2017/12/02 - 2017/12/02
29位(同エリア473件中)
ベームさん
前回の散歩からひと月少々。その間に横綱日馬富士の暴力沙汰があり、紅葉の時期が終わりました。
天気は良いしさして寒くもなく(気温最高12度の予報)、師走の雰囲気をすこしは感じられるかと出かけました。
今日は神楽坂から早稲田大学まで歩くつもりでしたが、早稲田の手前、早稲田南町の漱石山房記念館で時間、体力が尽きました。
写真の枚数からその1とその2に分けます。
今も残る東京の花街の一つ神楽坂は文学作品にたびたび登場する街です。江戸時代武家屋敷と寺院によって占められていた神楽坂一帯が商店街になり花街になったのは明治維新以降で、毘沙門様の善国寺の縁日に夜店が出るようになったのは明治20年以降です。特に関東大震災の被害から免れたこの地は一時牛込銀座とい云われ山の手一の繁華街となりました。戦災により一旦は消滅した神楽坂はその繁華を新宿に奪われたものの、今は通りにはグルメやおしゃれの店、老舗が並び、一歩横道に入れば料亭、小料理屋が佇む情緒ある街が広がっています。最近若者にもとみに人気があるようです。
その1ではそんな神楽坂を歩きました。
写真は神楽坂下の商店街入り口。
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今日のスタートはJR飯田橋駅です。時間は9時半頃。
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その1で歩いた神楽坂界隈の地図です。
右下の飯田橋駅から神楽坂通りを右に入り左に折れ、地図左下の宮城道雄記念館まで。 -
JR飯田橋西口前。
冬の朝日の影は長いです。 -
目の前に牛込見附(牛込御門)跡があります。
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江戸時代初期、徳島藩主蜂須賀家により江戸城を守る外堀に造られた見付、見張り門の一つ。
赤坂見附、四谷見附など江戸城の周りには36もの見付があったそうです。 -
残っている跡からは分かりませんが二つの門を直角に配置した桝形をしていたそうです。
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牛込見付。
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江戸城外堀に架かる牛込橋。
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牛込見付と同時に造られました。今の橋は平成8年のもので、長さ46m、幅15m。
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中に車道、両側に広い人道。
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牛込橋の上から。
右が飯田橋駅。 -
反対側。中央線、総武線が走っています。
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橋を渡ると神楽坂下。
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地下鉄飯田橋駅。
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神楽坂下。外堀通りが走っています。
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神楽坂商店街の入り口です。
神楽坂の名称の由来ですが、昔坂の途中に社があり祭礼の時御輿に合わせ神楽が奏されたことによる、あるいは市谷八幡宮の祭礼の時神輿が牛込御門の橋の処で神楽を奏したことによる、など諸説あるようです。
入口にアパマンショップと安っぽい水色の看板、何とも風情のないことか。神楽坂の入り口としては余りにも無神経な商魂です。商売上目立てばよいという考えですね。 -
神楽坂商店街の取っ付き。神楽坂下から神楽坂上まで約300mの坂道、早稲田通りです。さらにまっすぐ真っすぐ行くと早稲田の穴八幡に突き当たります。
日中は賑わう通りも今の時間帯はまだ少ない。 -
商店街に入ってすぐ右側、神楽小路の角に昔からある「紀の善」。
今はおしるこ屋ですが以前はすし屋でした。北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、長田幹彦などがよく集まって「パンの会」の活動や歌誌「スバル」発刊の打ち合わせなどをしていたそうです。 -
その隣に山田紙店というのがあったはずなのですが、見当たりません。
夏目漱石がここの原稿用紙を好んでいて、「漱石山房」と刷らした原稿用紙を誂えていたとか。川端康成、吉行淳之介もここの原稿用紙の愛用者だったそうです。
調べてみると去年閉店して、跡はスーベニアショップ「のレン」になっているそうです。小さな店で、煙草と原稿用紙だけでは成り立たなくなったのでしょう。 -
紀の善の斜め向かいにある鰻屋「志満金」も昔からある店で、紀の善とかここでは神楽坂芸者が呼べたそうです。神楽坂の花街も当初は柳橋、新橋、向島にくらべ3流でした。
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志満金の手前田口屋というお花屋さんの角を狭い道に入ります。
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入ってすぐ右に曲がると路の左手は東京理科大学(もと東京物理学校)のキャンパスが続いています。
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東京理科大学。
早慶上理と言われており、私立の理科系大学の名門なのですね。 -
その先の植え込みの中に史跡を示す碑とプレートが見えました。
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右に見えます。
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泉鏡花と北原白秋旧居跡でした。
明治32年硯友社の宴会で泉鏡花は神楽坂芸者桃太郎(本名伊藤すず)を見初めました。二人は相思相愛の仲となり明治36年3月、師の尾崎紅葉に隠してでこの地に新居を構えます。これが紅葉の知るところとなり、まだ駆け出しの分際で芸者と同棲するとは何事だ、と激怒した紅葉は鏡花を叱責する。二人はやむなく分かれる。ところが紅葉はその10月に亡くなる。師の死は悲しかったが、二人は晴れてこの家に戻り明治39年7月まで住みました。すずは賢夫人で最後まで鏡花に添い遂げます。
後に鏡花は名作「婦系図」で自分を早瀬主税、桃太郎をお蔦、紅葉を酒井先生として描いています。 -
北原白秋も明治41年10月から42年10月までこの地に住んでいます。同番地ですが泉鏡花の住んだ家と同じかどうかは分かりません。
石川啄木の41年10月の日記に白秋の住まいを訪ねた時のことが書かれています。「二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯が付いて窓と云う窓が蒼い。それはそれは気持ちのよい色だ。そして物理の講義の声が、琴や三味線と共に聞える」。 -
その先に進むと若宮公園があります。
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新宿区立若宮公園。
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江戸時代この辺りは武家屋敷が多かったそうです。
公園の周りの白壁はその壁を模しています。風来坊が日向ぼっこをしていました。 -
若宮公園。
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公園の隣の近代科学資料館。
東京理科大学の前身、東京物理学校の木造校舎を復元したもの。明治時代の建築物の美しさが伝わってきます。
北原白秋は「物理学校裏」という詩を作っています。
「Calcium・・・、Strontium、・・・と教室から漏れる学習の声。そしてチン・・・チン・・・チイン、チレ、チレ、チイン、シャン・・・と云うような附近の芸者町から聞こえる、なやましげな三味線の遠音。」
夏目漱石の「坊ちゃん」の主人公はこの物理学校を卒業して、松山の中学校に数学教師として赴任しています。主人公がここに入学した動機が、たまたま学校の前を通りかかると生徒募集中の立て札があった。それでふっと入学したのです。当時無試験でした。漱石自身英文学者の道に進む前は建築家を志していました。
もっとも当時の物理学校はここではなく、神田小川町にありました。両親の死後”坊ちゃん”が小川町に下宿をしていた時です。 -
更にその先、分かりにくい所に若宮八幡神社がありました。
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文治5年/1189年、源頼朝が奥州藤原氏征伐に際しここの社に戦勝を祈願した。戦に勝った頼朝は鎌倉の若宮八幡を分社し神楽坂若宮八幡となった。
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昔は大きな社だったそうですが今は小さなお社です。ここの神楽の音が鳴り響き神楽坂の名の由来だそうです。
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料亭でしょうか、同じ道を神楽坂通りに戻りました。
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神楽坂仲通り入り口の角、以前牛込会館があった所です。徳川夢声とか大正12年頃震災の後水谷八重子が「ドモ又の死」などの演劇に出ていたそうです。水谷八重子は神楽坂の生まれです。
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陶器屋。
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鰻の志満金、花の田口屋の所に戻って、
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向かいの神楽小路に入りました。坂下から坂上に向かって右側です。
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神楽小路。
飲み屋横丁です。 -
神楽小路からさらに分れる横丁。
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神楽小路から軽子坂に突き当たる右手に映画館がありました。
屋上の看板、ハンフリー・ボガートを思わせますね。 -
上映予定。
2本立てです。昔は2本立ては普通だったが、今は何でもお高くとまって映画も高くなりました。 -
軽子坂。坂下から。
神楽坂通りと並行して走る坂道です。 -
昔坂の下、外堀に船運の荷物の揚げ場があった。外堀は神田川に繋がっていてその水運を利用して米、みそ、しょうゆなどが運ばれた。その荷物を運び上げる人足がこの辺りに住んでいて、その荷物を入れる籠を軽子といいました。
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坂上から。
揚げ場の船は荷物だけでなく人も運んでいます。夏目漱石の「硝子戸の中」で、姉たちが神田猿若町に芝居を見に行くのに、早稲田からここまで歩き船で神田川を隅田川まで往復した、と書いています。早朝から出て帰ってくるのは夜中近く、ほとんど一日がかりだったそうです。明治大正時代、娯楽の少ない家庭の婦女子にとって芝居見物は最大の贅沢で楽しみでした。 -
軽子坂上にある「うお徳」。
高級割烹です。初代が泉鏡花の「婦系図」に「めの惣」の主人として出てきます。
調べてみると昼のコース1万5千円となっています。どうせ自分の懐を痛めない輩が行くのでしょうが、店の方も、どんな食材を使っているのか知りませんが、昼に1万5千円取ろうとは大したもんです。まあ客は自分の金を払うのではないから幾ら吹っかけてもいいや、ということなのでしょう。 -
本多横丁。
うお徳の角を左に曲がると神楽坂に繋がる本多横丁、右に曲がると筑土八幡神社方面。 -
右に曲がります。
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大きな交差点に出ました。大久保通りです。
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右に熊谷組本社。
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東京新宿メディカルセンター。
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交差点の向かいに筑土八幡神社。
ここは筑土八幡町です。 -
筑土八幡神社(つくどはちまん)。
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起源は嵯峨天皇の時代、809~823年、に遡ります。
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石段と鳥居。新宿区登録有形文化財。
石造鳥居は1726年建てられた新宿区内最古のものだそうです。 -
説明板。
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石段の上から。
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上った所です。
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筑土八幡神社。
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元の社殿は戦災で焼失し、今のは1963年(昭和38年)再建されました。
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境内。
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お神輿庫。
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お百度石と庚申塔。
庚申塔は舟形をしていて、二匹の猿と桃の枝を配した構図は極めて珍しいそうです。1664年。新宿区指定有形民俗文化財。 -
田村虎蔵顕彰碑。1873(明治6)~1943(昭和18)。鳥取出。
東京音楽学校卒。
「金太郎」、「浦島太郎」など唱歌を多く作曲。この近くに住んでいました。
堀内敬三は弟子。 -
明治37年頃の筑土八幡神社。
山本松谷:新選東京名所図会より。
社に続く石段が二つありますが、右が筑土八幡神社、左が戦災で焼失した筑土神社で今はありません。画面左に口入屋があります。私営職業安定所みたいなもので、お手伝いさんなどを斡旋していました。 -
本多横丁に戻ってきました。
神楽坂通りと軽子坂を繋いでいます。 -
さらに横丁と横丁を繋ぐ路地が通っています。
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本多横丁。
両側は料飲店がずらり。 -
本多横丁、神楽坂通りから。
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江戸時代この通り一帯本多家の屋敷があったことから名付けられたとのことです。
江戸古地図を見ると確かにこの辺り本多對馬守の屋敷となっています。 -
本多横丁の途中、左に入ると芸者新道。
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芸者新道。
かっては待合が並んでいたそうですが、残念ながら芸者姿は見られません。 -
芸者新道から神楽坂通りに出ると、向かい側に見番横丁の入り口があります。
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見番横丁に入ります。普通検番と書くと思います。
神楽坂通りの両側に横丁が何本も有り、右に左に出たり入ったり歩いていきます。 -
横丁に入った所に火防お稲荷さん。
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神楽坂の見番があります。
芸者置屋、待合、料理屋、いわゆる三業の組合事務所。神楽坂には最盛期は700人ほど、今も30人ほどの芸者がいるそうです。 -
神楽坂通りもかなり車の交通量が多くなってきました。
この坂は午前は坂上から坂下への一方通行、午後は逆になります。 -
宮坂金物店。
昔ここを入った所に神楽坂演芸場という寄席がありました。柳家金語楼が出ていたそうです。 -
神楽坂通りもだいぶ上ってきました。
鎮護山善国寺です。 -
善国寺。
1595年徳川家康が日本橋馬喰町に開いた鎮護山善国寺が起源。その後火災で焼け麹町を経て1792年今の所に移ってきた。 -
本堂。
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善国寺。
武の神毘沙門天を祀っており、江戸時代ここらは武家屋敷が多かったところから武士の信仰が篤かった。 -
今も神楽坂の毘沙門さまとして信仰を集めています。
毎年正月、5月、9月の初寅の日に御開帳されました。縁日の屋台、夜店は賑やかなもので、東京の夜店の嚆矢と云われます。
田山花袋の「東京の三十年」に、「牛込で一番先に目に立つのは、・・・、例の毘沙門の縁日であった。今でも賑やかだそうだが、昔は一層賑やかであったように思う。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人たちは、大抵は神楽坂の通りへと出かけて行ったから」。銀ブラで銀座通りを行ったり来たりするように、人々は神楽坂通りを坂下から坂上まで何度もブラブラして楽しんだそうです。 -
石虎が左右で睨みを利かしています。狛犬ならぬ狛虎は珍しいです。
吽形(うんぎょう)。1848年周辺の住民により寄進されました。
そうです。縁日といっても今も昔も庶民は神や仏にお参りするのではありません。出ている屋台店にお参りするのです。 -
阿形(あぎょう)。獰猛なとても怖い顔をしています。
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石虎の謂れ。
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家畜慰霊碑。
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境内と門前に花屋が花を並べ始めました。
神楽坂界隈で生涯の大部分を過ごした作家の加能作次郎は、昭和2年大東京繁昌記に寄せた文の中で、「又植木屋の多いことが、その頃(関東大震災前)の神楽坂の縁日の特色の一つで、坂の上から下までずっと両側一面に、草花屋や盆栽屋が並び・・・。」云々。さらに抄出すると、「震災後は縁日の植木屋は減っていき、毘沙門(善国寺)の境内に常設の植木屋が出来た。毘沙門自身の経営か、地代を取って境内を貸しているのか、毘沙門様もさてさて抜け目なく考えたものかな」とあります。 -
善国寺の隣に玄品ふぐというふぐ屋があります。ここが以前果物屋、洋食屋の田原屋があった所です。平成14年閉店したそうです。
有名なレストランで、夏目漱石、菊池寛、永井荷風、島村抱月、佐藤春夫など多くの文人が利用していました。加能作次郎は大東京繁昌記の中で「田原屋は料理がうまいというのが評判だ。下町あたりから態々食事に来る者も多いそうだ。・・・・、私の知っている文士や画家や音楽家などの芸術家連中も、牛込へ来れば多くはここで飲んだり食べたるするようだ。・・・、元来が果物屋だけに、季節々々の新鮮な果物が食べられるというのも、一つの有利の条件だ。」と書いています。 -
夏目漱石は子供を連れてここにきてテーブルマナーを教えたそうです。
漱石の次男夏目伸六は著「父・夏目漱石」で書いています。
”そうして父は私達二人(長男純一と伸六)を引きつれて、当時は相当に有名だったのだろうか、・・・・小さな西洋料理屋へつれて行ってくれた。礼儀に関しては相当喧しかった父と、面と向かって食事をすることは、小さい私達にとってかなりな緊張を必要とした”。ナイフやフォークの上げ下げをジロリと見られては食事も喉を通らなかったでしょう。
田原屋にしろ山田紙店にしろ、古い店が時流に押されて消えていくのは残念なことです。 -
向かいにこれも有名な文具の相馬屋。
なんでも1640年頃の創業だそうです。 -
坪内逍遥、森鴎外、尾崎紅葉、石川啄木など多くの文士がここの原稿用紙を愛用しました。
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その辺りの神楽坂通り。
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相馬屋の先の昔足袋屋「丸屋」があった第一勧業信用組合の横を右に入っていきました。年末ジャンボの季節ですね。この売り出しを聞くとすこし師走の気がします。
漱石が学生の頃よく丸屋の横を通って奥へ入っていきました。何しにかは後で。 -
公園があります。
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小さな公園です。
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寺内(じない)公園。
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ここに鎌倉時代創建と云われる行元寺(ぎょうがんじ)というお寺がありました。一帯が門前町で、江戸時代兵庫町、肴町でしたがもっぱら寺内(じない)と呼ばれました。江戸時代末期にこの地に岡場所(非公認の遊郭)が出来、その後の神楽坂花柳街の発祥の地と云われます。
行元寺は明治40年頃五反田の方に移りその跡は待合が立ち並びました。 -
夏目漱石の腹違いの次姉ふさが従兄(高田庄吉)と結婚しここ寺内に住んでいました。漱石夫人夏目鏡子の「漱石の思い出」にはこんなことが書いてあります。勿論結婚前の事なので夫人も漱石なり周りからの聞き語りですが。
「(漱石大学予備門時代、17、8歳頃)、この姉が人が良いので弟たち(漱石や次兄栄之助)はそこへ行けば優待されるのでよく行願寺(夫人はそう書いています)へ遊びに行ったものです。高田の家の向かいに東屋という芸者屋があって、漱石らが行くと幾人か芸者が遊びに来る。寺内のこの一画は一時まるで夏目一族の会合所みたいだったそうです。」 -
公園の横の超高層マンションが睥睨しています。押しつぶされそう。
漱石自身も「硝子戸の中」で書いています。
抄出すると:”その頃寺内の従兄の家(姉ふさの嫁ぎ先高田)には次兄がごろごろしていた。また母方の従兄庄さんというのもそこいらをぶらぶらしていた。こういう連中が高田の家で落ち合っては、寝そべったり縁側で勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子の窓から、「今日は」などと声を掛けられたりする。「好いものが有るからこっちへおいで」、とか何とか言って女を呼び寄せようとする。芸者も昼間は暇だから、三度に一度はご愛嬌に遊びに来る。” -
公園の奥に石段が見えます。
”私(漱石)はその頃まだ十七八だったろう。大変なはにかみやだったので、そんな時にも隅の方に引っ込んでばかりいた。・・・・。あるとき咲松という若い芸者が私の顔を見て「またトランプをしませう」と云った。私は小倉の袴を穿いて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣いさえなかった。「僕は銭が無いからいやだ」、「好いわ、私が持っているから」。
それから大分あとになって私は芝の勧工場(百貨店)でばったり咲松に出合った。此方の書生姿に引き換えて、彼女はもう品の好い奥様に変っていた。”
神楽坂は若い漱石にとって甘酸っぱい思い出の詰まった所なのです。 -
寺内は作家野口冨士夫が生育した所で、柳家金語楼、花柳小菊、神楽坂はん子、勝新太郎も住んでいたそうです。
神楽坂芸者だった神楽坂はん子のヒット曲「芸者ワルツ」のメロディーを覚えている方も多いでしょう。
”あなたのリードで島田もゆれる チークダンスのなやましさ・・・”
青春時代の漱石が時には芸者の色香をかぎながらここら辺を出入りしていたんだ、と思いを巡らし石段を登りました。 -
兵庫横丁のようです。
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兵庫横丁。
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晩酌セット。
先付、前菜、お酒 2千円。
これくらいならサラリーマンでも。これで済めばの話ですが。ついついお銚子が2本になり3本になり。最後は財布はスッカラカン。 -
東京理科大学森戸記念館。
同大学卒業生森戸祐幸氏により寄贈されたものだそうです。
モリテックスという東証1部上場企業の創業者だそうです。 -
森戸記念館。
国際会議、学会、生涯学習センター、地域の文化活動等に使用されています。
神楽坂のど真ん中に建てるとは、森戸さんも粋ですね。ここなら外国からのお客さんに日本の文化の真髄を味わっていただけます。 -
またまた神楽坂通りの商店街。
玩具やらお箸やら陶器やら。 -
陶器の店。
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神楽坂上近くです。香ばしいお茶の香りが漂っていました。
年寄りの神楽坂巡りです。若い人たち好みのお店は出てきません、お退屈様でした。 -
神楽坂上に来ました。
この裏通りに夏目漱石も好んだ鳥料理の「川鉄」がありました。漱石の本に、川鉄にとり鍋を食べに行ったとか、川鉄から鍋を取り寄せた、などの記述が所々に出てきます。 -
神楽坂通りは早稲田通りの一部です。早稲田通りは早稲田からずっと飯田橋まで続いています。
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神楽坂上。
早稲田通りと大久保通りの交差するところ。 -
坂上からの神楽坂商店街入り口。
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神楽坂上。
反対側。 -
角に安養寺という寺があります。
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神楽坂上から先に続く通り。
これも神楽坂通りです。神楽坂通りは飯田橋の神楽坂下から神楽坂上を経て地下鉄東西線の神楽坂駅までの早稲田通りを言います。
観光客もここまでは来ないようで、歩いているのは地元の買い物客のようです。 -
神楽坂上から少し坂下方向に戻り、善国寺の側の右のゆるい坂道に入りました。地蔵坂、通称藁店(わらだな)です。昔外堀の揚場から重い荷物を負ってくる馬に藁を食べさせ水を飲ませる店があったそうです。
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ここから先は神楽坂ではなく袋町、中町になります。
この通りに和良店亭(わらだなてい)という寄席がありました。落語好きの漱石がよく通いました。漱石は娘義太夫なども好きで、神楽坂のそういった類の寄席には全部いったそうです。
矢田津世子の短編「神楽坂」は善国寺からこの辺りを舞台にしています。樋口一葉の師であった半井桃水は晩年この辺りに住んでいました。また漱石の「それから」の主人公代助の住まいはこの近辺に設定されています。代助はここから歩いて金剛坂を上り、伝通院の傍の三千代の住まいまで行きました。 -
少し歩くと右に日本出版会館があります。
日本出版クラブ:日本の出版業者の大部分が加盟していて、出版に関する調査研究、研修会、講演会を通じ出版人の交流親睦を図り、出版文化の昂揚発展に寄与することを目的として1953年設立、だそうです。 -
日本出版クラブ会館。レストラン・宴会場。
ここに無頼の旗本水野十郎左衛門の屋敷があり、町奴の頭、幡隨院長兵衛が殺された場所です。徳川3代家光、4代家綱将軍の頃から徳川直参の旗本と、外様大名配下の町奴の対立が激しくなっていく。その双方の代表格が旗本白柄組の水野十郎左衛門と町奴の親分幡随院長兵衛です。事ごとに町奴側にやられる旗本側。恨みに持った水野はある日奸計を以て幡随院を自分の屋敷に呼び寄せ、風呂に入っている丸腰の幡随院を刺殺します。後年水野十郎左衛門も行跡不行届きの咎で切腹を命じられています。
歌舞伎や映画などで取り上げられ、私も小さい時見た映画の幡随院が殺される場面を覚えています。幡随院役が片岡千恵蔵だったか市川右太衛門だったか。
この跡に1764年に牛込天文屋敷が設置されています。 -
向かいに光照寺。
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光照寺。
この辺り一帯は牛込城跡です。 -
光照寺。
ここに戦国時代、16世紀後半牛込城という城があったなんて想像もつきません。
牛込城については記録が無く、天守閣は無かったでしょうが、高層建築が無かった時代、牛込の高台に立つ城はさぞ威容を誇っていたでしょう。 -
説明書きによると、
牛込氏はもと赤城山の麓上野(こうずけ)国大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とする。北条氏の家臣となり、大胡重行のときこの牛込の地に移り牛込氏を名乗り牛込城を築く。1590年北条氏滅亡により徳川の家臣となり、牛込城は江戸城に近いため取り壊しとなった。
「火事と喧嘩は江戸の華」と云われましたが、「火事はどこだ、牛込だ、牛の○○○○丸焼けだ」というはやし言葉はどこから生まれたのでしょうね。 -
城は何の跡形もなく、光照寺が1645年神田から移ってきました。
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出羽国松山藩主酒井家墓地。
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酒井家墓地。
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便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓。
初耳です。江戸中期の狂歌師。150石とりの幕臣だった。新宿区指定文化財。 -
大田蜀山人と親交があった。
代表作 三度たく 米さへこはしやはらかし おもふままには ならぬ世の中 -
諸国旅人供養碑(しょこくりょじんくようひ)。
旅先での死者を供養した石仏。新宿区登録有形文化財。 -
神田松永町の旅籠紀伊国屋の主人が、自分の旅籠で病死した旅人の菩提を弔うために建立。1819年から1858年までの49人が弔われている。
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「月山」の作家森敦(もりあつし)の墓がありました。
小説家。1912(明治45)~1989(平成元年)。長崎市出身。旧制一高中退。横光利一に師事。
作に「酩酊船(よいどれぶね)」、「月山」、「われ逝くもののごとく」ほか。 -
われ浮雲の如く 放浪すれど こころざし 常に望洋にあり 森敦。
自筆です。
この寺に諸国旅人供養碑がありますが、森敦も放浪を愛した旅人でした。 -
光照寺からさらに道を左、右に歩くとここは中町。
宮城道雄記念館です。宮城道雄が最後に住んでいた家の跡に昭和53年建てられました。
田山花袋のまだ作家として芽のでない貧乏書生時代、牛込界隈の下宿屋を転々としています。侘しい思い出が多かったようです。
「東京の三十年」の一文を抄出すると:
「中町の通り、そこは納戸町に住んでいる時分によく通った。・・・、中でも中町が一番印象が深かった。・・・。その通りには、若い美しい娘が多かった。瀟洒な二階屋、其処から玲瓏と玉を転がしたように聞こえてくる琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手・・・。私にはそういう娘たちに話のできる若い軍人などが羨ましかった。それに比べて、貧しい一文学書生のいかに惨めであったことよ。」 -
記念館前の宮城道雄略伝碑。
1894(明治27)~1956(昭和31)。筝曲家。神戸生まれ。
7歳の時失明し箏の道に入る。生田流の2代、3代中島検校などに師事し、1916(大正5)年には筝曲の最高位である大検校(けんぎょう)の称号を得る。
昭和31年6月25日未明、公演のため寝台急行列車「銀河」で大阪に向かう途中、東海道線刈谷駅の手前で謎の転落死を遂げた。転落の原因は不明のままです。 -
宮城道雄の畏友で自らも箏を能くした随筆家内田百間はその随筆「東海道刈谷駅」の出だしにこう書いています。
抄出。昭和31年6月24日の朝、大検校宮城道雄は死神の迎えを受けて東京牛込中町の自宅に目をさました。翌25日に予定されている大阪、神戸、京都での関西交響楽団との「越天楽による箏変奏曲」の演奏の練習をした。彼自身の作曲であり、すでに幾年も手掛けている曲であるが、「どうも、うまく行かない」と家人に洩らしていたと云う。
夕方6時半頃食卓につき、常の如くお酒を楽しんだ。食後は明日の晩使う琴爪の手入れをしたが、中々気に入った様に出来なかったらしい。 -
今夜の汽車は夜8時30分東京駅発の13列車急行「銀河」である。7時半過ぎに宮城は家を出ようとした。その支度に起ちあがった前後から彼の機嫌が悪くなった。急に気分が鬱してきたらしい。
昼間の内やんでいた雨が、晩暗くなってからまた降り出した。宮城はもう帰ってこない自分の家の玄関を出て、冷たい雨滴がぽつぽつ落ちて来る夜空の下を門の方へ辿って行った。
宮城道雄の運命を暗示する不気味な文章です。当時東京・大阪間は夜出発して翌朝着く寝台急行が一般的でした。記憶違いかもしれませんが、「明星」、「彗星」、「月光」などがありました。
以前東海道線で刈谷駅に入る手前、宮城道雄が転落した場所に供養塔が建っていましたが、今はどうか。新幹線の時代もう見ることも有りません。 -
愛用の箏「越天楽」。
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タイプライターを打つ宮城道雄。
宮城道雄は随筆の名手内田百間と親交があり、百間の勧めで随筆を書いても一流でした。
随筆集に「雨の念仏」、「水の変態」、「あすの別れ」など。 -
宮城道雄記念館から大久保通り、地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅の近くに出ました。
これを渡ります。大久保通りを境にしてその1とします。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2017/12/08 12:02:03
- せっかく書いたコメントが反映されていません・・・
- ベームさん、こんにちは。
そうなんです。先ほどコメントを書きましたのに、今見たら消えていました。
最近のコメント欄、難しくなったのでしょうか。時々こんなことをやらかします。
さて、新しい東京文学歴史散策が始まっていたのですね。
前のもまだ拝見しきれていないのに(汗)・・・。
ベームさんの精力的な創作活動には同年輩のものとして、本当に敬意を表します。
それも乱発ではなく、興味ある詳細な説明を添えて、作成されるのに、お時間がどれだけかかったかと思えるような素晴らしい旅行記を。
今回は神楽坂近辺ですね。
牛込・市ヶ谷界隈は昔一時住んでいたこともあり、大変懐かしく拝見しました。
旅行記を拝見して、見たことがあるようなところ、全く記憶にないところ・・・。若いころの記憶はあてになりません。
そのころは若さゆえ、近くにそんな由緒ある地があるなんて、気が付かなかったのでしょうね。というか、名前は聞いたことがある偉人などもありましたけど、そのころはそれどころではなかったのでしょうね。
。
- ベームさん からの返信 2017/12/08 22:09:11
- Re: せっかく書いたコメントが反映されていません・・・
- himmelさん、
早速見て頂き有難うございます。依然として海外の意欲が湧かないので今の散歩をぽつぽつ続けていこうと思っています。
歩いてみて、知っていること知らなかったこと、それを確かめるためいろいろ資料をひっくり返す事は楽しいことです。この歳になってそんな知識をため込んでも何にもなりませんが。
himmelさんは牛込辺りに住んでおられたのですか。いつ頃か存じませんが随分変わったことでしょうね。今度歩いたところだけでもここ数年の間にどんどん古いものが無くなっているようです。写真にもあるように夏目漱石の愛用した山田紙店が昨年無くなっているなんて、ちょっとの差で残念至極です。
これからも時々覗いてください。
ベーム
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