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 2018年11月末、思い立ってサハリンを訪問した。私はロシアに関わって30年近くなる。訪ロ歴も通算60回を超えるのだが、実はこれまでサハリンに足を踏み入れたことがなかった。<br /><br /> 冷戦末期に少年時代を送った者として、最初にサハリンを意識したのは1983年に起こった大韓航空機撃墜事件だった。大韓航空のジャンボジェット機がソ連領空を侵犯し、ソ連空軍戦闘機のミサイルで撃墜されて、乗客乗員269人がサハリン沖に消えたショッキングな出来事は、ソ連という国への不信と恐怖を起こさせるには十分だった。かつて日本の統治下にあったその島は、オホーツク海の荒波の向こうに暗く浮かび上がる、決して足を踏み入れることのできない危険な場所というイメージが強く刻まれた。それからわずか6年、サハリンは1989年に外国人立ち入り制限が解除され、やがてソ連は過去のものとなった。自由に往来できるようになってからすでに30年近く経っているというのに、いままでサハリンに行く機会を作れなかったことがずっと気がかりだった。<br /><br /><br />■双発プロペラ機・ボンバルディアDHC8-Q400<br /><br /> 今回はウラジオストク経由で2泊3日の旅程。成田空港28番ゲートで私を待っていたのはHZ3639便・ボンバルディアDHC8-Q400。成田発の国際線では極めて珍しい双発のプロペラ機で、これはHZの成田-サハリン直行便も同じ機種が飛んでいる。HZはアエロフロート傘下のオーロラ航空。かつてサハリン航空と呼ばれていた会社の運航機材はすでに自国製航空機ではなく、すべてエアバスかカナダのボンバルディア製に統一されている。通路を挟んで両側2つの座席が19列、計76席の小型機だ。見たところほぼ満席。窓側の12A席に陣取る。キャビンアテンダントは男性1名、女性1名。定刻より5分早い13:00にドアが閉まりロシア語、英語、日本語の録音で機内アナウンスが始まった。ほどなくエンジンがスタート、2基合計1万馬力のターボプロップエンジンがうなりを上げる。機体はすぐに動き出し13:20には成田を離陸していた。<br /><br /> 離陸後30分ほどしてドリンクサービスが始まる。オレンジかトマトジュース、ミネラルウォーターの選択で食事の提供はない。乗り慣れたジェット機と違い、プロペラ機はより低い高度を飛ぶ。雲海の下すれすれを巡航するため、雲の隙間から日本海がよく見える。離陸後2時間ほどで着陸態勢のアナウンスがあり、経由地のウラジオストクに現地時間16:40頃に着陸した。時差1時間だから2時間強の飛行時間。日本海を飛び越すだけのこの近さに、日本とロシアが隣国であることを改めて実感する。ウラジオストクで入国審査を通り、サハリン行きの国内線に乗り継ぐ。約2時間後に出発した国内線の機体も成田線と同じDHC8-400だった。76席がほぼ満席。アナウンスはロシア語と英語のみ。離陸後15分ほどで食事とドリンクのサービスが始まった。ミールはサンドイッチで、チキンか野菜のチョイス。2時間も飛ばない国内線だというのに嬉しいサービスだ。味も悪くない。それにしても、国際線でドリンクしか出ないのに、飛行時間がより短い国内線でミール提供があるというのは、どういう違いからなのだろうか。<br /><br /><br />■石油ガス開発の重要拠点に変貌した極東の僻地<br /><br /> ウラジオストクからさらに時差が1時間プラスされ、飛行機は定刻より30分早い21:30にユジノサハリンスク・ホムトヴォ空港に着陸した。日露戦争後(1905年)から第二次大戦後(1945年)までサハリンの南半分は日本の統治下にあった。かつてユジノサハリンスクは豊原といい、この飛行場は大澤飛行場と呼ばれていた。駐機場からターミナルビルまで100メートルほど歩く。外気温は1度。煌々とした照明が暗闇の中にいくつかの無骨な建物を浮かび上がらせている。少年時代のサハリンのイメージが蘇ってくる。<br /><br /> 到着ロビーに入る。ターンテーブルの前で荷物を待っていると、ふと横のコーナーにサハリンとクリール諸島の観光案内パンフレットが置いてあるのに気付いた。サハリンとクリールの自然美を紹介した写真とともにロシア語と英語の紹介文がついている。露天風呂の紹介まであったのはいずれ日本人観光客も来るだろうということか。しかし、色丹島や歯舞群島も小さな字で書き込まれている。<br /><br /> 15分ほどで成田で預けたスーツケースを受け取る。定刻より早く着いたので出迎えはまだ来ていない。荷物を引きずって建物の外に出てみる。出口左手には、新しいターミナルビルが建設中だ。ちょこちょこと歩くうちに出迎えドライバーのアンドレイ氏が現れた。22:00定刻の到着時間だった。<br /><br /> 日本製中古車トヨタ・カローラスパシオに乗り込み、ホテルに向かう車中でしばし歓談する。アンドレイ氏はロシア本土出身だが、サハリンへは兵役が終わってすぐの1991年に移住してきたそうだ。遠隔地方での定住を促す優遇策があるし、自然も豊かだから住みやすいと笑う。ホテルまでは15分ほどの距離なのだが、「サハリンは初めてだ」と話すと、せっかくだからとユジノサハリンスク市内を一巡してくれる。深夜なので明かりはほとんど消えていたが、建設されたばかりの大きなロシア正教会や整備中の公園などが車窓に映る。サハリンはモスクワから見れば極東の僻地だが、日本に隣接する窓口でもある。近年、石油ガス開発で経済的重要性が増大した。ロシア政府がかなりの予算を投入してインフラ整備を進めている様子が見て取れる。とはいえ決して広い町ではない。市内を端から端まで車で巡ってもほんの15分ほどの寄り道でしかなく、すぐに宿泊先ホテル「パシフィックプラザ」に到着した。<br /><br /> このホテルはサハリンが石油採掘で沸き始めてから暫くたった2006年に建てられた。シングルルームが圧倒的に多いのは用途がビジネスホテルだからだ。フロアの一部はオフィスとして提供されており、北海道新聞の支局も入っている。翌朝2階レストランの窓から外を眺めると、目の前の平和大通りを日本の中古車がひっきりなしに行き交っている。市街地の先にはゴールヌイ・ヴォーズドゥフという高台が見える。かつて旭ヶ丘と呼ばれていた高台にはスキー用のリフトが整備されている。冬季にはロシア本土からスキー客がよく来るとのこと。ホテルの地下にはスキー用品置場が2室あり、シーズン中はゲレンデ下まで無料シャトルバスを運行しているそうだ。<br /><br /><br />■歩いて回れるユジノサハリンスク市中心部<br /><br /> 翌朝、ロビーで現地パートナー会社のオリガさんと待ち合わせる。彼女はサハリン生まれ。ウラジオストクの大学を出たが、サハリンに戻って結婚し、子育てをしながら日本センターで日本語を学んだそうだ。ご主人は警察官。息子さんは現在モスクワ大学在学中。お嬢さんは高校生で日本語を勉強中、夏には短期語学研修で北海道に行き、ホームステイしたとのこと。昨日のアンドレイ氏の運転でオリガさんとともに市内視察をスタートする。<br /><br /> 気温は5度、風はわりあい温かい。空港・市内間や市内の主要道路は舗装がしっかりしているが、郊外に出るとサハリン内の町と町を結ぶ幹線道路でもまだ未舗装のところが多く、冬季は積雪もあるので、サハリンをくまなく移動するなら四輪駆動車が必須だそうだ。<br /><br /> いくつかのホテルを視察した後、車を降りて市内の観光スポットを見て回る。市内中心部は1.5キロ四方程度とコンパクトなので、ほとんど歩いて回れる。メインストリートのレーニン通りを歩き、ユジノサハリンスク駅南側にある「ヴェルヌィ市場」を覗く。加工食品や洗剤などの日用雑貨は中国製もあるが、距離的に近い日本や韓国製のものが目立つ。市場外の小さな商店にも日本製の洗剤やトイレットペーパー、調味料が普通に並んでいた。海産物の店にはサケ・マス類やオヒョウなどが丸々1匹並べられていたが、ちゃんと切り身も販売されていた。店員によると、サケ・マス類は寄生虫対策のため鮮度に関係なく一度冷凍しているとのこと。イクラが小ぶりのバケツに盛られて売られている。カニは複数の専門店があり期待通りの廉価。茹でたタラバガニ、毛ガニのほか、活カニを扱っているところもある。日本人出張者は、お土産に保冷パックで沢山持ち帰るらしい。イクラの缶詰も土産によく売れる。朝鮮系の人の店も多く、キムチやチャンジャ、ワラビなどの惣菜類がたくさん並んでいる。

サハリンの旅 雑感(1)

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2018/11/30 - 2018/11/30

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JIC旅行センター

JIC旅行センターさん

 2018年11月末、思い立ってサハリンを訪問した。私はロシアに関わって30年近くなる。訪ロ歴も通算60回を超えるのだが、実はこれまでサハリンに足を踏み入れたことがなかった。

 冷戦末期に少年時代を送った者として、最初にサハリンを意識したのは1983年に起こった大韓航空機撃墜事件だった。大韓航空のジャンボジェット機がソ連領空を侵犯し、ソ連空軍戦闘機のミサイルで撃墜されて、乗客乗員269人がサハリン沖に消えたショッキングな出来事は、ソ連という国への不信と恐怖を起こさせるには十分だった。かつて日本の統治下にあったその島は、オホーツク海の荒波の向こうに暗く浮かび上がる、決して足を踏み入れることのできない危険な場所というイメージが強く刻まれた。それからわずか6年、サハリンは1989年に外国人立ち入り制限が解除され、やがてソ連は過去のものとなった。自由に往来できるようになってからすでに30年近く経っているというのに、いままでサハリンに行く機会を作れなかったことがずっと気がかりだった。


■双発プロペラ機・ボンバルディアDHC8-Q400

 今回はウラジオストク経由で2泊3日の旅程。成田空港28番ゲートで私を待っていたのはHZ3639便・ボンバルディアDHC8-Q400。成田発の国際線では極めて珍しい双発のプロペラ機で、これはHZの成田-サハリン直行便も同じ機種が飛んでいる。HZはアエロフロート傘下のオーロラ航空。かつてサハリン航空と呼ばれていた会社の運航機材はすでに自国製航空機ではなく、すべてエアバスかカナダのボンバルディア製に統一されている。通路を挟んで両側2つの座席が19列、計76席の小型機だ。見たところほぼ満席。窓側の12A席に陣取る。キャビンアテンダントは男性1名、女性1名。定刻より5分早い13:00にドアが閉まりロシア語、英語、日本語の録音で機内アナウンスが始まった。ほどなくエンジンがスタート、2基合計1万馬力のターボプロップエンジンがうなりを上げる。機体はすぐに動き出し13:20には成田を離陸していた。

 離陸後30分ほどしてドリンクサービスが始まる。オレンジかトマトジュース、ミネラルウォーターの選択で食事の提供はない。乗り慣れたジェット機と違い、プロペラ機はより低い高度を飛ぶ。雲海の下すれすれを巡航するため、雲の隙間から日本海がよく見える。離陸後2時間ほどで着陸態勢のアナウンスがあり、経由地のウラジオストクに現地時間16:40頃に着陸した。時差1時間だから2時間強の飛行時間。日本海を飛び越すだけのこの近さに、日本とロシアが隣国であることを改めて実感する。ウラジオストクで入国審査を通り、サハリン行きの国内線に乗り継ぐ。約2時間後に出発した国内線の機体も成田線と同じDHC8-400だった。76席がほぼ満席。アナウンスはロシア語と英語のみ。離陸後15分ほどで食事とドリンクのサービスが始まった。ミールはサンドイッチで、チキンか野菜のチョイス。2時間も飛ばない国内線だというのに嬉しいサービスだ。味も悪くない。それにしても、国際線でドリンクしか出ないのに、飛行時間がより短い国内線でミール提供があるというのは、どういう違いからなのだろうか。


■石油ガス開発の重要拠点に変貌した極東の僻地

 ウラジオストクからさらに時差が1時間プラスされ、飛行機は定刻より30分早い21:30にユジノサハリンスク・ホムトヴォ空港に着陸した。日露戦争後(1905年)から第二次大戦後(1945年)までサハリンの南半分は日本の統治下にあった。かつてユジノサハリンスクは豊原といい、この飛行場は大澤飛行場と呼ばれていた。駐機場からターミナルビルまで100メートルほど歩く。外気温は1度。煌々とした照明が暗闇の中にいくつかの無骨な建物を浮かび上がらせている。少年時代のサハリンのイメージが蘇ってくる。

 到着ロビーに入る。ターンテーブルの前で荷物を待っていると、ふと横のコーナーにサハリンとクリール諸島の観光案内パンフレットが置いてあるのに気付いた。サハリンとクリールの自然美を紹介した写真とともにロシア語と英語の紹介文がついている。露天風呂の紹介まであったのはいずれ日本人観光客も来るだろうということか。しかし、色丹島や歯舞群島も小さな字で書き込まれている。

 15分ほどで成田で預けたスーツケースを受け取る。定刻より早く着いたので出迎えはまだ来ていない。荷物を引きずって建物の外に出てみる。出口左手には、新しいターミナルビルが建設中だ。ちょこちょこと歩くうちに出迎えドライバーのアンドレイ氏が現れた。22:00定刻の到着時間だった。

 日本製中古車トヨタ・カローラスパシオに乗り込み、ホテルに向かう車中でしばし歓談する。アンドレイ氏はロシア本土出身だが、サハリンへは兵役が終わってすぐの1991年に移住してきたそうだ。遠隔地方での定住を促す優遇策があるし、自然も豊かだから住みやすいと笑う。ホテルまでは15分ほどの距離なのだが、「サハリンは初めてだ」と話すと、せっかくだからとユジノサハリンスク市内を一巡してくれる。深夜なので明かりはほとんど消えていたが、建設されたばかりの大きなロシア正教会や整備中の公園などが車窓に映る。サハリンはモスクワから見れば極東の僻地だが、日本に隣接する窓口でもある。近年、石油ガス開発で経済的重要性が増大した。ロシア政府がかなりの予算を投入してインフラ整備を進めている様子が見て取れる。とはいえ決して広い町ではない。市内を端から端まで車で巡ってもほんの15分ほどの寄り道でしかなく、すぐに宿泊先ホテル「パシフィックプラザ」に到着した。

 このホテルはサハリンが石油採掘で沸き始めてから暫くたった2006年に建てられた。シングルルームが圧倒的に多いのは用途がビジネスホテルだからだ。フロアの一部はオフィスとして提供されており、北海道新聞の支局も入っている。翌朝2階レストランの窓から外を眺めると、目の前の平和大通りを日本の中古車がひっきりなしに行き交っている。市街地の先にはゴールヌイ・ヴォーズドゥフという高台が見える。かつて旭ヶ丘と呼ばれていた高台にはスキー用のリフトが整備されている。冬季にはロシア本土からスキー客がよく来るとのこと。ホテルの地下にはスキー用品置場が2室あり、シーズン中はゲレンデ下まで無料シャトルバスを運行しているそうだ。


■歩いて回れるユジノサハリンスク市中心部

 翌朝、ロビーで現地パートナー会社のオリガさんと待ち合わせる。彼女はサハリン生まれ。ウラジオストクの大学を出たが、サハリンに戻って結婚し、子育てをしながら日本センターで日本語を学んだそうだ。ご主人は警察官。息子さんは現在モスクワ大学在学中。お嬢さんは高校生で日本語を勉強中、夏には短期語学研修で北海道に行き、ホームステイしたとのこと。昨日のアンドレイ氏の運転でオリガさんとともに市内視察をスタートする。

 気温は5度、風はわりあい温かい。空港・市内間や市内の主要道路は舗装がしっかりしているが、郊外に出るとサハリン内の町と町を結ぶ幹線道路でもまだ未舗装のところが多く、冬季は積雪もあるので、サハリンをくまなく移動するなら四輪駆動車が必須だそうだ。

 いくつかのホテルを視察した後、車を降りて市内の観光スポットを見て回る。市内中心部は1.5キロ四方程度とコンパクトなので、ほとんど歩いて回れる。メインストリートのレーニン通りを歩き、ユジノサハリンスク駅南側にある「ヴェルヌィ市場」を覗く。加工食品や洗剤などの日用雑貨は中国製もあるが、距離的に近い日本や韓国製のものが目立つ。市場外の小さな商店にも日本製の洗剤やトイレットペーパー、調味料が普通に並んでいた。海産物の店にはサケ・マス類やオヒョウなどが丸々1匹並べられていたが、ちゃんと切り身も販売されていた。店員によると、サケ・マス類は寄生虫対策のため鮮度に関係なく一度冷凍しているとのこと。イクラが小ぶりのバケツに盛られて売られている。カニは複数の専門店があり期待通りの廉価。茹でたタラバガニ、毛ガニのほか、活カニを扱っているところもある。日本人出張者は、お土産に保冷パックで沢山持ち帰るらしい。イクラの缶詰も土産によく売れる。朝鮮系の人の店も多く、キムチやチャンジャ、ワラビなどの惣菜類がたくさん並んでいる。

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