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長岡天満宮や松山神社と並び「阪急沿線 三天神」に数えられるのが、大阪府豊中市服部元町の能勢街道沿い、阪急 服部天神駅の飲食店や住宅が密集するエリアにひっそりと鎮座する服部天神宮です。全国に4千社ほどあるとされる菅原道真を祀る神社のなかでも、菅公の足跡が残された希少な神社のひとつです。<br />「天神宮」ゆえ、想像通りに「天神(てんしん)=少彦名命(医薬の祖神)」と「天満大自在天神=菅原道真(学問の神)」の2柱が祀られています。しかし単なる「学問の神様」ではなく、「足の神様」としても知られているのが最大の特徴です。昨年カミさんが膝を痛めたこともあり、「足怪我平癒」のご利益にあやかれるようにとの思いを込めて参拝してまいりました。<br />「足の神様」の由来は、祭神の1柱である菅原道真に因みます。菅公が大宰府に左遷させられる折、この地を通りかかった時に持病の脚気に悩まされて動けなくなり、その時に医薬の祖神「少彦名命」を祀る小祠への参拝を勧められて祈願したところ、痛みや浮腫みが治り、無事赴任できたと伝わります。菅公が太宰府の地で没した後、菅公を神として尊崇する天神信仰が広がり、服部天神宮として造営され「脚気天神」や「足の神様」と呼ばれるようになりました。今では足の病気の平癒の他、サッカーや陸上競技など、足を使ったスポーツの上達を祈願する人達の聖地ともなっています。<br />服部天神宮のHPです。<br />http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/

萬福笑來 北摂豊中 服部天神宮

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2020/01/04 - 2020/01/04

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

長岡天満宮や松山神社と並び「阪急沿線 三天神」に数えられるのが、大阪府豊中市服部元町の能勢街道沿い、阪急 服部天神駅の飲食店や住宅が密集するエリアにひっそりと鎮座する服部天神宮です。全国に4千社ほどあるとされる菅原道真を祀る神社のなかでも、菅公の足跡が残された希少な神社のひとつです。
「天神宮」ゆえ、想像通りに「天神(てんしん)=少彦名命(医薬の祖神)」と「天満大自在天神=菅原道真(学問の神)」の2柱が祀られています。しかし単なる「学問の神様」ではなく、「足の神様」としても知られているのが最大の特徴です。昨年カミさんが膝を痛めたこともあり、「足怪我平癒」のご利益にあやかれるようにとの思いを込めて参拝してまいりました。
「足の神様」の由来は、祭神の1柱である菅原道真に因みます。菅公が大宰府に左遷させられる折、この地を通りかかった時に持病の脚気に悩まされて動けなくなり、その時に医薬の祖神「少彦名命」を祀る小祠への参拝を勧められて祈願したところ、痛みや浮腫みが治り、無事赴任できたと伝わります。菅公が太宰府の地で没した後、菅公を神として尊崇する天神信仰が広がり、服部天神宮として造営され「脚気天神」や「足の神様」と呼ばれるようになりました。今では足の病気の平癒の他、サッカーや陸上競技など、足を使ったスポーツの上達を祈願する人達の聖地ともなっています。
服部天神宮のHPです。
http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 阪急「服部天神」駅<br />公共交通機関でアクセスする場合の最寄り駅は、阪急電鉄 宝塚線「服部天神」駅になります。<br />ところで、この駅のプラットホーム風景に何か違和感を覚えませんか?<br />樹齢数百年の巨大な楠(クスノキ)がプラットホームの屋根を突き抜けて伸びています。<br />この珍しい光景は「とよなか百景」にも選ばれています。

    阪急「服部天神」駅
    公共交通機関でアクセスする場合の最寄り駅は、阪急電鉄 宝塚線「服部天神」駅になります。
    ところで、この駅のプラットホーム風景に何か違和感を覚えませんか?
    樹齢数百年の巨大な楠(クスノキ)がプラットホームの屋根を突き抜けて伸びています。
    この珍しい光景は「とよなか百景」にも選ばれています。

  • 阪急「服部天神」駅<br />宝塚方面行き下り1番ホームからの眺めです。<br />服部天神宮の境内の一部を譲り受けて駅舎が設置された関係で、ご神木だった楠が伐採を免れて残されたものです。

    阪急「服部天神」駅
    宝塚方面行き下り1番ホームからの眺めです。
    服部天神宮の境内の一部を譲り受けて駅舎が設置された関係で、ご神木だった楠が伐採を免れて残されたものです。

  • 阪急「服部天神」駅<br />大阪梅田方面行き上り2番ホームの光景です。<br />現在は服部の街と当駅を守るご神木として祀られており、このように神棚と注連縄が供えられています。<br />また当駅では、毎年夏の服部天神宮「天神祭」に合わせ、構内で御神木清祓と「阪急電車安全祈願祭」を執り行っています。

    阪急「服部天神」駅
    大阪梅田方面行き上り2番ホームの光景です。
    現在は服部の街と当駅を守るご神木として祀られており、このように神棚と注連縄が供えられています。
    また当駅では、毎年夏の服部天神宮「天神祭」に合わせ、構内で御神木清祓と「阪急電車安全祈願祭」を執り行っています。

  • 阪急「服部天神」駅<br />1910(明治43)年に小林一三氏によって開通した箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)には「服部天神」停留場が開設され、その2年後に天神の2文字が消えて「服部」駅に改称され、約100年の時を超えて2013年に「服部天神」駅に戻されました。これは「駅周辺の歴史的観光資源を分かりやすく案内する」という阪急電鉄の基本方針に則るものです。

    阪急「服部天神」駅
    1910(明治43)年に小林一三氏によって開通した箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)には「服部天神」停留場が開設され、その2年後に天神の2文字が消えて「服部」駅に改称され、約100年の時を超えて2013年に「服部天神」駅に戻されました。これは「駅周辺の歴史的観光資源を分かりやすく案内する」という阪急電鉄の基本方針に則るものです。

  • 服部元町商店街<br />服部天神駅東口から始まる服部元町商店街が服部天神宮の参道となっており、商店街のアーチは服部天神への道標にもなっています。服部元町商店街は服部天神の門前町として栄えた場所で、路地裏には往時の名残が感じられます。

    服部元町商店街
    服部天神駅東口から始まる服部元町商店街が服部天神宮の参道となっており、商店街のアーチは服部天神への道標にもなっています。服部元町商店街は服部天神の門前町として栄えた場所で、路地裏には往時の名残が感じられます。

  • 服部元町商店街<br />下町情緒が漂う商店街です。<br />当地は大坂から池田、能勢、亀岡に通じる能勢街道の中間地点かつ宿場町であったことから門前市を形成し、江戸時代後期の文化・文政年間には繁華を極め、旅籠や料亭、茶店が軒を並べていたそうです。<br />全国から「足病平癒」や「足の守護」を願い、境内の旅籠に逗留して願を掛け、無事平癒を遂げた人々が各地に祀った「服部天神の御分霊社」は今も全国に点在していおり、江戸 本所の安部氏の屋敷内に祀られた分霊社に掲げられていた扁額『摂州服部天神』は勝海舟所縁のものとされ、戦後、俳人 萩原井泉水によって服部天神宮に奉納され、現在は本殿に掲げられています。

    服部元町商店街
    下町情緒が漂う商店街です。
    当地は大坂から池田、能勢、亀岡に通じる能勢街道の中間地点かつ宿場町であったことから門前市を形成し、江戸時代後期の文化・文政年間には繁華を極め、旅籠や料亭、茶店が軒を並べていたそうです。
    全国から「足病平癒」や「足の守護」を願い、境内の旅籠に逗留して願を掛け、無事平癒を遂げた人々が各地に祀った「服部天神の御分霊社」は今も全国に点在していおり、江戸 本所の安部氏の屋敷内に祀られた分霊社に掲げられていた扁額『摂州服部天神』は勝海舟所縁のものとされ、戦後、俳人 萩原井泉水によって服部天神宮に奉納され、現在は本殿に掲げられています。

  • 正面入口<br />服部天神宮の東側には国道176号線が通り、社殿は国道の方を向いています。<br />正面入口は、冠木門風のディスプレイがなければ見落としてしまいそうな街中にひっそりと佇みます。<br />こちらが正式の入口になりますが、駅からのアクセスの利便性から、西側にある裏鳥居から参拝される方が多いようです。

    正面入口
    服部天神宮の東側には国道176号線が通り、社殿は国道の方を向いています。
    正面入口は、冠木門風のディスプレイがなければ見落としてしまいそうな街中にひっそりと佇みます。
    こちらが正式の入口になりますが、駅からのアクセスの利便性から、西側にある裏鳥居から参拝される方が多いようです。

  • 東の鳥居<br />「服部」の地名から判るように、この地には渡来人の秦氏が集団で居住していました。天神宮の創建年代は不詳ですが、第19代 允恭天皇の世(412~53年)に織部司に任じられた秦氏が当地を服部連の本拠とした際、少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりとされます。往時は小さな祠だったそうです。<br />783(延暦2)年、川辺左大臣 藤原魚名が大宰府に左遷され筑紫国へ向かう途次、当地で病没して天神祠の近くに葬られたと伝わります。その約100年後の901(延喜元)年、菅原道真が魚名と同様に大宰権帥として左遷され赴任する途次、当地で持病の脚気に襲われ動けなくなった。そこで里人の勧めで路傍の天神祠と魚名を祀る五輪塔に平癒を祈念してみた。「高天原に…我が足病の平癒せしめ給わんことを、恐み恐み申す」。すると不思議なことに、たちまち足の状態は回復して任地へ辿り着けたと伝わります。<br />菅公が大宰府で没後、北野天満宮をはじめとして天神信仰の高まりと共に菅公を合祀することとなり、新たに堂宇が建立されました。この頃から「服部天神宮」と呼ばれるようになり、「菅公、脚気平癒の霊験」が広まり、次第に門前市を なす様になり、「脚気天神」や「足の神様」として全国から崇敬を受けるようになりました。現在の社殿 は1827(文政10)年に造営されたものです。

    東の鳥居
    「服部」の地名から判るように、この地には渡来人の秦氏が集団で居住していました。天神宮の創建年代は不詳ですが、第19代 允恭天皇の世(412~53年)に織部司に任じられた秦氏が当地を服部連の本拠とした際、少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりとされます。往時は小さな祠だったそうです。
    783(延暦2)年、川辺左大臣 藤原魚名が大宰府に左遷され筑紫国へ向かう途次、当地で病没して天神祠の近くに葬られたと伝わります。その約100年後の901(延喜元)年、菅原道真が魚名と同様に大宰権帥として左遷され赴任する途次、当地で持病の脚気に襲われ動けなくなった。そこで里人の勧めで路傍の天神祠と魚名を祀る五輪塔に平癒を祈念してみた。「高天原に…我が足病の平癒せしめ給わんことを、恐み恐み申す」。すると不思議なことに、たちまち足の状態は回復して任地へ辿り着けたと伝わります。
    菅公が大宰府で没後、北野天満宮をはじめとして天神信仰の高まりと共に菅公を合祀することとなり、新たに堂宇が建立されました。この頃から「服部天神宮」と呼ばれるようになり、「菅公、脚気平癒の霊験」が広まり、次第に門前市を なす様になり、「脚気天神」や「足の神様」として全国から崇敬を受けるようになりました。現在の社殿 は1827(文政10)年に造営されたものです。

  • 東の鳥居<br />落語で名高い『池田の猪(シシ)買い』にも能勢街道沿いの「服部の天神さん」が登場します。<br />ある冷え性の男が友人の甚兵衛を訪ねる。彼は池田にいる知人の猟師「六太夫」を紹介するから、新しい猪の肉で体を温めたらいい」と助言をくれ、そこへの道筋も教えてくれた。「服部の天神さんと言うお宮さんをば横手に見て、岡町から池田じゃ」と教えられた通りに進むが、男は物覚えが悪く、急ぐ通行人を捕まえては頓珍漢な質問をしたりと迷惑をかけながらも、なんとか池田の山中に辿り着き、六太夫に出会う。<br />男は彼に「撃ちたての新しい肉が欲しいんや、それに今日は猟が立つやろ」って焚き付けると、六太夫もその言葉を気に入り、早速夫婦の猪に標的を構えた。そして身が柔らかい雌の猪を首尾よくしとめる。<br />しかし、彼は「これ、本当にさっき撃ったばっかりの新しい奴か?」と、猪にのっかって難癖をつけたので六太夫もむっとして、わざと空砲を放つ。すると、急所を外され、気絶していただけの猪が起き上がり、そのまま男を連れて歩き出してしまった。男は慌てるが六太夫は得意顔で「ほれ客人よ、この通り新しい」。

    東の鳥居
    落語で名高い『池田の猪(シシ)買い』にも能勢街道沿いの「服部の天神さん」が登場します。
    ある冷え性の男が友人の甚兵衛を訪ねる。彼は池田にいる知人の猟師「六太夫」を紹介するから、新しい猪の肉で体を温めたらいい」と助言をくれ、そこへの道筋も教えてくれた。「服部の天神さんと言うお宮さんをば横手に見て、岡町から池田じゃ」と教えられた通りに進むが、男は物覚えが悪く、急ぐ通行人を捕まえては頓珍漢な質問をしたりと迷惑をかけながらも、なんとか池田の山中に辿り着き、六太夫に出会う。
    男は彼に「撃ちたての新しい肉が欲しいんや、それに今日は猟が立つやろ」って焚き付けると、六太夫もその言葉を気に入り、早速夫婦の猪に標的を構えた。そして身が柔らかい雌の猪を首尾よくしとめる。
    しかし、彼は「これ、本当にさっき撃ったばっかりの新しい奴か?」と、猪にのっかって難癖をつけたので六太夫もむっとして、わざと空砲を放つ。すると、急所を外され、気絶していただけの猪が起き上がり、そのまま男を連れて歩き出してしまった。男は慌てるが六太夫は得意顔で「ほれ客人よ、この通り新しい」。

  • 豊中三大文化人の碑<br />東の鳥居を潜った直ぐ左側に佇みます。<br />1990年に建立された石碑群で、その3人とは向かって左から「安田青風」「矢野橋村」「西田王堂」を指します。 <br />歌人「安田青風」<br />1895年に兵庫県で生まれ、姫路師範学校を卒業。その後、大阪樟蔭女子大や大阪城南女子短大にて日本文学の教鞭を執りました。大正2年に服部嘉香主宰の「現代詩文」に参加。昭和39年に大阪芸術賞受賞、昭和43年に短歌の創作と指導に尽力した功績により勲五等双光旭日章を受勲。<br />南画家「矢野橋村」<br />1890年に愛媛県で生まれ、昭和19年に豊中市刀根山に移住。その後、昭和23年に清風荘に転居。豊中市美術協会の発足に際しては参与として奔走し、第1~10回展まで同市美術展の審査委員を務めました。<br />昭和25年大阪府芸術賞、同34年大阪市民文化賞、同36年新日展出品の『錦楓』で日本芸術院賞を受賞。<br />書家「西田王堂」<br />1897年に香川県で生まれ、昭和19年に豊中市桜塚元町に疎開しました。豊中市美術協会の発足当初より書道部門の委員として参画し、同市美術展では審査委員を務めました。

    豊中三大文化人の碑
    東の鳥居を潜った直ぐ左側に佇みます。
    1990年に建立された石碑群で、その3人とは向かって左から「安田青風」「矢野橋村」「西田王堂」を指します。
    歌人「安田青風」
    1895年に兵庫県で生まれ、姫路師範学校を卒業。その後、大阪樟蔭女子大や大阪城南女子短大にて日本文学の教鞭を執りました。大正2年に服部嘉香主宰の「現代詩文」に参加。昭和39年に大阪芸術賞受賞、昭和43年に短歌の創作と指導に尽力した功績により勲五等双光旭日章を受勲。
    南画家「矢野橋村」
    1890年に愛媛県で生まれ、昭和19年に豊中市刀根山に移住。その後、昭和23年に清風荘に転居。豊中市美術協会の発足に際しては参与として奔走し、第1~10回展まで同市美術展の審査委員を務めました。
    昭和25年大阪府芸術賞、同34年大阪市民文化賞、同36年新日展出品の『錦楓』で日本芸術院賞を受賞。
    書家「西田王堂」
    1897年に香川県で生まれ、昭和19年に豊中市桜塚元町に疎開しました。豊中市美術協会の発足当初より書道部門の委員として参画し、同市美術展では審査委員を務めました。

  • 右手に小さな祠がありますが、由緒は不詳です。

    右手に小さな祠がありますが、由緒は不詳です。

  • 上島鬼貫の句碑<br />小祠の右奥にも石碑が並んでいます。<br />左から2つ目が上島鬼貫の句碑「賃とらで 象も田をかえす 動き哉」です。 右下に「鬼貫」と刻んでいます。<br />この句は、中国の『二十四孝』に登場する舜の親孝行に感動し、象が田を耕して手伝ったという故事に対して詠んだものです。句碑は、鬼貫に私淑していた伊丹の酒造家 梶金兵衛(曲阜)が1867(慶応3)年に建立しました。<br />鬼貫は1661(万治4)年に摂津国伊丹の酒造家 上島宗次の3男に生まれました。本名は宗邇(むねちか)、通称は与惣兵衛、別号は仏兄(さとえ)や馬楽童(ばらくどう)、槿花翁(とうかおう)などがあります。談林派の俳諧が軽くて真面目さを欠くことに不満を持ち、「まことの外に俳諧なし」と俳句に真実を求めました。「東の芭蕉、西の鬼貫」と称され、真価を高く認められた俳人でしたが、孤高を堅持し、門人を持つことをしなかったようです。<br />代表作に「によっぽりと 秋の空なる 富士の山」仏兄、「面白さ 急には見えぬ 薄(すすき)かな」、「行水の すてところなし 虫の聲」などがあります。尚、鬼貫の句碑は生地の伊丹市内に数多く見られます。

    上島鬼貫の句碑
    小祠の右奥にも石碑が並んでいます。
    左から2つ目が上島鬼貫の句碑「賃とらで 象も田をかえす 動き哉」です。 右下に「鬼貫」と刻んでいます。
    この句は、中国の『二十四孝』に登場する舜の親孝行に感動し、象が田を耕して手伝ったという故事に対して詠んだものです。句碑は、鬼貫に私淑していた伊丹の酒造家 梶金兵衛(曲阜)が1867(慶応3)年に建立しました。
    鬼貫は1661(万治4)年に摂津国伊丹の酒造家 上島宗次の3男に生まれました。本名は宗邇(むねちか)、通称は与惣兵衛、別号は仏兄(さとえ)や馬楽童(ばらくどう)、槿花翁(とうかおう)などがあります。談林派の俳諧が軽くて真面目さを欠くことに不満を持ち、「まことの外に俳諧なし」と俳句に真実を求めました。「東の芭蕉、西の鬼貫」と称され、真価を高く認められた俳人でしたが、孤高を堅持し、門人を持つことをしなかったようです。
    代表作に「によっぽりと 秋の空なる 富士の山」仏兄、「面白さ 急には見えぬ 薄(すすき)かな」、「行水の すてところなし 虫の聲」などがあります。尚、鬼貫の句碑は生地の伊丹市内に数多く見られます。

  • 天神丸の碑<br />服部天神宮は、全国から脚気を患った人々が参拝し、境内の旅籠に永く逗留し、全治の上帰参しました。森田神納堂(天神丸本舗)は、参拝客を目当てに境内に出店し、繁盛したと伝えられます。しかし主人が奢りたかぶり、「天神さんは画き絵の天神が脚気の王様となったまでで、脚気が治るのはうちの天神丸があるかじゃ」と大口をたたいたため、神社の逆鱗に触れて天神丸本舗は境外に放逐されました。それ以後、さっぱり売れなくなり、やがて店を閉めたと伝わります。<br />この碑は、元の本舗跡に建てられていたものを宮司の手によって境内に移築したものです。後世への戒めを込めた石碑と言えるでしょう。どこかの国の傲慢極まりない総理大臣に拝んでいただきたい石碑です。

    天神丸の碑
    服部天神宮は、全国から脚気を患った人々が参拝し、境内の旅籠に永く逗留し、全治の上帰参しました。森田神納堂(天神丸本舗)は、参拝客を目当てに境内に出店し、繁盛したと伝えられます。しかし主人が奢りたかぶり、「天神さんは画き絵の天神が脚気の王様となったまでで、脚気が治るのはうちの天神丸があるかじゃ」と大口をたたいたため、神社の逆鱗に触れて天神丸本舗は境外に放逐されました。それ以後、さっぱり売れなくなり、やがて店を閉めたと伝わります。
    この碑は、元の本舗跡に建てられていたものを宮司の手によって境内に移築したものです。後世への戒めを込めた石碑と言えるでしょう。どこかの国の傲慢極まりない総理大臣に拝んでいただきたい石碑です。

  • 祖霊社・招魂社<br />手水舎の手前にある建屋です。<br />堂内には、中央にある「川辺左大臣 藤原魚名公の墓」を挟んで「祖霊社」と「招魂社」が並びます。<br />祖霊社と招魂社では神社にまつわる先祖の方々だけでなく、明治維新後の戦争などで国のために殉難した死者を奉祀しています。

    祖霊社・招魂社
    手水舎の手前にある建屋です。
    堂内には、中央にある「川辺左大臣 藤原魚名公の墓」を挟んで「祖霊社」と「招魂社」が並びます。
    祖霊社と招魂社では神社にまつわる先祖の方々だけでなく、明治維新後の戦争などで国のために殉難した死者を奉祀しています。

  • 祖霊社・招魂社<br />向かって右側の「祖霊社」は、明治30年の大阪博物館に建造された能舞台が昭和2年に大阪天満宮に移築され、更に昭和52年に服部住吉神社に移築された時、同舞台の鏡の間をこの地に移築して祖霊社としたものです。

    祖霊社・招魂社
    向かって右側の「祖霊社」は、明治30年の大阪博物館に建造された能舞台が昭和2年に大阪天満宮に移築され、更に昭和52年に服部住吉神社に移築された時、同舞台の鏡の間をこの地に移築して祖霊社としたものです。

  • 祖霊社・招魂社 川辺左大臣 藤原魚名公の墓<br />天神宮の由緒にも登場した、藤原鎌足の曽孫(藤原房前の息子)にして光仁、桓武両朝で要職を歴任した藤原魚名の墓(中央の五輪塔)があります。<br />菅公より更に100年程昔、同じように大宰府に赴く途中、この地で病気になり亡くなりました。菅公は、「私も同じ運命を辿ることになり、ここで果てるのだろうか…」と我が身を振り返り、魚名の霊を手厚く弔ったと伝わります。<br />脚気が完治した菅公は、少彦名命と藤原魚名の霊力に感謝しつつ、九州へ片道切符の旅に出立したのでした。<br />「足の神様」に祈願したい方は、社殿と共にこちらのお墓にも手を合わせるとご利益も倍になるかも!?

    祖霊社・招魂社 川辺左大臣 藤原魚名公の墓
    天神宮の由緒にも登場した、藤原鎌足の曽孫(藤原房前の息子)にして光仁、桓武両朝で要職を歴任した藤原魚名の墓(中央の五輪塔)があります。
    菅公より更に100年程昔、同じように大宰府に赴く途中、この地で病気になり亡くなりました。菅公は、「私も同じ運命を辿ることになり、ここで果てるのだろうか…」と我が身を振り返り、魚名の霊を手厚く弔ったと伝わります。
    脚気が完治した菅公は、少彦名命と藤原魚名の霊力に感謝しつつ、九州へ片道切符の旅に出立したのでした。
    「足の神様」に祈願したい方は、社殿と共にこちらのお墓にも手を合わせるとご利益も倍になるかも!?

  • 祖霊社・招魂社 川辺左大臣 藤原魚名公の墓<br />奈良時代末期の貴族であり政治家として要職を歴任し左大臣まで昇り詰めるも、延暦元年、左大臣を突然解任され、一転、大宰府への下向の命が下されました。理由は不詳ですが、専制君主制を目指す桓武天皇と太政官による議会制を推し進めたい魚名との立場の違いによるものと推察する説が有力です。また、桓武天皇即位直後に起きた氷上川継の乱(天智天皇の血筋である桓武に対し、天武天皇の系統に繋がる川継が謀反を企てた事件)に連座したとの説もあります。<br />太宰府に左遷の途次、魚名の摂津国別荘「川辺荘」において病に臥して身を動かすことあたわず京にて帰養すべしと恩勅があったものの、この地で儚く没したと伝わります。<br />魚名の子孫の正統は四条家とされ、四条流包丁道を伝えました。こうしたことから魚名は、日本料理、割烹料理の祖神として料理飲食を業とする方々の崇敬を集めています。 因みに、往年の宝塚歌劇団の名スター 春日野八千代さんは魚名の子孫に当たるそうです。

    祖霊社・招魂社 川辺左大臣 藤原魚名公の墓
    奈良時代末期の貴族であり政治家として要職を歴任し左大臣まで昇り詰めるも、延暦元年、左大臣を突然解任され、一転、大宰府への下向の命が下されました。理由は不詳ですが、専制君主制を目指す桓武天皇と太政官による議会制を推し進めたい魚名との立場の違いによるものと推察する説が有力です。また、桓武天皇即位直後に起きた氷上川継の乱(天智天皇の血筋である桓武に対し、天武天皇の系統に繋がる川継が謀反を企てた事件)に連座したとの説もあります。
    太宰府に左遷の途次、魚名の摂津国別荘「川辺荘」において病に臥して身を動かすことあたわず京にて帰養すべしと恩勅があったものの、この地で儚く没したと伝わります。
    魚名の子孫の正統は四条家とされ、四条流包丁道を伝えました。こうしたことから魚名は、日本料理、割烹料理の祖神として料理飲食を業とする方々の崇敬を集めています。 因みに、往年の宝塚歌劇団の名スター 春日野八千代さんは魚名の子孫に当たるそうです。

  • 祖霊社・招魂社<br />猪目や模様細工が美しい錠前です。<br />

    祖霊社・招魂社
    猪目や模様細工が美しい錠前です。

  • 祖霊社・招魂社<br />文化・文政年間の境内図が掲げられています。<br />この建屋の中に服部の地名の由来も書かれていました。<br />中国あるいはモンゴル、もっと先の中東アジアから流れ流れて日本に渡来した人々は、日本に様々な先進技術をもたらしました。その中でも機織りの技術に長けた氏族は秦氏(はたうじ)の姓名を与えられ、日本各地に住み着きました。この「服部」の地もその内のひとつです。秦氏の人々が住むところなので「機織部(はたおりべ)」が転じて「服部」という地名になったと伝わります。

    祖霊社・招魂社
    文化・文政年間の境内図が掲げられています。
    この建屋の中に服部の地名の由来も書かれていました。
    中国あるいはモンゴル、もっと先の中東アジアから流れ流れて日本に渡来した人々は、日本に様々な先進技術をもたらしました。その中でも機織りの技術に長けた氏族は秦氏(はたうじ)の姓名を与えられ、日本各地に住み着きました。この「服部」の地もその内のひとつです。秦氏の人々が住むところなので「機織部(はたおりべ)」が転じて「服部」という地名になったと伝わります。

  • 祖霊社・招魂社<br />菅原道真を祀る服部天神宮ですが、菅公のトレードマークとなる「撫で牛」は何処にもありません。<br />敢えて牛繫がりと言えそうなのは、明治45年奉納のこの額が唯一無二のものとなります。

    祖霊社・招魂社
    菅原道真を祀る服部天神宮ですが、菅公のトレードマークとなる「撫で牛」は何処にもありません。
    敢えて牛繫がりと言えそうなのは、明治45年奉納のこの額が唯一無二のものとなります。

  • 祖霊社・招魂社<br />奉納された額はどれも色褪せて時の流れを感じさせます。

    祖霊社・招魂社
    奉納された額はどれも色褪せて時の流れを感じさせます。

  • 祖霊社・招魂社 <br />ここには掲げられていませが、服部天神宮が保存する算額の内の一面は、1843(天保14)年に近道流 吉田傅兵衛によって奉納されたもので、現在大阪府下に残る江戸時代の算額9面のうちの一面です。もう一面は、1876(明治9)年に若狭小浜の士族井村剛治によって奉納されたもので、代数や微積分等西洋の数学を紹介した貴重な資料です。いずれも近世庶民文化の一面を今に伝える貴重なものです。<br />また、算額を神社仏閣等に奉納する風習は寛文年間(1661~73年)の頃から始まったと伝わります。

    祖霊社・招魂社
    ここには掲げられていませが、服部天神宮が保存する算額の内の一面は、1843(天保14)年に近道流 吉田傅兵衛によって奉納されたもので、現在大阪府下に残る江戸時代の算額9面のうちの一面です。もう一面は、1876(明治9)年に若狭小浜の士族井村剛治によって奉納されたもので、代数や微積分等西洋の数学を紹介した貴重な資料です。いずれも近世庶民文化の一面を今に伝える貴重なものです。
    また、算額を神社仏閣等に奉納する風習は寛文年間(1661~73年)の頃から始まったと伝わります。

  • 手水舎<br />東の鳥居からの距離はさほどないのですが、寄り道先が多くここに辿り着くのに時間を要しました。

    手水舎
    東の鳥居からの距離はさほどないのですが、寄り道先が多くここに辿り着くのに時間を要しました。

  • 手水舎<br />おみくじ結び所の菅原道真の家紋「梅鉢紋」が可愛いです。<br /><br /><br />

    手水舎
    おみくじ結び所の菅原道真の家紋「梅鉢紋」が可愛いです。


  • 手水舎 菅原道真公の銅像<br />2001年(平成14年)祭神である菅原道真没後1100年を記念して造られました。<br />東を向いて座っておられるのは、故郷の京都を偲んでおられるのでしょうか?<br />膝小僧ががこすれてピカピカになっていますが、恐らく膝を痛めている方々が撫でていったのでしょう。

    手水舎 菅原道真公の銅像
    2001年(平成14年)祭神である菅原道真没後1100年を記念して造られました。
    東を向いて座っておられるのは、故郷の京都を偲んでおられるのでしょうか?
    膝小僧ががこすれてピカピカになっていますが、恐らく膝を痛めている方々が撫でていったのでしょう。

  • 手水舎<br />手水舎の大きさの割にはこじんまりした手水鉢です。

    手水舎
    手水舎の大きさの割にはこじんまりした手水鉢です。

  • 草履(わらじ)堂<br />手水舎の奥に「草履堂」と呼ばれるガラス張りの堂宇があり、その中に鉄や木の草履、靴、松葉杖、千羽鶴、スリッパなどが山積みにされています。足の病が完治した人々がお礼に奉納されたものばかりです。ここ服部天神宮では、祈願し足病が平癒した暁には新しい草履を奉納する習わしです。奉納草履は社務所で購入できます。

    草履(わらじ)堂
    手水舎の奥に「草履堂」と呼ばれるガラス張りの堂宇があり、その中に鉄や木の草履、靴、松葉杖、千羽鶴、スリッパなどが山積みにされています。足の病が完治した人々がお礼に奉納されたものばかりです。ここ服部天神宮では、祈願し足病が平癒した暁には新しい草履を奉納する習わしです。奉納草履は社務所で購入できます。

  • 草履堂<br />「草履堂」の名の由来は、かつて足の病に悩む人が自作の草履を納めたことに因みます。なかには明治や大正時代の草履額も見受けられますが、ガラスケースの中に入れられており、光が反射して見難いのが難点です。 

    草履堂
    「草履堂」の名の由来は、かつて足の病に悩む人が自作の草履を納めたことに因みます。なかには明治や大正時代の草履額も見受けられますが、ガラスケースの中に入れられており、光が反射して見難いのが難点です。 

  • 草履堂<br />奉納品は江戸時代にまで遡り、初代・3代目 中村歌右衛門をはじめ芸人や力士、沖仲士(船舶内で貨物の積み降ろし作業に従事する労働者)などから篤く信仰されていたことが窺えます。<br />

    草履堂
    奉納品は江戸時代にまで遡り、初代・3代目 中村歌右衛門をはじめ芸人や力士、沖仲士(船舶内で貨物の積み降ろし作業に従事する労働者)などから篤く信仰されていたことが窺えます。

  • 草履堂<br />赤錆が浮き出ていないため、青銅製の額と思われます。<br />

    草履堂
    赤錆が浮き出ていないため、青銅製の額と思われます。

  • 草履堂<br />松葉杖や入院中に使用したと思しき使い古したスリッパの奉納はとてもリアルで、同じ悩みを持つ者にとっては見ているだけで希望を授けてくれます。

    草履堂
    松葉杖や入院中に使用したと思しき使い古したスリッパの奉納はとてもリアルで、同じ悩みを持つ者にとっては見ているだけで希望を授けてくれます。

  • 初酉稲荷大明神<br />江戸時代初期にこの地に創建され、崇敬されてきた古社です。<br />

    初酉稲荷大明神
    江戸時代初期にこの地に創建され、崇敬されてきた古社です。

  • 初酉稲荷大明神<br />1977(昭和52)年、菅公御神退1075年祭を記念し、社殿の造営が行われました。<br />更に伏見稲荷大社より十二支稲荷を勧請し、以後「初酉敬神講」を「初酉稲荷講」と改称して今日に至ります。

    初酉稲荷大明神
    1977(昭和52)年、菅公御神退1075年祭を記念し、社殿の造営が行われました。
    更に伏見稲荷大社より十二支稲荷を勧請し、以後「初酉敬神講」を「初酉稲荷講」と改称して今日に至ります。

  • 初酉稲荷大明神<br />あまり見かけない稲荷社の形態です。中央の大きい社「初酉稲荷大明神」の周りを囲むようにひと回り小さな社(十一支)が並んでいます。見上げるとそれぞれの提灯には、「初子…」「初丑…」…と書かれており、干支毎に参拝する社が異なり、親近感があります。<br />祭神はいずれも、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ=伊勢神宮外宮や伏見稲荷大社の祭神)です。生活に不可欠の衣食住の守護神であり、時代によって五穀豊穣、商売繁盛、仕事運という具合にご利益が発展してきた神様です。

    初酉稲荷大明神
    あまり見かけない稲荷社の形態です。中央の大きい社「初酉稲荷大明神」の周りを囲むようにひと回り小さな社(十一支)が並んでいます。見上げるとそれぞれの提灯には、「初子…」「初丑…」…と書かれており、干支毎に参拝する社が異なり、親近感があります。
    祭神はいずれも、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ=伊勢神宮外宮や伏見稲荷大社の祭神)です。生活に不可欠の衣食住の守護神であり、時代によって五穀豊穣、商売繁盛、仕事運という具合にご利益が発展してきた神様です。

  • 服部天神宮 拝殿<br />正面の外観は、このように雨風を凌げるように神前や社務所周りは「テント張り」にされ、カメラ写りにはガッカリさせられます。<br />しかし実際にテントの下に入ると雨や風、雪、熱中症対策に効果的であり、「参拝者に優しい神社」と感じることができます。「名を捨てて実を取る」天神宮と言えます。

    服部天神宮 拝殿
    正面の外観は、このように雨風を凌げるように神前や社務所周りは「テント張り」にされ、カメラ写りにはガッカリさせられます。
    しかし実際にテントの下に入ると雨や風、雪、熱中症対策に効果的であり、「参拝者に優しい神社」と感じることができます。「名を捨てて実を取る」天神宮と言えます。

  • 服部天神宮 拝殿<br />昭和27年の菅公御神退1050年祭を記念して造営されました。旧拝殿(天保9年建造)は境内南側に移築され、祭器庫として現存しています。<br />少彦名命のご神徳により、あらゆる病気の平癒にご利益がありますが、特に「足病の平癒」「足怪我の平癒」に効果があり、プロサッカー選手などからの信仰を集めています。<br />また、菅原道真のご神徳により、学業の向上や合格祈願、武運のご利益も頂けます。

    服部天神宮 拝殿
    昭和27年の菅公御神退1050年祭を記念して造営されました。旧拝殿(天保9年建造)は境内南側に移築され、祭器庫として現存しています。
    少彦名命のご神徳により、あらゆる病気の平癒にご利益がありますが、特に「足病の平癒」「足怪我の平癒」に効果があり、プロサッカー選手などからの信仰を集めています。
    また、菅原道真のご神徳により、学業の向上や合格祈願、武運のご利益も頂けます。

  • 服部天神宮 拝殿 少彦名命(すくなびこなのみこと)<br />服部天神宮にある「天神」の名称は、少彦名命によるものです。<br />古事記では神皇産霊神の子神とされ、日本書紀では高皇産霊神の子とされます。いずれにしても天地創生の時に現れた神々「造化三神」の子とされます。<br />ガガイモの船に乗って海の彼方からやってきた小さな神とされており、大国主命の名参謀として国造りに奔走した神です。尚、海の彼方からやって来たとされることから、元々は渡来系の神であったとする説もあります。<br />医薬の神や温泉の神、まじないの神など様々な側面を持つ神です。

    服部天神宮 拝殿 少彦名命(すくなびこなのみこと)
    服部天神宮にある「天神」の名称は、少彦名命によるものです。
    古事記では神皇産霊神の子神とされ、日本書紀では高皇産霊神の子とされます。いずれにしても天地創生の時に現れた神々「造化三神」の子とされます。
    ガガイモの船に乗って海の彼方からやってきた小さな神とされており、大国主命の名参謀として国造りに奔走した神です。尚、海の彼方からやって来たとされることから、元々は渡来系の神であったとする説もあります。
    医薬の神や温泉の神、まじないの神など様々な側面を持つ神です。

  • 服部天神宮 拝殿 菅原道真<br />平安時代の貴族で政治家。実力で右大臣まで昇りつめた大秀才であり、それが学問の神様と称される所以です。しかし、ライバルの讒言によって福岡の大宰府に左遷させられ、ほどなく死去した悲運の人でもあります。<br />死を前にして拝天山に登り、自らの潔白を宣言した祭文を読み上げると、「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたと言い、この時点で神となったとされます。<br />その怨念は凄まじく「祟り神」となり、崇徳天皇や平将門と並ぶ「日本三大怨霊」のひとりとされています。没後に怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建され、現在では「学問の神様」として昇華されたとされています。「祟り神」ゆえ、そのパワーは絶大です。

    服部天神宮 拝殿 菅原道真
    平安時代の貴族で政治家。実力で右大臣まで昇りつめた大秀才であり、それが学問の神様と称される所以です。しかし、ライバルの讒言によって福岡の大宰府に左遷させられ、ほどなく死去した悲運の人でもあります。
    死を前にして拝天山に登り、自らの潔白を宣言した祭文を読み上げると、「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたと言い、この時点で神となったとされます。
    その怨念は凄まじく「祟り神」となり、崇徳天皇や平将門と並ぶ「日本三大怨霊」のひとりとされています。没後に怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建され、現在では「学問の神様」として昇華されたとされています。「祟り神」ゆえ、そのパワーは絶大です。

  • 服部天神宮 本殿・幣殿<br />1827(文政10)年に崇敬者の浄財寄進によって造営されたもので、内陣は仏教的な色彩を呈しています。 造営時の棟札が本殿の天井裏に現存しているそうです。<br />朱と白、緑、黄金色のコントラストが優美な社殿です。黄金地の神額には『天神宮』とあり、幣殿に向かって右に「少彦名命」、左に「菅原道真公」を祀っています。

    服部天神宮 本殿・幣殿
    1827(文政10)年に崇敬者の浄財寄進によって造営されたもので、内陣は仏教的な色彩を呈しています。 造営時の棟札が本殿の天井裏に現存しているそうです。
    朱と白、緑、黄金色のコントラストが優美な社殿です。黄金地の神額には『天神宮』とあり、幣殿に向かって右に「少彦名命」、左に「菅原道真公」を祀っています。

  • 服部天神宮 本殿<br />本殿に奉納された絵馬。<br />左から順に、姫路市出身の女子20km競歩の日本記録保持者である渕瀬真寿美さん、近畿地方を拠点に活動するエレクトーン奏者でありミュージシャンでもある小椋寛子さん(服部天神宮でミス福娘を務められたご縁でしょうか?)、通称「ミスター・トラ(阪神タイガース)」のプロ野球中継専属リポーター・ラジオパーソナリティ 唐渡吉則氏、失礼ながら正体不詳の藤原安雄氏。

    服部天神宮 本殿
    本殿に奉納された絵馬。
    左から順に、姫路市出身の女子20km競歩の日本記録保持者である渕瀬真寿美さん、近畿地方を拠点に活動するエレクトーン奏者でありミュージシャンでもある小椋寛子さん(服部天神宮でミス福娘を務められたご縁でしょうか?)、通称「ミスター・トラ(阪神タイガース)」のプロ野球中継専属リポーター・ラジオパーソナリティ 唐渡吉則氏、失礼ながら正体不詳の藤原安雄氏。

  • 服部天神宮 本殿<br />左から順に、浜村淳氏、梅田淳氏、青芝フック氏、宝塚歌劇団、釜本邦茂氏、ガンバ大阪の選手、遠藤選手、豊中市出身のプロサッカー 大黒選手と連なります。 <br />天神さんのご利益にあずかったスポーツ選手は多く、メキシコ五輪のサッカー得点王 釜本邦茂氏は、現役時代からしばしば参拝に訪れていたそうです。他にも阪急ブレーブス時代に13年連続で盗塁王を獲得した福本豊氏やプロサッカー選手の参拝も多いそうです。

    服部天神宮 本殿
    左から順に、浜村淳氏、梅田淳氏、青芝フック氏、宝塚歌劇団、釜本邦茂氏、ガンバ大阪の選手、遠藤選手、豊中市出身のプロサッカー 大黒選手と連なります。
    天神さんのご利益にあずかったスポーツ選手は多く、メキシコ五輪のサッカー得点王 釜本邦茂氏は、現役時代からしばしば参拝に訪れていたそうです。他にも阪急ブレーブス時代に13年連続で盗塁王を獲得した福本豊氏やプロサッカー選手の参拝も多いそうです。

  • 服部天神宮 社務所<br />参拝後はお守りと御朱印を授与していただき、社務所に立ち寄ります。<br />玄関の蟇股にも梅鉢紋が誇らしげです。<br />こちらでは、玄関先に展示された豪華な奉納品で目の保養をしておきます。

    服部天神宮 社務所
    参拝後はお守りと御朱印を授与していただき、社務所に立ち寄ります。
    玄関の蟇股にも梅鉢紋が誇らしげです。
    こちらでは、玄関先に展示された豪華な奉納品で目の保養をしておきます。

  • 服部天神宮 社務所<br />巨大なアメジスト(紫水晶)の原石です。<br />アメジストは、「愛の守護石」や「真実の愛を守りぬく石」と呼ばれ、2月の誕生石として知られています。水晶の色変種の中でも、最高位に評価されています。<br />アメジストの神秘的な紫色は、古代から愛されてきました。特に日本では、最も気高い色とされ、宗教的な儀式に用いられてきた色です。歴史的には、聖徳太子が定めた『冠位十二階』で最高位の色として崇められ、また中国では皇帝だけが身に着けることを許された色です。<br />ギリシア神話では、アメジストは美少女の化身とされています。酒に酔ったバッカス(お酒の神)が、最初に出会った者をピューマに襲わせようと企てた時、そこに通りかかったのが月の女神の女官 アメジストでした。バッカスが獣をけしかけ、今にも襲われるという刹那、惨事に気付いた月の女神がアメジストを一瞬にして純白の水晶に変えました。<br />その後、酔いが覚めたバッカスは謝罪し、水晶に葡萄酒を注ぎました。すると透き通った紫色に変わり、美しい紫色の宝石「アメジスト」になったと言われています。<br />語源となったギリシア語の「amethystos」は「酒に酔わない」という意で、古代ローマではアメジストから作られた杯でお酒を楽しめば、お酒からだけでなく人生の悪酔いから自身を守ってくれるという言い伝えがあります。

    服部天神宮 社務所
    巨大なアメジスト(紫水晶)の原石です。
    アメジストは、「愛の守護石」や「真実の愛を守りぬく石」と呼ばれ、2月の誕生石として知られています。水晶の色変種の中でも、最高位に評価されています。
    アメジストの神秘的な紫色は、古代から愛されてきました。特に日本では、最も気高い色とされ、宗教的な儀式に用いられてきた色です。歴史的には、聖徳太子が定めた『冠位十二階』で最高位の色として崇められ、また中国では皇帝だけが身に着けることを許された色です。
    ギリシア神話では、アメジストは美少女の化身とされています。酒に酔ったバッカス(お酒の神)が、最初に出会った者をピューマに襲わせようと企てた時、そこに通りかかったのが月の女神の女官 アメジストでした。バッカスが獣をけしかけ、今にも襲われるという刹那、惨事に気付いた月の女神がアメジストを一瞬にして純白の水晶に変えました。
    その後、酔いが覚めたバッカスは謝罪し、水晶に葡萄酒を注ぎました。すると透き通った紫色に変わり、美しい紫色の宝石「アメジスト」になったと言われています。
    語源となったギリシア語の「amethystos」は「酒に酔わない」という意で、古代ローマではアメジストから作られた杯でお酒を楽しめば、お酒からだけでなく人生の悪酔いから自身を守ってくれるという言い伝えがあります。

  • 服部天神宮 社務所<br />文化・文政年間、3代目 中村歌右衛門の奉納した「みくじ箱」をはじめ芸能人か らの奉納品が数多く残されており、足を大切にした芸人や飛脚などが如何に当社を信仰していたかを物語っています。

    服部天神宮 社務所
    文化・文政年間、3代目 中村歌右衛門の奉納した「みくじ箱」をはじめ芸能人か らの奉納品が数多く残されており、足を大切にした芸人や飛脚などが如何に当社を信仰していたかを物語っています。

  • 服部天神宮 社務所<br />大皿です。

    服部天神宮 社務所
    大皿です。

  • 服部天神宮 社務所<br />アンモライトは、7千万年前のアンモナイトの化石のうち、表面に付着したアラゴナイト層が光の干渉により虹色や金色に光り輝く生物起源の宝石です。ロッキー山脈の東斜面にのみ産出する希少な宝石とされ、1981年に世界宝石連盟はアンモライトを公式に宝石として認定しました。<br />それ故、アンモライトは自分の中に輝く可能性がある事を教えてくれる宝石とされています。

    服部天神宮 社務所
    アンモライトは、7千万年前のアンモナイトの化石のうち、表面に付着したアラゴナイト層が光の干渉により虹色や金色に光り輝く生物起源の宝石です。ロッキー山脈の東斜面にのみ産出する希少な宝石とされ、1981年に世界宝石連盟はアンモライトを公式に宝石として認定しました。
    それ故、アンモライトは自分の中に輝く可能性がある事を教えてくれる宝石とされています。

  • 服部天神宮 社務所<br />「天満大自在天神」とは学問の神様である菅原道真のことです。<br />「西田建男 敬書」とあります。<br />

    服部天神宮 社務所
    「天満大自在天神」とは学問の神様である菅原道真のことです。
    「西田建男 敬書」とあります。

  • 服部天神宮 社務所<br />錦袋が朱、青、白、緑色のカラフルなお守りに加え、足の肌守り、わらじ守りもあります。

    服部天神宮 社務所
    錦袋が朱、青、白、緑色のカラフルなお守りに加え、足の肌守り、わらじ守りもあります。

  • 服部天神宮 社務所<br />サッカー選手に人気のサッカーボールが付いた「サッカー守り」です。<br />「健康は足から」とも言われるため、スポーツをする人もしない人も参拝していただければと思います。

    服部天神宮 社務所
    サッカー選手に人気のサッカーボールが付いた「サッカー守り」です。
    「健康は足から」とも言われるため、スポーツをする人もしない人も参拝していただければと思います。

  • 絵馬奉納所<br />奉納された絵馬が社殿の横壁に鈴なりです。

    絵馬奉納所
    奉納された絵馬が社殿の横壁に鈴なりです。

  • 絵馬奉納所<br />わらじの絵と梅鉢紋をあしらったオーソドックスな形の「足の守護」絵馬です。

    絵馬奉納所
    わらじの絵と梅鉢紋をあしらったオーソドックスな形の「足の守護」絵馬です。

  • 絵馬奉納所<br />わらじを象った「ぞうり型」絵馬です。

    絵馬奉納所
    わらじを象った「ぞうり型」絵馬です。

  • 絵馬奉納所<br />現在でもフィギアスケートの羽生結弦選手の足の怪我を気遣う絵馬が沢山見受けられます。2018年2月に開催された平昌オリンピック前には、右足関節外側靱帯を損傷した羽生選手のファンが連日参拝していたそうです。関西には羽生選手のファンの聖地と称される神戸市にある弓弦羽(ゆづるは)神社がありますが、「足の神様」に参拝するファンの思いは切実でした。絵馬には羽生選手の回復を願う言葉が認められ、そのおかげで男子66年ぶりの五輪連覇を達成できました。<br />これも服部天神宮のご利益だったのかもしれません!?

    絵馬奉納所
    現在でもフィギアスケートの羽生結弦選手の足の怪我を気遣う絵馬が沢山見受けられます。2018年2月に開催された平昌オリンピック前には、右足関節外側靱帯を損傷した羽生選手のファンが連日参拝していたそうです。関西には羽生選手のファンの聖地と称される神戸市にある弓弦羽(ゆづるは)神社がありますが、「足の神様」に参拝するファンの思いは切実でした。絵馬には羽生選手の回復を願う言葉が認められ、そのおかげで男子66年ぶりの五輪連覇を達成できました。
    これも服部天神宮のご利益だったのかもしれません!?

  • 服部天神宮<br />社殿の裏側にも参拝所(後拝)が設けられています。<br />伊弉諾(いざなぎ)神宮にも本殿裏の神様に一番近い所に「参拝所」があり、絶大なパワーを授与できるとも言われています。<br />服部天神宮では神社奉護のため、夜間は閉門され参拝ができません。しかし、裏鳥居からこちらの後拝までは常時開放されており、夜間でも後拝前でなら参拝することができます。

    服部天神宮
    社殿の裏側にも参拝所(後拝)が設けられています。
    伊弉諾(いざなぎ)神宮にも本殿裏の神様に一番近い所に「参拝所」があり、絶大なパワーを授与できるとも言われています。
    服部天神宮では神社奉護のため、夜間は閉門され参拝ができません。しかし、裏鳥居からこちらの後拝までは常時開放されており、夜間でも後拝前でなら参拝することができます。

  • 服部天神宮<br />鬼瓦など随所にこれでもかと梅鉢紋が配されています。

    服部天神宮
    鬼瓦など随所にこれでもかと梅鉢紋が配されています。

  • 服部天神宮<br />改修時に取り外された瓦でしょうか、こうした龍の飾り瓦も展示されています。

    服部天神宮
    改修時に取り外された瓦でしょうか、こうした龍の飾り瓦も展示されています。

  • 服部天神宮<br />社殿の裏側にできたこの行列は何なのでしょうか?<br />これは「足踏み石」祈願の順番待ちです。

    服部天神宮
    社殿の裏側にできたこの行列は何なのでしょうか?
    これは「足踏み石」祈願の順番待ちです。

  • 服部天神宮<br />人がいなければ墓石かと思ってしまうような「足踏み石と台座」です。<br />ここで健脚や足病平癒を祈願します。<br />

    服部天神宮
    人がいなければ墓石かと思ってしまうような「足踏み石と台座」です。
    ここで健脚や足病平癒を祈願します。

  • 服部天神宮<br />作法は次の通りです。<br />1.靴を脱ぐ。<br />2.台座の手前にある丸い小石を敷き詰めた四角形の中で、本殿に向かって立つ。<br />3.二礼二拍手一礼。<br />4.台座に座り、具体的な祈願を念じながら治癒したい部位を撫でる。

    服部天神宮
    作法は次の通りです。
    1.靴を脱ぐ。
    2.台座の手前にある丸い小石を敷き詰めた四角形の中で、本殿に向かって立つ。
    3.二礼二拍手一礼。
    4.台座に座り、具体的な祈願を念じながら治癒したい部位を撫でる。

  • 服部天神宮<br />この角度からは天神宮の全景が想像できます。<br />

    服部天神宮
    この角度からは天神宮の全景が想像できます。

  • 豊中えびす神社<br />境内社として蛭子大神を祀る「豊中えびす神社」も併設しています。「足の神様」と「えべっさん」はどのような繫がりがあるのかと訝しがる方も多いかもしれません。その訳は、「足の守護」は「おあし(お金)の守護」に通ずるとか…。<br />因みに、伊丹空港にも近いため、着陸体制に入った飛行機が低空飛行する姿も拝めます。

    豊中えびす神社
    境内社として蛭子大神を祀る「豊中えびす神社」も併設しています。「足の神様」と「えべっさん」はどのような繫がりがあるのかと訝しがる方も多いかもしれません。その訳は、「足の守護」は「おあし(お金)の守護」に通ずるとか…。
    因みに、伊丹空港にも近いため、着陸体制に入った飛行機が低空飛行する姿も拝めます。

  • 大絵馬<br />天神宮の拝殿と並んで建つ豊中えびす神社の手前に安置された大絵馬です。<br />

    大絵馬
    天神宮の拝殿と並んで建つ豊中えびす神社の手前に安置された大絵馬です。

  • 境内の楠<br />こちらも樹齢数百年の巨木です。

    境内の楠
    こちらも樹齢数百年の巨木です。

  • 豊中えびす神社<br />現在の社殿は2017年に改築竣工したものです。<br />1951(昭和25)年、往時の天神宮の宮司が祭典を奉仕していた繁昌稲荷社(サントリ-の創始者 鳥井氏の邸宅内)の建替を契機に神殿(室町時代の建造)を譲り受け、全国に名だたる「足の神様」である服部天神宮に移築し、西宮神社より分霊を勧請して祀ったと伝わります。<br />その後、氏子や地元商店、豊中商工会の有志が服部えびす講を発足させ昭和26年正月、第1回「服部えびす祭」が斎行されました。時を経て平成15年に「豊中えびす祭」と改称し、今や35万人の参詣者が集う北摂屈指のえべっさんとなっています。

    豊中えびす神社
    現在の社殿は2017年に改築竣工したものです。
    1951(昭和25)年、往時の天神宮の宮司が祭典を奉仕していた繁昌稲荷社(サントリ-の創始者 鳥井氏の邸宅内)の建替を契機に神殿(室町時代の建造)を譲り受け、全国に名だたる「足の神様」である服部天神宮に移築し、西宮神社より分霊を勧請して祀ったと伝わります。
    その後、氏子や地元商店、豊中商工会の有志が服部えびす講を発足させ昭和26年正月、第1回「服部えびす祭」が斎行されました。時を経て平成15年に「豊中えびす祭」と改称し、今や35万人の参詣者が集う北摂屈指のえべっさんとなっています。

  • 豊中えびす神社<br />関西の新年の風物詩と言えば、各地のえびす神社が毎年1月9~11日に開催する「十日えびす」です。そこに花を添えるのが福笹などの縁起物を授与する福娘です。就職活動に有利とかアナウンサーの登竜門とも囁かれていますが、元TBSの進藤晶子さんもOGのひとりです。<br />福娘が今宮戎神社で始まったのは1953年。戦後、大阪ミナミの料亭が次々と閉まり、芸妓の数も激減しました。芸妓を駕籠に担いで商店街を練り歩く十日えびすのメインイベント「ほえかご行列」が縮小し始めたのを契機に、神社で選んだ福娘を行列に加えたのが始まりです。応募条件は満18~23歳の未婚女性であり、現在はほぼ全員が大学生です。<br />今宮戎より歴史が古いのが服部天神宮です。起源は1951年に遡ります。「豊中えびす祭」を始めた際に先代宮司が考案しました。往時は社務所の中で巫女が縁起物を授与していましたが、華やかに着飾った女性が表に出て福を分けた方が盛り上がると考えました。応募条件は25歳まで可能で社会人が選ばれることも珍しくなく、今宮戎神社に比べて門戸が広いのが特徴です。

    豊中えびす神社
    関西の新年の風物詩と言えば、各地のえびす神社が毎年1月9~11日に開催する「十日えびす」です。そこに花を添えるのが福笹などの縁起物を授与する福娘です。就職活動に有利とかアナウンサーの登竜門とも囁かれていますが、元TBSの進藤晶子さんもOGのひとりです。
    福娘が今宮戎神社で始まったのは1953年。戦後、大阪ミナミの料亭が次々と閉まり、芸妓の数も激減しました。芸妓を駕籠に担いで商店街を練り歩く十日えびすのメインイベント「ほえかご行列」が縮小し始めたのを契機に、神社で選んだ福娘を行列に加えたのが始まりです。応募条件は満18~23歳の未婚女性であり、現在はほぼ全員が大学生です。
    今宮戎より歴史が古いのが服部天神宮です。起源は1951年に遡ります。「豊中えびす祭」を始めた際に先代宮司が考案しました。往時は社務所の中で巫女が縁起物を授与していましたが、華やかに着飾った女性が表に出て福を分けた方が盛り上がると考えました。応募条件は25歳まで可能で社会人が選ばれることも珍しくなく、今宮戎神社に比べて門戸が広いのが特徴です。

  • 豊中えびす神社<br />えびす神は耳が遠いとされているため、本殿の正面から参拝した後、裏側に回り込んで木槌で「たたき板」を叩いて祈願の「念押し」をします。

    豊中えびす神社
    えびす神は耳が遠いとされているため、本殿の正面から参拝した後、裏側に回り込んで木槌で「たたき板」を叩いて祈願の「念押し」をします。

  • 通路を挟んで、左側が服部天神宮、右側が豊中えびす神社です。<br />豊中えびす神社の「十日えびす」で福笹や熊手などを授与していただくと「一億円の金運券」が頂けます。その一億円札は、お店や家の頭より高い位置に南か東に向けて上下逆さまに貼ります。<br />お金は「おあし」とも言われ、その語源は「人が足で歩き回るように、お金も世の中に流通する」ことに因みます。ですから、一億円札の「おあし」を逆さまに貼ると足が上になりお金が逃げられなくなり、お金が貯まるとの験担ぎです。

    通路を挟んで、左側が服部天神宮、右側が豊中えびす神社です。
    豊中えびす神社の「十日えびす」で福笹や熊手などを授与していただくと「一億円の金運券」が頂けます。その一億円札は、お店や家の頭より高い位置に南か東に向けて上下逆さまに貼ります。
    お金は「おあし」とも言われ、その語源は「人が足で歩き回るように、お金も世の中に流通する」ことに因みます。ですから、一億円札の「おあし」を逆さまに貼ると足が上になりお金が逃げられなくなり、お金が貯まるとの験担ぎです。

  • 西の裏鳥居<br />能勢街道に面して西鳥居が建てられ、旅籠・料亭・茶屋が軒を列ねた宿場として参拝客や街道を往来する旅人で賑わった場所です。<br />能勢妙見までの沿道には服部天神宮を始め東光院・原田神社・多田神社など社寺が並び、中山寺や勝尾寺などの経路としても使われた街道です。また、池田や能勢で産する酒や衣類、木材を大坂へ運ぶ、更には能勢から奥に続く丹波国の米・栗・炭・銀・銅などの搬出路でもありました。

    西の裏鳥居
    能勢街道に面して西鳥居が建てられ、旅籠・料亭・茶屋が軒を列ねた宿場として参拝客や街道を往来する旅人で賑わった場所です。
    能勢妙見までの沿道には服部天神宮を始め東光院・原田神社・多田神社など社寺が並び、中山寺や勝尾寺などの経路としても使われた街道です。また、池田や能勢で産する酒や衣類、木材を大坂へ運ぶ、更には能勢から奥に続く丹波国の米・栗・炭・銀・銅などの搬出路でもありました。

  • 膝の怪我の回復を祈願して授与していただいた可愛らしい「健脚健康草履守」です。<br />アクセスしていただいた皆様にとって佳い年でありますように!!<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    膝の怪我の回復を祈願して授与していただいた可愛らしい「健脚健康草履守」です。
    アクセスしていただいた皆様にとって佳い年でありますように!!

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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