2023/01/12 - 2023/01/12
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montsaintmichelさん
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東阪神地域の初詣の定番と言えば「三福まいり」です。「三福まいり」とは、清荒神清澄寺、中山寺、門戸厄神の神社仏閣を参拝することです。全て阪急沿線に鎮座しており、松の内であれば阪急電鉄「ぐるっと初詣パス」(500円)でお得に巡ることができます。
今回は新型コロナ第8波の新規感染者数の急伸に配慮して松の内の参詣を避けたこともあり、清荒神清澄寺に的を絞ってレポいたします。
清荒神清澄寺は平安時代初期の896(寛平8)年に宇多天皇の勅願寺として叡山 静観僧正により開山された由緒ある古刹です。本尊には大日如来を祀り、その鎮守社として三宝荒神社があり、竃の神である荒神などを祀る神仏習合から真言三宝宗「清荒神清澄寺」の名称があります。
地元では「荒神さん」と親しみを込めて呼び、授与されたお札を台所の神棚に祀る風習が根付いています。家内安全の他、商売繁昌や厄除開運のご利益があり、「極道の妻」から弁護士に大逆転人生を果たしたことで話題になった大平光代さん更生のきっかけとなった寺院としても知られています。因みに、金運パワースポットもいくつかあります。
清荒神清澄寺の公式HPです。コメントはHPを参照させていただきました。
http://www.kiyoshikojin.or.jp/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
阪急電鉄 宝塚本線「清荒神」駅 北改札口
公共交通機関でのアプローチであれば阪急「清荒神」駅が至便です。宝塚駅の次の駅になります。
尚、お正月であれば、JR・阪急「宝塚」駅付近から臨時バスが運行されます。
マイカー利用の場合は無料の大駐車場があり便利ですが、参道の雰囲気が味わえず物足りないのが欠点かもしれません。 -
清荒神参道商店街
阪急「清荒神」駅から約1.2km続く緩やかな上り坂の参道には、「清荒神参道商店街」として約200店のショップが軒を並べて門前町を形成しています。 -
日本最初 笑門平和「萬霊殿」
1995年1月17日の阪神・淡路大震災で震度7の激震により全壊し、再建されました。立地はアクセス至便で最高ですが、あまりにもオープン過ぎて参拝し難い神社という印象です。「日本最初」というフレーズも清荒神の「日本第一」に対抗してネーミングした感は拭えません。
有栖川宮殿下が創始された神道大教院の流れを汲む神社だそうで、その名「萬霊殿」の通りご祭神は「八百万の神」と言っても過言ではありません。
ご祭神は、中央に造化三神 天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、高皇産霊大神(たかみむすびのおおかみ)、神皇産霊大神(かむみむすびのおおかみ)と縁結び・陰陽の神として二神 伊邪那岐大神、伊邪那美大神、そして天照大神、須佐之男大神、大國主大神、稲荷大神(宇迦霊大神・佐田彦大神・天之宇豆女大神)の11柱を祀っています。
また、その右脇に日清・日露・大東亜戦争等で戦死された英霊、寿命や病気平癒の神 寿曜之大神(としてるのおおかみ)、左脇に人間の為に犠牲となった食獣・魚介・虫類・野菜等の霊、取引や掛け合いの神 栄曜之大神(さかえてるのおおかみ)、それと恵美寿大神、三輪之大神が祀られています。
因んに神紋は、「笑」の一文字です。
神社の公式HPです。
http://www.banreiden.com -
一の鳥居
参道と有馬街道が交差するその先に一の鳥居が見えてきます。 -
有馬街道
こちらが有馬方面を見た景色になります。
この有馬街道は16世紀後期の戦国時代に活躍した武将 黒田官兵衛に所縁のある街道です。伊丹 有岡城内の牢獄に幽閉されていた官兵衛が1579(天正7)年9月に栗山善助によって救出された際、一年間の入牢生活で足腰が立たない衰弱した状態であり、戸板に乗せられてこの街道を通って有馬温泉で養生したと伝えます。憔悴しきった官兵衛の心痛はいかばかりだったことでしょう。
さて、官兵衛は有馬の何処で湯治したのでしょうか?その答えは、貝原益軒編著『黒田家譜』(巻之二) に載っており、有馬湯山の池坊に投宿、宿主の池の坊左橘右衛門から手厚い看護を受けたようです。
因みにこの街道は、神崎(尼崎市)から伊丹、小浜(宝塚市)、生瀬(西宮市)を経由するルートです。有馬街道には4つのルートがありますが、このルートが最も歴史が古く、天皇や貴族、武家が京都からの道筋である西国街道から池田を経由して有馬温泉へ向かいました。 -
一の鳥居
色が薄れてきていますがモスグリーン色をした一の鳥居です。この鳥居を潜ると長い参道が始まります。扁額には宇多天皇が下賜された称号「日本第一 清荒神」とあり、古くから参詣口のシンボル的存在として親しまれていたことが窺えます。
因みに、鳥居の色がモスグリーンなのは「荒神さんと同じ色」にしたためと伝わります。
以前は、手前両脇にある石燈籠と共に現在の阪急「清荒神駅」の踏切に建っていたそうですが、戦後に現在地に移されました。かつての鳥居は、御影石製で、龍の模様が刻まれていたと伝わります。
また、右後方に佇む白壁の長屋門は門前町の風情を偲ばせます。 -
指差し道標「日本第一 清三寶荒神王道」
一の鳥居の手前には、宇多天皇が下賜された称号「日本第一 清三寶荒神王道」の道標と渋い茶褐色を呈した(鞍馬石製か?)の常夜灯が佇みます。
この道標は高さ182cmあり、中程に折損した形跡が見られます。東面(正面)には、浮き彫りされた右指差しの下に、「日本第一 清三寶荒神」とあり、地中に埋まっていて見えませんがその下には「王道」と続くそうです。
因みに南面(左面)の下方には長方形に平らにされた中に「赤尾保」と刻んであります。石工の名前でしょうか?こちらも踏切からの集団引っ越し組と思います。 -
清荒神参道商店街
見上げると昇り龍をイメージした横断幕がなびいています。これで何合目まで来たかが分かり重宝します。参道はこの龍の絵のように微妙に曲がりくねり、龍が天に昇る姿を彷彿とさせることから「龍の道」と呼ばれて大変縁起の良い道として知られています。
初詣は多くの参詣客で賑わいを見せ、三が日合わせると約30万人にも及び、年間では350万人もの参詣者が訪れる人気スポットです。 -
豊川稲荷の祠
1919(大正8)年創業のお食事処「宝光亭」の対面には稲荷社が佇みます。
今から100年ほど昔、店の向かい側に土手があり、昼夜を問わず狐が出没して近隣の住民や参詣客を化かすなど悪行を尽くしておりました。これに困り果てた先々代の店主が、とある高僧に相談して「豊川稲荷の分霊」を勧請し、土手の前に稲荷社を鎮座させたところ、狐が悪さをしなくなったと伝わります。それ以来、代々お祀りされているそうです。
因みに、本家 豊川稲荷は豊川陀枳尼眞天をお祀りする寺院で、正式名は「妙嚴寺」といいます。 -
お食事処「宝光亭」
荒神随一の老舗で、大正・昭和レトロ感たっぷりの大衆食堂です。
因みに、清荒神駅から清荒神山門までの5合目の目印でもあります。
名物「おでん」の出汁は先代から継ぎ足した伝統の味を守り続けているそうです。人気は「餅麩」です。ふわふわモチモチ食感で、お出汁がよく染みています。また、お寿司の酢飯も先代が参詣客の料亭の方から教わった寿司酢の配合だそうです。更には、自家製の甘酒は米麴タイプに生姜の香りと風味でアクセントを効かせています。
営業時間は10時~15時、不定休ですが雨天時は閉店時間が早くなる場合があるそうです。 -
清荒神参道商店街 荒神松
「荒神松」とは、読んで字の如く、荒神を祀る神棚(=荒神棚)に飾る松のことです。特徴は、榊に松を3本挿し、また、松ぼっくりも3つあることです。
3つの理由は、荒神は仏・法・僧の三宝の守護神であることに因みます。また、神道においては竈三柱大神として祀られ、三柱は竈の神様である奥津比古命(おきつひこのみこと)と奥津比売命(おきつひめのみこと)、火の神様である火産霊命(ほむすびのみこと)を指すことに因みます。 -
三宝荒神の大燈篭
中国自動車道(高速道路)の高架を潜ると一気に視界が開け、前方に巨大な石燈籠が参道を挟んで2基並んでいます。 -
三宝荒神の大燈篭
この石燈籠は、1922(大正11)年に清荒神清澄寺の特信者の寄進により、第7世 光淨代僧正が建立しました。
高さ約8mあり、威風堂々とした石燈籠です。 -
三宝荒神の大燈篭
先端にある宝珠が「三宝荒神の紋章=三弁火焔宝珠紋」を象っています。 -
三宝荒神の大燈篭
この燈籠は、1995年の阪神・淡路大震災において一部損壊を受け、修復されたものです。その際、左側の燈籠には真言三宝宗の宗紋 三弁火焔宝珠紋に似た影が出現し、この霊験は「三宝荒神様の奇蹟」として伝えられています。 -
三宝荒神の大燈篭
竿の部位に黒丸のような大きな染みが見られるため、これが震災後に出現した「三宝荒神様の奇蹟」と思われます。
通常、このような染みがあれば燈籠の素材として使うことはしないため、建立時には存在しなかったはずです。
しかし、この染みを「三宝珠紋」とするには乖離があるような気がしないでも…。 -
祓禊橋
参道を横切って流れる荒神川(武庫川支流)に架かる石橋を渡ります。案内板には、「この祓禊橋は明治44年に設置されました。橋ができる前は参拝の為に荒神川まで降り、身を清め、荒神さんにお参りしていた事から現世と神聖なる場所との境界とされていました。現在では、この橋を渡る事が御祓の代わりとなっております」とあります。
禊をしてから参拝するとは、神道の影響が色濃く残されているようです。 -
祓禊橋
現在の橋は、1924(大正13)年の大水(水害)により流出した後に再建されたものです。 -
祓禊橋
清荒神境内にある「龍王滝」からこの流れが続いています。
橋から川面までは10m程あるかと思います。川まで降りて身を清めるのは、さぞかし難儀な事だったことでしょう。こうした自己犠牲を払った苦難の先に目指すものがあるという、いわば参詣意欲を駆り立てるための小道具だったのかもしれません。
因みに荒神川は、2級河川武庫川の支川で、宝塚市中央部に聳える標高420mクラスの山地に水源を発し、清荒神清澄寺境内を流れ、同参道と平行に南に流れています。 -
祓禊橋
この橋には次のような逸話も残されています。
「4月末から5月の初め頃に生きた蛇を祓禊橋の上から荒神川に放生して一心に念じると願いが叶う」という迷信があったそうです。
しかし、蛇の放生により年々参道に蛇が増え、土地の人たちは困り果てたのだとか…。 -
祓禊橋
擬宝珠の形も独特です。 -
参道
大駐車場からの参詣者の流れと合流すると、この先は山門までこのように露天商が軒を連ねます。 -
山門
1891(明治24)年に創建された、小規模ながら三門形式の堂々とした山門です。因みに三門形式とは、中央の大きな門と左右の小さな門の3門を連ねて1門としたものです。
「三門」の由来は次のように諸説紛々です。
1.三解脱門(さんげだつもん)の略で、空解脱、無相解脱、無作解脱の三境地を経て悟りの道に至る門を指すとする説。
2.初期の寺院の門構えは南面する正門、東西2つの脇門から構成されており、これを称して三門と呼んだとする説。
3.寺院に正面の入口の他に左右にも入口が設けられたからとする説。
4.声聞(出家修行をする僧)、縁覚(悟りを開いた人)、菩提(悟りを開いて如来になろうとする人)の三者が通る門とする説。
5.貪、瞋、痴の三煩を解脱する境界の門という説。 -
石標「日本第一 清三寳大荒神王」
山門の右手前には、宇多天皇より賜った称号「日本第一清三寳大荒神王」と刻んだ石標が存在感を顕わにしています。参道にあった道標に比べ「大」の文字が追加されています。また、左側面には「蓬莱山 清澄寺」と刻んでいます。
因みに宇多天皇といえば、菅原道真を重用したものの、肝心な時に道真を助けることができず、その結果、道真は大宰府に左遷させられる羽目になり、個人的には心象は芳しくありません。 -
石標「日本第一 清三寳大荒神王」
台座を見ると「石工 阿波氷上郡谷川 綿貫重吉」と銘を刻んでいます。
因みに綿貫重吉氏は、大正~昭和時代初期にかけて主に丹波地区において珠玉の狛犬などを制作された石工です。「日本一の石の銘工」と称された丹波佐吉氏の孫弟子と言われ、現在の山南町谷川にある「森田石材店」の初代 森田藤四郎氏の師匠となった人物です。 -
「大界外相(たいかいげそう)」の石碑
山門の左手前には「大界外相」と刻まれた結界石が立ち、この先は聖域であるという結界を表しています。
「大界外相」の「大界」は、僧侶となる儀式を行う聖なる場所、つまり戒壇院を指し、「外相」はその外側という意味です。
石碑の文字は第35世 道樹和上の揮毫です。 -
山門
お焚き上げで招福を祈る行事「荒神星祭・大福火」が毎年節分の日に開催されます。
古い御札や御守などを大福火に納めて焚き上げ、その火にあたって厄除開運・無病息災のご利益を授かるという風習です。
大福火は山門の前広場で午前8時に点火され、17時頃まで燃やされ続けます。 -
山門
切妻造、本瓦葺の四脚門です。
ペットも繋いであれば一緒にお参りできるという、太っ腹な寺院です。 -
山門
真言三宝宗の宗紋「三弁火焔宝珠紋」が踊っています。
「日本三大荒神」とは、荒神を祀る主な寺社の総称とされ、名称通りであれば三社ですが諸説あります。この清荒神と奈良県野迫川村にある立里荒神、その他に大阪府箕面の勝尾寺、奈良県桜井市の笠山荒神、和歌山県橋本市の光三宝荒神などが挙げられますが、どれが三大社なのかははっきりしません。
因みに立里荒神では、弘法大師空海が伽藍繁栄、密教守護のための守護神として祀られています。勝尾寺が「日本最古の三宝荒神」、そして清荒神が宇多天皇から「日本第一清荒神」の称号を授かり有名になったということのようです。 -
山門
正面には扁額『蓬莱山』が掲げられています。山号「蓬莱山」は、古代中国に伝わる想像上の神山で、不老長寿の仙人が住み、現在の渤海湾の沖遠くに浮ぶとされていました。山容が仙境に相応しいことから開創時からこの名が付けられています。扁額の文字は随心院の門跡で名筆と謳われた智満上人の晩年の筆となります。上人は、顕密の教相の他、外典にも通じ、特に古梵字に造詣が深く、貫名海屋に書道を学び、更に大師の風を極めた人物です。
因みに隨心院は、京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院です。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)が開基しました。小野地区は、小野氏の根拠地とされ、隨心院は小野小町所縁の寺としても知られています。 -
山門
山門の中ほどで振り返ると、第33世 浄界和上筆の扁額『薝蔔林中不嗅餘香(せんぷくりんちゅう よこうをかがず)』が掲げられています。達筆すぎて読めませんが…。
この言葉は仏典『維摩経』より引用されたもので、薝蔔(くちなし)の花の強い香りが他の香りを打ち消すことから、一旦山門を潜れば俗界の煩悩も打ち消され、清浄な気持ちになり、身も心も洗われるという意味です。 -
山門
山門を潜った先で振り返ります。
清荒神清澄寺は、平安時代初期の896(寛平8)年、宇多天皇の発願により、勅願寺として叡山延暦寺の高僧 静観僧都(増命)を迎えて旧清(もときよし)と呼ぶ尾根に開山し、真言宗東寺第7代長者 益信僧都を導師に開創した「日本第一 清荒神」の称号を下賜された真言三宝宗の大本山となる古刹です。平安時代後期にはすでに信仰を集めており、『平家物語』や『源平盛衰記』にもその名が登場します。
本尊には讃岐国の名工 定円法眼が曼陀華の香木で刻んだ大日如来像(重文)を祀ります。まず伊勢内宮・外宮など15神を勧請し、同時に本尊の鎮守社として現在地である西の谷の地に三宝荒神王を祀る三宝荒神社を建立し、蓬莱山7嶺7渓に荘厳な伽藍を造営しました。やがて江戸時代に清澄寺を現在地に遷移し、「蓬莱山 清荒神清澄寺」という「神と寺」が混ざった典型的な神仏習合の寺院らしい名称となりました。 -
清荒神の公式HPにある境内案内図です。
http://www.kiyoshikojin.or.jp/keidai/
地元では「荒神さん」と親しみを込めて呼びます。火の神様や台所の神様として知られ、授与されたお札を台所の神棚に祀る風習が根付いています。古来、人々の暮らしに欠かせない火は万物を浄化する神聖なものとして尊ばれてきました。火を扱う竈は家庭や会社の中心とされ、「竈が賑わえば、家庭や会社が繁栄する」との考え方から、「三宝荒神王」への信仰は家内安全の他、商売繁昌や厄除開運のご利益があります。
また、「極道の妻」から弁護士に大逆転人生を果たしたことで話題になった大平光代さん更生のきっかけとなった寺院としても知られています。ミリオンセラー本『だから、あなたも生きぬいて』の著者で大阪市助役も務めた浄土真宗本願寺派の僧侶 大平さんは、初めて訪れた日から17年間毎日清荒神清澄寺へ通ったそうです。大平さんは、中学時代にいじめで自殺を図り、その後、非行に走って16歳で暴力団組長の妻となりました。仏教の力を知ったのは22歳の時でした。立ち直りの契機となった養父に連れられて清荒神清澄寺で手を合わした時、「とげとげしい気持ちが不思議と真っ白になり新鮮な気持ちになった」と語られています。その後、一念発起し、独学で司法試験に1度で合格しました。 -
本堂
山門の遥か先にある高台には本堂が鎮座しています。
平安時代末期の源平合戦の兵火により伽藍は灰燼に帰しましたが、勅令により1193(建久4)年に源頼朝によって再興されました。中世の各種記録にも登場しており、皇室の信仰も篤かったようです。
その後の戦国時代、天正年間の荒木村重の乱に巻き込まれて再び兵火で罹災し、小院の竜蔵院を残すのみとなりました。その復興は豊臣秀吉の勢力下で行われたようです。
江戸時代の安政年間には清澄寺本堂が旧清から現在地に移築され、浄界和上によって再興されて伽藍が整えられ、神仏習合の寺院となりました。その時代には有馬温泉へ向かう湯治客が旅の途中に立ち寄って参詣したそうです。
江戸時代末期、一代の名僧 浄界和上 (号露庵)が諸堂を再興し、それに続いて第37世法主 光浄和上は1947(昭和22)年に「三宝三福」の教理に基づいて真言三宝宗を開き、荒神信仰の総本山清荒神清澄寺として新しく法幢を掲げ、創建以来、連綿と続く栄光千年の法燈は一日も絶えることなく今日を迎えています。
現在も神仏習合の寺院であり、境内に社があるという扱いで宮司は存在しないようです。 -
講堂
山門の少し先の右手にあるのが講堂です。僧が集まって経典を講義したり、説法したりする施設です。
講堂の前には2本の銀杏の大木が聳えます。いずれも推定樹齢500年超とされる古木です。
宝塚市内では、最も背の高い銀杏の木として、市の天然記念物に指定されています。 -
講堂
毎年3月中旬に講堂で涅槃図(江戸時代末期)が公開されます。
涅槃図とは、釈尊が沙羅双樹の下で涅槃(入滅)に入る時の頭を北、面を西、右脇を下にして臥し、周囲に弟子をはじめ、菩薩、天竜、動物などが泣き悲しむ様を描いた図です。 -
講堂
高台にある天堂側から俯瞰する講堂です。
天台・真言宗の高僧を次々にヘッドハンティングして開山・開創させ、しかも霊験譚により宇多天皇から称号を授かるなど、きな臭い政治的な脈略が垣間見えなくもありません。事実、善隣友好や平和社会、万民豊楽を祈願して開山された経緯があり、往時の世相を反映しているように思えます。宇多天皇の手腕が推し量れるモノサシと言えなくも…。
尚、境内には数々のパワースポットが点在しており、摂津国88箇所第72番でもあります。
また、寺宝には鎌倉時代作『千手観音菩薩画像』、南北朝時代の良全筆『釈迦三尊像』 (共に重文)などがあり、境内の鉄斎美術館には千点にも及ぶ富岡鉄斎の絵画や資料を収蔵しています。 -
初詣の時期は、境内は混雑緩和のために一方通行となり参詣順路が決められています。境内の案内図に従って進みます。
真っ先に本堂へ参詣したい気持ちを抑え、左折して天堂へ向かいます。
尚、朱色の手摺が優美な石畳の坂道の左下に手水舎があります。 -
阿吽の狛犬、布袋尊像にモスグリーン色の鳥居と、この先が神社ゾーンであることを顕わにしています。
神仏習合の寺院ではお参りの作法で悩むこともありますが、神社ゾーンか仏閣ゾーンかは鬼瓦などにあしらわれた紋で見分けられます。具体的には、宗紋「三弁火焔宝珠紋」であれば神社、「法輪」であれば仏閣となります。 -
布袋尊
鳥居手前の両脇に布袋像が祀られていますが、シンボルマークの袋は背負わず三弁火焔宝珠を左手に持つ珍しい布袋さんです。この布袋尊像は1937(昭和12)年に篤信の「神戸 荒神講」により奉納されたものです。
布袋尊は七福神の一柱であり、三宝荒神王の眷属(けんぞく=従者)として、眷属堂と鳥居前の坂道の両脇に祀られています。三宝荒神の眷属に何時の時代にどのような経緯でなったのかは不詳でが、江戸時代後期の記述では、布袋尊の土人形を竈の上に置いて祀る家が数多く見られたとあり、庶民の間で清荒神の布袋尊信仰が広まっていたと窺えます。 -
布袋尊
どことなく哀愁を帯びた背中です。
臀部には奉納に当たって世話役をなされた方々と鋳造者の名前があり、鋳造者は9代 大坂高津 鋳金「今村久兵衛」と記されています。
今村久兵衛は江戸時代からの著名な鋳物製造所で、現在の大阪城天守閣の8基の鯱は天守閣復興の際に今村久兵衛により鋳造、寄贈された物です。 -
鳥居の先に唐破風が優美な天堂が鎮座しています。
ところで、荒神とはいったい何者なのでしょうか?
古代人は、神には人に福をもたらす温和な和魂(にぎみたま)と害悪をもたらす荒々しい荒魂(あらみたま)の両面があると考えました。荒魂として山から里に降って来る神に対して畏敬を以てこれを祀り、和魂となっておとなしく山へ帰って戴く。農耕儀礼の原点はこれであったと思われます。
こうした中、仏教の伝来と共にヒンドゥー教の悪神(夜叉、羅刹など)が仏教に帰依して守護神・護法善神となるという風習や考え方が入って来ました。この考え方と荒魂とが結び付き「荒神」が生まれたものと思われます。
一方、荒神には屋内に祀られる三宝荒神と屋外に祀られる地荒神の2系統があります。屋内の荒神は火の神や竈の神の荒神信仰と仏教・修験道の三宝荒神とが習合したものです。故に、天堂脇には神変大菩薩として修験道の開祖 役小角が祀られているのでしょう。
因みに三宝荒神とは、日本特有の仏教における信仰対象のひとつで、仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神です。 -
拝殿(天堂)
手前の拝殿とその背後に軒を連ねる浴油堂を合わせて「天堂」と呼びます。
拝殿には、竈の神 三宝荒神王や大聖歓喜天(聖天)、十一面観世音菩薩の他、福徳を授ける諸神諸仏が祀られています。聖天は仏教守護の神で、祈れば富を与え病を除き、夫婦和合・子を授けるとされます。十一面観世音菩薩は除病・滅罪・求福を祈れば現世利益を得ることができるとされます。これらは何の脈絡もなく寄せ集めた神仏と思われるかもしれませんが、そこには合点のいく理由があります。それは後のお楽しみ…。
因みに拝殿の拝礼は、「一礼三拍手一礼」です。その後に般若心経と荒神御真言(オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ)を七反唱えるのが正式な作法だそうです。さすがに初詣でそこまでなされる方は見かけませんが…。三拍手には「仏・法・僧」の三宝に帰依するという意味が込められています。 -
拝殿(天堂)
正面の行列は銅鑼や鈴を鳴らす方々です。
鮮やかな五色幕が張られ、厳かで晴れやかな雰囲気に包まれています。
拝殿は神社であるため七五三縄が張られており、紙垂は独特で伊勢流の形によく似ています。これは恐らく潔荒神の宗紋である3つの宝珠に準えたものだと思われます。 -
拝殿(天堂)
内部にある扁額は真言三宝宗の教理『三宝三福』です。
拝殿では、各大祭の他、毎月28日に行う月例祭や毎月1日の月旦祭の大若経転読法要が奉修され、世界の平和や除災招福を祈願されています。 -
拝殿(天堂)
荒神は激しく祟り易い性格を持ち、また、不浄を嫌うことから、火の神に当てられ、竈の神とされました。陰陽道や神仏習合説が影響しているようです。
三宝荒神とは如来荒神、麁乱(そらん)荒神、忿怒(ふんぬ)荒神の3柱を指し、三面三眼六臂の神です。顔が3つあり、ひとつの顔に眼が3つ、手は6本あります。
荒神は忿怒の相が一般的ですが、一面六臂で優しいお顔をした如来荒神や一面四臂で甲冑と天衣を身に纏った神将形の小島荒神もあります。また、六面八臂、八面八臂の姿のものもあります。
荒神は、和製の神とされますが、インド伝来の神 剣婆や乾婆と同一と見做されることもあり、日蓮『御義口伝』では十羅刹女を指し、空海『三宝荒神祭文』では本地仏は文殊菩薩とされます。因みに眷属は、98000柱あるとも…。 -
拝殿(天堂)
鬼瓦にあしらわれた宗紋「三弁火焔宝珠紋」です。
珍しいのは、天堂は手前の拝殿と背後にある浴油堂が棟続きになっていることです。
浴油堂では三宝荒神と聖天(歓喜天)の合行如法浴油供(一緒に浴油に供される)という秘法中の秘法が、毎日法主により華水供(けすいく)一座、浴油供二座の計三座、平和と繁栄、愛と福徳の祈りを込めて厳かに営まれています。そのため、法主と坦行事以外の入座は許されません。
因みに、生駒聖天宝山寺を開山した湛海律師の記録には「三宝荒神は聖天が姿を変えられた神様である。つまりは聖天と三宝荒神は同一の神様である」と記されています。また、聖天は十一面観世音菩薩の教化により、慈悲平等へと改心しました。これらの事実を知れば、拝殿に三宝荒神と聖天、そして十一面観世音菩薩が祀られていることも、毎日欠かさず2柱が浴油に供されていることも腑に落ちます。 -
三弁火焔宝珠紋
こちらは手水舎の屋根にあるものです。 -
浴油堂(天堂)
浴油とは、聖天像に香油を注いで供養する呪法を言い、密教の修法で最も深秘の法とされます。これにより聖天のパワーが一層高められ、不可能と思われるような願い事も成就させて頂けます。
元々聖天は大層欲心の盛んな差別心の強い性格でした。しかし、十一面観世音菩薩の教化と出会って以来、仏法の守護神として自在神力を衆生済度へ向けました。
一方、煩悩は体の垢と同様に絶えず洗い清めなくてはならず、聖天の差別煩悩も常に清浄な香油で潅ぎ流し、清潔なる徳を顕わしておく必要があります。これが浴油供養の持つ意義とされます。 -
鐘楼と鼓楼(右手前)
立札には「時報の鐘」と書かれています。
荒神を祀る社寺は日本全国津々浦々に約300社あり、荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んだそうです。各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)等。中国・四国地方などの瀬戸内海沿岸を中心とした地域が上位を占め、他県は全て10社以下です。また、荒神社がひとつもない県も多くあります。
尚、神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を竈や厨房、台所に神札を以て祀るそうです。 -
眷属堂
拝殿に向かって左にあります。ここには、三宝荒神王の眷属(従者)である布袋尊が祀られていますが、この時期はお札の授与所となっています。
布袋尊は中国の唐の時代に実在したとされる「釈契此(しゃくかいし)」あるいは「定応大師(じょうおうだいし)」という名の僧とされ、日本には鎌倉時代に伝わりました。常に身の回りの備品を入れた袋を背負い、集落を巡って子供たちと遊びました。また、一切欲を持たずに悠々自適な暮らしをしながら人々の願いを導いたことから、弥勒菩薩の化身とも言われます。
七福神では唯一人間から神様になった神とされ、不良長寿・無病息災・開運・良縁・子宝・夫婦円満・金運の神です。 -
護法堂
拝殿の背後控えるのは「ご本社」と呼ばれる神殿造りの「護法堂」です。
正面に大勝金剛転輪王(如来荒神)、向かって右に歓喜童子、左に弁財天が祀られています。 -
護法堂
唐破風にある吊燈籠には奉納:松本幸四郎、市川染五郎、中村吉左衛門、波野千代の金色の文字が踊ります。
先々代の法主は鉄斎の作品を蒐集しただけでなく、自ら創作した長唄『ゑがく鉄斎』を東京歌舞伎座で上演しました。その時の振り付けが7代目松本幸四郎でした。清荒神と歌舞伎界との繋がりは、この時から続いているそうです。因みに、7代目の曾孫 市川海老蔵氏も今は亡き小林麻央さんと清荒神を訪れて婚約を報告されています。結果的にご利益はなかったのかもしれませんが…。 -
荒神影向(こうじんようごう)の榊
護法堂の背面には開創に際して荒神が姿を現わしたと伝わる「荒神影向の榊」があります。往時、この霊験の報告を受けた宇多天皇は大変感銘され、おっとり刀で「日本第一 清荒神」の称号を下賜されました。
現在では金運上昇のパワースポットとして知られています。 -
荒神影向の榊
「荒神影向の榊」の根元に供えられたお賽銭をいただいて紙に包み、財運アップを願って財布に入れておくと小遣銭に不自由しないそうです。また、次に参詣するまでそれを「御守り」として持っていると吉事があるとも言われます。ただし、次回の参詣の際には持ち帰ったお賽銭の「倍返し」をするのが約束事です。清荒神の禁じ手はは、次に参詣した時にお賽銭を倍返ししないことです。つまり、このお金はいただいたものではなく、一時的に財布に入れておくだけという考え方です。なんとも珍しく、ほのぼのとした風習です。 -
荒神影向の榊
「清荒神の榊と竈」にまつわる民話があります。
宇多天皇が夢を見られた。夢の中に釈迦・阿弥陀・弥勒の化身だという僧が現れ、「摂津の国には蓬莱山と呼ぶ霊山がある。米谷という所だが、そこに寺を建てて仏法を広めれば国家安泰の礎が開ける」と伝えた。そこで天皇は、比叡山の静観僧正を開山の祖、益信僧都(本覚大師)を開創として清荒神清澄寺を開かれた。
益信僧都は開山に先立ち、仏法守護・三宝の加護を祈るために三宝荒神を祀った。その時、金色の光と妙なる霊楽と共に、社前の榊の樹に三面六臂の三宝荒神の姿が出現した。天皇は、この「荒神影向の榊」の話を聞き、直ちに「日本第一 清荒神」の称号を授けたと伝えます。 -
荒神影向の榊
益信僧都は平安時代前期の真言宗広沢流の祖でもあります。また、宇多天皇出家の戒師となり、901(延喜元)年に伝法灌頂を授けました。更には、尚侍 藤原淑子の病気平癒に霊験あって深く帰依を受け、東山の山荘を賜って寺としました。これを円城寺といい、ここに寂したことから円城寺僧正とも呼ばれます。
彼の法流を継ぐ寛朝が後に嵯峨広の遍照寺に住して法流を大いに広めたところから、広沢流の名が興りましたが、広沢流の祖師は益信に帰せられています。尚、1308(延慶元)年に本覚大師の号を賜っています。
諡号の「本覚大師」は、初め小野流の観賢が宗祖空海のために選び、宮中に奏上した諡号でしたが、921(延喜21)年に醍醐天皇は空海の著書から「弘法利生」を見出し、空海には敢えて「弘法」を諡りました。長年宙に浮いていた由緒ある「本覚」の諡号は、没後400年を経て後二条天皇より益信に諡られ、同時に大僧正位も贈られました。 -
眼神祠(がんじんし)
ここは眼の神様です。
元々は護法堂の背後にあり、往時はそこに清水が湧き出しており、参詣の方々が柄杓でその水を汲んで眼を洗ったりしたそうです。 -
龍王堂
本尊は「善女龍王」という全ての生命を守る水神様です。密教では雨を祈る神としています。
824(天長元)年、長引く旱魃に対して淳和天皇は空海に祈雨の修法を命じました。空海は神泉苑で請雨経(しょうきょう)の法を執り行い、祈祷が7日間に及んだ時、祭壇の上に5尺ほどの蛇が出現しました。その蛇は頭に5寸ほどの金色の蛇を載せ、すぐに池に入ると、まもなく空が曇って雨となり、国中が潤ったと伝えています。空海は善如龍王が請雨経の法の霊力を顕すために現れたと説き、雨乞いの霊験あらたかとされています。
古来、酒造や農業、火防の神として信仰を集めています。
右側にある白壁の祠は「経堂」です。 -
龍王堂
扁額には「水神祠」とあります。
一般的に水神祠とは、水神が祀られている小さな祠のことです。人々の水に対する恩恵と畏怖が神格化し、諸神仏に仮託して信仰という形でもって現在まで引き継がれてきたものと考えられます。 -
火箸納所
寺院や神社では、お守りやお札をお返しする風習がありますが、ここでは一風変わったものをお返しします。それは火箸です。
納められた火箸は、朝日新聞社を通じて引き取っていただいき、そのお金を社会福祉事業に寄付されています。 -
火箸納所
厄年の人は、授与品である厄除火箸を自宅にお祀りしておくと、「竈の神」として信仰される三宝荒神王にあやかり、その火箸で厄をつまみ出すことができるとされます。男性41~43歳、女性32~34歳の大厄には、各々前厄から3年間、小厄の時は1年間、厄が明けるまで自宅に祀ります。その火箸を厄が明けた年の節分以降に「火箸納所」にお返しします。大小様々な火箸が納められており、中には2mを越える長さのものもあります。 -
行者洞
火箸納所の右隣に岩壁をくりぬいた祠があり、修験道の開祖「役行者(役小角 えんのおづぬ)」を祀っています。修験によって得た加持力をもって病気、災難等を取り除くとされます。役行者には全ての病気や災難に遭わないようとの諸仏の大悲がご加護されると伝わります。
因みに、かつてはこの辺りに古墳があったそうです。それが何時の間にか無くなってるそうですので、「古墳を行者洞に変身させたのでは?」とも言われています。 -
行者洞
役行者が金剛山で祈祷していた折、艮(北東)の方角に赤雲がなびき、荒神が現れ、その地に祠を造って祀ったという伝説があります。つまり、役行者は荒神繋がりでここに祀られていると思われます。
役行者は修行の邪魔をする夫婦の鬼、前鬼(雄の儀学)と後鬼(雌の儀賢)を生駒山で捕らえました。鬼どもは元々里人に危害を加える荒神であり、行者の術により自由を奪われ、日頃雑用としてこき使われ、言う事を聞かないと行者がたちどころに術を用いて縛り上げたため、大人しく感化されて行者の弟子となって身辺警護をするようになりました。今も生駒市鬼取町に無住の鬼取山「鶴林寺」が建っています。 -
行者洞
1799(寛政11)年、役行者御遠忌1100年に光格天皇が京都の聖護院に勅使を遣わし、「神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)」の諡号を贈ったそうです。
如何に往時の民衆から長きに亘って篤い信仰を受けていたかが判ります。
戦国時代の武将たちからは戦勝の「神変さま」として篤く信仰されてきました。また、役行者が山岳信仰の第一人者であり、山野を駆け巡って修行したことから、今日では特に足腰の弱い方を救済して下さると言われています。 -
行者洞の先を左に折れ、石段を登ります。
神社ゾーンの天堂から仏閣ゾーンの本堂へは山腹に施された石段を上り下りします。 -
宝稲荷社
神社・仏閣ゾーンの分水嶺となる地に稲荷社が佇みます。「宝」という名が付いていることから宝くじの当選祈願に来られる方も多いそうで、隠れた金運パワースポットと言えます。
毎年2月の2回目の午の日には法要が営まれ、家内安全、商売繁昌、五穀豊穣を祈願します。読経の後に小法話があり、参拝者にお供物が授与されます。
稲荷社創建の由来については、明治時代のある夜、当山先師 忍随和上と光浄和上が同時に稲荷明神の霊夢を見て、ここに祀ったと伝わります。
こじつけのような霊験譚ですが、他に荒神と稲荷社には繋がりはないのか調べてみました。三宝荒神の眷属には八大荒神がおられます。一方、仏教のお稲荷さんとされる陀枳尼天の八眷属を八大荒神とする説もあります。これらをチャンプルすれば、眷属である「八大荒神」繋がりで稲荷社がここに存在するとも言えるのでは?
この続きは萬福笑來 北摂宝塚 清荒神清澄寺<後編>でお届けします。
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