2012/05/04 - 2012/05/04
35位(同エリア68件中)
よっしーさん
802年(延暦21年)に坂上田村麻呂によって築かれたエミシと在地を支配の城柵、胆沢城跡に行ってきました。胆沢城は808年には、鎮守府の機能が多賀城から移管され鎮守府胆沢城となります。胆沢城は150年ほど機能していたようです。
この日もあいにく強い雨が降り地面はぬかるみ、靴はずぶぬれになりました。しかし、靴を一つボロボロにしても惜しくないほど胆沢城は、史跡としてその跡をわかりやすく保存しています。
城柵跡の区画もくっきりしており、とても見ごたえがあります。
この胆沢城が舞台となった出来事といえば、蝦夷を率いるリーダー、阿弖流為(アテルイ)が胆沢の地と蝦夷を支配したい朝廷軍との戦いです。胆沢城ができる前、789年(延暦8年)には紀古佐美率いる朝廷軍が阿弖流為率いる蝦夷に大敗を喫しました。勇敢に朝廷軍に対峙するアテルイのもとで朝廷側は多数の犠牲者を出しました。
802年1月に、坂上田村麻呂が胆沢に城柵を築くため陸奥に派遣されると、阿弖流為は、仲間の母礼(もれ)とともに降伏し平安京へ。坂上田村麻呂は除名嘆願するものの、阿弖流為と母礼は河内の枚方で処刑されました。
胆沢城は、朝廷による東北支配の拡大の足跡を示すとともに、蝦夷の支配範囲が確実に狭まっていく歴史的な記録を史跡とともに現代人に伝えてくれます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 3.5
- 交通
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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胆沢城跡に到着。大雨の中でしたが、車は奥州市埋蔵文化財調査センターの駐車場に停めて史跡見学をしてきました。センターで史跡の地図などわかりやすい案内ももらい迷わずに史跡見学ができました。
胆沢城跡 名所・史跡
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鎮守府八幡宮という鳥居がありました。この後、史跡の見学に夢中になるあまり、八幡宮は行くことを忘れてしまいました。いまとなっては、ちょっと後悔です。
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これも区画の跡でしょうか。くっきりと残る場所がところどころありました。
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史跡地一帯の風景
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胆沢城の地図
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政庁方面を望んでいます。
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政庁跡
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遺跡として遺構の様子がわかりやすい
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政庁の正殿跡。発掘調査では基壇のようなものは見つからなかったようです。
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正殿跡から望む風景
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これが南門だったっけな??
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建物跡
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外郭南門跡
この南門跡から埋蔵文化財調査センターはそば -
埋蔵文化財調査センターでは、関東では見られない珍しいものも。
これは蝦夷の冑です。奥州市埋蔵文化財調査センター 美術館・博物館
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胆沢城の鬼瓦
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欠勤届
当時宮城の北辺の小田軍団から出された書面だそうで、胆沢城に送る守備兵の健士2名が疫病で倒れ休みを伝えたもの。健士は1か月交代の月番だったそう。交代を間近に控えたあわただしさが伝わってくる書状だそうです。 -
獣骨。孔子や聖人をまつる釈奠に使ったものかと書かれています。厨屋の跡から見つかりました。
以上、そのほかにも墨書土器や貴重な出土物がたくさんあります。ぜひ奥州市埋蔵文化財調査センターへ行ってみてみてください。
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