1997/12/02 - 1998/01/13
2353位(同エリア9056件中)
まさとしさん
「日本から飛行機を使わずにユーラシア大陸最西端を目指す」のが旅行の目的です。
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カトマンドゥを昨夜出発し、バスは朝5時にインド国境の街、ビルガンジに到着した。
霧が濃く、そして寒い。リキシャで5キロ先のラクソウルまで行かなければならない。最初歩いていこうかと思ったがちょっと無理がある。
ネパールを出国。そしてインドに入国した。 -
インド側国境ラクソウル。 -
その後バス乗り場の近くの旅行代理店に連れて行かれた。
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ラクソウルからパトナー行きのバスに乗り込んだ。
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デラックスコーチとは名ばかりでただのオンボロバスだ。
途中の車窓はインドのカーストに支配された雰囲気の貧しい農村が広がっている。ラクソウルを出て6時間後、ガンジス川に架かる大きな橋を渡りパトナー市内へ入った。インドで最も貧しいといわれるビハール州。その州都がパトナーだ。
パトナー駅の構内でどこへ行くか考えた。カルカッタへ行こうか。それともバラナシへ行こうか。バラナシへ行ってしまうとパトナーへ来た意味がなくなってしまう。ここへ来た理由はブッダガヤへ行くためだった。考えたあげくブッダガヤの最寄りになるガヤへ行くことにした。
駅の切符売り場はすごい行列だ。インドの人の多さは半端ではない。唯一の救いはインド人は並ぶ習慣が少しでもあったということだ。死にものぐるいで切符を買ったはいいが今度は乗り場が分からない。人に聞いても曖昧で本当のことが分からない。インド人は正直に「わからない」と言わず、いい加減なことを言う人種らしい。最悪な国だ。 -
結局1時間ぐらい盥回しになった。なんとか出発直前の20時になってホームが分かった。しかし乗り込んだ列車は動き出したが本当にガヤに行くのかしばらく不安だった。でも心配には及ばず2時間後ガヤに到着。
駅前に出た。すると宿の客引きが現れ、値段も安かったので即決した。ANAND HOTELツインで90ルピー(270円)だ。案内された部屋にはシャワー(冷水のみ)も付いている。とにかくベッドの上で寝られることに一安心。1泊。 -
ガヤを拠点にブッダガヤに行くことにした。
ガヤは各地の仏教国がお寺を構えていて、何となくお寺をテーマにしたテーマパークのような雰囲気だ。
もちろん日本寺も存在する。
ここが日本寺。前を通り過ぎる山羊がインドを感じさせる。 -
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除夜の鐘もある。
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奥には大仏
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日本寺の裏口。
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こちらはチベット寺。ついこの前までチベットに長く滞在していたので懐かしく感じる。
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昼食にすることにした。チキンフライドライスを注文したらその場で鶏を肉にしていた。新鮮なフライドライスだった。
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最後にブータン寺。
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バスでブッダガヤへ戻ることにした。バスは屋根の上が快適だ。
インド人の学生たち同乗。 -
バラナシへ移動の日。朝4時起床。
5時にホテルを出ようとした。するとホテルのおやじが「初日分の宿泊代がまだ払われてない」と絡んできた。確かに初日はレシートをもらわなかった。アホは相手にせず駅に向かった。
列車は2等自由席。 -
思ったよりすいていた。
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バラナシへ向かう列車の車窓。
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インドの大地
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ガンジス川を渡り、約5時間でバラナシに到着した。
駅からリキシャでガートの方へ行こうとした。しかしこのリキシャ、ボロで途中でパンクしてしまい、チューブの交換をしている間待つことになり、かなり時間がかかってしまった。可哀想なので15ルピー(45円)やろうと思っていたら降りる時20ルピー(60円)だと言い出した。頭に来たので怒鳴ったら回りのインド人と睨み合いになってしまった。
結局こいつらともめてもなんの得もない。 -
バラナシでは日本人のおばさんがいる「久美子ハウス」の世話になることにした。ここは2食付きなので滞在中ほとんど金を使わなくてすむ。
1泊2食付き80ルピー(240円) -
バラナシのガート。
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ここで沐浴をした。というより完全に水泳をしてしまった。
結果最悪な状態になってしまった。 -
バラナシ・ガンジス川で沐浴をすることにした。インドに来た目的の1つ。それはガンジス川での沐浴だ。シャンプーで体を洗いひと泳ぎすることにした。しかし程々にすべきだった。
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バラナシのガートで洗濯する人々
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バラナシで沐浴をした翌朝、ボートでガンジス川の朝の沐浴見学に出かけたときから妙に寒気を感じた。
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ボートから見える光景は洗濯をする人々、仮葬場、川に浮かぶ牛の死体。こんな所でよく泳いだものだ。
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早朝のガンジス川クルーズ.
日が昇りはじめた。しかし朝はスモッグがかかっていて太陽は見えない。 -
約1時間のクルーズを終え宿の戻って熱を計ったら39度あった。ついでに頭痛もする。今日は動かない方が良さそうだ。しかしどういうワケか食欲だけは衰えておらず、おかわりをしてしまう。今回は下痢をしていないのが気になるだ。原因はガンジス川に潜ったりしたからかもしれないが、別に後悔はしていない。ただし人に勧めるのは今後やめることにした。
解熱剤を飲んでも汗が出て一時的に熱は下がるが5時間ほどしたら元に戻ってしまう。結局3日間熱の下がる気配はなかった。でも食欲だけはあった。結局医者を呼んでもらうことになり、診察だけしてもらい薬をもらった。とりあえず薬を飲んで様子を見ることにした。翌日、少し調子は良くなった。でももう少し休養だ。
結局バラナシには9日間滞在してしまった。 -
体調もほとんど問題なくなり、移動のため切符の予約する事にした。次の目的地はデリーだ。切符は外国人窓口で買うことができ、明日出発したかったが、明後日しか空いていないようだ。せっかく駅の方まで来たのでバラナシの新市街を散歩することにした。新市街といっても道が広いだけで汚さは変わらない。見るべきものもないので歩いて帰ることにした。
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バラナシ駅から夜行列車でデリーに向かった。
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デリーには翌朝到着。オールドデリー駅に到着したのでニューデリー駅前にあるパハールガンジの安宿街までバスで向かった。
デリーでの滞在先はアショカ・オーシャンホテル。
ニューデリーは予想していた雰囲気の街ではなかった。もうちょっときれいなところかと思っていたが、道にはゴミが散乱して怪しい客引きがたむろしている。
コンノートプレイスの方へ行ってみた。こちらはパハールガンジとは違い、ブティックやファーストフード、中級ホテルが軒を連ね雰囲気も明るくきれいだ。歩いている人も金持ちのインド人といった感じだ。我々日本人にとっても高く感じる場所(ピザハットやアイスクリーム屋)が恐ろしく込んでいたりする。インドの貧富の格差は無限だ。ここでファーストフードの「ウィンピー」へ入ることになった。アメリカンスタイルのハンバーガーショップは上海以来だ。
ニューデリーに着いた日の夜、インドの最高級ホテル(1泊3万円)である「アショック・ホテル」へ日本食を食べに行った。しかしまずい。そのくせトンカツ定食が1200円もした。 -
デリーにはマクドナルドがある。コンノートプレイスにはなく、南部の高級住宅街に中にあった。
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ニューデリーの見所は南部にあるクトゥブミナール。
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地元の子供
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オールドデリーにあるマハトマ・ガンジーが火葬されたラージガートへ行ってみた。
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ムガール帝国時代のラールキラー
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ジャマーマスジット。
観光地の前ではワケのわからな奴が声をかけてきたりするが、一歩でも裏に入ると乞食にも相手にされなくなってしまう。 -
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ニューデリー駅。近郊列車は比較的多いのに人々は線路上を平気で歩く。
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デリーのインド門。
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大統領官邸。このエリアはだだっ広く歩くと疲れる。
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デリーを出発。南部へ向かうことにした。いろいろな場所を経由し、最終的な目的地はインド最南端の都市カニャークマリにあるコモリン岬。
ニューデリー駅。
夜八時、駅に向かった。ニューデリー駅で出発案内のボードを見上げた。しかし壊れていたので案内所に何番線に到着するのか聞いてみようと思ったら窓口の横のホワイトボードに予定が書かれていた。どうやら11番線から出発するらしい。しかしニューデリーの駅は10番線までしかない。どうなっているんだ。結局10番線から発車するということがわかった。相変わらずいい加減なインドの鉄道、なんかもう慣れてきた。
列車はムンバイへ行く途中のブサバルまで乗車する。車両はスリーパークラス。他の五人はロシア人で英語も理解できずなんか落ち着かない。インド人と一緒の方がましだ。それにしてもロシア人は何しにインドに来ているんだ。とても旅行しているようには見えない。 -
翌朝予定時刻になってもブサバルに着く気配はない。列車は予定より2時間半遅れのペースで走っているようだ。16時前やっとブサバルに到着した。
この駅で降りた外人は僕だけだ。ここまで来ると外国人が珍しいようで注目の的だ。駅前広場からバスに乗ることになった。アジャンターへ行きたいと言い指示されたバスに乗り込んだ。バスは15分後に出発。バスの車窓はのどかな風景が続く。素朴なインド人が僕をじろじろ見てくる。 -
日が暮れ6時にアジャンターの拠点となる街ファルダプルに到着した。バスを降りたとき何もないところだったのでかなり不安だったがちゃんと50ルピー(150円)で泊まれるホテルがあった。部屋はドミトリーだ。
この宿には他に日本人が1人泊まっていた。彼と夕食をとることになった。
日本人の彼からまた不快な話を聞かされた。またかといった感じだが彼はデリーの旅行代理店でデリー・ボンベイ間の列車のチケットを頼んだらしい。しかし二等だったのに128ドルも請求されたらしい。文句を言ったら100ドル返ってきたらしいがそれでも28ドルは高すぎる。128ルピーの間違いだろうと思ったがあきれて言葉が出なかった。バラナシでも変なツアー(ツアーといっても1人にたいして終始ガイドが付くタイプ)に参加させられて280ドル巻き上げられたという話を聞いた。なんでみんなそんなに騙されるんだ。ニューデリーで客引きについていくと100パーセント信用できない。たとえ連れて行かれた旅行代理店に日本人がいたとしてもそいつはさくらかもしれない。とにかく探せばまともな旅行代理店はいくらでもあるわけだし、もっとしっかり情報を持って行動出来ないものなのだろうか。
八時に起きチェックアウトを済ませて荷物を預かってもらうことにした。そして今日中にアウランガバードへ向かうつもりだ。昨日の日本人は今日ブサバル経由でニューデリーに戻るらしくお互いの無事を祈り別れることにした。 -
アジャンタの最寄りの街であるファルダブルから乗り合いジープでアジャンタ石窟群があるポイントを目指した。10分で到着、川に沿って洞窟が続いている。
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インド人観光客が多く外人はほとんどいない。
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アジャンタの石窟を見学。
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中には仏像があった。
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アジャンタ石窟群を一望できるビューポイントへ登った。川沿いに石窟が並ぶ。
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滝もある。ビューポイントより。
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土産物の親父が追いかけてきた。
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川を渡る人々。
このままアジャンタをあとにし、エローラの拠点になるアウランガバードという町に向かった。
アウランガバードではひとまず中心部の宿の泊まることにした。しかし宿泊した宿は今夜しかなく空きがなく、翌日ユースホステルへ移動することになった。 -
アウランガバード中心部の路地で遊ぶ子供たち。
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翌朝ユースホステルへ移動した。
出来れば個室に泊まりたかったが、たまにはインドのユースホステルも悪くない。インドのユースホステルは初めてだ。一体どんな客層なのだろうか。とりあえず空きベッドはあったが、夕方まで入れないらしい。夕方まで部屋が閉鎖されてしまうところなどヨーロッパを思わせる。 -
アウランガバードからエローラに行くことにした。
バスで約1時間、平地からデカン高原にさしかかりエローラに到着した。
ここもアジャンターのように石窟が並んでいる。 -
石窟内部は専門家ではない僕にとってどれも同じにしか見えない。
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真ん中にある山をくりぬいて作られた石窟がエローラを代表するものらしい。すごい。
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エローラ。
山をくりぬいて作られた石窟。
インドで一番すごいと思った建造物だ。 -
エローラ観光・記念写真
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翌日もう一つアウランガバードから行ける観光名所「ダウダラバード」へ向かいました。インド3大砦の一つらしいです。
あと二つはハイダラバードのゴールコンダフォートとジョードプルのメヘラーンガル砦です。
エローラの陰に隠れ、あまり有名ではないですが、重要な場所です。 -
参道とミナレット。
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砦からの眺め。
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出発の日。夕方までとくにすることはないのでアウランガバードの旧市街の方へ行ってみることにした。途中ビービー・カマクバラという建物を見に行った。
これは有名なあのタージマハルに似ていて写真を見せられると(素人は)ほとんど気がつかない。
偽タージマハルとよく言われるがなかなか立派な建物だ。 -
ビービー・カマクバラ周辺の住宅街にて
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ビービーカマクバラ周辺の住宅地にて。
子供たちがたくさん寄ってきた。こんな所に迷い込む外国人は珍しいみたいだ。 -
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アウランガバードからインド中部の大都市ハイダラバードへ向かった。
夜行列車に乗り合わせた親子。 -
翌朝2時間遅れでセカンドラバード駅に到着。セカンドラバード駅はハイダラバード第二の駅でここからも各都市への長距離列車が発着している。
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宿はバスで少し行ったハイダラバード駅周辺に泊まることにした。ハイダラバード駅は都市の名前だが、行き止まり式の駅のため発着列車は少ない。
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ハイダラバードには2階建てのバスが行き来する。
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ハイダラバード最大の見所に行ってみた。
コールコンダフォートの丘だ。アウランガバードのダウダラバードに似ているがここはかなり規模が大きい。インド三大砦の一つだ。 -
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砦のてっぺん付近の岩には紙のペイントが施されていた。
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コールコンダフォートの丘からの眺め
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旧市街にも行ってみた。ハイダラバードはイスラム教徒が多く、看板もウルドゥー文字が目立つ。
チャールミナールの門が見えてきた。
この門はインドの有名なたばこの銘柄でもある。ハイダラバードは知らなくてもチャールミナ-ルのことはほとんどのスモーカーは知っているはず。 -
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店番をする少年。
ハイダラバード旧市街にて。 -
ハイダラバードにて
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ハイダラバードからマドラス(チェンナイ)へ向かいため、セカンドラバード駅に向かった。自由席の切符は1時間前から販売されるらしい。昼食を取り15時に切符を買いホームで列車を待つことにした。
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セカンドラバード駅構内。
マドラス行きの列車はこの駅が始発でホームに入ってきた列車は20両ぐらい連結していたが自由席はたった2両だ。おまけに始発のくせにすでに人が乗っている。どうなっているんだ。
インド人がまだ走っている(完全に停止していない)列車にどんどん乗り込んでいる。とてもじゃないが真似は出来ない。真似したら列車に引きずられて死ぬかもしれない。最悪の状況になってしまった。出遅れた僕に席などないだろうと床を覚悟し列車に乗れ込んだ。
車内には席取り屋がいて「この一人席を30ルピー(100円)で買わないか」と言ってきた。断る理由はない。まけろと言って他の客に取られたら最悪なので速攻金を払うことにした。それにしてもこの男、車庫からこの列車に乗ってきたらしい。インド人は何でも商売にしてしまうようで感心してしまう。しかし席が確保できたからと言って移動が楽になったわけではない。
列車は始発から超満員。床も座るスペースがなく立っている人もいる。座席の下で寝る人もいる。客は途中の駅からもどんどん乗ってくる。車内は地獄絵を見ているようだ。もちろんトイレなど行けるわけもなく、水分は控えて12時間以上我慢しなくてはならない。今後間違ってもインドの自由席に乗るまいと心に誓った。 -
ハイダラバードを出て約14時間後、珍しく定刻通りにマドラス(チェンナイ)に到着した。
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インドにおける四大都市の中の1つ。近代的な街を想像していた。しかし予想とは裏腹に街は汚く駅周辺も他の街とたいして変わらない。マドラスはどこかへ行くために拠点にする場所でとくに見所はないしこの街に興味もないのでこのまま移動だ。
マドラス駅から歩いてバスターミナルへ向かった。気がつけば今日は大晦日。節目でもある今夜は少しでも人と違う過ごし方をしたい。そんなわけでこのままさらに南の街ポンデュシェリーへ向かう。新年はどうしてもポンデュシェリーで迎えたい。初日の出は絶対ベンガル湾で拝みたい。とにかくそれが今年から来年にかけての願いだ。
僕がこの街にこだわる理由。それはインド離れした場所で正月を迎えたいという気持ちからだった。実は僕は日本を出発するときこんな街があることを知らなかった。知ったのは1ヶ月前、何気なく地球の歩き方に目を通しているときだった。ポンデュシェリーといわれてもピンとくる日本人はほとんどいないだろう。僕自身もあまりよく知らないがポンデュシェリーはインドやパキスタンがイギリスの植民地だった1945年までフランスの植民地だった場所らしい。
同じく西海岸にあるポルトガルの植民地だったゴアと性質が似ている。街にはフランス料理の店が多く、また同じくフランスの植民地だったベトナム人が多く住んでいるということもありベトナム料理屋も数件ある。住民はカトリック教徒が多く、英語よりフランス語が通じるということはないがフランス語を話す人は多いと聞いている。とにかくインドで正月は迎えたくなかった。でもそれは無理だ。だからせめて少しでもインド離れした場所で少しでも日本に近いノリで新年を迎えたかった。考えた結果ここかゴアしかなかった。ゴアは有名すぎてかなり混みそうだったので結果としてこの場所を選んだというわけだ。 -
そんなわけでやってきたポンデュシェリー。バスターミナルからゲストハウスが集まる海岸線にリキシャで向かった。リキシャに揺られること数10分、目の前にベンガル湾が広がった。海を見るのは上海以来だ。
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しかし感激もつかの間、やはりすべての宿が満員だった。結局重い荷物を背負いながらバスターミナルまで戻ってきてしまった。バスターミナルの近くに比較的高級なホテルがあった。最後にここを訪ねることにした。最初満員だと言われたが少し待っているようにと言われいい返事が来るのを待つことにした。マネージャーらしき人が現れどういうワケか泊まれることになった。ほっと一安心。しかし宿代は700ルピー(2400円)と今回の旅行で一番高い宿となってしまった。大晦日ぐらいいいだろう。
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街は西洋的かと思ったが海岸線を除くと他のインドの都市とたいして変わらない。夕食はベトナム料理で牛肉料理を食べることにした。ヒンドゥー教徒ばかりの地域を移動していたので牛は毎日見ているが食べるのは久しぶりだ。ネパールのポカラ以来かもしれない。ホテルはバスターミナルの横なので出発は楽だが海が遠く2キロ以上ある。
海の見える風景にインド製アンバサダーがマッチする。 -
ポンデュシェリーの駅
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街角にて
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1997年。今年も終わりか。海外で年を越すのは初めてだ。
1998年元旦。新しい年がはじまった。
異国の地で年を越したのは初めてだ。場所はインド。ベンガル湾を臨むポンデュシェリーの街。まだ夜明け前の朝5時半、初日の出を見るために歩いて海へ向かった。これがかなり遠い。空がだんだん明るくなってきた。急がないといけない。日本では初日の出なんか見ようと思ったことは一度もなかった。ましてや海に昇る初日の出なんか考えたこともなかった。 -
6時半、たくさんのインド人が見守る中、少し雲があったが太陽の昇る瞬間を待つことにした。
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初日の出。
ベンガル湾に昇る朝日。
ポンデュシェリーにて。 -
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朝日に染まる海岸線の町並み。
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海岸沿いのマハトマ・ガンジー像。
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初日の出を見たあとホテルに戻り、12時のチェックアウト時間までもう少し寝ることにした。昼食はフランス料理を食べた。味はいまいちだが牛肉には満足。午後は海を眺め、やがて今年初めての太陽は西へと傾いていく。夕食は昨日と同じベトナム料理。フォー(ベトナム風うどん)は懐かしい味がした。
ポンデュシェリーにて。 -
クリケットをする子供たち
元旦の22時のバスで南部の主要都市バンガロールへ向かった。
バスは窓ガラスがなくシャッターを降ろして風を防ぐタイプのバスで昼間なら問題ないが夜行はかなりきつい。おまけに夜は意外に冷え込む。Tシャツでは寒すぎる。しかし耐えるしかないようだ。
バンガロールは高原地帯にあるので朝はかなり冷え込む。日が昇るまで寒い。おまけに連日の無茶な行動のせいで体調が悪く寒気がしてきた。しかし無茶な行動はまだ続いている。一体いつになったら安らぎを得ることが出来るのだろうか。 -
バンガロールに来た理由。それはインドのシリコンバレーといわれるこの町の近代的な雰囲気を味わうためだ。その中心がMGロード。インドで唯一のケンタッキーフライドチキンをはじめファーストフード、ブティック、ショッピングセンターが軒を連ねている。朝食はウィンピーでハンバーガーを食べることにした。シティーバンクなどの近代的なビルが並ぶ通りを散歩し昼はケンタッキーに行ってみた。チキンはインド風のカレー味だと聞いていたが全然そんなことはない。他の国同様スパイシーとレギュラーから選択でき、スパイシーを頼んだ場合インド風になってしまうようだ。帰りは駅まで歩いて帰ることにした。市内は緑が多く、インドの他の町に比べると確かに清潔だ。
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シティーバンクもある。
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バンガロールには1泊もせずそのまま移動することにした。
エルナクラム(コーチンの中央駅)方面行きの出発は21時発だ。切符を買ったあと、出発2時間前の19時にホームに行ってみたら列車はすでにホームに止まっていた。自由席は相変わらず少なく2両だけ。真っ暗の車内にはすでに人がたくさん乗り込んでいてざわついていたが何とか座る場所はあった。出発時間の21時には立っている人もかなりいてハイダラバードからマドラスに移動した時よりもいやな予感がする。
写真はバンガロール駅。
21時過ぎに列車は出発。そしていやな予感は的中した。途中の駅でも客は容赦なく列車に乗り込んでくる。中はまるで山の手線状態だ。これが短距離列車ならふつうの光景なのだが、この列車は12時間以上走り続けるわけだし、悲惨な光景が目の前で繰り広げられている。車内に人はもう入れない。内側に開くドアが開けられなくなってしまったようでホームには列車に乗れなかった客が溢れ、何とか乗り込もうと外から列車にしがみつこうとしている。通路は足の踏み場もなく、人があちこちに寝転がっている。もちろん網棚にも人が溢れて目の前には常に人の足がぶら下がっている。僕に座っていた4人掛けの椅子には子供を含め八人が座っている。足元では子供が寝ているし、椅子の下にも何人いるのか分からないが人の気配が感じられる。恐るべしインドの列車。 -
やがて地獄のような一夜が明け朝を迎えた。
車内では一滴も水を飲まなかった。トイレに行くのを避けるためだ。まわりのインド人はどうして耐えられるんだと不思議に思っていたようだが、僕にとって水分をとらないことは大したことではない。
日が昇り、列車を降りる客も増え、車内の乗客に余裕ができてきた。自分のことで精一杯だったインド人たちも僕に興味を示しいろいろ話しかけてくる。
写真は一夜を過ごした列車の車内。
窓の外はバナナ園が続く。熱帯のムッとした風が車内へと入ってくる。それが妙に心地よかった。やがてエルナクラム駅(コーチン)に到着。疲れは限界を通り越している。もしこの街で宿がなかったら、たぶん力つきるだろう。駅周辺のホテルをあたってみたがどこも満員、途方に暮れながら道を彷徨った。まだ年末年始が影響しているのだろうか。もう今夜移動する場所はない。睡眠不足が限界だ。
アラビア海に面した都市・コーチン。
ここでゆっくりしたかった。しかし当たる宿すべてが満室。
途方に暮れて呆然としていたら1人の男に声をかけられた。僕は彼に「泊まるところがない」とつぶやいた。そこへもう1人の男が現れた。彼らは友達らしい。
男は「俺に任せろ」と言いオートリキシャを止めた。僕ははっきり言って道で声をかけてくるインド人は信用しないようにしていた。しかし今回ばかりは無視する気にはなれなかった。とにかくどうなるのか様子を見ることにした。2人の名前はユースフとアジェト。彼らに2軒の宿へ連れていってもらったがいずれも満室。
しかし3軒目でやっと空きが見つかった。値段もトイレが付いて1泊70ルピーと激安。
うれしかったがこれからが心配だ。彼ら2人の目的を知りたかった。宿のおやじとは面識がないようで宿泊料金に関しては問題はなさそうだ。彼らも一緒に部屋に入ってきた。たばこや食べ物、飲み物を勧められたが何とか理由を付けてすべて断った。 -
結果として彼らを警戒していた僕は後悔する事になった。とりあえず彼らが住所を教えてくれたことや名刺をくれたりして一緒に写真を撮ることを拒まなかったことで僕は彼らを信用することにした。もし怪しい奴なら写真を嫌う。たまたま道でばったり会った僕を彼らは本当の親切心から手を貸してくれたみたいだ。ありがとう。
その時ユースフが申し訳なさそうにリキシャ代の14ルピー(42円)が欲しいと言ってきた。よく考えたらリキシャ代は彼らが払っていたのだった。僕はこんな良い宿を探してくれたお礼を込めて2人に20ルピーずつあげることにした。すごく喜んでくれた。そして帰っていった。 -
インドに来て初めて人に親切にされた気がする。疲れが極限に達していたのでなおさらそう感じたのかもしれない。南インドは(北インドと違って)人が穏やかで優しいという噂はまんざらウソではないようだ。時間があったら彼らの所へ遊びに行ってみよう。
これがコーチンで宿泊することになった宿。駅に近く便利で周辺は静かな雰囲気だ。 -
安い宿に泊まると精神的に落ち着き、体力的にも落ち着く。そしてゆっくり今後について考えることが出来る。2日連続車中泊の疲れを落とし、夕方海の方へ行ってみた。食堂の人もみんな親切で穏やかな気がする。インドにもこんな所があったんだ。来て良かったと実感。
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コーチン名物の独特の漁法「チャイニーズフィッシング」のネット。
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コーチンからバックウォーター(水郷)ツアーに参加した。観光局前からマイクロバスに乗り込み水郷があるアレッピーへと向かった。
参加者には日本人のおじさん3人組がいて、僕にとって彼らが今年初めて会った日本人となった。マイクロバスは今まで乗ったバスの中で一番快適だった。水郷巡りのボートは6人乗りだ。 -
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途中の村にて
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アレッピーへ向かう本格的なバックウォーターツアーではないのでいまいち迫力はなかったが熱帯の雰囲気を満喫した。
夜7時にコーチンに到着。
インド最南端、コモリン岬があるカニャークマリへ向かうため、コーチンを早朝出発する列車に乗りむためコーチン・エルナクラム駅へ向かった。
しかしカニャークマリ行きは予想が出来ないぐらい遅れているらしく、トゥリヴァンドラム行きの列車が先に出発するらしくそれに乗ることになった。切符はとりあえずカニャークマリまで購入したが無駄になってしまうかも。
インドに来て初めて夜行ではない列車に乗ることになった。車内はオープンサロンで広々としている。途中ジャングルの中を快走し12時前にトゥリヴァンドラム駅に到着した。 -
12時にカニャークマリ行きのバスがあるらしく列車で行くのはあきらめバスに乗り込んだ。バスは結構きれいで窓ガラスもちゃんとある。
午後3時にカニャークマリに到着した。客引きについていきホテルはすぐ見つかった。
1泊150ルピーとちょっと高いが外観も部屋もきれいだしとくに問題はない。 -
部屋からの眺め。
この部屋からは日の出も見られるのでなかなか良いかもしれない。 -
カニャークマリのメインストリートは人通りが多い。
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こちらはカニャークマリ駅。インド最南端の駅で立派だが、本数は少ない。
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インド最南端・コモリン岬へは夕日を見に来た。
観光客はインド人が99パーセントを占め、外国人はほとんどいない。というよりもインド人が多すぎて外国人があまり目立たない。 -
ここはベナレスに次ぐヒンドゥー教の聖地ということもあり、インド人が多いのだろう。
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日が落ち涼しくなってきた。
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コモリン岬の夕日。
みんな拝んでいる。バカ騒ぎをしている奴もいる。とにかくインド人はみんな楽しそうだ。 -
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翌朝。
日の出を見たかったが起きられなかった。雲が多かったのでどうせ見れなかっただろう。9時頃太陽が顔を出し、部屋を強い日差しが包み込んだ。眩しすぎる。
9時発のバスに乗るためバスターミナルへ向かった。再び北上してケララ州の中心都市トゥリヴァンドラムへむかう。
トゥリヴァンドラムへは約3時間で到着、このまま近郊のコヴァラムビーチへ向かうことにした。とりあえず4,5日ビーチでくつろぐことになりそうだ。
次の目的地はスリランカ。このトゥリヴァンドラムから飛行機に乗ることになっている。
コヴァラムビーチへは駅前のバスターミナルではなく、少し離れたバス乗り場からコヴァラムビーチ行きが出ているようで歩いて向かった。
バスを降りたら客引きがいたのでついていくことにした。最初150ルピーだと言っていたが4泊で450ルピーに値引きさせる事に成功。部屋はシャワーがついて風通しも良くきれいだ。文句なし。
ビーチまで約百メートルぐらいと少し遠いのが難点だが快適に滞在できそうだ。 -
写真が宿泊した宿。
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ビーチに出た。しかしあまりきれいではない。波も荒く砂も白くない。日本(南西諸島を除く)のビーチに比べれば確かにきれいだが噂ほどではなかった。
ビーチには欧米人があちこちに転がり素朴さはあまりない。メインとなるビーチはこんな感じだ。 -
ビーチは北に延々とつづき、メインビーチ以外は人も少なくのんびりとした砂浜が続いている。インド人も海水浴をしている。
その素朴な砂浜で読書をしていた日本人に出会った。2ヶ月もここにいるらしい。
長期旅行の日本人に会うのは久々だ。デリー以来か。
彼と同じくこのビーチに1ヶ月以上滞在している日本人が他にもいるらしくその人と3人で夕食を食べることになった。
店を探していると板前をしながら世界中を旅しているという日本人のおじさんにも出会い4人でレストランに入ることにした。板前屋さんに品定めをしてもらい活きのいい鯛を選んでもらい、バーベキューは100ルピー(300円)と高かったがうまかった。
翌朝、2週間前アウランガバードで予約を入れたスリランカ・コロンボ行きの航空券の予約再確認に行くためにトゥリヴァンドラムの街へ出ることにした。
本当は必要ないと思うがトゥリヴァンドラムの町を歩いてみたかったのでそのついでだ。バス停から歩いてインディアン・エアラインズのオフィスへ向かった。
インドの飛行機は意外に混んでいる。インド人の金持ちが飛行機を使いまくるからだ。番号札を取り、長時間待たされた。そして僕の番が回って来た。
チケットを見せたら「1月12日のフライトはキャンセルになった」とあっさり言われてしまった。「14日なら飛んでいるから空席待ちに登録しておいてあげよう」と半強制的に登録されてしまった。
しかし空席待ち番号は32番目だ。
ふざけるなと思った。インディアン・エアラインズ。(同じ所でダラダラしていたくないので)どうしても12日にスリランカへ行かなくてはならないんだ。責任者を呼べ。とごねることにした。
しばらくしてマネージャーの部屋に案内された。そして文句をたれた。「これじゃ何のために2週間前から予約していたのか分からない。どうしてくれるんだ。何とかしろ。12日はだめでもいいから13日までにはスリランカに到着できるようにしてもらえないか。」マネージャーはエアランカ(スリランカ航空)へ電話を掛け、席が空いてるか確認を取るようだ。
「もし空いていたら速攻確保しろ」ぶつぶつ文句をたれていたら13日の便に空席があるらしく予定より遅れてしまったがなんとか出発できそうだ。
その後エアランカ(スリランカ)のオフィスへ出向き正式に手続きを済ませ予約完了。 -
まったくヒヤヒヤさせやがって、今まで飛行機には100回近く乗っているがフライトキャンセルになったのは初めてだ。まったくインドはすべてがいい加減だ。もしこのことに空港まで気づかなかったらもっと頭に来ていただろう。おそらく僕は航空会社にその夜滞在するホテルを要求していたかもしれない。リコンファームはやはり必要だと実感。
トゥリヴァンドラムの町にはスーパーマーケットなどもあり、なかなか近代的だ。さすがケララ州の州都だ。
トゥリヴァンドラムの教会。 -
スリランカに何とか行けそうで安心し、3日間はとくに予定もないのでビーチでリラックスすることになった。
ビーチ沿いのレストランでジュースを飲みながら本を読み、時間は過ぎていく。
この上ない最高の贅沢だ。
毎日こんな生活をしていて良いのだろうか。でもまわりの日本人はもっと怠けているので気にしないことにしよう。 -
波は高めだ。
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ココナツ
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コヴァラムでの楽しいひとときは同じような長期の日本人旅行者との出会いが大きい。
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コヴァラムビーチのに夕日。
なんだかんだ言ってもやはり僕にとってここは南インド最高のビーチだった。
ビーチを出発する日。
朝4時に起床。ホテルを5時半に出発した。始発が6:05発だと聞いていたのでそのバスに乗り込み1度トゥリヴァンドラムの街へ出てそこから空港行きの乗り合いワゴン車に乗り継いだ。
空港にはビーチから1時間でついてしまった。オーバーブッキングが怖いので早いに越したことはない。出発までまだ3時間あるがすでに人がたくさんいる。
チェックインを無事済ませ、搭乗券を受け取り、いよいよ出発だ。出国審査では山のような書類を抱えて出国するインド人を横目に日本人は改めて楽だなと実感。空港内はクーラーも利いておらずファンが虚しく回っているだけだ。
エアランカ航空(スリランカ航空)に搭乗。スリランカの首都コロンボまで約50分のフライトだ。
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