2021/10/21 - 2021/10/21
1123位(同エリア14838件中)
ぶどう畑さん
シンガポールでローカル・フードを食べ歩いたり、綺麗な夜景も観たいけれど、それだけじゃ時間を持て余すよね…。
ショッピングには興味ないし、プールサイドでのんびりも性に合わない。
一味違うシンガポール観光ってないの?
な~んて思われる方にオススメなのが博物館です。
そもそもシンガポールってどんな国?から、闇の部分に触れることができるいくつかの博物館の情報をまとめてみました。
加えて、マレーと融合した独特の文化「プラナカン」にも触れてみたいと思います。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
まずは「国立博物館(National Museum of Singapore)」。
シンガポールで一番古い博物館で、シンガポールの歴史を知ることができます。 -
入口の建物は、「ネオ・パラディアン様式」を用いて、1849年にラッフルズの図書館として建てられました。
建設当時、イタリア・パドヴァ生まれの建築家「パラディオ(1508年11月30日~1580年8月19日)」の建築様式がイギリスで再流行していたことから、その様式を取り入れたとのこと。
クーポラのステンドグラスは、イギリス・ヴィクトリア女王の在位50年を記念して、50枚となっているそうです。 -
チケット売り場のある旧館を抜けて、新館のヒストリー・ギャラリーへ。
-
7世紀頃のシンガポールは静かな漁村で、古代ジャワ語で「海「を意味する「テマセック」と呼ばれていました。
ある日、スマトラの王子が、なにか輝くモノが見えると船に乗って出かけ、発見したのがシンガポールの地。
この時、王子が浜でライオンらしき動物を見かけたことから、マレー語で「ライオンの町」を意味する「シンガプーラ」と名付けられました。
1402年、シンガポールはマラッカ王国の支配下になります。
16世紀になるとヨーロッパに大航海時代が訪れ、1511年、マラッカ王国は、ポルトガルの侵攻を受け滅亡。
ポルトガル領となったマラッカから、王族や商人がシンガプーラへと移っていきました。
1513年、シンガプーラもポルトガルの徹底的な侵略を受けて、現地住人の多くが虐殺され、町は壊滅状態に。
荒廃したシンガプーラは、再び漁民と海賊の住むマングローブの生い茂る寂れた漁村となり、その後300年以上、歴史の表舞台から姿を消しました。 -
1819年1月、人口わずか150人程度だったシンガポールに、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人の「トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles、1781~1826年)」が上陸。
シンガプーラの地理的重要性に着目したラッフルズは、1819年2月6日、当時、島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付け、名称も英語風の「シンガポール」に改めました。
1824年、シンガポールがイギリスの植民地としてジョホール王国から正式に割譲されると、オランダもイギリスの植民地支配を認めざるを得ませんでした。
ラッフルズが無関税の自由港政策を推し進めたこともあって、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破。
急速に発展を遂げたシンガポールは、1826年、ペナン、マラッカに加えて、イギリスの植民地に組み入れられ、1832年にはその首都に定められました。
#写真は「シンガポール日本人会」のサイトより -
ラッフルズから命を受け、実質、シンガポールを統治していたのが「ウィリアム・ファークァー(William Farquhar、1774~1839年)」。
シンガポールの発展に貢献しましたが、アヘンや奴隷の取引を容認していたことで、ラッフルズから解任されます。
ただ、商人にとっては都合の良い部分もあったため、商人からファークァー贈られたという豪華な銀細工の置物が展示されていました。 -
ラッフルズは、人種別に居住区の住み分けを押し進めました。
チャイナタウン、リトルインディア、アラブ人街は、当時の政策の名残りです。
チャイナタウンの茶屋は、表向きは茶葉の販売ですが、奥はアヘン窟になっていました。
裕福な人たちは、質のいいアヘンを適度に楽しんだとのこと。
一方で、シンガポールを下支えしていた、中国人・インド人を中心とするアジア系の移民、出稼ぎの労働者の苦力(クーリー)は、吸い殻を集めたりして、質の悪いアヘンを吸っていました。
彼らは、労働の辛さを忘れるためにアヘンに溺れ、身体を壊していったとのこと。悲しい事実です。 -
1942年、シンガポールは瞬く間に東南アジアに進軍した大日本帝国によって統治され、「昭南島(しょうなんとう)」と名を改めます。
ラッフルズ・ホテルは日本軍に接収され、「昭南旅館」として、大日本帝国陸軍将校の宿泊施設に。
グッドウッドーパーク・ホテルも「海軍水交社」と改名され、大日本帝国海軍高官の事務所 兼 宿泊施設として利用されました。 -
「銀輪部隊」と呼ばれた歩兵たちは、自転車でマレー半島を移動。
辺りに生えているゴムの樹液でパンクを修理できたため、1日で数10~100kmを移動したとか。
自動車や戦車が通れない狭い道を通り、川は自転車を担いで渡りました。
破壊された橋梁の修復して、輸送隊を助けつつ進軍。
55日でマレー半島を制覇し、1週間でシンガポールを占領するという快進撃でした。
下の写真は、第二次世界大戦で威力を破棄したという日本軍の小型の戦車「九五式ハ号(Type 95 Ha Go)」。 -
写真は、ぶどう畑撮影の「戦争記念公園」です。
ラッフルズ・シティの目の前にある公園で、高くそびえる白い塔は、1967年に竣工した慰霊塔。
日本軍によって粛清された華僑を悼むために建てられました。
華僑の抗日運動が東南アジア各地で盛んになると、それを恐れた日本軍による華僑の粛清が始まり、1942年には「シンガポール華僑虐殺事件」が起こりました。
死者は日本側は5000人としていますが、非公式なデーターによると、2万~3万人が殺されたとか。
シンガポールの人々は、戦時中の日本の行いを「許そう、しかし忘れない(Forgive, but Never Forget」と考えているそうです。
博物館には粛清された方々の遺品が展示されており、心が痛みました。(-.-) -
1963年、イギリス連邦自治州首相であったリー・クアンユー氏の指導のもと、シンガポールはマレーシア連邦の一員として独立。
リー・クワンユー首相は、赤土がむき出しで、スコールのたびに土壌が流されるシンガポールを変えようと、植樹を進めました。
外来種のさまざまな植物を植え、データベース化して検討。
その結果、緑多いシンガポールが生まれたのです。
30年間に渡り首相務めたリー氏は「建国の父」と呼ばれています。
この博物館を訪れたことで、彼の偉大さをヒシヒシと感じました。
海外の博物館で困るのは、英語や現地語の説明書きですが、この博物館では、ボランティアの日本語ガイドの方々のおかげで、難なくシンガポールの歴史を知ることができます。
コロナ前は、月曜日~金曜日の10時半~と第1土曜の13時半~、約1時間の日本語の説明を聴くことができました。
気軽に海外旅行ができるようになった暁には、日本語ガイドの再開を切に願う次第です。
#入館料は60歳以上はシニア割引あり。日本語ガイド料は無料です
<関連旅行記>
https://4travel.jp/travelogue/11380986 -
続いては、チャイナタウンにある「チャイナタウン・ヘリテイジ・センター(Chinatown Heritage Centre)」。
シンガポールを深~く知りたい方は、ぜひ、ここを訪れてください。
シンガポールの発展を下支えしてきた労働者の暮らし、闇の部分を垣間見ることができます。 -
ヘリテイジ・センターでは、小型のタブレットで日本語解説を聴くことができました。
ガイドは音や会話を盛り込んだドラマ仕立てになっており、よくここまで作りこんだとひたすら関心。 -
展示は仕立て屋さんから。
タイムスリップしたようなスペースに思わず引き込まれます。 -
仕立て屋さんなどで働く奉公人の部屋。
この狭い空間に、家族で暮らしていたようです。 -
クーリー(苦力)たちの部屋。
この狭い部屋を何人もで使っていました。
それぞれの働く時間帯が異なるため、全員が部屋に居ることはなかったとのことですが、疲れた体を休められる場所ではないのは一目瞭然。
年季奉公者よりもさらに悪い環境です。
過酷な労働の辛さを忘れるため、アヘンに溺れるクーリーもいました。 -
建設現場などで肉体労働に一役買ったのが、「サムスイ(三水)ウーマン」と呼ばれた女性たち。
中国・広東省三水から移住してきた彼女たちは、ヘリテイジ・センターの入口に置かれた像にみられるよう、紅い頭巾がトレードマーク。
貧しくてもアヘンや売春にかかわらないという評判を得ていたそうです。 -
彼女たちの部屋には、仕事に使うスコップが置かれていました。
いくら評判が良くても、肉体労働は辛かっただろうなぁ…。 -
19世紀、ラッフルズによって、貿易港として発展していったシンガポールを下支えしたのがクーリー。
荷役に作業にあたるクーリーのズボンには、積み荷を盗んだりできないよう、ポケットがなかったそうです。 -
ヘリテイジ・センターでは、アヘンの香りを体験することができます。
どんな香りか、ぜひ、ご自身で体験してみてください。 -
アヘン窟の様子。
貧しいクーリーたちは、労働の辛さを忘れようと、アヘンの吸い殻を集めたりして質の悪いアヘンを吸い、身体を壊していったそうです。 -
19世紀、シンガポールにはいくつもの秘密結社が暗躍していました。
その撲滅に貢献したのがウィリアム・ピッカリン。
秘密結社から恨みを買ったピッカリンは命を狙われますが、一命を取り止めます。
なんと、彼が襲われた斧が展示されていました。(*o*)
アメリカで奴隷廃止運動が高まるにつれ、ヨーロッパにもその動きは広まっていきました。
これまでアフリカ系の奴隷に頼っていた労働力が不足するようになり、目を付けられたのが、中華系の移民。
彼らの多くは秘密結社によって人身売買され、クーリーとして荷役などの作業に就いたとのこと。
秘密結社によって売買されたのは、男性だけでなく女性も。
貧しさから身売りされた日本人女性は「唐行(からゆき)さん」と呼ばれる娼婦となったそうです。 -
センターでは、シンガポールの代表的な年中行事も知ることができます。
写真はぶどう畑撮影の1991年8月、チャイナタウン付近で見かけた光景。
展示でも紹介されている「中元節」で、日本で言えばお盆の行事らしい。
中元節では、お供えをしたり、紙幣や実用品を模した紙のレプリカを燃やしたりするとのこと。
1991年当時のシンガポールは、日本に比べて発展途上の感じがあり、下町的な雰囲気が残っていました。
チャイナタウンも今のように綺麗ではなく、観光客向けに安っぽい扇子を売っていたりはしましたが、写真のとおり、観光地と言えるほどではなかったです。 -
最後に「死の部屋」。
サンスイ・ウーマンたちや、シンガポールに身寄りがない女性たちは、ここで死を待ちました。
チャイナタウンの仏教寺院脇の通り、仏具屋さんなどが並ぶサゴ(Sago)ストリートに死の部屋がいくつかあったとのこと。
ず~んと気持ちが重くなりました…。(T-T)
ヘリテイジ・センターの見学は、途中、詳しい説明をはしょっても、気がつけば2時間半経っていました。
もちろん、ザっと見学することも可。
ご自分のペースで、シンガポールの発展を下支えした人たちがいることを感じていただきたいです。
<関連旅行記>
https://4travel.jp/travelogue/11388999 -
次は「プラナカン博物館(Peranakan Museum)」。
1912年に建てられた当時は学校だった、3階建てのこじんまりとした博物館です。 -
プラナカンとは、15世紀頃、マレー半島に渡って来た中華系を始めとする移民がマレーの女性と結婚し、現地に根付いた混血の子孫を指します。
男性を「ババ」、女性を「ニョニャ」と呼ぶそうです。
中華系のプラナカンが多くを占めるようですが、インド系や、ジャワ系のプラナカンもいるとのこと。 -
ここでは、1890~1930年頃のプラナカンが栄えた時代の文化や、生活の様子を知ることができます。
特に、プラナカンの女性「ニョニャ」にスポットを当て、婚礼に関する品々が多く展示されていました。
美しい刺繍がほどこされた洋服は「ケバヤ」と呼ばれているもの。
ニョニャたちは、12歳くらいになると、外出が禁じられ、花嫁修業を始めました。
いいお嫁さんの条件のひとつが、刺繍やビーズ細工が上手なことだったそう。 -
花嫁のヘッド・ドレスに花嫁のネックレス。
博物館で紹介されているのはプラナカンのなかでも裕福な家庭と思われ、金細工に宝石、高価な装飾品は目を見張るほど。 -
これは「シレー・ボックス」。
シレーはマレー風の噛みタバコ。それを噛むのがプラナカンの女性、ニョニャたちのたしなみのひとつでした。
高価なシレー・ボックスはその家の格を表す家宝とされ、プラナカンの人たちの間で大切な役割を担ってきました。
シレー・セットには場を浄化し家族を見守るという意味もあり、結婚の各儀式では、シレー・ボックスが傍らに置かれ、引っ越しの際には、家族より先にシレーセットを新居に入れるのが習わしだったといいます。 -
ニョニャが1日の大半を過ごしたのは台所です。
プラナカン料理はスパイスを多く使うことから、縁談をまとめる世話役の女性は、年頃の女性のいる家の台所の裏手で、スパイスをつぶす音に耳を澄ませました。
その音がリズミカルかどうかで、将来、いいお嫁さんになるかどうかを判断したそうです。 -
鮮やかな食器類は「中国・景徳鎮」の焼き物。
写真のテーブルセットは特別な日に使われた物で、その家の名字が書かれている特注品なんですと。
ここまで紹介した展示は博物館のほんの一部。
婚礼に関する儀式などはとても興味深かったです。
プラナカン博物館も日本語ガイドを聴くことができました。
火曜日~金曜日の10時半から。
ぜひ、再開して欲しいですね。
<関連旅行記>
https://4travel.jp/travelogue/11192659 -
ぶどう畑がプラナカンに興味を持ったきかっけは「F1グランプリ」でした。
F1の開催日と知らずに飛行機を予約してしまい、ホテルを予約しようと思ったら軒並みキャンセル不可で、マリーナ・ベイ辺りの料金はとんでもなく高くなっていた…。
ホテル予約サイトをクリックしまくって、どうにか折り合いをつけたのが、シンガポール中心部から少し離れた「カトン地区」にあるメルキュール。
泊まったからにはカトンを観光しようと向かったのが「クーセン・ロード(Koon Seng Rd)」で、パステルカラーの家並みに目が釘付けに。(・o・) -
壁の装飾も素敵です♪
レリーフにはそれぞれ意味があるとか。
#個人のお宅なので、見学は失礼のないようにお願いします。m(_ _)m -
カトンへ足を伸ばしたなら、「金珠(Kim Choo)」というお店がプラナカン・グッズが充実していますよ。
ガイドブックでは、そのすぐ近くの「Rumah Bebe」もよく紹介されています。 -
カトン地区には、金珠しかり、プラナカンのお菓子を置く店もあります。
カラフルですね~! -
プラナカン料理はまだまだ経験不足ですが、ナショナル・ギャラリーに入っている「National Kitchen by Violet Oon Singapore」でプラナカン料理が食べられるという情報を得て、行ってみました。
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注文したのは「ブアクルア・アヤム(Buah Keluak Ayam)」、23ドル。
ジャスミンライス、1ドル。
ブアクルアはブラック・ココナッツで、アヤムとはチキンのこと。
ブアクルア・アヤムは、鶏肉をブラック・ココナッツで煮込んだ料理でした。
ブアクルアには毒があるため、灰とバナナの葉と土を重ねたものに40日間も実を埋め、毒抜きするという、とても手の込んだ料理です。
毒抜きができたら、実の中身を取り出し、秘伝のスパイスと一緒にすりつぶします。
それを再び殻の中に戻したものを、チキンにつけながら食べるのです。
料理の中に石が入っている?思ったら、それがスパイスの入ったブラック・ココナッツ。(^^;
料理はちょっとすっぱくて、ピリ辛。ご飯が進む味付けでした。
プラナカン料理は、ぶどう畑のこれからの課題。
開拓してきたいと思っています。 -
「プラナカンの家の内装はどうなっているの?」と興味を持ったら、「ババ・ハウス」を訪れてください。
1895年頃に建てられた中国系のペラナカンの家族の住居で、2006年、シンガポール国立大学(NUS)に寄付されました。
大規模な修復工事の後、2008年9月4日に「ババ・ハウス」として、オープン。
見学には予約が必要で、ボランティアの方による英語の説明を聴くことができます。
残念ながら内部は撮影禁止なので、サイトの写真を閲覧していただくしかないのですが、奥に細い家の作りはなかなか興味深かったです。
https://babahouse.nus.edu.sg/
住所:157 Neil Rd, Singapore 088883 -
ババ・ハウスのある一画は交通量の多いニール・ロードに面しているので、車に気を付けながらになるけれど、
-
プラナカンの家々は高級感あふれていました。
長屋ながら、一軒家の雰囲気がありますね。
一番近い地下鉄の駅は「アウトラム・パーク(Outram Park)」。
「タンジョン・パガー(Tanjong Pagar)」からも1km程度です。
<関連旅行記>
https://4travel.jp/travelogue/11434505 -
カトンの「ジョーチャット・ロード(Joo Chiat Rd)」に面する家々は、1階が店舗や事務所、2階が住居になっていました。
こういった形式の家々は「ショップハウス」と呼ばれています。
クーセン・ロードの家々もショップハウス形式なのでしょうけれど、1階も2階も住宅として使われているので、区別するのに「テラスハウス」とも呼ばれているとか。 -
ショップハウスを押し勧めたのがラッフルズ。
そして、ショップハウス正面の外観、歩道の幅も統一するように定めました。
歩道は「ファイブ・フット・ウォークウェイ)」と呼ばれ、5歩幅になっているそうです。 -
なにをもってプラナカンの家と判断するかは専門家ではないのでわかりかねますが、「プラナカンにはこだわらないから、カラフルなショップハウスを観てみた~い!」と思われる方、意外と、アチコチにあるんですよ。(^^)
写真は、オーチャード通りにぶつかる「エメラルドヒル・ロード(Emerald Hill Rd)」。
いくつかの建物がバーやレストランになっています。
内部は改装されているようです。
そして、オーチャード通りにある「マンダリン・ホテル」のショッピングセンター4階の「メリッサ(Melissa)」は、プラナカングッズを始めとするお土産に良さげなグッズを扱っています。
エメラルドヒルでカラフルな家並みを眺め、メリッサでショッピングはいかがでしょう。
メリッサのサイト
https://www.melissazakka.com/ -
チャイナタウンにほど近い「Keong Saik Rd」「Kreta Ayer Rd」「Teck Lim Rd」にも、ショップハウスが並んでいます。
この辺りでは、ショップハウスを改装したホテルやパブもあります。 -
タンジョン・パガー駅近くのショップハウス。
「Tras St」の家並みはシック。
大きな通り「Tanjong Pagar Rd」に面するショップハウスは、洗練された雰囲気。 -
インド人街近くでは、瀟洒なショップハウスがある一方で、
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ビビットな色合いのショップハウスもありました。
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続いては「アジア文明博物館(Asian Civilisations Museum)」。
シンガポールに特化してはいないのですが、展示物が興味深い博物館です。 -
建物は、ヴィクトリア女王を称え、即位後70年目にあたる1867年に建設された裁判所でした。
チケット売り場のあるホールには、移民局の出生届のカウンターがあったそうです。 -
まずは、沈没船から発見された陶器のコーナーから。
波のうねりを表したオブジェの帆船は、沈没船の模型。
中国の陶器を積み、帰港する途中で難破した中東の船なんだとか。
波を形作っているたくさんの陶器は、その船から見つかった物だそうです。
唐の時代(618~907)に、中東から中国まで航海する技術を持っていたことも、驚くべき事実でした。
そして、船から発見された中国製の陶器は、なんと、6万個もあり、中東に中国陶器のニーズがあったのにもビックリです。 -
積み荷の陶器は、このように積まれていたため、たくさんの陶器が無傷で残っていました。
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沈没船を離れて、別のコーナーに移ります。
青花と呼ばれる器、右は中国製で、左は中東製。
本場モンの柄はどこか違う。 -
インド・ムガール帝国の王様の発注リストにあった水差し。
液体を入れるられるよう、頭の飾りの部分が取れ、右手が注ぎ口になっています。
世界で5体しかない品で、そのうちの1体が大阪にあるらしい。 -
怪魚マカラが描かれたベトナム製の壺。
中国の時代が元から明に移り、陶器の輸出が禁止になると、ほかの国の陶器が台頭してきました。これがその一例。 -
17世紀、明から清に変わりましたが、相変わらず輸出はされず、日本の有田焼が脚光を浴び始めます。
左は中国製、真ん中はデルフト焼き、右は有田焼。
有田焼の皿には、東インド会社のロゴ「VOC」が描かれているのがわかるでしょうか。 -
2階の仏像のコーナー。
歩きながら瞑想している姿を表した遊行中の仏陀(タイ)。
裾が風になびいています。 -
「クリスチャン・アート」のエリアにあった、牙でできた聖人像のキセルの根付(左)、十字架のある刀の鍔(右)。
踏み絵も展示されていました。 -
磔刑のキリスト像のある中国の祭壇。独特の雰囲気ですね~。
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アジア文明博物館には、興味深い陶磁器の展示がたくさん!
仏像もアジア各地のものがあるので、比較が面白かった。
ここでも頼りになったのがボランティアのガイドさんの説明。
月曜日~金曜日の10時半からと、第2土曜日の13時半からの1時間程度です。
国立博物館、プラナカン博物館に比べると参加者は少ないようで、見学した日はぶどう畑一人。
なんだか申し訳なかったけれど、じっくり説明が聴けて大満足でした。
館内のミュージアムショップはたっぷりスペースが取られ、良さげな雰囲気のレストランもあります。
また行ってみたい博物館♪
#ガイドさんによる説明は、陶器と仏像のコーナーです -
博物館のすぐ近くには、フラートン・ホテルを挟むように瀟洒な「アンダーソン橋」、吊り橋の「カヴェナ橋」があります。
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緑の木々越しに高層ビル群を見上げながらシンガポール川沿いを進めば「ラッフルズ像」、対岸には「ボート・キー」の家並み。
博物館周辺は、なかなか景色がいいですよ~。
<関連旅行記>
https://4travel.jp/travelogue/11417124 -
最後に「ナショナル・ギャラリー(National Gallery Singapore)」をサラッと。
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旧最高裁判所ビルと市庁舎の2つの建物を統合し、2015年にオープンした新しい美術館。
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美術館内にはいくつかのギャラリーが入っているので、自分の好みの展示を選んで閲覧できます。
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美術館には、いくつかのレストランやカフェが入っています。
『ローカルフード編』でも紹介しましたが、眺めの良いルーフトップ・バーもあり、飲食目的に訪れてもナイスな場所です♪ -
これにて『大好きシンガポール』を終わります。
ローカルフード編、夜景編、博物館とプラナカン編を通じて、ぶどう畑が大好きなシンガポールの一面を伝えられたでしょうか。
9月、セールになっていたスニーカーを買いました。
棚に並んでいたこの靴を手に取ると、とっても軽い。
「それは甲の部分がメッシュになっているので、これからの季節、寒いですよ」と言うお店の人の言葉に思い浮かんだのがシンガポール。
よし、これを履いていくぞ~!
来年こそは、気軽に海外旅行ができるようになりますように!
このスニーカーの出番が早く訪れることを願いながら、旅行記を終わります。
<旅行記グループ>
インドネシア・シンガポール2015.9:ジャカルタ、ジョグジャカルタ、ボロブドゥール、プランバナン
https://4travel.jp/travelogue_group/2005
ジャカルタ・シンガポール2016.9(ジャカルタ市内観光、クラークキー、アラブ人街、セントーサ島他)
https://4travel.jp/travelogue_group/2023
ジャカルタ・シンガポール2018.3(ジャカルタ市内観光、国立博物館、マレーシア・マラッカ他)
https://4travel.jp/travelogue_group/2035
懲りずにシンガポール2018.9(スペクトラ、アジア文明博物館、中国庭園、ババハウス、カトン他)
https://4travel.jp/travelogue_group/2037
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旅行記グループ
大好きシンガポール
この旅行記へのコメント (4)
-
- salsaladyさん 2021/12/04 10:18:40
- プラナカン文化&ニョンニャ料理~
- ☆シンガポール今昔物語みたいで貴重ですね。
☆私が駐在したのは200年前後のミレニアム景気¿(すでにダウン景気)の頃でしたが、ローカルの友とカトン地区のヴィレッジにも、オーチャード入り口近くの戦争記念壕みたいなところへも行ったことが有ります。
☆まるで別世界の壕の中で、日本人が如何に横暴な占領政策をとっていたのか胸を痛めたすぐ後に、明るい現実に戻って不思議な世界~
☆我がBAYSHORE PARKが空港に一番近いベドックに有ったため、ほとんど毎日日本語教室で教えるために乗るバスNo.14がカトン地区やオーチャードRd.を通ったのです。
☆当時は中華系が羽振り良く、インド人が苦力の様な立場でしたね。日本人はよそ者って気分で観光に精出しただけで帰国。。。情けない現実です。
- ぶどう畑さん からの返信 2021/12/04 19:53:21
- RE: プラナカン文化&ニョンニャ料理?
- salsaladyさん
ぶどう畑です。
シンガポールの博物館・プラナカン編にお越しいただき、またまたコメントをありがとうございます!
戦争記念豪みたいな場所があるんですね。
日本が中華系の人々を粛清していた事実は胸が痛みます。
14番のバス、まだあるみたいですよ。
クレメンティからベドクまで、ずいぶんと長い距離を走るバスなんですね。
1989年の初シンガポールで泊めていただいたお宅が、クレメンティにありました。
2018年9月、その少し先のチャイニーズガーデンに行った時にクレメンティを通ったのですが、駅前がにぎやかになってビックリでした!
1989年と比べると大きく変わったシンガポール。
新旧の変化を見るのも面白いです。
salsaladyさんもシンガポールに行かれたら、当時との違いを大きく感じるのではないでしょうか。
-
- and Relaxさん 2021/11/07 01:04:04
- 私も大好きシンガポール!
お久しぶりです!!
ぶどう畑さんのシンガポール旅行記を度々拝見して自分の忘れていた思い出を呼び覚ましています。特に反応してしまうのがザ・フラートン・ホテルで、マーライオンの広場など近くの名所を訪れると、立派な外見が魅力で必ず中に入っていました。
その中もロビー等素晴らしく、むしろコロニアル様式のラッフルズのような5つ星より、ノスタルジーさを求めず永遠に力強く立派で美しいさまが魅力に感じたからです。
新館もあるのかな?分からないけれど、私が頻繁に出入りしていた建物はおそらくオリジナルのものだったと思うのですが…。また絶対行きたい所、出来れば無理しても泊りたいホテル。かっこいい~
シンガポール自体も近年は超魅力的ですよね。確か5日間くらいは居た記憶ですけど、見切れないほど色々素敵な所が存在していて、もうちょっと宿代が安かったら・・と思っていました。
旅行記であらためて知ったのは、F1の催し時だったことが宿に困った原因ということ。情報ありがとうございます。どこに行ってもフルで、安宿や中程度のホテルが適当に見つかるだろうと何も調べず気軽に行ったら満室ばかりで、初日にタクシーで最後インド街(と呼ぶのか…)の普通にコンパクトなホテルまで行って高い値段で泊まった記憶が強いです。特にその時旅行していた良いホテルが安いタイやマレーシアから来たのでびっくりでした。
その後、ラッフルズホテルの近くを通ってF1サーキットの解体が始まっている光景を見て「こんなのやっていたんだなあ」と思ったというのに、ホテル不足との結びつきを思い付かずにいたのはアフォでしたね笑。
一度だけ行ったことのあるシンガポール、数カ所泊まったのですが、最後に連泊したオリエンタル? マンダリン?(マンダリンオリエンタルHOTELではなく、近くのぶどう畑さんもお泊まりになったマーライオンと湾が見える(バルコニーからのぞけば)そのホテルの近辺、ホテルとつながっている地下のモールと、オーチャードロードのきらびやかな様子に魅了されていた記憶が一番強いです。もちろんその他も多く思い出にあり、それを呼び起こしてくれるのでぶどう畑さんの旅行記のシリーズ、どんどん拝見させていただきます!
自分でも旅行記を書き上げたいですが、ラスベガスなどもやはり作りたく、ただし書きたい事があまりにも多すぎるので作り始める前から食傷気味になってしまい断念なんですよ、筆が重くって遅いってトクにはなりませんね。
ブレザブルのスニーカー、早く当地で履けるよう祈ります。世界的な収束が楽しみですね。
and Relax
- ぶどう畑さん からの返信 2021/11/07 20:08:56
- RE: 私も大好きシンガポール!
- and Relaxさん
こんにちは、ぶどう畑です。
旅行記にたくさんお越しいただき、コメントもいただき、ありがとうございます!
and RelaxさんもF1に振り回されましたか…。
まぁ、シンガポールは国土が小さいので、香港同様、ホテル代は高いのだけれど、あの時期は特にね…。
飛行機代が高騰していればその時期は避けたのに、往きはジャカルタからだったし、復路はF1最終日の翌日の便だったからか、普通の運賃。なんの疑いも持ちませんでした。
フラートンは、階段が印象的だったかな。
川沿いにカフェがあるようなので、いつか行ってみたいと思っています。
旅行記アップもパワー要りますよね。
でも、今は海外旅行にも行けないし、時間もあるしで、別の視点でまとめてみようとチャレンジしてみました。
日本入国は、ビジネスの場合は隔離措置が緩和されるようです。
これから治療薬が普及すれば、海外旅行を気軽にできる日が戻って来るでしょうね。
でも、旅行中に感染する可能性を考えると旅程の長くなるヨーロッパは少し先かな…。
シンガポールでの宿題はまだ残っているので、またウロチョロしそうです。(笑)
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