2022/03/09 - 2022/03/09
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otayahikoさん
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江戸時代、九州の玄関口である小倉から唯一の外国との窓口であった長崎とを結んでいた長崎街道。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、坂本龍馬など幕末の志士に伊能忠敬やシーボルト、果てや象や孔雀も通ったとされるこの道を徒歩で巡る長編企画です。
第6弾はJR弥生が丘駅を出発し田代宿、轟木宿を経由してみやき町の中原宿までの区間を取り上げます。
行程のほとんどが鳥栖市内であり、鳥栖市の広さを感じました。
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今回は佐賀県鳥栖市のJR弥生が丘駅からスタートです!
弥生が丘駅 駅
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まずは前回行く予定だった田代宿を目指します。
道端に長崎街道の石碑がありました。 -
明治22年鉄橋まで110mという、これまた鉄道マニアの筆者には無視できない案内を発見!!
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こちらがその鉄橋。
Part1で紹介した茶屋町橋梁とは異なり、今も現役で使用されています。
明治22年に九州で初めて鉄道が建設された時から現在まで休む事なく使われてきました。 -
煉瓦積みのアーチに新時代を切り開いた息吹を感じます。
これからも大事に使われてほしいですね。 -
鉄橋から少し進むと今度は古墳があるとの事なので、こちらもにも寄ってみます。
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古墳に関する説明板。
3世紀後半に造られた前方後方墳で、九州でも早い時期に造られたそうです。 -
隣接して赤坂古墳と剣塚古墳の2つがあり、その間は遊歩道で繋がっています。
写真右側が赤坂古墳の前方部だと思われますが・・
ちょっとよくわからないですね -
こちらが剣塚古墳
盛り上がって丘のようになっている箇所があります。 -
再び街道へ戻って進みます。
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長崎自動車道の高架を潜ります
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次の田代宿はもうすぐです。
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田代宿の東口にあたる場所に昌町の追分石があります。
小倉・博多方面への長崎街道と英彦山方面へ向かう街道の分岐点でした。 -
ちょっと分かりにくいですが、「左こくら・はかた道」との文字が刻まれています。
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反対側には右・ひこ山道との文字が。
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こちらがその英彦山方面への街道になります。
秋月街道と薩摩街道の分岐点である松崎を経由する事から、こちらのルートもそれなりに需要があったのではと思います。 -
現在の地名は田代昌町となっていますが、かつてはこの地に昌元寺があり、田代昌元寺町と呼ばれていました。
寺の前には野菜や魚などを売る商店が並んでいたそうです。
現在の昌元寺は田代上町へ移転されています。 -
しばらく進むと田代新町に入ります。
古い町家が建ち並び宿場町らしい風情です。 -
田代宿には田代の地を統治していた対馬藩の代官所が設置され、重要な役割を担っていました。
上町にあった代官所の通用門がこちらに移築されたものと伝えられています。 -
田代宿内の旧街道は地元ドライバーにとっても重要な道路のようで、ひっきりなしに車が行き交い、街並みを撮影するのは結構大変でした。。
見どころは結構多いのですが、皆様も訪れる時は安全第一でいきましょう。 -
流石はシュガーロードとして名高い長崎街道、この田代にも老舗のお菓子屋さんがあります。
明治7年の創業当時からある「鳥栖興し」が有名ですが、他にもフルーツ大福や生チョコ大福などバリエーションも豊富です。
まだ開店しておらず筆者は立ち寄る事ができませんでしたが、またこの界隈に来た時には是非行ってみたい所です。佐藤製菓本舗 グルメ・レストラン
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八坂神社の入口に田代宿の案内板が設置してあります。
昌元寺町、新町、上町、下町、外町の5町から構成されており、江戸時代後期の記録では「人家五百軒計、茶屋 宿屋多し」とありかなりの賑わいを見せていたようです。
明治になり、鉄道が開通すると田代には駅が設けられる事になりました。(宿場からは少し離れていますが)
田代駅といえば現在は快速すら止まらない小駅なのに、明治の開業当初からあったと知った時には驚愕しましたが、もともと宿場町で栄えてた事を聞けば納得ですね。。 -
八坂神社の本殿。
町中の疫病や農村の虫害・風水害などから守られるとして、厚い信仰を集めたそうです。 -
八坂神社を過ぎると田代上町へと入ります。
画像の浄土宗西清寺をはじめ、先程紹介した昌元寺も現在はこちらへ立地しています。 -
明治元年創業の紅屋呉服店。
現在は地元小中学校の学生服や体操服も取り扱いしており、今も昔も地元から愛される店となっています。 -
田代領には対馬本島から役人が派遣されていましたが、その拠点となった代官所の跡地です。
江戸時代末期の設計図には60にも上る部屋が記載されていたそうで、規模の大きさを伺い知る事ができます。 -
上使屋跡地
オランダ商館長や幕府の役人が宿泊や休憩に使っていました。 -
広及舎跡
明治に入って廃藩置県が行われた後も、旧対馬藩の宗家は旧田代領内に多くの田畑を所有していました。
その地主経営を行うために組織されたのが広及舎です。
当初は新たに土地を購入するなど、経営を拡大していたものの大正期以降は縮小・解体の道を辿ったとあります。 -
こういう趣きある建物を見ると撮らずには居られなくなりますねw
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田代はサロンパスでお馴染みの久光製薬創業の地でもあります。
製薬業は古くは江戸時代から「田代売薬」として名を馳せ、現在も鳥栖市を支える重要な産業となっています。
今回は時間の都合で行けませんでしたが、近隣にはくすり博物館なるものもあるので、次回は是非訪れたいと思っています。 -
久光製薬の工場の所に問屋場跡であったことを示す標柱があります。
人足や馬の乗継ぎ拠点として使われており、隣の宿場まで人や荷物を運んでいました。 -
周辺の電柱の広告にもサロンパスを多く見かけます。
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食品センター
かつては田代の台所として賑わっていたのでしょうか。 -
田代宿の西口にあたる場所には久留米方面との追分があります。
左手が久留米方面、右手が佐賀方面への長崎街道です。 -
追分石の説明板
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ガードに覆われて見づらいですが追分石には「右さか 左くるめ」と文字が刻まれています。
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分岐を右手へと入って進んでいきます。
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このまま轟木宿を目指しても良いのですが、食事にありつけそうな所があるかわからないので・・
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街道を外れてフレスポ鳥栖へ立ち寄る事にしました。
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サンリブを核店舗とした複合商業施設ですが、思いのほか規模が大きくて驚きましたね。
フードコートの店舗も充実していますが、筆者は悩んだ挙げ句に結局マックへ行きました。。フレスポ鳥栖 ショッピングモール
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腹ごしらえが済んだので再び旧街道へ戻ります。
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こんな所にもネパール料理の店がありました。
フレスポ鳥栖の中にもエベレストという名前の店が営業していましたが、鳥栖の隠れた名物なのでしょうか? -
旧街道は古野町の交差点を左折します
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しばらく進むと鳥栖の八坂神社があります
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案内板によれば、正安元年(1299)に京都の八坂神社から勧請されて建立したものだそう。
後に長崎街道が整備された際には田代と轟木のちょうど中間にあたるこの地は「瓜生野町」として、数多くの商家が立ち並び賑わっていました。
人家の数では轟木宿より勝っていたとの記録もあります。 -
本町交差点
恐らくこの辺りが鳥栖の中心市街地なのでしょう。 -
鳥栖を代表する2つのスポーツチームが描かれています。
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流石はサガン鳥栖のお膝元だけあり、歩道にもサッカーボールのモニュメントが設置されていました。
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現在は司法書士事務所として使用されている建物。
歴史を感じさせる造りです。 -
瓜生野今町の秋葉神社
江戸時代後期に大火があり、町の火除けの神として秋葉神社を勧請したとのこと。
現在の地名は秋葉町ですがその由来にもなっています。 -
秋葉町にも白壁造りの町家が残っており、こうして横に連なる光景は壮観なものがあります。
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旧街道はこちらの路地を入って進みます。
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道なりに進んでいくと長崎本線の高架に突き当たります。
いよいよこの旅も長崎本線の沿線へと突入です。 -
瓜生野の地は菅原道真が従者の養子となった我が子に会うために度々訪れたと言われています。
その際、我が子へ渡す似顔絵を描くために鏡代わりとして用いた「姿見の池」と、菅原道真が腰を下ろしたと伝えられる「腰掛の石」があります。 -
説明板を読んだだけではいまいちどれなのか分かりにくいのですが、恐らくこれが姿見の池だと思われます。
筆者が訪れた時にはそもそも水がほとんど溜まってなかったので、これで自分の顔を描くのは難しいものがありますね。 -
そして恐らくこちらが腰掛の石ですね。
筆者も腰を下ろしてかつての情景に思いを馳せました。 -
境橋という名の小さな橋を渡ります。
何の変哲もない小川ですが、実は対馬藩田代領と佐賀藩領の境界となる重要な節目となる場所です。
昔はこの橋を境に方言なんかも少し変わっていたようですね。 -
橋の上にも対馬藩田代領と佐賀藩鍋島領の境界を示す案内がありました。
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橋を渡ると轟木宿の番所跡があります。
佐賀鍋島藩の東端にあたる轟木宿は国境の重要拠点となるため、番所では出入りする人や物を厳しく取り締まっていました。 -
日子神社の入口にあった轟木宿の案内。
江戸時代後期の記録には「人家百四拾軒計、宿屋 茶屋 多し」とあり、規模はあまり大きくないものの国境の宿場町として賑わっていた事がわかります。
国境という事情もあり、ここでやむなく宿泊しないといけないケースも多かったのではないでしょうか。 -
日子神社
慶長2年(1597)に鍋島直茂公が英彦山神宮から勧請して建立されました。
「日子」神社というネーミングも英彦山から取られたものなんでしょうね。 -
日子神社の脇には幕府からの通達などが掲示される制札場がありました。
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日子神社の所から旧街道は直角に曲がって中町へと入ります。
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かつての町屋をリノベーションしたと思われるレンタルスペースもありました。
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今では民家のガレージになっていますが、かつてここには人馬の供給拠点であった人馬置床がありました。
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常時、車通りの多かった田代宿に比べるとこちらはひっそりとしていますね。
当時を想わせる建物もあまりありませんが、所々90度に曲がった道がかつての宿場町の名残を感じさせてくれます。 -
薬師川に架かる橋を渡ると轟木宿も終了です。
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橋の上から轟木宿の新町方向を臨む
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またまたインド料理の店がありました。
今度鳥栖に行く事があればどれか1軒行ってみようかと思います。 -
次の宿場である中原宿を目指して進んでいきます
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鳥栖市は九州屈指の交通の要衝だけあり、運送会社や大手企業の物流拠点も多数立地しています。
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九州新幹線の高架が見えてきました!
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奥には新鳥栖駅が見えます
新鳥栖駅 駅
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ここから少し急な上りになります
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峠沿いには安良村と呼ばれる集落がありました。
正式な宿場ではなかったものの、藩主の宿泊などで轟木宿が満杯になった場合はこちらに泊まる事もあったそうです。 -
かつては山城のあった朝日山
今はゴルフ場として開発されていますが、場内にはかつての街道沿いの松並木が残されているそうです。朝日山公園 公園・植物園
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ゴルフ場が至近にあることから道路には防護柵がされています。
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峠越えが終わると国道34号線に突き当たります。
旧街道はここを直進して前方の路地へ入ります。 -
村田町地区の入口にあるお地蔵様
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村田町地区の街並み
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車の修理業者のようですが、社用車に大量の落書きがw
お客さんに自由に落書きしてくださいというサービスの一環なんでしょうか。。 -
再びR34と合流。旧街道は正面の工業団地の中へと入っていきます。
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工業団地の中を歩いていきます。
これだけだと全然旧街道って感じはしないですねw -
ここから先は街道が消失しているので国道沿いを歩きます。
鳥栖と佐賀を結ぶ幹線道路だけあり、かなりの交通量です。 -
佐賀競馬の場外馬券売場があります。
筆者も競馬を嗜むクチですが、小倉競馬やウインズ八幡みたいな中央の綺麗な施設しか知らなかった時に、初めてこの場外売場を見て愕然とした記憶があります。。 -
かなり進んできたとはいえ、まだ長崎までは国道経由でも130kmもあります。
まだまだ旅はこれからです。 -
佐賀競馬場の建物
モータリゼーションの到来にも見事に対応した広大な駐車場を完備していますが、この日は非開催日だった事もあり閑散としていました。佐賀競馬場 名所・史跡
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佐賀競馬場を過ぎたあたりから旧街道が復活するので分岐を左へと入ります。
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鳥栖市の外れに位置する五反三歩地区へと入ります。
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江戸時代に灌漑用の池として整備された五反三歩池があります。
筆者も周辺を見回しましたが、どれが該当の池なのかいまいちよくわかりませんでした。。 -
再びR34と合流する所からみやき町に入ります。
思えば弥生が丘駅の手前からずっと鳥栖市だった訳で、市域の長さを実感しました。。 -
ここから中原宿に向けては太刀洗峠という難所がありました。
今は何の事はないただの登り坂ですが、当時は山賊の出没する危険な道として怖れられていたそうです。 -
太刀洗峠の案内板。
峠の頂上付近には養父郡(鳥栖方面)と三根郡の郡境石があったそうです。
この付近で出没していた山賊が襲撃に使った刀を洗っていた事からこの名が付いたとの記載もあります。
福岡にも大刀洗という地名がありますが、何か関連性はあるのでしょうか。 -
案内板の横に祀られていたお地蔵様
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峠を登っていきます
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峠の頂上付近には廃墟と化した飲食店が多数ありました。
見ると鰻屋さんまで。。
かつては国道34号線が長崎方面へのメインルートだったはずですが、長崎道が開通してから寂れてしまったんでしょうかね。 -
ハンバーグ屋さんの辺りで旧街道は左手へと分かれていきます。
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中原宿を示す標柱があります。
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中原宿は明治18年(1885)に起きた大火で街並みの大部分を消失したとの事で、当時を偲ばせるものはあまり残ってないそうです。
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馬頭観世音像
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所々に設置されているみやき町作成の案内板。
1つ1つは読みごたえがありますが、鳥栖市のように詳細なルート案内やパンフレットはないので、Googleマップの表記を頼りに進んでいく事になります。 -
祇園社の鳥居
かつてはこの近くに宿場の東側の出入口が設けられていました。 -
中原宿は正式な宿場ではありましたが、国境として重要な役割を担っていた轟木と規模の大きな神埼の中間に位置する事もあってか、宿場の規模は決して大きくなかったようです。
田代や轟木に比べるとのんびりした田舎町の空気を感じます。 -
また、宿場内には茶屋が無かったそうなので、
食事の際には隣接する中島集落の茶屋を利用していた旨の記載もありました。 -
中原地区を抜けて石井地区へと入ります
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牧場もあり非常に長閑な風景です。
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寒水(じょうず)川を渡る付近に昔の街道が一部残っています。
今は橋で楽々渡っていますが、当時は石を飛び越えていたとのこと。
江戸時代当時は橋の数も少なく、ちょっとした川を渡るだけでも結構大変だったろうと思います。 -
旧街道の存在に気付かず進んでいるとこんな看板がありました。
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見つけたからには入るしかないでしょう!
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学校のグランド横を街道は通っていますが、一面に咲く菜の花が綺麗でしたね。
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街道をゆく旅人もこうして花の美しさに癒されていたのでしょうか。。
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川を渡った所まで戻ってきたので、引き返して元の道を進みます。
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佐賀スムージーなるカフェがありました。
調べてみると佐賀産の野菜と果物を使った無添加スムージーが売りなんだとか。 -
栄養ドリンクのみを扱った自販機なんかもありました。
なかなか珍しいですよね。 -
こちらは小型の爬虫類専門店。
この界隈はユニークな店が多くて歩いてるだけで楽しいですね。 -
廃業して結構経つと思われる書店跡。
かつては町を代表する本屋だったのでしょう。廃墟になっても威厳を感じます -
今回のゴール、JR中原駅に到着しました!!
次回は中原をスタートして佐賀城下を目指したいと思います。
Part7へ続く中原駅 駅
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