2017/02/16 - 2017/02/16
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ムッシュさん
No16、清水の次郎長で有名な江尻(現清水)宿(18)から徳川家の駿府城のあった府中(現静岡市)(19)、安部川を越えて丸子宿(20)へと歩きます。
【ニュース】
2020年9月、草薙神社参道入口の大鳥居は、亀裂発見のため、転倒懸念から撤去された。実は所有者不明の建造物でした。(歴史保存には、文書記録の保存が重要ですね。)
【家康公が愛した府中宿】
徳川家康公は幼少期から18歳までと、40歳の働き盛り、65歳から亡くなるまでの間この駿府で過ごした。将軍職を辞してからは駿府の決定を江戸に降ろす形で実質的な実権を握り、大御所政治をとりおこなった。
府中宿
駿河国の国府が置かれていたので、府中と呼ぶ。天正10年(1582年)家康が駿府城を築き、東海道一の城下町として発展した。府中は明治になって名前が「不忠」に通ずるとして現在の静岡に改名された。駿府城跡には県庁、市庁などが並んでいる。
本陣2 脇本陣2 旅籠43
【江尻宿】
江尻とは、巴川の尻(下流)のこと。巴川が作る砂州上にできた宿場。武田氏が江尻城、城下町を築き江戸時代に物流で繁栄したが、大火や戦災で残っていない。
天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると江尻宿の宿内家数は1,340軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠50軒で宿内人口は6,498人、宿並は13町余りでした。
- 旅行の満足度
- 4.0
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御殿場、足柄ASからの富士山。雪を沢山被っている。
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由比宿付近
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薩?券(さった)峠付近。左の中腹辺り。
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【東海道五拾三次之内 【江尻】 三保遠望 安藤広重画】
広重の浮世絵:江尻宿は、清水港。左側遠くに東方の富士山、右からは美保の松原辺り
駿河湾に突き出た三保の松原に囲われた清水湊は天然の良港。
この絵はこれらを俯瞰して描いている。人物のない珍しい絵である。
『東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望 広重画』。江尻は現在の清水港である。
江尻宿から家康の霊を祀った久能山へ通じる道の途中、
日本平東麓にその名も観富山竜華寺がある。小高い境内から手前に江尻の宿場が見え、港をはさんで右手から三保の松原が延び、その向こうに愛鷹山、伊豆半島が見える。富士山が左端に見えるのだが、広重はわざと描かなかったようである。
港の繁忙ぶりとうららかな春の風景である。江戸より約41里の地点
天保14年(1843)頃、江尻宿の宿内家数は約1300軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠50軒で宿内人口は約6500人、宿並は十三町余りでした -
著作権フリー作品「富嶽三十六景」からの画像です
『富嶽三十六景 駿府 江尻 葛飾北斎』
江尻宿
「江尻は、現在の静岡県清水市にあります。風という目に見えないものを大変リアルに描くという北斎の才能が発揮された作品です。無限、不動を感じさせる富士と、その前で一陣の風にさえ右往左往する人間の存在の小ささを対照的に表現しようとしたのでしょうか?イギリスの写真家ジェフウォールが影響をうけたことで海外の方々には有名な作品となっています。
線だけで描かれたとてもシンプルな富士山。人が風に吹かれ、紙が舞い上がる様子が臨場感たっぷりに描かれています。」 -
『江尻宿案内板』
東海道の18番目の宿場であり、天保14年(1843年)には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋50軒、宿内家数は1340軒、人口は6498人でした。
「江尻」とは巴川の尻(下流)を示し、巴川が作る砂洲上にできた宿であります。
甲州武田氏が築かせた「江尻城」「浜清水城」があり、城下町も作られ、鍛治町、鋳物師町、紺屋町などが配置され繁栄していました。
巴川河口を利用した清水港には、駿府町奉行支配のお蔵が18棟もあり、江戸へ物資を運ぶ重要な港として活気に満ちていました。しかし、本陣、脇本陣、旅籠など戦火で消失し残っていません。 -
江尻宿 江浄寺(こうじょう)
家康公の嫡男である信康公は武田家と内通しいると信長公に疑われ、徳川家存続のために自害した。その遺髪を五輪塔の中に梅残した。家康は関ケ原の合戦前に、本寺を訪れ必勝を祈願した。 -
清水市から本日の歩行工程が始まります。
【魚町稲荷神社】 別名サッカー神社。清水は少年サッカーチーム発祥地であり、夏には全国大会が開催される。この神社隣接して小学校が建つ。この地は江尻城跡地。
【江尻城について】
永禄13年(1570)頃、武田信玄により駿河侵攻の前線として築城された。天正6年穴山梅雪が入城すると強固な城に改変したが、その後中村一氏の家臣が城主となり、天正10年(1582)に家康公により落城し、関ヶ原の戦い以降、廃城となった。 -
【魚町稲荷神社】
永禄十一年(1568)十二月駿河に攻め入った武田信玄は翌年現在の江尻小学校の敷地に、江尻城を築き、その後天正六年(1578)当時の城将穴山信君(梅雪)は、城を大改築し本格的な城とした。
梅雪は一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、どうして一城に鎮護の神がなかろうかと言って、この地に社殿を造営したといわれている。(江尻町誌による)近くには江尻宿の問屋場・高札場本陣等があって東海道を往来する旅人でこの地魚町(上町)は賑わった。祭神:宇賀之御魂命(うがのみたまのみこと) 御祭:8月3日」 -
【サッカーの街清水市のサッカー神社。大きなサッカーボールの石碑】
続いて、サッカー神社を出発すると巴川を渡る。巴川には河童伝説「稚児橋」が架かっている。徳川家康公により巴川に橋が架けられ、橋渡のセレモニーで人が渡り始めようとした時、川から童子現れ入江方面に消え去った。これを、河童が童子の姿になったとして、名前を稚児橋に変えた。
【江尻城】(現江尻小学校内)
このサッカー神社の裏手にある清水江尻小学校が、江尻城跡である。
今川家を滅ぼした武田信玄公は江尻を重要視してそこに城を建てた。ここには、「国を正しく観る高楼」という意味の「観国楼」という天守閣を立てた。
【日本少年サッカー発祥の碑】
昭和三十年代、日本のサッカーは、いわゆる御三家と呼ばれた広島 藤枝・浦和を中心に展開していました。その頃清水は、どこにでも見 られるごく平凡な地域のひとつにすぎませんでした。 昭和三十一年、ここ魚町稲荷神社に隣接する江尻小学校にサッカー 好きの新任教師(堀田剛)が赴任しました。その日から先生は子供 達と毎日運動場でボールをけりました。ところが、当時江尻小学校には「ボールを、足で蹴ってはいけない」という校則がありました。
しかしサッカーの魅力にとりつかれた子供達の様子を見て、校長先生 も許可をしたのです。
「これが、『日本で初めての少年サッカーチーム』を生むきっかけに なりました。 文部省小学校学習指導要領第三次改訂(一九六八年)体育科のボー ル運動に「サッカー」が登場する十二年も前のことです。
江尻小を皮切りにその後、清水市内に小学生チームが次々と誕生し、昭和四十二年には、『国内初の小学生リーグ』がスタート、指導者育 成のためコーチングスクールも開校されました。 この年、東海四県サッカー大会が開催され、日本一のチームをつく る一貫として、清水市内の江尻小・入江小・庵原小の子供を集め選抜 チームを結成し、優勝をかざりました。これが清水FCの前身です。 清水からは数多くのJリーガー・日本代表選手が生まれ活躍してい ます。
それは当時の指導者達が長期的な視野にたち、世界に通用する 日本一の少年団チームを育成強化したからです。その後もサッカーに 関わる多くの方の献身的な活動・努力によりサッカーのまち清水ができあがりました。
現在では「ゆりかごから息続くまで」を合い言葉に、三歳のチャイ ルドサッカーから、年配の方のOBリーグまで、あらゆる年代の人達 がいつでも、どこでも、誰とでも、清水市のどこかでサッカーを楽 しんでいます。
この碑は当地が清水のサッカーを発展させた原点の一つであり、日 本の少年サッカーチーム発祥の地であるゆを記念して創られました。 」 -
『稚児橋の由来』
「慶長12年(西暦1807年)徳川家康 の命により、東海道五十三次 沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日となった。さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるや、するすると橋脚を昇り忽然と入江方面へ消えさった。
渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けたといわれている。
なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。
清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童 がいるのは、この伝説による。」 -
【追分羊羹】
鮮やかな赤い大暖簾が目印の街道名物の羊羹店。創業は、元禄8年(1695)。
竹皮皮で蒸しあげた羊羹。店内に山岡鉄舟の手紙などが展示されている。
【追分羊羹の由来】
江戸三代将軍家光のころ府川のあるじ箱根の山中に旅に病める明の僧と出合いこころあたたかく介抱。
やがて病癒えたかの僧は感謝の涙とともにあずきのあつものづくりの秘法をねんごろに伝授して去った。
それがそもそもこの追分羊羹のことの発(おこ)り。
ひたすらな善意と素朴な感謝がいみじくも交流したところからこの羹(あつもの)の風味は生まれ出で、爾来300年ひとの口にひとつのこころにしみじみわたってきている。
「つゝましくほのぼのと いまも。 詩人 長田恒夫(清水市)」
【久能道の道標】
手前の角地に立つ石道標が久能道への道案内、久能山への参詣道であった。
「是より志三づ道」と彫られている。清水湊への追分道標です。
正面に「是より志ミづ道」左側に「南妙法蓮華経」背面に「七面大明神守護」と彫られてある。 -
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ここの追分で、清水の次郎長に討たれた
【侠客・都田吉兵衛供養塔】
都田吉兵衛は、通称「都鳥」と呼ばれた侠客で、次郎長の子分「森の石松」を殺したため、その報復にこの追分で討ち取られた。
「此処を訪れる諸子は彼のために一鞠(いっきく)の涙をそそぎ香華を供養されるなら、黄泉(よみ)の都鳥もその温情に感涙するであろう」と書かれてあった。
【侠客・都田吉兵衛供養塔】
春まだ浅き文久元年(1861)正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。
此処を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。
入江地区街づくり推進協議会 清水観光協会 -
遠州都田の吉兵衛碑。
次郎長に討たれた。 -
【久能寺観音道道標】
この分岐点には安永七年(1778)建立の久能寺観音道道標です。
【東海道の由来】
『日本書紀に東海(うみつみち)と記されたのが始まりとある。ヤマトタケルが東征の折に草薙剣の物語を残し、防人達が九州へ下った道が北街道と呼ばれた旧街道。その後、徳川家康の命により稚児橋が架けられて現在の旧東海道ができあがった』のだそうだ。
「久能寺観音道
この道標は安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂、今泉、船越、矢部、妙音寺鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことである。
久能寺は、もと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国の攻略の根拠地として久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移されたものである。
明治維新となり廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、鉄舟寺と改め
現在に至っている。」 -
【上原延命子安地蔵】
上原延命子安地蔵尊が安置されています
【家康と梅雪】
天正十年(1582)二月徳川家康は、この地蔵堂で武田の宿将江尻城主穴山梅雪と会見、結果梅雪は家康の軍門に下り、武田家滅亡のきっかけとなった、戦わずして勝つ、調略の妙です。
【上原延命子安地蔵尊由来略記】
上原延命子安地蔵尊は、古来世の人々の、長寿、安産、子育、安全の守護として、近隣の人々の信仰を集めて来た。創建時代は明らかではないが、焼失した木像の御本尊は、行基菩薩作との伝説があった。之に従えば奈良時代となる。然し庶民一般に地蔵信仰が普及し、各地に地蔵堂が建立されるようになったのは、鎌倉時代とされている。
上原の古地名は地蔵原ともいわれていたが、室町時代後期には既に正式に上原の地名が用いられている。これ等の事を思い合せれば、創建は鎌倉時代或はそれ以前と考えられる。
永禄十一年十二月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本体の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。次いで天正十年二月(1582)徳川家康が、武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。
元和元年大阪夏の陣の直後、秋十月(1615)吉川福聚院の住職明眼和尚の尽力と、付近住民の協力により、荒廃していた地蔵堂も立派な堂宇として再建された。
然しこの堂も明治二十四年九月(1891)、何者かの失火により、御本尊と共に焼失した。以来地蔵堂は、間口1.2米、奥行1.8米程の仮堂で、四十一年間を過ごすことになったのである。
昭和七年四月(1932)上原区民の、長い間の悲願であった地蔵堂も、区民四十余年に亘り積み立てた浄財により立派に再建され、今日に至っている。」 -
【一里塚の由来】
一里塚は徳川幕府より慶長九年(1604年)大久保長安を一里塚奉行に命じ一里
(3920米)を三十六町と定め東海道・中山道に一里塚を築いた 東海道は江戸
(今の東京)日本橋を起点に京都までの一二○里(約470キロ米)の道の両側に
松並木を植え一里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。
草薙一里塚は江戸より四十三里(一七○キロ米)の処で四十三番目の塚です。
道を挟んで南塚が在り一対となって居た。塚は五間(九米)四方高さ一間(一.八米)と大きなもので塚の脇には高札所があり、榎の大木の枝が繁り街道往来の大名の参勤・飛脚・人の道しるべ・休息所等と成って居た。榎の木蔭で旅の疲れを癒した旅人達が「府中(駿府、今の静岡市)二里半あと一息だ頑張ろう」と道中合羽に三度笠、振り分け荷物を肩に、旅立つ姿が偲ばれます。 因みに一里山の起原は此の地に一里塚が築かれており一里山と呼ばれる様になった。」 -
草薙神社参道入口に建っていた大鳥居。
【ニュース】
2020年9月、倒壊の恐れありとの声により、撤去されました。
実は、この鳥居は草薙神社の所有でもなく、持ち主がいませんでした。よって、市の責任で、安全のため撤去したそうです。 -
草薙神社の大鳥居を見上げる。(真下より空を仰ぐ)
国道沿いに建っていたので、街道からは全景が見えず、見上げて撮ったフォトです。
ここから、草?儒川沿に1km進むと、草薙神社が建つ?。
蝦夷平定のため、東国へ向かう大和武尊が、この地で起こった逆賊に原野に火を放たれ焼き殺されそうになった。
日本武尊は、伊勢神宮で倭姫命より戴いた宝刀天叢雲剣(あまのむらくもつるぎ)を抜いて、鎌で打ち払うように剣を振り、草を薙ぎ払って難を切り抜けたという伝説あり。これよりこの地を「草薙」と呼ぶようになった。 -
草薙駅近くで、JR線と旧東海道は交差する関係で、このような記念碑が立つ。もちろん旧道は改変されている。
この先は鉄道敷設で旧東海道は消滅しています、碑の前を右折して迂回路に入る。
【記念碑由来】
東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。これは古来より主要街道の一つであり、府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛の中で、弥次郎兵衛喜多八が滑稽な旅をしたことでも知られております。
国道一号線(静清国道)が整備されたことから交通量も減り、旧東海道と呼ばれるようになりましたが、昭和三十七年、国鉄操車場の建設により、栗原の西側が分断され、さらに静清土地区画整理事業による新しいまちづくりが行われたことから、栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました。
その昔を偲び、なおかつ旧東海道と共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いを込めて、この記念碑を建設することにいたしました。
尚、この記念碑のみかげ石は静岡市追手町にありました静岡御用邸に使われていた由緒あるもので、昭和初年の御用邸改修の折、栗原町内会が払下げを受けたものであります。 平成三年五月吉日 静岡中央ロータリークラブ -
交差する踏切を渡ると、JR線沿いに歩きます。鉄道敷設で消滅してしまった旧道の復活ポイント。
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いよいよ府中宿(現静岡市)
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【駿府城】 外堀。お城の堀を渡ると、場内に入れます。
武田氏が滅ぶと、三河の徳川家康がこの地を領し、駿府城を築城し、天正14年(1589)浜松城からここに居城を移した。
秀吉の世になると関八州に移封となり、江戸城に移り、関ケ原の合戦に勝利し、ついに天下を掌握し征夷代将軍となった。
【駿府城】
駿府城は外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城。本丸を中心とした回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層、内部七階)の天守閣があったが、寛永十二年(1635)に焼失しています。
駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正十三年(1585)に徳川家康が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。
この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長十二年(1607)将軍を退き、駿府に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張、修築しました。
当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。
平成八年三月 静岡市 -
駿府城は将軍職を辞した家康の本拠地であった。また「竹千代」といわれた家康の幼少期と、大政奉還後の「徳川慶喜」が過ごしたので、徳川幕府の前と後の両方を知っている城でもある。
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【駿府公園】
家康の居城跡地の公園。 -
これは、江戸時代の城下町のマップ石碑。町の東かた。
府中宿は、家数3673軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒、人口14000人であった。
【府中宿】
府中宿 は江戸から約44里(約176km)、品川宿から19番目の宿場です。東見付は横田町、西見付は川越町にあり、天保14年(1843年)には、本陣2軒、脇本陣が2軒、旅籠は43軒、家数は3673軒、人口は1万4071人の東海道 最大規模の宿場 でした。伝馬町には馬の手配や荷物の受け継ぎなど宿場の重要な業務を行う問屋場、大名や公家など身分の高い人が泊まる本陣・脇本陣、東海道には3か所しか設置されていなかった公用荷物の運賃を定める貫目改所などがあり、大変な賑わいでした。
また、参勤交代の大名たちは、家康公の祖母の菩提寺である華陽院のお参りしました。家康公の墓所がある東照宮に向かう久能街道は、駿府の町に物資を運ぶ重要な道でした。」 -
これも同じで、より西方で町の中央。
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一番の西方。
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『府中宿 東見附~上伝馬町・本陣』
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『府中宿 上伝馬町・本陣~梅屋町』
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『府中宿 梅屋町~安倍川』
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【西郷隆盛と山岡鉄舟会見の碑】
静鉄新静岡駅前の寿司屋「宇を鉄」前に石碑がある。
慶応4年(1868)旧幕府方を平定すべく、東征大総督府参謀・西郷隆盛は駿府まで兵を進めた。慶応四年(1868)3月9日望嶽亭を脱出した山岡鉄舟は清水次郎長の手引きで、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で、東征軍参謀西郷隆盛と会見しました。徳川慶喜の家来となのり、颯爽と乗り込んだのが北辰一刀流の達人山岡鉄舟は、勝海舟からの手紙を携えて交渉した。ここで西郷は、江戸城の無血開城、軍艦の引き渡しを求めた。勝ー西郷会談の前哨戦である。この会見において将軍徳川慶喜の処遇、江戸城の明け渡し等の根回しが行われ、五日後の江戸三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷の会談で最終的に決定され、江戸城無血開城が実現した。 -
『駿府 貫目改所跡』。
「大名や寺院が委託する公用荷物の重さを量り、運賃 を定める検問所のことであり、制限以上のものには割 増金が課せられました。荷物を運ぶ伝馬役に負担がかからないようにする制度のひとつで、東海道では品川 宿、府中宿、草津宿の3箇所に設けられていました。
『上伝馬本陣 脇本陣跡』
『東海道府中宿』
「府中宿」は安倍川に近い新通り川越町から人宿町・七間町・呉服町・江川町そして伝馬町を通って横田町に至る東海道を軸にした駿府の城下町全体を指していた。
府中宿は東海道の中でも最大級の宿場の一つでした。その府中宿の宿場の役割を
担っていたのが、「伝馬町」で宿場の公の施設である荷物貫目改め所や問屋会所をはじめ、上と下の伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣、それに四十三軒の旅籠が建ち並び、賑わいを見せていました。
徳川幕府による参勤交代の制度が確立されるに伴い、勅使や大名達の宿泊場として各宿場に「本陣」「脇本陣」が設けられました。
府中宿には、上伝馬町と下伝馬町に本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ設けられていました。下伝馬町の本陣は、下本陣と呼ばれた小倉家、脇本陣は平尾家でした。」 -
【上下天馬町】
「東海道府中宿の一画に位置し、町名は伝馬の機能が設けられていたことに由来します。二軒の本陣と脇本陣、問屋場、貫目改所の宿場の機能が設けられ、数十軒の旅籠屋などが連ねていました。
町内には江戸時代に朝鮮通信使が来日した際に、従者の休憩所にあてられた法伝寺や新光明寺があります。また、東征軍参謀の西郷隆盛や山岡鉄太郎(鉄舟)とが江戸城の無血開城を決めた会見の地が静岡市の史跡に指定されています。
明治二年静岡宿と改められましたが、大正四年には再び伝馬町になりました。」 -
「西郷・山岡会見之史跡
ここは慶應4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無 血開城されたので、明治維新史上最も重要な史跡であります。明治百年を記念して昭和43年3月9日建立」 -
駿府城近く、【札の辻跡地】です。
ここに高札場があり、当時から商家が軒を連ね、賑わっていた。
ここから道幅が七間(約13m)もある広い道で
両側には府中特産の漆器、竹細工、家具、蒔絵、ひな具等々の店が軒を並べていた。
【札之辻町】
札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来 します。「元禄五年駿府町数井家数人数覚帳」によると、札 之辻町家数は11軒人数132人でした。高札とは、幕府の法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された掲示板です。札之辻の高札場は、現在の七間町通りと呉服町通りが交差する駿府城寄りの道の中央に立てられていた。辻之札界隈は、当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。
また、近世の東海道は、この四つ辻で直角に折れ、七間町と呉服町を結んでいました。
昭和二十年、辻之札町は呉服町、両替町、七間町の一部となりましたが、「札之辻」の地名は今も市民に親しまれています。
『札之辻址』。
「江戸時代から昭和二十年まで呉服町と七間町の交差点付近には「札ノ辻町」がありました。
東海道の道筋にもあたり、立ち並ぶ商家を訪れる人達などで賑わっていました。
四ツ辻の中には幕府の政策や法令をかかげた高札場が駿府町奉行所により設けられ
「札之辻」名の由来となっています。」
「札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来します。
「元禄五年駿府町数井家数人数覚帳」によると、札之辻町の家数は十一軒、
人数百三十二人でした。 高札とは、幕府の法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された掲示板です。
札之辻の高札場は、現在の七間町通りと呉服町通りが交差する駿府城寄りの道の中央に立てられていました。
札之辻界隈は、当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。
また、近世の東海道は、この四つ辻で直角に折れ、七間町と呉服町を結んでいました。 昭和二十年、札之辻町は呉服町・両替町・七間町の一部となりましたが、「
札之辻」の地名は今も市民に親しまれています。」 -
【消火栓カラー蓋】
富士山、駿河湾、美保が描かれている。手前には家康が祀られている久能山東照宮。その右側には「大御所家康公 顕彰四百年」の文字。
新しいうちは白文字だったそうだが、文字部分が凸部だったため色が取れてしまったらしい、とのネット情報あり。静岡市街には、カラフルな色彩、そして様々なデザインのマンホール蓋が私を楽しませてくれた。 -
『東海道中膝栗毛 十返舎一九生家跡地』
「『膝栗毛』で名高い江戸の戯作者、十返舎一九は、駿府町奉行同心重田與八郎鞭助(べんすけ)・妻りへの長男として、明和二年(1765)両替町一丁目のこの地で生れた。幼名市九、通称七郎、名は貞一(さだかず)という。
享和二年(1802)三十八歳で『東海道中膝栗毛』を刊行し、一九の文名は大いに揚がり、以来文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家と称された。
若くして俳諧を始め、大阪では浄瑠璃作者としても活躍したが、後に江戸に出て自作自画の黄表紙を始め、洒落本・滑稽本・合巻・読本・人情本・咄本等に筆をとり、また、狂歌集・往来物等も多数出版した。
生来まことに多芸多才の人で、武芸・香道・書法等にも通じており、絵師としても高い才能を認められている。一九は、継ぐべき重田家第九代を弟義十郎に譲って江戸へ出たが、義十郎に子がなかったため、一九の長男定吉が重田家第十代を継いだという。天保二年(一八三一)八月七日歿。六十七歳。浅草東陽院(現在は中央区勝どきに移転)に葬られた。」 -
【安倍川餅、石部屋(せきべや)】本日はおやすみ。
静岡名物【安倍川もち】と伝統の【からみもち】の2種のみを販売しています。創業・文化元年、200年以上,今も続く老舗です。
「安倍川餅」の名前の由来だが、挽き豆の粉(きな粉)をまぶした餅を食べた家康公、あまりに美味しかったので 「うい奴じゃ、安倍川餅と名付けよ」 と言ったのが始まり。
また、隣の公園には、弥勒緑地に由井正雪の墓があったということを示す石碑が立っています。軍学者である由井正雪は慶安4年(1651年)、幕府に対する反乱計画が露見して自害しました。いわゆる「由井正雪の乱」(慶安事件)の中心人物です
首は安倍川に晒されていたという
石部屋の創業は文化元年(1804年)。
「安倍川もち」の誕生は慶長年間(1596-1615)だという。安倍川上流では、金の採掘が盛んであり、検分に訪れた徳川家康にきな粉をまぶした餅を「金粉餅(きんこもち)」と称して献上したところ、いたく気に入り「安倍川餅」と命名したのが始まりという。
元々の「安倍川もち」は餅に、きな粉をまぶしたもの。のちに餡をまとった餅が作られるようになる。「安倍川もち」の名を世間に知らしめたのは、砂糖がまだ貴重品であった頃に、駿河特産の白砂糖を上に乗せたことで評判になった。 -
【安倍川の義夫の碑】
まだ安部川に橋がなく、川を渡るには人夫を雇うのが一般的であった。1738年(天文3年)、江戸へ出稼ぎに出ていた漁夫が紀州(現和歌山県)へ戻る途中、自力で安部川を渡った際に仲間と稼いだ150両もの大金を落としてしまった。 たまたま居合わせた人夫が財布を拾い、漁夫を追いかけ、財布を届けた。 このお礼を漁夫が人夫に渡そうとしても頑なに受け取らない。 困った漁夫が奉行所から渡してもらうよう取り計らっても受けとらない。 とうとう奉行所は漁夫にお礼を戻し、人夫に報奨金を渡した。 昭和4年、和歌山県と静岡県の学童や有志によって、この美談の碑が建てられた。
この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
元文三年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右兵衛門の息子喜兵衛)が財布を拾い旅人の後を追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所から褒美の金を喜兵衛に渡したのである。
昭和四年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。
【碑文】 難に臨(のぞ)まずんば忠臣の志を知らず
財(たから)に臨まずんば義士の心を知らず
昭和六十年一月 静岡市 -
【安部川 の義夫の碑】
この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
元文三年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右兵衛門の息子喜兵衛)が財布を拾い旅人の後を追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所から褒美の金を喜兵衛に渡したのである。
昭和四年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。
【碑文】 難に臨(のぞ)まずんば忠臣の志を知らず
財(たから)に臨まずんば義士の心を知らず
昭和六十年一月 静岡市 -
歌川広重『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』。
左手には「石部屋」の中で餅をつく姿が描かれている
石部屋のこだわりは、絵にもあるように、毎朝ついた餅を注文を受けてから仕上げるという、作り立ての味!もち米100%のつきたての餅に、こしあんを絡めたものときな粉をまぶし上から白砂糖をかけたもの、2種類の味を楽しむことができるのだと。しっかりとした米の旨味のある餅に、滑らかでほど良い甘さのこしあんときな粉の香りが広がる -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次之内 【府中】 安倍川 広重画】
歌川広重の浮世絵:
賤機山(しずはたやま)を背景に安倍川の川越風景を描いています。
この絵には、安倍川を渡る方法が色々描かれています。
駕籠ごと蓮台に乗っている人、歩いてきたまま乗っている人。おぶわれている人、担がれている人、更には、手を引かれて自分で歩いている人もいます。ほとんどの馬は水が嫌いなため、なれた人足が引っ張っています。
『東海道五十三次之内 府中 安部川 / 歌川 広重』。
「駿河の国府の府中は現在の静岡市であり、安倍川の川辺にある。
山を背景に川を広く描き、川渡りの様子がよくわかるように描かれている。
輦台渡しや駕籠に乗った女性、肩車で渡る姉さんかぶりの女性、荷をつけた馬を引く人足(にんそく)などを丹念に描き分けています。女性の旅人の緊張感も表現されている。」 -
安倍川を渡ります。車道に隣接して、専用の歩道があります。
-
静岡から安倍川を渡り、郊外の丸子宿へ向かう。その先は、岡部を越えて藤枝に続く。振り返ると、くっきり富士山が見えてます。
明治維新後、府中は不忠に通じると、賎機山(しずはたやま)に因み静岡と改名されました。 -
安倍川を渡ると、次は”丸子(まりこ)宿です。
丸子宿の歴史は古く、鎌倉御家人・手越家綱が奥州藤原氏討滅の恩賞として駿河国麻利子村を賜った。そして、鎌倉幕府に宿駅開設を願い出、認められたのが宿の始まりと言われる。 -
【丸子宿 江戸方見附跡】
「東海道五十三次のうち丸子宿は日本橋から四十六里数えて二十番目の宿でした。
宿場は街道に沿って三百五十間、規模は小さいが正式な宿場でした。
宿場の入口(江戸方)出口(京方)に見付という場所があり、街道の見張場の役目をしていました。
○本陣:建坪二百八十坪門構、玄関付の大きな公認の宿泊所でした。
参勤交代の殿様や幕府の役人勅使等が利用する宿でした。
○脇本陣(二軒):本陣に準ずる宿でした。
○問屋場:宿場から宿場へ荷物を継ぎ送る伝馬業務を担当していた。
丸子宿は小さい宿場でしたが常に百人の人足と百疋の馬を備えた。
○七里役所:徳川家紀伊殿様の直属の宿泊連絡所
○旅籠屋:大二軒 中十六軒 小六軒
○茶屋:めし・茶・酒・団子等と共に近在からの産物を販売していた。
この中に丸子の山から掘出した山芋が「とろろ汁」として名物となった。 -
【地蔵堂】
万葉歌碑。近くに歌碑がある。
「さわたりの てごにいきあい あかごまが あがきをはやみ こととわず」
美しい娘に出会ったが乗っている馬の足が速いので声を交わさずに来てしまった -
「歴史の道 東海道のご案内
この道筋は、江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5(1189)年、源頼朝が、
奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を
設けたのが起源といわれています。今の元宿といわれる辺りです。
戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。
江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していました。これを助郷制度といいます。
ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入口にあり、
往来を監視する機能をもっていました。現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができます。
天保4(1843)年の『東海道宿村大概帳』では、宿内町並み東西7町、惣家数211軒、そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口895人、と記録されています。丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もありました。」 -
【江戸時代の丸子宿】の説明
天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると丸子宿の宿内家数は211軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠24軒で、宿内人口は795人でした。
丸子宿は小宿でしたが、安倍川の川越しの権利が与えられ、川留になると大いに賑わった。
丸子下宿
此処は、東の見付けを通り、丸子宿に入ってきたところです。ここ丸子宿は、文治5年(1189)源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて、駅家を設けたのが起源といわれている。今の元宿と言われているところです。江戸時代になり、徳川家康によって、東海道の整備が行なわれ、品川から数えて20番目の宿場町に制定された。小さな宿場町だったので、周囲の村々から人足や馬を供給していた。これを助郷制度と言います。この上の土手に水神社があった。(案内版)
『江戸時代の丸子宿』も枯木を割って。
「東海道宿村大概帳(天保十四年)抜粋 東海道「丸子宿」駿府町奉行所支配所
一、位置 江戸より四十六町六里四十五間(約百八十四粁) 府中宿へ一里十六町 岡部へ二里
一、宿内家並 東西三百五十間(約六百三十米)
一、宿内人別 七九五人 男三六六人 女四二九人
一、宿内家数 二百十二軒
一、本陣 建坪二百八十坪 門楼玄関付
一、脇本陣建坪百七十五坪門楼玄関付
一、脇本陣建坪五十六坪 門 玄関なし
一、旅籠屋二十四軒 大二軒 中十六軒 小六軒
一、問屋場一ヶ所人足百人 約百疋
問屋(責任者)一人 年寄(補助者)五人
張付(記録者)八人
人足指(人足指図)五人馬指(馬指図)六人
一、高札場一ヶ所 宿西入口 建
一、見付 東見付(江戸方)西見付(京方)
徳川家康は江戸を本拠地として京、大阪との重要な交通手段として東海道の整備を進めた。御用箱御用物の輸送手段として東海道沿線に宿場を設けた。
旅行く人の利便を図ると共に宿場から宿場(継送する伝馬事業を開設した。
また参勤交代の大名殿様が利用する本陣、脇本陣を設置させた。
一里塚 江戸日本橋から四十六里(二十一番目) 」 -
【明治天皇小休憩所跡】
各地行幸の際のお休み所。また、脇本陣跡地です。 -
【丸子宿本陣跡地】
20番目の宿場である丸子宿は、鎌倉時代、源頼朝が手越家系に丸子一帯を領地として与え、宿駅を設けたのが始まりと言われている。
東海道の中で最も小さい宿場でしたが、宇津ノ谷峠のある交通の要所として栄えた。
『史蹟 丸子宿本陣跡』。
丸子宿が、東海道伝馬制度によって宿場町と定められたのは、関ケ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)です。江戸から数えて20番目の宿場町で、江戸期の宿場数は200余り。宿場町は、本陣・脇本陣等が設けられており、本陣は参勤交代の諸大名、幕府の役人、勅役や公家等の宿泊所で、大名宿とも言われたと。
丸子宿が、東海道伝馬制の制定によって宿場町が定められたのは、関ヶ原の戦の翌慶長六年(1601)です。江戸から数えて二十番目の宿場町で、江戸期の宿場戸数は二百戸余りでした。
宿場町には本陣・脇本陣等が設けられ、本陣は参勤交代の諸大名・幕府の役人・勅使や公家等の宿泊所で大名宿ともいわれました。建物は書院つくりで、門・玄関・上段の間が設けられた広大な規模の陣屋でしたが、明治三年新政府によってこの制度は廃止されました。 -
【お七里役所】
紀州徳川頼宣が江戸屋敷と領国との間、百四十六里に七里間隔の宿場23ケ所に中継ぎの紀州お七里役所を設け、五人一組の飛脚を配置した。
江戸時代の初期、寛文年間紀州徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に沿って七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎの役所を設けた。県内では《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び五人一組の飛脚を配した。
これには健脚にして剣道、弁舌に優れた仲間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て《七里飛脚》の看板を持ち腰に刀、十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月三日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中八日を要し、特急便は四日足らずで到着した。
幕末の古文書に入山勘太役所、丸子勘太夫などと記されている。丸子宿におけるお七里役所は、当家のことである。徳川頼宣は、徳川家康の第十子で家康が亡くなって三年後に駿府を追われ紀州和歌山にお国替えさせられた。こうした事もあって紀州家では、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたのである。 -
丸子宿の自然薯を使ったとろろ汁で有名な【”丁子屋”】
慶長元年(1596年)創業で、広重が描いた浮世絵丸子宿の名物とろろ汁の店。
芭蕉は、「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」と読んだ。
東海道膝栗毛では、喜多さんが「喧嘩する夫婦は口をとがらせて、蔦とろろ、すべりこそすれ」と一首ひねっている。 -
丁子屋の横に立つ【芭蕉句碑】
「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」と読んだ。
芭蕉句碑。
大津の荷物問屋で門人の乙州(おとくに)が江戸へ下るときに餞別として贈った句。『梅若菜 丸子の宿の とろろ汁 芭蕉翁』 -
十返舎一九の丸子宿での一節。
【十辺舎一九碑】
「けんかする 夫婦は口を とがらせて 鳶とろろに すべりこそすれ」
【十返舎一九について】
府中の生まれで、父親は徳川家の家臣。一九の本名は重田貞一、武士だったが途中から町民になった人。安藤広重も徳川家臣である。
「東海道中膝栗毛」は、初め箱根までの予定であったが、面白くてあまりにも売れたので大阪まで書いた。しかし、当時の新版は正月にしか出なかった為、全八編で8年かかった。その後も、評判の為、四国・宮島・草津等書いたが、12編まで21年かかったそうである。
栗毛とは馬のことを指すので、「膝栗毛」とは「自分の膝を馬として旅行する」という意味で、徒歩旅行を洒落て言ったものである。
江戸時代は平穏だったこともあり、旅行が盛んであったが、「東海道中膝栗毛」は更に旅行ブームに拍車をかけた本である。現代でもそうであるが、外国人も驚いたほど当時の日本人は旅行好きであったとのこと。
十返舎一九の辞世の句
「この世をば どりやお暇(いとま)に線香の 煙とともに灰左様なら(はいさようなら)」 -
丸子の広重が描いた浮世絵画。ここに1枚手前の「丁子屋」さんが、描かれている。
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浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
『東海道五拾三次の内 丸子 名物茶屋 広重画』
広重の浮世絵:丸子宿は、とろろ汁で有名な丁子やの店先
「芭蕉の句「梅 若菜 丸子の宿のとろろ汁」と詠われた丸子宿の情景。横田山を背景に大きく詳細に描かれた茶店には「名ぶつ とろろ汁」と書かれた看板が立てかけられている。床机に腰掛けた旅人が大きな口を開けて、名物のとろろ汁を美味そうに食べている。」 -
丸子宿のとろろ汁で有名な”丁子屋”。本日休みでした。
広重や芭蕉の時代と、同じように現在も続いている。 -
開いてる姿
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丁子屋のちょっと先左側に【細川幽齋の歌碑】がある。
安土桃山時代の大名歌人というからざっと400年前の人。信長・秀吉・家康に仕え、三代忠利から熊本城主となり、以降、明治維新を経て細川護煕まで18代続く歴史的な方。
細川幽斎(藤孝)が秀吉の小田原攻めに従軍し、ここを通った時に詠んだ句「人数にはたれをするかの丸子川けわたす波は音はかりして」
『細川幽斎公歌碑』。
細川幽斎(藤孝)は、戦国時代の武将で、肥後細川藩の始祖、細川忠興の父であるが、古今伝授を授けられた有名な歌人でもあった。
天正十八年(1590)三月八日、豊臣秀吉の小田原攻略の先陣として、うつの山路を越えて、ここに差し掛かった時、地元の人が「 まりこ川 」 というのを聞いて、詠んだ歌といわれる。
『人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音はかりして』 -
この碑は、【正直な川越人夫の顕彰碑】である。
元文三年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右兵衛門の息子喜兵衛)が財布を拾い旅人の後を追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所から褒美の金を喜兵衛に渡したのである。
昭和四年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。
【碑文】 難に臨(のぞ)まずんば忠臣の志を知らず
財(たから)に臨まずんば義士の心を知らず
昭和六十年 一月 静岡市 -
丸子川の土手沿いに、沢山の石碑が集めらている。現代の道路工事の影響による。
この先は、岡部宿に繋がる宇津ノ谷峠です。
この峠には3本の車道トンネルがあり、明治トンネル、大正トンネル、昭和トンネルと称する。
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