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平成20年2月16日(土)<br /><br /> ドーハからベイルートの空港に到着し入国手続きを完了すると迎えのバスでベッカー高原のシュトーラへ向けて出発した。<br /><br /> ベイルート市内は物騒なので立ち寄らずバスの窓から瞥見するだけであったが、1975年に始まった内戦とその後のシリア軍やイスラエル軍の侵攻による騒乱の爪跡が残る街並みを見ると胸が痛んだ。<br /><br />  2006年のイスラエル軍によるベッカー高原地区の空爆で破壊された橋も復旧されないまま無残な姿を曝していた。<br /><br />本日の宿泊地のシュトウーラはベッカー高原にある町だがこの町に至る道筋には国旗にも描かれているレバノン杉が僅か二本だけしか残っていない。往時は街道筋はじめ周辺の山に繁茂し良質の木材としてエジプトのミイラを入れる棺にも使用されたのに住民達が冬場の暖をとるために伐採し尽くしたためだという。自然環境の保護が重視されだした時代だからこそ言えることかもしれないが人間の愚かな行為が悔やまれる。 <br /><br /> 宿泊したシュトウーラのパークホテルの前には丹念に手入れされたレバノン杉が何本も威風堂々と立っており救われる思いであった。<br /><br />レバノンの国勢をウイキペデイアから引用すると以下の通りである。                           <br /><br />歴史<br /> 古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り植民地を形成した。<br />その後勢力が弱体化し、アッシリア帝国に飲み込まれた。その後民族としてのフェニキア人は消滅したと言われている。古代末期にはローマ帝国に征服され、中世にはイスラム世界に組み込まれた。<br /><br /> レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的マイノリティの避難場所となり、キリスト教のマロン派、イスラム教のドルーズ派がレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。<br /><br /> 19世紀頃からマロン派に影響力を持つカトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。<br /><br /> 第一次世界大戦後、フランスの委任統治下に入り、キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、現在のレバノンの領域にあたるフランス委任統治領レバノンとなった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会と、カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が35%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。現在でもフラン スとの緊密な関係を維持している。<br /><br /> 第二次世界大戦中にレバノンは独立を達成し、金融・観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、ベイルートはリゾート地としてにぎわっていた。<br /><br /> しかしPLOの流入 によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975〜76年にかけて内戦が発生した(レバノン内戦)。隣国シリアの軍が平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となった。混乱の中で、周辺各国や米国や欧州、ソ連など大国の思惑も入り乱れて、内戦終結後も断続的に紛争が<br />続いたため、国土は非常に荒廃した。また、シリアやイスラム革命を遂げたイランの支援を受けたヒズボラなど過激派が勢力を伸ばした。<br /><br /> 1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍は南部から越境して再侵攻、西ベイルートを占領した(レバノン戦争・ガリラヤの平和作戦)。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた 。この混乱を収めるために米英仏などの多国籍軍が進駐したが、イスラム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い、一部でシリア軍と米軍の戦闘に発展した。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。<br /><br /> 1990年にシリア軍が再侵攻、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。<br /> シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけた。シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれる。現在も政府高官を含めシリアの影響は強い。<br /><br /> 1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。<br /> イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。<br /><br /> 2005年2月14日にレバノン経済を立て直したラフィーク・ハリーリー前首相が爆弾テロにより暗殺、政情は悪化し、政府と国民との軋轢も拡大した。その要因となったシリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退した。<br /><br /><br /> 2006年7月にヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(参照:レバノン侵攻 (2006年))。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港など公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。7月27日、国連レバノン暫定軍の 施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。7月30日にカナが空爆され54人が死亡する。<br /> イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。<br /> 8月13日にイ スラエル・レバノン両政府が停戦決議(国連安全保障理事会)受け入れを表明。<br /> 8月14日停 戦が発効し、10月1日にイスラエル軍が撤収した。<br /><br /> 政治<br /> 憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、国会の議員数も各宗派人口数に応じて定められている。キリスト教マロン派は34人、イスラム教スンナ派は27人、イスラム教シーア派は27人などである。大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派から選出されるのが慣例となっている。<br /><br /> 経済<br /> レバノンはまず農業国として成立したが、第二次世界大戦以降は第三次産業が活況を呈した。19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。第二次世界大戦以降、レバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。<br /> このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融セクターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。<br /> このため、「中東のパリ」とも呼ばれた。レバノン人は投資家、商人として南米や独立間もないアフリカ諸国に渡航し、現地に地歩を築いている。内戦によって金融セクター、主要交通路としての地位が失われた後、投資家、商人からの送金が国の財政を支えている。<br /><br /> ベイルートは日本からヨーロッパへ向かう日本航空の南回りヨーロッパ線の寄港地としても利用されたが、内戦の激化と飛行機の性能向上などの理由で運行が停止され、中東の玄関口としての役割は失われていった。<br /> 内戦後の経済復興を進めるレバノン政府は、ベイルートを再び観光地として売り出す計画を進めている。<br /><br /><br /> 国民<br /> 全人口の約95パーセントがアラブ人でアラビア語を話す。かつてフランスの影響を強く受けた関係から、現在でもフランス語が広く通用する。<br /><br /> 国民の約30%がキリスト教、約70%がイスラム教の信者。「キリスト教」はマロン派(東方 典礼カトリック教会の一つ)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ラテン典礼のカトリックなどもある。正教会信者はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。<br /><br /> アルメニア人は少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア正教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。<br />政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持、と主張、事実ファランジストなどとは距離をおいていた)。<br /><br /> また、「イスラム教」にはスンナ派、シーア派、アラウィー派、ドルーズ教などを含む。<br />アラウィー派とドルーズ教が「イスラム教」の枠に入るものかどうかは、宗教的には議論が分かれるところであるが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。<br /><br /> アラウィー派はレバノン独立時にはレバノンの政治構成要素ではなく、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内意識、同胞意識を有していない。アラウィー派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立したあとのシリアにおいて権力を掌握した集団である。アラウィー派は、シリアがレバノンの政治に介入し始めた<br /> 1970年代から、レバノン北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきた。しかし、それでもレバノン国内で国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。<br /> シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、アラウィー派に2議席があてがわれた。

治安のよくないベイルート市内を通り抜け内乱の爪痕を瞥見

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2008/02/16 - 2008/02/16

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早島 潮

早島 潮さん

平成20年2月16日(土)

 ドーハからベイルートの空港に到着し入国手続きを完了すると迎えのバスでベッカー高原のシュトーラへ向けて出発した。

 ベイルート市内は物騒なので立ち寄らずバスの窓から瞥見するだけであったが、1975年に始まった内戦とその後のシリア軍やイスラエル軍の侵攻による騒乱の爪跡が残る街並みを見ると胸が痛んだ。

2006年のイスラエル軍によるベッカー高原地区の空爆で破壊された橋も復旧されないまま無残な姿を曝していた。

本日の宿泊地のシュトウーラはベッカー高原にある町だがこの町に至る道筋には国旗にも描かれているレバノン杉が僅か二本だけしか残っていない。往時は街道筋はじめ周辺の山に繁茂し良質の木材としてエジプトのミイラを入れる棺にも使用されたのに住民達が冬場の暖をとるために伐採し尽くしたためだという。自然環境の保護が重視されだした時代だからこそ言えることかもしれないが人間の愚かな行為が悔やまれる。 

 宿泊したシュトウーラのパークホテルの前には丹念に手入れされたレバノン杉が何本も威風堂々と立っており救われる思いであった。

レバノンの国勢をウイキペデイアから引用すると以下の通りである。                           

歴史
 古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り植民地を形成した。
その後勢力が弱体化し、アッシリア帝国に飲み込まれた。その後民族としてのフェニキア人は消滅したと言われている。古代末期にはローマ帝国に征服され、中世にはイスラム世界に組み込まれた。

 レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的マイノリティの避難場所となり、キリスト教のマロン派、イスラム教のドルーズ派がレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。

 19世紀頃からマロン派に影響力を持つカトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。

 第一次世界大戦後、フランスの委任統治下に入り、キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、現在のレバノンの領域にあたるフランス委任統治領レバノンとなった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会と、カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が35%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。現在でもフラン スとの緊密な関係を維持している。

 第二次世界大戦中にレバノンは独立を達成し、金融・観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、ベイルートはリゾート地としてにぎわっていた。

 しかしPLOの流入 によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975〜76年にかけて内戦が発生した(レバノン内戦)。隣国シリアの軍が平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となった。混乱の中で、周辺各国や米国や欧州、ソ連など大国の思惑も入り乱れて、内戦終結後も断続的に紛争が
続いたため、国土は非常に荒廃した。また、シリアやイスラム革命を遂げたイランの支援を受けたヒズボラなど過激派が勢力を伸ばした。

 1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍は南部から越境して再侵攻、西ベイルートを占領した(レバノン戦争・ガリラヤの平和作戦)。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた 。この混乱を収めるために米英仏などの多国籍軍が進駐したが、イスラム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い、一部でシリア軍と米軍の戦闘に発展した。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。

 1990年にシリア軍が再侵攻、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。
 シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけた。シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれる。現在も政府高官を含めシリアの影響は強い。

 1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。
 イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。

 2005年2月14日にレバノン経済を立て直したラフィーク・ハリーリー前首相が爆弾テロにより暗殺、政情は悪化し、政府と国民との軋轢も拡大した。その要因となったシリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退した。


 2006年7月にヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(参照:レバノン侵攻 (2006年))。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港など公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。7月27日、国連レバノン暫定軍の 施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。7月30日にカナが空爆され54人が死亡する。
 イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。
 8月13日にイ スラエル・レバノン両政府が停戦決議(国連安全保障理事会)受け入れを表明。
 8月14日停 戦が発効し、10月1日にイスラエル軍が撤収した。

政治
 憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、国会の議員数も各宗派人口数に応じて定められている。キリスト教マロン派は34人、イスラム教スンナ派は27人、イスラム教シーア派は27人などである。大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派から選出されるのが慣例となっている。

経済
 レバノンはまず農業国として成立したが、第二次世界大戦以降は第三次産業が活況を呈した。19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。第二次世界大戦以降、レバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。
 このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融セクターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。
 このため、「中東のパリ」とも呼ばれた。レバノン人は投資家、商人として南米や独立間もないアフリカ諸国に渡航し、現地に地歩を築いている。内戦によって金融セクター、主要交通路としての地位が失われた後、投資家、商人からの送金が国の財政を支えている。

 ベイルートは日本からヨーロッパへ向かう日本航空の南回りヨーロッパ線の寄港地としても利用されたが、内戦の激化と飛行機の性能向上などの理由で運行が停止され、中東の玄関口としての役割は失われていった。
 内戦後の経済復興を進めるレバノン政府は、ベイルートを再び観光地として売り出す計画を進めている。


国民
 全人口の約95パーセントがアラブ人でアラビア語を話す。かつてフランスの影響を強く受けた関係から、現在でもフランス語が広く通用する。

 国民の約30%がキリスト教、約70%がイスラム教の信者。「キリスト教」はマロン派(東方 典礼カトリック教会の一つ)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ラテン典礼のカトリックなどもある。正教会信者はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。

 アルメニア人は少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア正教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。
政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持、と主張、事実ファランジストなどとは距離をおいていた)。

 また、「イスラム教」にはスンナ派、シーア派、アラウィー派、ドルーズ教などを含む。
アラウィー派とドルーズ教が「イスラム教」の枠に入るものかどうかは、宗教的には議論が分かれるところであるが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。

 アラウィー派はレバノン独立時にはレバノンの政治構成要素ではなく、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内意識、同胞意識を有していない。アラウィー派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立したあとのシリアにおいて権力を掌握した集団である。アラウィー派は、シリアがレバノンの政治に介入し始めた
 1970年代から、レバノン北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきた。しかし、それでもレバノン国内で国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。
 シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、アラウィー派に2議席があてがわれた。

同行者
その他
交通手段
観光バス
航空会社
カタール航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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  • ベイルート市内の海岸通り

    ベイルート市内の海岸通り

  • 復興の進むベイルート市内の点景

    復興の進むベイルート市内の点景

  • 復興の進むベイルート市内の点景

    復興の進むベイルート市内の点景

  • 復興の進むベイルート市内の点景

    復興の進むベイルート市内の点景

  • 復興の進むベイルート市内の点景

    復興の進むベイルート市内の点景

  • 街道筋に二本しか残っていないレバノン杉

    街道筋に二本しか残っていないレバノン杉

  • イスラエル軍の空爆により破壊されたヘ゛ッカー高原の橋

    イスラエル軍の空爆により破壊されたヘ゛ッカー高原の橋

  • ベッカー高原は雪景色であった

    ベッカー高原は雪景色であった

  • レバノンの地図

    レバノンの地図

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