2017/11/16 - 2017/11/16
224位(同エリア309件中)
ムッシュさん
吉田宿(現豊橋市)から御油宿、赤坂宿を抜けて藤川宿へ向かう
【吉田宿】日本橋から288.5km
本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒、人口約5300人。
【御油宿】日本橋から299.5km。
本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠62軒、人口約1300人。
【赤坂宿】日本橋から301km
本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠62軒、人口1300人。
- 旅行の満足度
- 4.5
PR
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紫は吉田城、緑は城下町、外周の赤線が旧東海道。
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【ウナギの「丸よ」】
ここには吉田宿本陣跡の標柱。清須屋与右ヱ門本陣跡の事。建坪327坪でした。
この近所に、併せて、脇本陣、問屋場があった。そして、豊川沿いに、吉田城があった。
本陣跡/丸ようなぎ屋前
ここには江戸時代、清須屋、東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ街道を往来する大名、幕府役人、宮家、公卿など身分の高かった人々、が宿泊したところです。享和2年の書上によると東海道吉田宿には本陣2軒脇本陣1軒、旅籠65軒がありましたが、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。 -
吉田宿本陣跡の標柱.店の真ん前ですが。
【吉田宿】
吉田宿の宿内家数は1293軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠65軒で、宿内人口は5,277人でした。
清須屋与右衛門本陣跡です、建坪327坪(約1,080㎡)でした。
東隣りには江戸屋新右衛門本陣、建坪196坪(約648㎡)でした。
宿並向いの小間歯科医院の所には吉田宿脇本陣跡碑があります。 -
街道筋に面している。
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文政年間1818-1844創業の老舗「きく宗」。
白壁に腰板連子格子の趣のある店構え。2階は漆喰塗籠造り。
宿場名物「菜飯田楽」が健在。創業文化年間(1804~17) -
【湊築嶋弁天社(湊神明神社)】
寛政7年(1795年)の創建。吉田城内の鎮守であった。
境内には松尾芭蕉句碑。
「寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき」、貞享4年(1687年)吉田宿旅籠での句。
湊神明社】
天照大神を祀り伊勢神宮との関係が深い神社。 -
湊築嶋弁天社。
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【湊築嶋弁天社】
ご由緒
湊築島弁天社の創建は戦国時代、琵琶湖にある竹生島に鎮座する弁財天の分霊を勧請したのが始まりとされます。天和3年(1683)に神明社境内に社殿が建立され、寛政7年(1795)に現在地に遷座しました。現在の社殿はその当時のもので、三間社、入母屋造、本瓦葺、1間向拝付、外陣は打ち放しで天井は格天井、内陣は棹縁天井で内部には厨子が安置されています。当初から神仏習合していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され市杵島社となり戦後に築島弁天社に改称しています。
【豊橋市の観光案内HPより】
【湊築嶋弁天社、由緒】
吉田名縦綜録に所謂蓬莱の島なり
天和三年弁財天を祀りし後正徳四年茶道宗徧流の祖山田宗徧ぬし大いに石組林泉の美を改構して吉田名苑の一に数えられ現在に至る。
昭和三十四年八月 宮司識す -
【湊神明社】
白鳳年間(661~85)の創建、船町の鎮守。
ここは現在も町名が港町。昔はここが港で、ココより舟で伊勢参りに行っていた。
天照大神を祀っている。
『豊橋 湊神明社』。
白鳳元年(672年)創建と伝えられる伝統のある神社で、元和年間(1615~24)に始まり、かっては吉田城下最大の祭りと云われた伊勢神宮に御衣(絹)を献上する「御衣祭」が現在も行われている。 祭神は天照皇大神、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)。 -
豊川にかかる豊橋。江戸時代は吉田大橋(全長186m)と呼ばれ、岡崎の矢作橋、瀬田の唐橋とともに東海道三大大橋といわれる。
吉田大橋の東袂の湊があり、熱田湊と並ぶ伊勢湾舟運の中心として賑わった。伊勢詣での舟便もあった。
吉田湊は、奥三河からの産物の集積地で、江戸や伊勢への集積地で船着き場。伊勢参宮の舟便でも賑わった。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次之内 吉田 広重画】
吉田宿(現豊橋市)の豊川橋。右下部は、吉田城。
吉田城は、豊川の川べりに築城された平山城である。
この川に架かった橋は、豊橋(現在の吉田大橋)といい、東海道三大大橋の一つであった。
今橋城は今川義元の築城に始り、桶狭間の戦後は徳川家康の所領となり、池田輝正が城主となりました。
輝正は今橋の名は忌まわしいに通じると縁起を担ぎ、吉田と改名しました。
維新後、明治政府は【吉田】から【豊橋】と改名しました。
三河の名は、乙川、豊川、矢矧の三川を由来する。
吉田大橋は矢矧橋、瀬田唐橋とともに、東海道三大橋のひとつ。 -
これが、吉田城隅櫓。 かわいいサイズです。
【吉田城略史】
当吉田城は、はじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白によって構築された。以来東三河の要衝として今川、武田、徳川ら戦国武将の攻防を経て、天正十八年(1590)に池田照政が入封し、十五万二千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし照政は在城十年で播州姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため照政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
この城の縄張りは背後に豊川をひかえ本丸を中心に二の丸・三の丸を配置し、それで堀が同心円状にとりかこむ半円郭式の後堅固の城といわれるもので、本丸は3,931㎡ (1,189坪) 二の丸は15,154㎡ (4,584坪) 三の丸は50,142㎡ (15,168坪) 腰郭は1,864㎡ (564坪)堀土手敷は53,534㎡ (16,194坪)総面積は126,621㎡ (37,699坪)である。
現在みられる遺構は、照政時代の旧態を残している。
昭和五十一年 豊橋市 -
豊橋を過ぎると【聖眼寺】。
*平安時代に慈覚大師が建て、鎌倉時代に現在地に移された。
*境内には松葉塚と呼ばれる芭蕉句碑がある。
「こ(松葉)を焚いて 手拭あぶる 寒さ哉」
*徳川家康が吉田城を攻撃した際、この寺に本陣を構えた。
【聖眼寺(しょうげんじ) 松葉塚】
聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石(しるべいし)があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。『松葉(ご)を焚いて 手拭あふる 寒さ哉』 古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。 再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。また、山門前の標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」とあります。(豊橋市教育委員会)
『芭蕉句碑』。
古碑松葉塚には松尾芭蕉が愛弟子社国に詠んだ
「ごを焼て 手拭あぶる 寒さ哉」
という句が刻まれていて、「松葉塚」名称の由来を示している。
「ご」は三河方言で、枯れた松葉のこと。焚き付けとして最良の燃料であったと。
この境内の松葉塚には、新旧二つの芭蕉の句碑が立っていたのであった。
古い句碑には「松葉を焚て手ぬぐひあふる寒さ哉」、
新しい句碑には「ごを焼て手拭あぶる寒さ哉」と刻まれていた
『聖眼寺しょうげんじ』。
真光寺の一区画隣にあったのが真宗高田派の『聖霊山聖眼寺』
聖眼寺は鎌倉時代に下地に移転したと言われ、永禄7年(1564)徳川家康が、今川勢が支配する対岸の吉田城を攻撃した際、ここに本陣を構えたという。
家康は境内にある太子堂で必勝を祈願し、ここで金扇をもらい、それを用いて采配を振るったと伝えられている。 -
【子だか橋碑】
*ここを流れる小川に橋が架かっていた。
*その昔、神社の大祭の初日に最初にこの街道を通る女性を人身御供として生贄にする習慣があったとさ。
ある年、橋の上まで来た女性を見ると、故郷に帰ってきた我が子でした。悩みましたが、子だが止むを得んとして神に奉ったという。
【子だが橋】/豊川放水路先
子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。およそ一千年前莬足神社には、人見御供があり春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た、見ればわが子である、「ああいかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋を、子だか橋と呼ぶようになったということである。現在、莬足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。(小坂井町教育委員会) -
【菟足(うたり)神社】686年の創建。
筆者が武蔵坊弁慶による大般若経600巻がある。
弁慶が東下りの時、今橋が断絶してしまった。この七日間の間に大般若経600巻を写経し奉納した。
【式内 莬足神社】
穂の国(東三河の古名)の国造であった莬上足尼命は初め平井の柏木浜に祀られたが、間もなく当地に遷座になった。
当社の大般若経五八五巻は、国の重要文化財に指定(昭和三十六年)されている。僧研意智の書(1176~1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下りのおり、洪水のため渡航できず、滞在七日の間に書き上げて神前に奉納されたと信じられていた。)
なお応安三年(1370)の銘のある梵鐘(昭和三十九年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河國名所図絵に出ている。
当社のお田祭の行事(昭和二十九年県無形文化財指定)は、旧正月七日に行われる。
風祭りとして知られる例祭は四月第二土曜・日曜日に行われ、打上花火・手筒花火は特に名高い。
また、例祭の古面(五面)昭和四十年県文化財に指定されている。
小坂井町教育委員会 -
【菟足神社(うたりじんじゃ)】
孝元天皇の末裔・菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)を祭神とした神社で、白鳳十五年(686)頃に創建されたといわれています。
石の第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。高さ4.5m。
7世紀後半頃に建てられたといわれる菟足神社は菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が祀られています。稲の豊作を願った「田まつり」、風に対する信仰を寄せた「風まつり」が行われます。風まつりの際に販売される「風車」は郷土玩具として多くの人が買い求めに来ます。
また、弁慶の書と伝えられている「大般若経」585巻は国の重要文化財に,梵鐘(ぼんしょう)は県の有形文化財に指定されています。
御祭神 菟上足尼命
創立 白鳳十五年(六八六)
穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足 尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが間もなく 当地に御遷座になった。
当社の大般若経五八五巻は、國の重要文化財に 指定(昭和三六年)されている。僧研意智の書(一一 七六~一一七九)であるが、長い間弁慶の書と伝え られていた。(弁慶が東下りのおり洪水のため渡航 できず、滞在七日の間に書き上げて神前へ奉納した と信じられていた。)
なお応安三年(一三七〇)の銘のある梵鐘(昭和 三九年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘さ れたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼が あったことが江戸末期の参河國名所図会に出ている。 -
菟足神社(うたりじんじゃ)
【菟足神社志留倍】
由緒
「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造して斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はやく正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳には正三位と記されたり(中略)。
徳川幕府の世となりて家康親しく参拝して神領(九十五石、制礼寄進)を寄せしより累代の将軍も其の例に倣ひ領主藩主等の尊敬の尋常ならざりしこと社記に詳なる所なり。
明治維新の初天皇御東幸のみぎり勅使をして幣帛を捧げしめ給ひしはいとも尊く、かしこき極にこそ(中略)。
斯る由緒ある神社(中略)なりしかば大正七年十一月二十二日県社に列せらるる事となりぬ(中略)。此の事の由を永遠に伝へむと大神に仕へ奉る社司川出直吉ぬしの請へるままに其の大むねを識すになむ。 -
『莬足神社 拝殿』
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名残の一本松
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【伊奈村立場茶屋跡】
句碑が2基並んでる。
間の宿で加藤家が茶屋本陣を勤めた。加藤家は道中薬「良香散」を商った。 俳人鳥巣は加藤家の生まれで、芭蕉と親交がありました。
*芭蕉句碑「かくさぬぞ 宿は菜汁(なじる)に 唐(とう)が羅(ら)し」、烏巣方へ一泊した時の作です。
*鳥巣句碑「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」
東京遷都の際、明治天皇は加藤家で休息した。
『伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)』
一 茶屋の地名
東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。
ニ 加藤家と良香散
茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、
この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M)
一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、
牧野真一氏宅に保存されている。
四 俳人烏巣
烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六 烏巣句碑
「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」 -
鳥巣句碑「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」。
俳人鳥巣は茶屋本陣を務めた加藤家の生まれで、芭蕉と親交があった。
【伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称:茶屋本陣跡)】
〔茶屋の地名〕
東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。
〔加藤家と良香散(りょうこうさん)〕
茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名より有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸一つ残すのみとなった。
〔明治天皇御旧跡〕
東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野英一氏宅に保存されている。
〔俳人烏巣(うそう)〕
烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
〔芭蕉句碑〕(芭蕉が烏巣方へ一泊した時の作)
「かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し(とうがらし)」
〔烏巣句碑〕
「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」 -
【冷泉為村歌碑】
「散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木陰 立ぞやすらふ」
*江戸時代の冷泉家の当主で冷泉為村は、冷泉家の中興の祖云われてる。徳川9代将軍家重の祝賀の一行に加わり、下向の際にこの地の桜村を詠んだ歌。
*この歌は彼が一度だけ江戸に行った際、当地桜町で詠んだものです。冷泉為村(ためむら)は江戸時代中期の公卿・歌人で、父は上冷泉家の権大納言冷泉為久。
原定家 を祖にもつ江戸中期の歌人・冷泉為村(れいぜい・ためむら、1712~74年)が、延享3年(1746)に徳川第9代家重 が将軍継承の際、為村一行が朝廷の使いとして江戸に下る途中、当時、桜の名所であったという桜町で詠んだ歌碑が旧東海道沿いにあった。この碑は、2007年3月18日に建てられたもの。
「 散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ 」 -
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白鳥5丁目西交差点から国府町藪下交差点の間に旧道あり。旧街道は、現国道から離れ、右の道を下ってゆく。
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国道1号線。道路標識に、名古屋、安城、岡崎の名前が出てきました。ぼつぼつ、豊橋市とお別れです。
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【薬師堂】名鉄”国府”駅の近くです。新青馬町。
「瑠璃殿」の篇額は文政4年(1821年)八幡山方厳禅翁の筆による。
*本尊は薬師瑠璃光如来。両親を亡くした二人娘が篤く礼拝したところから「二子寺」と呼ばれた。
*熊野へ行く途中、国府の郷を通った行基は二人の姉妹が住む家に投宿した。姉妹が死んだ父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼み、行基が近くの古木の杉から薬師瑠璃光如来像を刻むと、姉妹はこれを安置した寺を建立したという。 -
【大社神社】
出雲大社の分社。三河国府総鎮守。
天元永観年間(978~985)三河国司として赴任した大江定基が三河國の安泰を祈念して出雲大社を勧請したものです。
江戸後期の安永天明の頃、国府村内に田沼意次の陣屋があり、失脚すると廃止となり、大社神社の白壁はこの陣屋から移築したものです。
幕末の慶応元年(1865年)徳川14代将軍家茂は長州征伐に際して、当社に戦勝を祈願し、短刀を奉納しました。
昔は「国府大明神」とも呼ばれていた所。
【大社神社/国府町】
「社伝によると、天元・永観(978~985)の頃、時の国司大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとある。社蔵応永7年(1400年)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、神社造営をしたものと考えられる。当社には、徳川14代将軍家茂が長州征伐に際して、慶応元年5月8日戦勝祈願をされ、短刀の奉納をされております」とある。また、明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となる。(大社神社HP)
旧東海道と平行に建っていたのが『大社神社』。
愛知県豊川市国府町流霞5に鎮座する神社。
明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となる。ご祭神は大国主命。 -
【御油の姫街道との追分道標と秋葉山常夜灯】
ここで浜名湖の北巡りである姫街道と東海道の合流地。
追分の常夜灯に「左ほうらいじ道」、石標に「秋葉山三尺坊大権現道」と刻まれている。
追分には安永3年(1774)建立の秋葉山常夜燈、明治16年(1883)建立の秋葉山三尺坊大権現道標、明治13年(1880)建立の「国幣小社砥鹿神社是より二里三十町」秋葉山三尺坊大権現道」とあるのがそれ。
さて真っ直ぐ行って、御油橋を渡ると御油宿に到着する。
国府町行力にあったのが『姫街道追分』
追分には 「秋葉常夜灯・秋葉三尺坊道標・砥鹿神社鳳来寺道標」が。「秋葉山三尺坊大権現道」の石柱と常夜灯、「三州御油宿→これより姫街道 遠州見付宿」の
木の案内板が置いてあった。 -
【御油の追分の標】
海側の東海道と浜名湖の北側を経る姫街道の合流/分岐点
別名、本坂越(姫街道)の追分。浜名湖の北を通り、見付にいたる。
京から江戸に向かって左に分岐する道が「本坂道」、浜名湖北岸を迂回する脇往還で
通称『姫街道(ひめかいどう)』である。
姫街道は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して静岡県磐田市見付町(東海道見附宿)と愛知県豊川市御油町(東海道御油宿)を結ぶ街道である。道程約60キロメートル。古くは東海道の本道で、二見の道(ふたみのみち)と呼ばれていた。中世以降、浜名湖南岸の往来が盛んになると長距離を移動する利用者は減り、地震などで浜名湖南岸が通行不能になった後に迂回路としてよく利用された。本坂峠を経由したことから本坂越(ほんざかごえ)、本坂通(ほんざかどおし/ほんざかどおり)、本坂道(ほんざかみち)、本坂街道(ほんざかかいどう)などと呼ばれた。
戦国時代に街道が整備され、江戸時代には東海道に付属する街道とされ、宿が置かれた。幕末頃から姫街道の呼称が定着し、明治以降、新道が出来て本坂峠はトンネルで通過するようになり、峠越えの道は廃道となっている。 -
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【御油橋】
『音羽川』。水源は豊川市長沢町にあり、市内長沢町 - 国府町間では国道1号に沿うように流れ、市内国府町から南へ三河湾に注ぐ。
音羽川、これを渡ると御油宿に入る。
御油、古にこの地は油を産し、御所や国府にけんのうした。 -
御油橋の袂に、【若宮八幡社】が鎮座し、御油宿の江戸方口を守護している。
御油の名の由来は、古く飛鳥時代までさかのぼる。天武天皇の子・草壁皇子が白薙23年壬申の乱この辺りの守備についた際、椿が生い茂る屋敷の住人が燈明の油を献上して御油の商号を賜り地名となった。 -
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【御油宿案内図(御油の松並木資料館より)】
御油宿は、城下町である吉田宿の堅苦しさを避けた旅人や、姫街道を控え大いににぎわった。
武士は、「御油に赤坂、吉田なくば、なんのよしみで江戸通い」と謡い、吉田、赤坂と並んで遊女が多く、客引きは強引だった。
東海道と本坂道の追分があり、豊川稲荷の参拝客や秋葉山へ参る人の宿としても賑わった宿である。隣の赤坂宿との宿間距離はわずか十六町(約1.7km)ほどしかなく、客引きの強引なことでも有名だった。吉田宿や岡崎宿が城下町でもあって、堅苦しかったことに比べ、遊興的な宿場の色彩が強かったといわれる。明治以後、 東海道線の通過地に選ばれなかったため、鉄道が通じた御津や蒲郡に繁栄を奪われ、衰退していった。
本陣2, 脇本陣なし, 旅籠62 -
芭蕉の句(御油の松並木資料館の陳列資料より)
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浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次之内 御油 広重画】
御油の旅人留女。宿の女性の客引きの図。旅籠の中には草履を脱ぐ旅人が。
御油は、浜名湖の北岸を迂回する姫街道の分岐点にも当たる交通の要地でした。
強引に腕や荷物をつかみ旅人を奪い合う宿の女たちをユーモラスに描いた動きのある情景は、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多をそのまま描いているようです。
旅舎の軒に懸かる木札には、絵師名やシリーズ名、版元名とともに、彫工・摺工の名が記されています。
天保14年(天保十四年(1843)の頃、御油宿の宿内家数は316軒、うち本陣3、旅籠62軒、宿内人口は1,298人で、宿長は約1.3km。)
御油はしつっこい留女がいることで有名であった。
広重の絵にも、手前は風呂敷を引っ張られて苦しんでいる姿、うしろは逃れるのに懸命な旅人が描かれている。弥次さんもこの宿場で同じ目に遭っている。これは御油と赤坂の間が1.7Kmと、東海道の宿場間で最短距離だったことによる。
右側の宿の壁に貼ってある文字は、右から彫師、刷師、絵師、版元の名前が書いてある。江戸時代の絵師は、このような遊び心があったとのこと。
絵師としての広重は、歌川広重と呼ぶのが正しいらしい。
人物画で有名な歌川豊国に弟子入りしようとしたが、ことわられ、風景画の得意な弟弟子の歌川豊広に弟子入りした。広重の幼名は安藤徳太郎、後に安藤重右衛門と改名した。この重右衛門の「重」と師匠の豊広の「広」を取って、歌川一門なので「歌川広重」と名のった -
【御油宿】
御油宿は、江戸時代に徳川家康によって整備された江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ東海道の35番目の宿場です。次の赤坂宿とは御油のマツ並木(国指定天然記念物)を挟んで、わずか十六町(約1.7km)と東海道の宿場間では最も短い距離です。
当初、両宿で一宿分の役割を果たしていた時期もあったようです。
天保14年(1843)頃の御油宿の家数は316軒で、本陣が2軒(元は4軒あったが、うち2軒は天保4年の火事で焼失)、脇本陣はなく、旅籠屋は62軒でした。
この場所は、本陣鈴木半左衛門家跡地です。
本陣とは、参勤交代の諸大名をはじめ、宮家・公家・幕府役人などが宿泊する施設であり、原則として門・玄関及び上段の間を備えるなど、庶民が利用する旅籠とは 異なっていました。」 -
【御油の松並木】
慶長9年(1604年)徳川幕府の道路政策として、奉行の大久保長安によって植えられた。夏は緑の木陰、冬は寒い風、雪から旅人を守り、心地よい松風の音に旅の楽しみと慰めを与えた。三河黒松は樹皮が亀甲状に割れるのが特徴。日本の名松百選にえらばれている。
御油から赤坂宿までの600Mにわたり約300本の松大木が並んでいる。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で喜多さんを松の木に縛り上げる場面有り。 -
いよいよ御油の松並木。街道らしい雰囲気味わえます。
【天然記念物 御油ノ松並木】 昭和19年11月文部省指定
この松並木は、慶長九年(1604)、徳川家康が植樹させたもので、以来、夏は緑陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、長く旅人の旅情をなぐさめてきました。
当初、600本以上あった松は、長い年月の間に減少しましたが、旧東海道に現存する松並木のうちでは昔日の姿を最もよく残すものとして、第二次世界大戦中の昭和十九年十一月七日、国指定の天然記念物となりました。
私達は、この松並木が貴重な国民的財産であることを自覚し、後世に伝えるため“郷土の宝”として愛護しましょう。
昭和五十五年三月 豊川市
「御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。
ここから東の、かつての上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通りぞいには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。
また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。 昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」 にも選ばれています。」 -
いよいよ御油の松並木。街道らしい雰囲気味わえます。
豊川市御油町から赤坂関川まで、東海道を挟んで両側に老松が天高く見事な枝ぶりを見せる。距離600m。慶長9年(1604)徳川家康が、当時約650本の三河黒松を植樹させた。奉行・大久保長安が植樹したもの。昔の儘に、東海道隋一の景観を誇る。
三河黒松は樹皮が亀甲状に割れるのが特徴。
弥次喜多は、この松並木で狐に化かされた。日本の名松。 -
松並木は【御油の松並木】と呼ばれ、「天然記念物」に指定されている。
天正3年(1575年)織田信長の家臣篠岡八右衛門が植樹し、慶長9年(1604年)徳川家康が街道政策として、整備したといわれています。舞阪宿の並木は復元されたものだけど、こちらは現存しているもので、貴重な遺跡。 -
【赤坂宿の見付跡】解説板
「本陣跡
本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備えることが許されていた。
赤坂宿の本陣は宝永8年(1711)の町並図によると、四軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。」
あっと云う間に赤坂宿到着です!
寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、東見附は関川神社の前に移設され、明治7年(1874)取り壊されました。赤坂宿は御油宿から16町(約1.7km)と、東海道の中では最も宿間の短い宿場。
御油宿と同様に遊興の宿場と知られ、「宿ごとに遊女あり、立ち並びて旅人をとどむ」と云われ、近郷近在の歓楽郷でもあったらしく「御油や赤坂、吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」と詠われています。
天保14年(1843年)の頃、赤坂宿の宿内家数は349軒、うち本陣3、脇本陣1、旅籠62軒で、宿内人口は1,304人でした。 -
【関川神社】樹齢800年の楠が境内に聳える。
【関川神社の楠】
由来及び沿革については不明であるが古老の説によると木の根元からえぐれている部分は慶長十四年(1609)の十王堂近所(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で約三十戸が焼失しておりその時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29m高さ25.7mあり推定樹令は約800年であるといわれています。(音羽町教育委員会) -
「関川神社の楠
由来及び沿革については不明であるが古老の説によると、木の根元からえぐられている部分は慶長十四年(1696年)の十王堂近所(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で約30戸が焼失しており、その時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。
この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29m、高さ25.7mあり推定樹齢は約800年であるといわれています。」 -
【関川神社】
長保3年(1001年)5月、赤坂の長者・宮道弥田次郎長富が三河国司の大江定基の命を受け、関川地内に立つ楠の脇に堂宇を建立したのが起源とされる。
【関川神社:石鳥居と社殿】
長保3年(1001年)5月、赤坂の長者・宮道弥田次郎長富が三河国司の大江定基の命を受け、関川地内に立つ楠の脇に堂宇を建立したのが起源とされる。
当初は弁財天と称していたが、明治時代初期に神仏分離の影響を受けて関川神社と改称した。昭和28年(1953年)6月5日、宗教法人として登録を受けた。
氏子はおらず、神社の運営は関川区域の住民によって行われている。
祭礼は旧暦1月15日・16日であり、福引が行われていたが、現在は太陽暦の1月15日・16日に改められ、余興は行われていない。
同じく赤坂町に位置する宮道天神社で例祭が行われる際には、渡御する神輿の休憩所として境内が使用されてきた。確認できる最古の棟札は文政12年(1829年)のものであり、「再建之辨天拝殿一宇」の文字が見える。
他には、明治20年(1887年)のものがある。
境内には、大正7年(1918年)2月に建てられた常夜灯がある。 -
関川神社
境内には芭蕉句
「夏の月 御油より出でて 赤坂や」
”夏の月が出ている短さと言ったら、なんと御油から赤坂の間を過ぎるほどの時間にすぎないよ”
この句は、松尾芭蕉が夏の夜の短さと、わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の距離の短さを詠んだもの。 -
赤坂宿の本陣跡
特権階級が宿泊するための公認の宿泊施設。
松平彦十郎家の本陣跡だが、なんと畳数422畳であったという。6畳程度のビジネスホテルなら70室にもなる。説明書きによると、間口17間半・奥行き28間、ざっと31mx50M。でかい! -
【赤坂宿の本陣】
宝永8年(1711)の町地図によると4軒あった。そのうち松平彦十郎家は江戸時代初期から本陣を勤め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。宝永8年の間取り図によると間口17間半、奥行き28間、畳敷通り422畳で門、玄関付の立派なものであった。(豊川市教育委員会)
「本陣跡
本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備えることが許されていた。
赤坂宿の本陣は宝永8年(1711)の町並図によると、四軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。」 -
【赤坂宿の本陣跡】
赤坂宿の本陣は、宝永8年(1711年)の町並図によると、4軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代の初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。
宝永8年の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で、門・玄関付の立派なものであった。 -
陣屋跡
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【高札場】
慶長年間(1596-1615)に創設され、明治元年に廃止された。 -
旧街並み図
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赤坂宿公園
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【明治元年(1868)創業の尾崎屋】
曲輪の老舗。
右手角に尾崎屋という商家があった。軒先に行灯型の看板が出ており、現在でも民芸品の製造、販売を行っている。 -
向かいには、【旅籠”大橋屋”】
【旅篭 大橋屋】 音羽町指定建造物(昭和52年3月指定)
本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋という。
享保十八年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数四百軒のうち、八十三軒が旅籠屋であった。
大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳六年(1716)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口九間、奥行二十三間ほどあった。入り口の見世間・階段・二階の部屋は往時の様子を留める。
音羽町教育委員会
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現在保存工事中の大橋屋さん。
赤坂宿で、2015年3月まで、360年以上営業を続けていた。今は修復で非公開。
創業慶安二年(1649年)で旧屋号伊右エ門鯉屋でした、現在の建物は正徳六年(1716)の建築です、残念ながら廃業となりました。
【大橋屋建物】
文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられています。江戸時代の屋号は「鯉屋」で、一般の旅人が宿泊する旅籠屋はたごやでした。明治11年(1878)の明治天皇の東海北陸巡幸では行在所あんざいしょとして利用されたこともありました。その後、所有者は近藤家から高田家、青木家と変わり、屋号も「大橋屋」と改められました。平成27年(2015)に青木家より建物の寄付を受けたことを契機に、平成29・30年度で江戸時代の旅籠建物の姿を再現することを基本とした保存修理工事を行いました。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 赤阪・「旅舎招婦ノ図」】歌川 広重』
旅籠屋の風景、旅籠のモデルは大橋屋。
中庭にソテツと石灯籠がある。このモデルは、赤坂薬師百観音浄泉寺の境内の蘇鉄(そてつ)。推定樹齢270年でもともと旅籠大橋屋の中庭にあったも。 -
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赤坂宿パンフレットより
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修復工事着工前の【旅籠”大橋屋”】の姿
江戸時代から続く旅籠で、広重の浮世絵にも描かれた。
音羽町指定建造物(昭和52年3月指定) 本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋という。享保十八年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数四百軒のうち、八十三軒が旅籠屋であった。大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳六年(1716)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口九間、奥行二十三間ほどあった。入り口の見世間・階段・二階の部屋は往時の様子を留める。(音羽町教育委員会) -
修復工事を終えた【新大橋屋】
平成27年(2015)に青木家より建物の寄付を受けたことを契機に、平成29・30年度で江戸時代の旅籠建物の姿を再現することを基本とした保存修理工事を行いました。 -
よらまいかん資料館。赤坂宿は、ここまで。
続きは藤川宿へ。
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