープは1人日本円で1100円かかりますよ、これから午後カヌーに乗って象のブリーディング・センターへ行けば、それはツアー料金に含まれています。」と、何とか思い留まらせようとする。私は「費用はすべて私が支払います。」と言えば、次には「一度乗ってしまうと4時間は戻れませんよ」と返答する。「それで好いから頼んでください」と私が引導を渡した。彼は渋々申し込み手続きを済ませた。私たちは昼食後、専用車に乗って1キロほど離れたラプティ川畔の公園入口事務所に行った。ここは川幅60メートル、水深70〜100センチほどで、ここには橋が掛けられておらず、10人程乗れる丸木舟(カヌー)があった。最初にジープ・サファリ用の経費を支払って乗船した。カヌーは水面を滑るようにして数分で対岸に着いた。川原には既に私たちのジープが待機していた。屋根は無く、少し旧式な車だったが、これで4時間の森林散策へ臨んだ。車は西に向かって森林の道路を進んだ。道路と言ってもジープがいつも走るために自然に出来た道という感じだった。最初に少し鬱蒼とした森を進んだが、直ぐに草原に出た。日本の景色なら差し詰め川の葦原という感じだが、この草はエレファント‐グラス【elephant grass】というイネ科チカラシバ属の多年草。熱帯アフリカ原産で、牧草にし、高さ4〜5メートルに達し、葉は下垂する。葉身長は三〇〜一二〇センチ。「ネピアグラス」とも言われている。私たちの泊まっているロッジも、エレファントグラスが使われているとのことだ。焼いて残った茎を並べ、外側から土を塗って作ったシンプルなロッジである。屋根にもエレファントグラスが使われ、表面には薄く切った石が葺かれている。このエレファントグラスは象が好んで食べる草なのだが茎の太さも二センチ位はあり、草というより竹といった感じ。雨期の湿気対策には最適の工法で、チトワンに昔から暮らすタルー族から伝わったものという。草原の少し奥に木造の櫓があり、そこに大きな象が何かの訓練を受けていた。もともとこの時間はリバーサイド・リゾートから四キロほど西に行った「象の繁殖センター」(エレファント・ブリーディング・センター)を訪問して、象の飼育情況や生態を観察するはずだったのだが、私のどうしても『満開の沙羅樹林』を見たいという、我ままから急遽変更したのだった。
 チトワンのアジアゾウは繁殖センターで育て、原野に戻す事業が進められているが、まだそれほどたくさんのゾウが自然に戻ったのではない。少し走ると今度は検問所のような場所があったので立ち寄ると、兵隊が駐屯しており、一羽の孔雀が飼われていた。この孔雀は怪我をしたために保護されているとの事だったが、間近にゆっくりと孔雀を見ることが出来た。そこを出てさらに車が進むと、エレファント・グラスや広葉樹がまばらに立っているが、木は沙羅樹ではなかった。シカの親子やサルは時々見られた。その他はなかなか見られないと思っていると遥か向こうのほうに鳥が飛んでいた。「先生、孔雀です」とミグマルが声を掛けた。さらに進むと右側五百メートル程の所に沼があり、その畔にサイが見えた。ミグマルが午前と同じように「先生Rhinocerosです。リノは日本語で何ですか?」と逆に質問してくる。私が「イッカクサイか?」と言うと、「そうです。そのサイです」と答えた。ともかく面白い男だ。車は既に30分ほど走っているが、沙羅樹はまだどこにも見られない。私が少し心配しているのを見て取ったミグマルは口を開き、「もう少し行くとサルの林になります。チトワンの林の75パーセントはサルの木です。」と励ました。さらに5分ほど走ると広葉樹の林が見えてきた。高い梢は薄着色で占められている。初めはかすかに見られる程度だったが、チトワンの奥深くへと進んでゆくうちに、あたり一面が沙羅の林となった。頭上20メートルから30メートルほどの梢には薄黄色の可憐な花を数え切れないほどたくさん見える。ジープを止めていただくと、足元には馬耳木と呼ばれるとおり、馬の耳に似た、沙羅の大きな枯葉が何重にも重なってちりばめられた、その上に、あの涅槃の佛身に降り注いだ小さな沙羅の花びらが、既に落ち、また新しく降り注いでいた。その花の蜜香は淡く実に上品な匂いだ。ジャスミンの香りに似て、そうでもなく、藤の花の香りに近いがも同じではない。その香が何千本、何万本、いや何十万本、何百万本と、延々と続く沙羅樹林一杯に立ち込めており、時折シカの親子が散歩していたり、水辺では一角犀がたたずんでいたりする、時間が止まっているような空間だった。 ジープがまた走り始めたが、周囲はすべて沙羅樹の林だ。この林はいわゆるジャングルー密林の趣ではない。日本で言えば差し詰め「高原の白樺林」という感じだ。ただし背丈は遥かに高い。ひとたび沙羅樹林に替ったら、もうそのままの林がどこまでも、どこまでも続いている。左側に少し大きめな湖が見えてきたが、湖岸一面に沙羅の花が見えている。そんな中をときどき白い煙が上がっていたが、それは野焼きをしている所だった。自然林ならそんな事をする必要は内容に思うが、林の所々で見られた。私たちが進む車道へもその火が燃え移ってくるところもあった。
 30分ほどの見学の後に、ジープは復路に就いた。一面の沙羅樹林をどこまでもどこまでも続いていた。帰路で気がついたことだが、野焼きの火は沙羅樹の幹をかなり黒焦げにしている。どの幹も黒いがみんな元気に茂って蜜香の花を咲かせている。何とも不思議な光景だ。途中で右手に公園内の立派なロッジがあり、そのそばには小川に清水が流れている。公園内とゾウラハの何れのロッジを選ぶかで、計画段階では躊躇したが、次回もしその機会があれば公園内に宿泊したいと思った 途中草原で立ち寄り、辺りの沙羅の花を何回も望遠レンズで撮影を試みたが、結果は必ずしもはかばかしくなかった。公園入口のラプティ川畔に着いて、しばらくの間、夕暮れの景色を眺めたり、ベンチに坐って悠久の流れと一体になったような感覚になった。岸には象の水浴や、柱に繋がれたラクダが居たり、街道を駅馬車が走ったり、何とも幻想的な風景で、正にチトワンの休日だった。ロッジに帰ってからはチトワン最後の夕食をとった。停電は日常茶飯というよりは、「電力均等配電」(loadshedding)という、何とも致し方ない、電力不足の苦肉策のために、私たちはロウソクや懐中電灯などの薄明かりで静かなチトワンの夜を過ごした。   

同行者
友人
交通手段
タクシー
航空会社
タイ国際航空

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  • カトマンズにある故プルパ・シェルパさんの家で13回忌法事を済ませた後の記念写真。仏間は四階建ての最上部にあり、20畳敷ほどの大きな部屋。参加者全員とシェルパ氏の遺族。

    カトマンズにある故プルパ・シェルパさんの家で13回忌法事を済ませた後の記念写真。仏間は四階建ての最上部にあり、20畳敷ほどの大きな部屋。参加者全員とシェルパ氏の遺族。

  • ポカラでの宿泊は「ペンション・トゥシタ」主人のラジェスさんは日本語が堪能で宿には五右衛門風呂があり、日本食も注文できる。フェワ湖畔の静かなペンション。「トゥシタ」と兜卒天と同じ語源で理想世界のこと。

    ポカラでの宿泊は「ペンション・トゥシタ」主人のラジェスさんは日本語が堪能で宿には五右衛門風呂があり、日本食も注文できる。フェワ湖畔の静かなペンション。「トゥシタ」と兜卒天と同じ語源で理想世界のこと。

  • ナラヤンガートの沙羅樹林。ここをマヘンドラ・ハイウエーが横断している。チトワンの沙羅花は3月下旬から4月中旬が満開。

    ナラヤンガートの沙羅樹林。ここをマヘンドラ・ハイウエーが横断している。チトワンの沙羅花は3月下旬から4月中旬が満開。

  • ゾウラハのロッジではいろいろな行楽企画を持っている。「エレファント・サファリ」はそのなかでも人気のコース。初めての象乗りに興奮した。

    ゾウラハのロッジではいろいろな行楽企画を持っている。「エレファント・サファリ」はそのなかでも人気のコース。初めての象乗りに興奮した。

  • サラノキ・・・日本で沙羅といえばナツツバキを連想するが、インドの本物の沙羅花はこれです。「本邦初公開」といえば大げさだが、日本では滋賀県草津市立水生植物公園の温室で例年一本だけ開花する。これは仏陀の生まれ故郷に近いタライ平原の沙羅花。2月15日が仏陀の涅槃とされるが、ちょうどその頃に開花する。

    サラノキ・・・日本で沙羅といえばナツツバキを連想するが、インドの本物の沙羅花はこれです。「本邦初公開」といえば大げさだが、日本では滋賀県草津市立水生植物公園の温室で例年一本だけ開花する。これは仏陀の生まれ故郷に近いタライ平原の沙羅花。2月15日が仏陀の涅槃とされるが、ちょうどその頃に開花する。

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