2019/10/19 - 2019/10/20
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RAINDANCEさん
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長崎県南部、県庁所在地の市である長崎を訪れました。古くから海外文化の窓口、そして近代には原子爆弾の投下…といった激動の歴史を持ち、現在はそれらがもたらした文化遺産や戦争遺産によって、他に類を見ないバリエーション豊かな見どころを擁する町です。
★長崎駅前のビジネスホテルに泊まり、レンタカーを駆使して1泊2日で見どころ満載の観光都市を巡る。
巡った場所:四海楼本店/大浦天主堂/グラバー園/オランダ坂/長崎孔子廟/原爆資料館/平和公園/浦上天主堂/山王神社/稲佐山/思案橋周辺/長崎新地中華街/出島/眼鏡橋/諏訪神社 など
[いただいた郷土料理/ご当地グルメ]
◎「四海楼」の、長崎ちゃんぽん、皿うどん、角煮まんじゅう
◎「ツル茶ん」の、トルコライス、ミルクセーキ
◎「アティック」の、龍馬カプチーノ
あまりに見どころが多すぎて、旅行記がかなりの大作になってしまいました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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10月の4連休を利用して長崎県を訪れました。羽田空港からANA便にて、雨でピンボケです。
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長崎空港に到着。こちらは雲は多いものの晴れ間もあり。
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まずはバジェットレンタカーの空港店へ。空港カウンターから送迎ありです。
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さぁ、レンタカーに乗って、長崎市の観光開始です!
長崎市街に入り市電とすれ違い。”長崎電気軌道”は、大正3年(1914年)に開業しました。 -
まずやってきたのは市街の南部エリア、大浦天主堂やグラバー園などがあるエリアです。近隣のPへ駐車。
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今回のレンタカーは”スズキ・バレーノ”、珍しい車に当たりました。インドのマルチ・スズキの工場で生産されるコンパクト・ハッチバック車です。
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もうお昼どきなので、まずはランチへ。「ちゃんぽんの本家 中華料理 四海樓」にて。その本社兼店舗。
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明治32年(1899年)に、中国(当時は清国)の華僑として来日した陳平順氏が創業した、ちゃんぽん発祥の店として知られる中華料理店です。
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5階の展望レストラン。目の前が「松が枝国際ターミナル」で、豪華客船「ウエステルダム」が停泊中。
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まずは「東坡扣肉(トンポウコウロウ)」、日本語補足は「角煮饅頭」とありました。
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豚の角煮を中華風蒸しパンにはさんで食べます。
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そして、陳平順氏が考案したとされる「ちゃんぽん」。福建料理の湯肉絲麺(とんにいしいめん=麺を主体とした豚肉、椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりスープ)を、濃い目のスープにして近海の海産物の具をたくさん入れ、日本風のコシのある麺にしたそうです。
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「皿うどん」。これも、陳平順氏がちゃんぽんのバリエーションとして考案したものだそうです。
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長崎ちゃんぽんは、ほぼ「リンガーハット」でしか食べたことなかったですが、それと比べると若干スープが濃い目で味の系統はかなり近い(当たり前か)。ちょっと値段はお高めでした。
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階下には「ちゃんぽん博物館」なるものがあります。ちゃんぽんのルーツや名前の由来などをここで学びましょう。
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さて、ご当地グルメでお腹を満たした後は、まず大浦天主堂へ。
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グラバー園に続く「グラバー通り」沿いは、商店や観光客が多く賑やかです。
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2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に認定され、以降は長崎に点在するその関連資産が注目を浴びていますね。
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その筆頭はこの「大浦天主堂」、昭和28年(1953年)には既に国宝に指定されています。
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元治2年(1865年)に完成した教会で、フランス人宣教師の設計で、天草の小山秀之進という大工の施工だそう。完成直後に、浦上の潜伏キリシタンが訪れて信仰を告白したことで”信徒発見(東洋の奇跡)”の舞台となったらしい。
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内部は撮影禁止でした。この教会の正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」といい、”二十六聖殉職者”とは、豊臣秀吉のキリシタン禁教令により、長崎市西坂の丘で処刑された日本人20名・外国人6名の信徒のことを指すそうです。
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天主堂の隣には「旧長崎大司教館」。大正4年(1915年)竣工、県有形文化財。
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その横には、明治8年(1875年)に建てられた「旧羅典神学校」、1972年に国の重文に指定。司教館とともに、「教会建築の名手」といわれたド・ロ神父の設計とのこと。
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大浦天主堂の向かいに建つ「大浦教会」。大浦天主堂が国宝となり観光客が増えて使いづらくなってきたため、昭和50年(1975年)に建てられたそうな。
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大浦天主堂を観た後は、グラバー通りをさらに進みグラバー園へ。天主堂側の入口。
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この園は、安政6年(1859年)の長崎開港後に来住したイングランドの武器商人トーマス・ブレーク・グラバーの邸宅を中心とした公園です。
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園は長崎港を見渡す丘の上に広がるので、まずはこの長~い”動く歩道”で一気に上がります。
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園の一番高いところに建つ「旧三菱第2ドックハウス」。
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船がドックに停泊する間、船員が宿泊するための施設だそうです。
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明治29年(1896年)にドック近くに建てられたものが、昭和47年(1972年)にここに移築復元されたとのこと。
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「旧長崎高商表門衛所」。明治38年(1905年)に創立した長崎高等商業学校の門衛所で、昭和51年(1976年)に現在の場所に移築復元されたそうです。
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「旧長崎地方裁判所長官舎」。明治16年(1883年)に建てられ、昭和54年(1979年)に現在地に移築復元。
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こちらの「旧ウォーカー住宅」も移築。
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旧ウォーカー住宅の内部。
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テラス。
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「旧自由亭」、こちらも移築。…というように、移築された建物が多いです。この居留地に元々あったのは、グラバー邸、リンガー邸、オルト邸で、これら3つは国の重文。他の建物は集められたのですね。知りませんでした。
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文久3年(1863年)に長崎で西洋料理店「良林亭(後の自由亭)」がオープンしたのが西洋料理の発祥とされ、昭和52年(1977年)に記念碑が建立されたそうです。
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長崎が舞台のオペラ「蝶々夫人」作曲者、プッチーニの像。
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同オペラのプリマドンナ、三浦環の像。
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明治2年(1869年)にこの場所に建てられた「旧リンガー住宅」。
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グラバー商会の幹部として長崎に来訪したのち、「ホーム・リンガー商会」を設立したイングランド出身の商人、フレデリック・リンガーが住んでいた邸宅。
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庭からの眺め。
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慶応元年(1865年)にこの地に建てられた「旧オルト住宅」。
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イングランド出身の商人、ウィリアム・ジョン・オルトが3年間住んだ邸宅。
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「旧スチイル記念学校」、明治の建物ですがこれも移築。
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そして、グラバー園の本命といえばココ、「旧グラバー住宅」…て、ガーン!保存修理工事中でした。(工事期間:~2021年3月末)
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文久3年(1863年)建築、グラバー商会を設立した商人トーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築です。世界遺産に登録されました。
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グラバー氏の像。幕末の激動の時代、志を持つ若い人々への援助を惜しまない面倒見の良い人物だった様です。日本の近代科学技術の導入にも貢献したそうな。終生を日本で過ごしこの長崎に眠っています。
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旧グラバー住宅近くの展望台。
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展望台からは長崎港を一望。停泊していた客船”ウエステルダム”がちょうど出航するところでした。ブラスバンドの出航セレモニーが聞こえます。
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レストハウス。
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ここでハートストーンを見つけました。
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グラバー園の最後に入ったのはこの「長崎伝統芸能館」。
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長崎のお祭り「長崎くんち」にちなんだ展示。
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奉納される龍踊りの白龍と…
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…青龍。
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グラバー園を出ました。
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大浦天主堂から東にのびる「国際あいさつ通り」。
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その通り沿いに「祈りの三角ゾーン」があります。教会(大浦天主堂)・寺(妙行寺)・神社(大浦諏訪神社)が接する全国的にも珍しい場所。
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坂のある路地の風景。長崎は坂の街。
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大浦石橋通りに下りてきました。
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東山手の「オランダ坂」通りへ。
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かつて長崎の人々は東洋人以外を”オランダさん”と呼んでおり、”オランダさんが通る居留地の坂”=”オランダ坂”になったとのこと。現在は、誠孝院前のこの辺りと、さらに先へ進んだ活水学院下の坂がオランダ坂と呼ばれているらしい。
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銭湯赤レンガ通りへ。何気なく教会があるのも長崎らしい。こちらは「日本キリスト教団長崎教会」。
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「日栄湯」、大正末期から続く老舗の銭湯。
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「長崎孔子廟 中国歴代博物館」に着きました。
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明治26年(1893年)に、清国政府と在日華僑の共同で建立された中国様式の霊廟です。孔子廟とは、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりだそうです。
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中国山東省曲阜にある総本山並に壮麗な伝統美を凝らした、日本で唯一の本格的中国様式の霊廟なのだそう。
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レンタカーへ乗り込み、市街北部郊外の平和公園周辺へ向かいます。
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やはり、戦争遺跡を訪れない訳にはいきません。まずは「長崎原爆資料館」に到着。
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常設展示室は、昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分で止まった柱時計から始まります。爆心地から800mの民家にあったもの。
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爆心地から800mの中学校にあった給水タンク。爆風で吹き飛びそうな構造だが、建物の裏手か何かで爆風の直撃は免れたのか、実際には吹き飛んだものを建てて展示?…
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爆心地から500mの浦上天主堂の南側入口の再現造型。被爆した像などは実物とのこと。現在の浦上天主堂は後ほど訪れますが、そこには実際に吹き飛ばされた鐘楼が遺されています。
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「ファットマン」の模型。広島に投下された「リトルボーイ」の1.5倍の威力だったそう。この1発でおよそ7万4千人がなくなったということです。
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原爆による被害の大きさを示す多くの残骸と写真。
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ショッキングな展示が多く掲載は控えますが、印象的なものを一つだけ…
爆心地で見つかった溶けたガラスと手の骨。何かしらのガラスの器具を持ったまま高熱で一瞬にして…でしょうか…。核兵器の恐ろしさ、百聞は一見にしかず。 -
原爆資料館のあとは、ほぼ隣接する「爆心地公園(長崎原子爆弾落下中心地)」へ。
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まさにこの上空の約500mでファットマンが炸裂しました。昭和43年(1968年)に建てられた黒御影石の碑。
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その傍らには、被災した浦上天主堂の遺構が据えられています。
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瓦礫が重なる被爆当時の地層が遺されていました。
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爆心地から少し北に歩くと「平和公園」。
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「平和の泉」。
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泉の北側には「長崎刑務所浦上刑務支所跡」。昭和2年(1927年)に建てられたが、案内看板の写真にある様に原爆で壊滅。
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平和公園のシンボルともいえる「平和祈念像」。長崎出身の彫刻家北村西望氏による制作で昭和30年(1955年)に完成。
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当初から、その造形の妥当性、被爆者支援と多大な建造費との関係など、色々と論議になったそうですが、今ではシンボルとしてすっかり定着していると言って良いでしょう。
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平和公園を後にし、東へ300mほどの「カトリック浦上教会(旧浦上天主堂)」へ。
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昭和20年(1945年)に原爆で破壊され、昭和34年(1959年)に再建。内部を少しだけ。
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教会の傍には、原爆で吹き飛ばされた旧鐘楼が横たわっています。
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さて、続いて向かったのは、平和公園から南へ1kmほどの「山王神社」。
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この神社の参道に「被爆クスノキ」があります。原爆により焼かれ損傷し枯れかけましたが、復活を遂げた市の天然記念物です。福山雅治の「クスノキ」のモデルにもなっているそうです。
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参道を下りると「二の鳥居」、爆風で片足を吹き飛ばされた一本柱の鳥居です。爆心地の遺跡や資料館の展示はもちろんインパクトのあるものでしたが、この一本だけ残された神域と俗界の門は、原爆の戦争遺産としてより生々しさを感じさせます。
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続いては、平和公園界隈の戦争遺跡を後にし、現代の長崎観光観光名所へ。日が暮れたところで訪れたのは、標高333mの「稲佐山」。
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日本三大夜景のひとつ、長崎の夜景スポットです。まずは、頂上の展望台の「ひかりのレストラン」でディナー。
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さすがですね、混んでます。特に窓際は大人気。丁度出ていくお客さんがいて運よくその窓際へ。
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私は、長崎名物”トルコライス”をオーダーです。
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妻は、少しひねって”長崎和牛ステーキトルコライス”。
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ゆっくりと夜景を見ながら食事ができる、おすすめの場所ですね。
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ディナーの後、屋上のテラスに出て本格的に夜景を鑑賞です。
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派手なネオンは無く、素朴で上品な夜景は函館に似ていると感じます。函館よりも少しこじんまり…とも。
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素晴らしい夜景です。が、日本三大夜景をすべて見た私の個人的な感想は、六甲山からの夜景はやはり次元が違う…です。
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この日の観光はここまで。長崎駅前の「ホテルクオーレ」で一泊。
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立地は駅前の便利な場所です。駅周辺でのディナーを想定してここを予約しましたが、稲佐山でディナーは済ませてしまったので、結果的にはここである必要はなかったかな…駐車場代もかかるし。
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翌朝…ホテルをチェックアウト。ホテルの目の前、長崎駅前の風景。
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ホテルはあえて素泊まりにしました。何故なら、朝食をココでとりたかったからです。思案橋の商店街近くにある「ツル茶ん」は9:00にオープン。すぐ隣に広いコインパーキングがあります。
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大正14(1925年)に九州初の喫茶店として開店したそうで、長崎で「トルコライス」と「ミルクセーキ」といえばココ…ってことで。
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私は、”昔懐かしトルコライス”。デミグラスソースがかかった豚カツ・ピラフに、スパゲティ・サラダがのった定番のトルコライス。
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妻は、新メニューの”ジパングトルコ”。照焼きソースにキノコをあしらった”テリカツ”がメインの、インバウンドも意識した和洋食…です。
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そして、”ミルクセーキ”。食事のセットに、追加料金で元祖長崎風ミルクセーキのハーフを付けることができます。
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これぞ長崎のご当地グルメ…いやー朝からガッツリ堪能しました。食後に思案橋の北側の商店街アーケードを少しだけ散歩。
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次に、思案橋の南側にある「カステラ本家福砂屋」の本店へ。寛永元年(1624年)の創業で、長崎カステラの元祖とされてます。
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店舗内の応接室。画像はありませんが、”フクサヤキューブ”というキューブ状のカラフルなパッケージのカステラ詰め合わせをお土産に買いました。
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その近くには、レトロチックな丸山町交番。
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ここ丸山界隈は、寛永年間末頃から昭和31年(1956年)まで栄えた花街で遊郭がたくさんあったそうな。
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昔の花街の写真。
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現在の様子。町内会の祭なのか、ちょうどお神輿が通り過ぎていきました。
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船大工町の歓楽街。午前中なので人通りはありません。
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昭和の香りが漂います。
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ここからは海側へ移動していきます。まずは「長崎新地中華街」へ。横浜・神戸とともに、日本三大中華街のひとつとされています。
中華街の四方、東西南北の入り口には、横浜中華街同様に牌坊(中国式の門)があります。銅座川に面する北門。 -
この界隈は、かつて唐船専用の倉庫を建てるために埋め立てられた新地なのだそうです。通りには多くの中華料理屋が並んでました。
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こちらの牌坊は南門。中華街の規模自体は、横浜・神戸に比べたらこじんまりしています。
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南門の前には「湊公園」、冬には一大風物詩「長崎ランタンフェスティバル」の会場になります。ここにも牌坊。
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公園のステージでは和太鼓のショーが行われていました。
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さらに海側へ進み、出島エリアへ。
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「出島」は、造成当時は人工島でしたが、現在は埋め立て地に飲み込まれて島ではなくなりました。出島復元エリアの西側入口「水門(貿易品の積入れ/積出し口)」から入ります。
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出島のメインストリート。…といっても、狭い島なのでまともな通りはこの1本だけですが。平成12年(2000年)以降の復元ですので、新しい感じです。
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水門の横には、輸入品の砂糖などを測った天秤量り。
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「一番船船頭部屋」。1階は倉庫、2階は船長や商館事務員の住居。
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2階に復元された住居。当時の長崎商人の住まいと変わりない造りだそうです。
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「ヘトル部屋」、ヘトル(次席商館長)の住居。内部の資料が無いので外観のみ復元とのこと。”出島ミュージアムショップ(お土産屋さん)”に使われています。
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ヘトル部屋の裏側。物見台が設置されています。ここから湾内の船を眺める絵が数多く残されているらしく、絶好の眺望エリアだったようです。
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ヘトル部屋の裏手には、オランダ商館員の料理を作る「料理部屋」。
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こちらはヘトル部屋の隣の「カピタン部屋」、オランダ商館長の住居兼事務所・応接室。出島の代表的な建物のひとつ。
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2階はクリスマスパーティーの模様などが再現されています。
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カピタン部屋の裏手の「乙名部屋」。ここ出島では”乙名”は町役人にあたり、出島管理の責任者、いわば町長のようなものだったらしい。
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純日本家屋で、役人の詰所として使われていたそうです。
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「一番蔵」~「三番蔵」の並び。
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右から、「十六番蔵」~「筆者蘭人部屋」~「十四番蔵」の並び。
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「乙名詰所」~「組頭部屋」の並び。
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平成29年(2017年)に出来た出島表門橋と「表門」。ここが出島の出入口でした。
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橋から中島川越しに見る、出島の建物群。
ここら辺までが、鎖国期の建物の復元です。 -
表門の横に建つ「新石倉」。
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新石倉と、表門を挟むように建つ「旧石倉」、幕末の商社の石倉。
これら石倉ふたつは幕末期の建物の復元。 -
これ以降は明治期の建物の修理復元。こちらは「旧長崎内外クラブ」、明治36年(1903年)にグラバー氏の息子である倉場富三郎氏の尽力で建てられた国際交流会館。現在はレストランです。
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最後に「旧出島神学校」。
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明治11年(1878年)に建てられた、現存する日本最古のプロテスタント神学校。中には売店がありました。
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旧神学校の向かい側には「ミニ出島」、出島の模型です。この辺のエリアにも、いずれ何かが復元されるのでしょうか?
出島は復元された建物がメインですが、なかなか見応えがありました。 -
出島からさらに長崎港方面へ向かいます。
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ベイエリアにある「長崎出島ワーフ」へ。
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長崎港を見渡すロケーションにある、複合商業施設です。
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オープンテラスのカフェ「Attic(アティック)」で少し休んでいきましょう。
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アイスカフェラテと、”秋限定!選べるモンブランプレート”というメニューがありましたので、それをオーダー。
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そして、名物の”龍馬カプチーノ”。
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クルーザーの向こうに見えるのは稲佐山。
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皆さん、海を眺めながらゆったりと寛いでます。
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長崎港を後にし、次に向かったのは中島川に架かる「眼鏡橋」。市街の西、意外にやや辺鄙なところにあります。
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寛永11年(1634)に興福寺の黙子如定禅師が架設したこの眼鏡橋は、日本初のアーチ式石橋として知られてます。
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また昭和57年(1982年)の大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され、国の重文に指定されてます。見事なメガネの形。
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ハートストーンも人気。
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皆さん探してます。
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橋から東へ300mほどの場所に、その眼鏡橋を架けた黙子如定禅師が2代目の住職を務めた唐寺「興福寺」がありますので立ち寄り。本堂にあたる大雄宝殿は国の重文に指定されてます。キリスト教禁令のころ、渡来した中国人は仏教徒であることを示すために寺を建てました。この辺りはそういう寺が沢山ある寺町です。
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盛り沢山だった長崎の観光も、次の場所でいよいよ最後。眼鏡橋から北へ1km足らずの諏訪神社へ。
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「諏訪神社」…通称「鎮西大社」の鳥居。
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この神社は、この地を支配していたキリシタンにより破壊されたのち、寛永2年(1625年)に再造営されたとのこと。現在の社殿は、火災で焼失後に明治元年(1868年)に復旧されたものだそうです。
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色々と盛り沢山だった長崎市を後にします。古くから海外文化の窓口、そして近代は原子爆弾の投下(西洋の造船技術が長崎に定着したことで原爆の標的になったとすると、これも運命の悪戯というべきか…)といった激動の歴史を持ち、現在はそれらがもたらした文化遺産や戦争遺産によって、他に類を見ないバリエーション豊かな見どころを擁する町でした。
さて、あまりにも見どころが多すぎて楽しい一方で疲れもありますので、それを癒すべく雲仙市の小浜温泉へ向かいます。
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