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旧岩崎邸庭園へ行きました。<br />三菱の岩崎弥太郎の関係するお屋敷と言うことで敬遠していたのですが、<br />カミさんが素晴らしい建物だと言うのに惹かれて行ってきました。<br />まず上野で電車を降り、不忍通りを不忍池にそって進みますと、<br />池の端一丁目の三差路信号にでます。<br />そこで左折すると「旧岩崎邸庭園」は左と矢印に沿って進む。<br />最初の路地を右折し左手に庭園入り口が見える。<br />

旧岩崎邸庭園(東京都立庭園)

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2016/04/23 - 2016/04/23

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hide-bach

hide-bachさん

旧岩崎邸庭園へ行きました。
三菱の岩崎弥太郎の関係するお屋敷と言うことで敬遠していたのですが、
カミさんが素晴らしい建物だと言うのに惹かれて行ってきました。
まず上野で電車を降り、不忍通りを不忍池にそって進みますと、
池の端一丁目の三差路信号にでます。
そこで左折すると「旧岩崎邸庭園」は左と矢印に沿って進む。
最初の路地を右折し左手に庭園入り口が見える。

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • (不忍池に沿って歩く)

    (不忍池に沿って歩く)

  • (池の端一丁目交差点)

    (池の端一丁目交差点)

  • (「旧岩崎邸庭園」の案内に沿って歩く)

    (「旧岩崎邸庭園」の案内に沿って歩く)

  • (最初路地を右折した所の案内看板)

    (最初路地を右折した所の案内看板)

  • 明治29年(1896)に岩崎弥太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造られました。<br /> 往時は約1万5千坪の敷地に20棟もの建物があったと言う。<br /><br /> 現在はその三分の一の敷地となり洋館・撞球室・和館大広間の3棟です。<br /> 邸の敷地はレンガ塀で囲まれている。<br /><br /> (レンガ塀)

    明治29年(1896)に岩崎弥太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造られました。
    往時は約1万5千坪の敷地に20棟もの建物があったと言う。

    現在はその三分の一の敷地となり洋館・撞球室・和館大広間の3棟です。
    邸の敷地はレンガ塀で囲まれている。

    (レンガ塀)

  • <br /><br />(旧岩崎邸庭園の表札?)



    (旧岩崎邸庭園の表札?)

  • <br /><br />(旧岩崎邸庭園入場門)



    (旧岩崎邸庭園入場門)

  • <br /><br /><br />(建物までの長い道)




    (建物までの長い道)

  • <br /><br /><br /><br />(左折して更に先に入口)<br /><br />長い道のりの洋館まで馬車か車の乗り物で入ったのか、<br /><br /> 相当長い道のりで、しかも砂利の坂道になっている。





    (左折して更に先に入口)

    長い道のりの洋館まで馬車か車の乗り物で入ったのか、

    相当長い道のりで、しかも砂利の坂道になっている。

  • (旧岩崎邸 洋館の正面)<br />(この建物はジョサイア・コンドルの設計により完成しました。<br /> 17世紀の英国装飾が随所に見られ、<br />イギリス・ルネサンス様式やイスラム風のモティーフなどが取り入れられている。<br /> 洋館南側は、列柱の並ぶベランダはコロニアル様式で、<br /> 一階列柱はトスカナ式、二階列柱はイオニア式の特徴を持っている。(中略)<br /><br /> 二階の壁には金唐革紙の壁紙張られた部屋もあります。<br /> 外国人を招いたプライベートな迎賓館として使用されました。)(東京都)

    (旧岩崎邸 洋館の正面)
    (この建物はジョサイア・コンドルの設計により完成しました。
    17世紀の英国装飾が随所に見られ、
    イギリス・ルネサンス様式やイスラム風のモティーフなどが取り入れられている。
    洋館南側は、列柱の並ぶベランダはコロニアル様式で、
    一階列柱はトスカナ式、二階列柱はイオニア式の特徴を持っている。(中略)

    二階の壁には金唐革紙の壁紙張られた部屋もあります。
    外国人を招いたプライベートな迎賓館として使用されました。)(東京都)

  • <br /><br /><br />(横手の石造りの塀)




    (横手の石造りの塀)

  • <br /><br /><br /><br />(中から見た洋館入り口)





    (中から見た洋館入り口)

  • (ホール左)

    (ホール左)

  • <br />(ホール右手は和室への通路)<br /><br />ホールの天井は亀甲型に模様がつけられている。<br />


    (ホール右手は和室への通路)

    ホールの天井は亀甲型に模様がつけられている。

  • (ホールから階段を見る)

    (ホールから階段を見る)

  • (階段前の柱)<br /><br />階段前の柱の模様をイスラム風と言うのだろうか、<br /><br /> 模様が柱に張り付けてあるように見えるが、<br /><br />この模様をよく見ると丸い柱に浮き彫りにしてある。

    (階段前の柱)

    階段前の柱の模様をイスラム風と言うのだろうか、

    模様が柱に張り付けてあるように見えるが、

    この模様をよく見ると丸い柱に浮き彫りにしてある。

  • <br />右側の柱に縦に割れ目が入っているが、<br /><br />その割れ目が模様も共に綺麗に直線に入っている。<br /><br /> (柱のクローズアップ)


    右側の柱に縦に割れ目が入っているが、

    その割れ目が模様も共に綺麗に直線に入っている。

    (柱のクローズアップ)

  • 天井と言い柱と言い、お金に糸目をつけず造ったと思われる。<br /> 階段を上がって二階の客室から集会室、お手洗いを見る。<br /> 一階にもあったが、二階にも各室に暖炉が置かれているが、<br /> 奥行きがほとんど無い。<br /> 不思議に思たので係りの人にあとで聞くと、<br /> 途中で燃料をガスにした為奥行きを埋めたということが分かった。<br />その暖炉がある壁は、暖炉はないところの壁と比べると、<br /> 異常に厚くなっている。<br /> 以前の暖炉は、どうもペチカのように壁を温めて部屋を暖めていたようだ。<br />そのため屋根には見えるだけで6本も煙突があった。<br /><br />(一階ホールの各部屋の暖炉)

    天井と言い柱と言い、お金に糸目をつけず造ったと思われる。
    階段を上がって二階の客室から集会室、お手洗いを見る。
    一階にもあったが、二階にも各室に暖炉が置かれているが、
    奥行きがほとんど無い。
    不思議に思たので係りの人にあとで聞くと、
    途中で燃料をガスにした為奥行きを埋めたということが分かった。
    その暖炉がある壁は、暖炉はないところの壁と比べると、
    異常に厚くなっている。
    以前の暖炉は、どうもペチカのように壁を温めて部屋を暖めていたようだ。
    そのため屋根には見えるだけで6本も煙突があった。

    (一階ホールの各部屋の暖炉)

  • (各部屋の暖炉)

    (各部屋の暖炉)

  • (二階の各部屋の暖炉)

    (二階の各部屋の暖炉)

  • <br /><br />(金唐革紙と暖炉)



    (金唐革紙と暖炉)

  • (二階の椅子とテーブル)

    (二階の椅子とテーブル)

  • (夫人客室のイスとテーブルと暖炉)

    (夫人客室のイスとテーブルと暖炉)

  • (二階のサンルームから見える庭)

    (二階のサンルームから見える庭)

  • (二階のサンルーム)

    (二階のサンルーム)

  • (ベランダ)

    (ベランダ)

  • (トイレの角に作られた陶器の男性用小便器)<br /><br />さて、二階で驚いたのはお手洗い。<br /> 男性の小用便器だけしか見えないが、奥を覗くと大便器が置いてあり、<br />しかも西洋式であった。<br /> 仕切りは模様入りのスリガラスであった。<br /><br /> 明治29年(1896)に完成したものとして、<br />このころすでに西洋式の便器があったことに驚いた。<br />もちろん水洗でないだろうから、<br /> 用を足すと一階にある肥溜めに落ちたのであろうが、<br />それにしても和風のしゃがむ方式の便器でなく、<br /> 椅子に腰を下ろす式の便器であった。<br /><br /> 以前、旧中山道を歩いて、皇女和宮が宿泊するからと、<br />お手洗いを模様替えをした本陣があったので、見学したことがあった。<br />この時は畳を新調しただけのことであるが、<br /> 当時、高貴な方の排便は、御典医がついていて、<br /> 絶えず健康に気を配っていたから、<br /> 大であれ小であれ御典医が「おまる」を抱えて差出し、<br /> 用が済むと色や匂いで健康を判断したというから、<br />お手洗いも畳の上で済んだ。<br /><br />ボクの子供のころ、我々下々の者は、大きな肥溜めの甕の上に板を二本渡して、<br />その上に両足を乗せてしゃがみ、用を済ませたものだ。<br />それから考えれば、陶器でできた金隠しのある便器なら、<br />まあこんなものと考えるが、<br /> 西洋式の座して用を足す陶器造りの便器では驚きを通り越す。

    (トイレの角に作られた陶器の男性用小便器)

    さて、二階で驚いたのはお手洗い。
    男性の小用便器だけしか見えないが、奥を覗くと大便器が置いてあり、
    しかも西洋式であった。
    仕切りは模様入りのスリガラスであった。

    明治29年(1896)に完成したものとして、
    このころすでに西洋式の便器があったことに驚いた。
    もちろん水洗でないだろうから、
    用を足すと一階にある肥溜めに落ちたのであろうが、
    それにしても和風のしゃがむ方式の便器でなく、
    椅子に腰を下ろす式の便器であった。

    以前、旧中山道を歩いて、皇女和宮が宿泊するからと、
    お手洗いを模様替えをした本陣があったので、見学したことがあった。
    この時は畳を新調しただけのことであるが、
    当時、高貴な方の排便は、御典医がついていて、
    絶えず健康に気を配っていたから、
    大であれ小であれ御典医が「おまる」を抱えて差出し、
    用が済むと色や匂いで健康を判断したというから、
    お手洗いも畳の上で済んだ。

    ボクの子供のころ、我々下々の者は、大きな肥溜めの甕の上に板を二本渡して、
    その上に両足を乗せてしゃがみ、用を済ませたものだ。
    それから考えれば、陶器でできた金隠しのある便器なら、
    まあこんなものと考えるが、
    西洋式の座して用を足す陶器造りの便器では驚きを通り越す。

  • <br />(岩崎邸の和館)<br /><br />岩崎邸の和館について、説明によると、<br /> (洋館に併設される和館は、書院造りを基調にした建物で、<br /> 完成当初は建坪 550坪に及び洋館をしのぐ規模だった。<br /> 現在は冠婚葬祭に使用された大広間の一棟だけが残っている。<br /> 施工は大工棟梁として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた<br />大河喜十郎と伝えられている。<br /> 床の間やふすまには、日本画の橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる<br />障壁画が残っている。)とある。


    (岩崎邸の和館)

    岩崎邸の和館について、説明によると、
    (洋館に併設される和館は、書院造りを基調にした建物で、
    完成当初は建坪 550坪に及び洋館をしのぐ規模だった。
    現在は冠婚葬祭に使用された大広間の一棟だけが残っている。
    施工は大工棟梁として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた
    大河喜十郎と伝えられている。
    床の間やふすまには、日本画の橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる
    障壁画が残っている。)とある。

  • 和室への通路の日当たりで読書の御婦人を見つけた。<br /> 何を読んでいらっしゃるのだろう。<br />その通路の突き当りに見事なふすま絵を発見。<br />これが橋本雅邦の絵だろうか?<br /> 通路を出たところで売店とお抹茶を頂ける喫茶室があった。<br /><br /> (何を読んでいるのか熱心なご婦人)

    和室への通路の日当たりで読書の御婦人を見つけた。
    何を読んでいらっしゃるのだろう。
    その通路の突き当りに見事なふすま絵を発見。
    これが橋本雅邦の絵だろうか?
    通路を出たところで売店とお抹茶を頂ける喫茶室があった。

    (何を読んでいるのか熱心なご婦人)

  • (襖絵の日本画)

    (襖絵の日本画)

  • 岩崎邸庭園を出ようとしていたら、<br /> 外国人御夫婦が入園されようとして<br />入館料を支払うところで、何やらもめているので聞き耳を立てたら、<br />どうもこの抹茶を飲みたいらしい。<br /> 茶道の抹茶に参加したいようであった。<br /><br />それが、今入ったら参加できるか聞いているのだが、<br /> 拝観料を受け取る人は、入館が16:30までとなっているので、<br />それまでなら入れますと答えている。<br /> 質問と答えがすれ違っている。<br /><br />やっと受付に英語が分かる人が来たらしく、<br /> 今(16:00)なら大丈夫ですの答えを得て、<br />その外国人夫妻は入館料を払って入って行った。<br />この時、聞こえた茶道のお抹茶は、英語でなんというのかと思ったら、<br />(Tea ceremony)であった。<br /> 英語と言うのは簡単でうまい表現だと思った。<br /><br /> 喫茶室の先が大広間で床の間があり、壁に富士山だと思われるが、<br /> 薄れて消えかかっている絵が見える。<br /><br /> (大広間と床の間)

    岩崎邸庭園を出ようとしていたら、
    外国人御夫婦が入園されようとして
    入館料を支払うところで、何やらもめているので聞き耳を立てたら、
    どうもこの抹茶を飲みたいらしい。
    茶道の抹茶に参加したいようであった。

    それが、今入ったら参加できるか聞いているのだが、
    拝観料を受け取る人は、入館が16:30までとなっているので、
    それまでなら入れますと答えている。
    質問と答えがすれ違っている。

    やっと受付に英語が分かる人が来たらしく、
    今(16:00)なら大丈夫ですの答えを得て、
    その外国人夫妻は入館料を払って入って行った。
    この時、聞こえた茶道のお抹茶は、英語でなんというのかと思ったら、
    (Tea ceremony)であった。
    英語と言うのは簡単でうまい表現だと思った。

    喫茶室の先が大広間で床の間があり、壁に富士山だと思われるが、
    薄れて消えかかっている絵が見える。

    (大広間と床の間)

  • (床の間の壁の絵)

    (床の間の壁の絵)

  • (鴨居の三菱の家紋)

    (鴨居の三菱の家紋)

  • (大広間を通り過ぎた廊下、手前左が大広間、先が抹茶室兼売店)

    (大広間を通り過ぎた廊下、手前左が大広間、先が抹茶室兼売店)

  • (和館前のわずかに残る書院風の庭)

    (和館前のわずかに残る書院風の庭)

  • (庭から見た洋館)

    (庭から見た洋館)

  • (広大な芝庭)<br /><br />(幕末、越後高田藩(藩主・榊原政敬)の藩邸であった旧岩崎邸庭園は、<br /> 典型的な大名庭園であったとされる。<br /> 岩崎邸建設時に和洋併置式の「芝庭」に改造された。<br /> 現在、書院風の一部が和館広間前にわずかに残るだけで、<br /> 芝地に配された景石や石灯篭は庭を囲む樹林内に置かれている。)<br /><br /><br />

    (広大な芝庭)

    (幕末、越後高田藩(藩主・榊原政敬)の藩邸であった旧岩崎邸庭園は、
    典型的な大名庭園であったとされる。
    岩崎邸建設時に和洋併置式の「芝庭」に改造された。
    現在、書院風の一部が和館広間前にわずかに残るだけで、
    芝地に配された景石や石灯篭は庭を囲む樹林内に置かれている。)


  •  (奥の林の灯篭)

    (奥の林の灯篭)

  • (灯篭から見た芝庭)

    (灯篭から見た芝庭)

  • (林から見た洋館)

    (林から見た洋館)

  • 洋館から少し離れた、となりに別棟で立っているビリヤード場。<br /> 来客の接待場所として使われていたらしい。<br /> 日本には当時としては非常に珍しいスイスの山小屋風のつくりになっている。<br /> 洋館と地下でつながっていると言う。<br />なお、昭和10年(1935)以降は図書室で使うようになったとのことで、<br />ビリヤード台は残っていない。<br /> 天井は船底の形をしているので船底天井と言われる。<br /><br /> (ビリヤード場)

    洋館から少し離れた、となりに別棟で立っているビリヤード場。
    来客の接待場所として使われていたらしい。
    日本には当時としては非常に珍しいスイスの山小屋風のつくりになっている。
    洋館と地下でつながっていると言う。
    なお、昭和10年(1935)以降は図書室で使うようになったとのことで、
    ビリヤード台は残っていない。
    天井は船底の形をしているので船底天井と言われる。

    (ビリヤード場)

  • (ビリヤード室内)

    (ビリヤード室内)

  • (船底天井)

    (船底天井)

  • (ビリヤード場の外観)<br /><br />(*)洋館設計者のジョサイア・コンドル<br />1852年イギリス・ロンドン生まれ。<br /> 明治10年(1877)日本政府の招聘により来日。<br /> 現・東京大学工学部建築学科の初代教授。門下生に<br />東京駅の設計で知られる辰野金吾、<br /> 赤坂離宮を設計した片山東熊など、<br /> 近代日本を代表する建築家がいる。<br /> 鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂など洋風建築を設計した。<br /> 日本女性と結婚し、大正9年(1920)日本で永眠。

    (ビリヤード場の外観)

    (*)洋館設計者のジョサイア・コンドル
    1852年イギリス・ロンドン生まれ。
    明治10年(1877)日本政府の招聘により来日。
    現・東京大学工学部建築学科の初代教授。門下生に
    東京駅の設計で知られる辰野金吾、
    赤坂離宮を設計した片山東熊など、
    近代日本を代表する建築家がいる。
    鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂など洋風建築を設計した。
    日本女性と結婚し、大正9年(1920)日本で永眠。

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