2017/11/06 - 2017/11/09
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kenichi291さん
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11月5日(日)NHKをたまたま見ていたら奈良薬師寺の特番をやっていました。6日から奈良に行くので、先ずは西ノ京に向かい薬師寺を拝観しようと思い立ち京都経由直行しました。ほとんどの建物が再建とは言へ数百年後には国宝になるんでしょうが、見応えあります。白鳳仏が優美なお姿で迎えてくれます。初めての奈良感動です。
写真は金堂。再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願でした。昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興されたものです。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー 新幹線 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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玄奘三蔵院伽藍 玄奘三蔵[げんじょうさんぞう](600または602~664)は、『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶です。17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及びます。玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]」の教えでした。その教えの流れを継承している宗派が法相宗[ほっそうしゅう]です。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たります。
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伽藍のこのコーナーからの写真がベストと係員さんが言ってました。
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昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしています。
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食堂 薬師寺は昭和43年以来、「お写経勧進による白鳳伽藍復興」を続けております。昭和51年の金堂復興を皮切りに、西塔・中門・大講堂・回廊の復興を行ってまいりました。
この度、薬師寺白鳳伽藍の主要堂塔のひとつである食堂(じきどう)の復興が成就します。 -
新たに復興した食堂は、建物外観は奈良時代の意匠を凝らした作りとし、内部は現代技術を活用することで広い空間を確保し、食堂を多目的に利用することを想定しています。
堂内には田渕俊夫画伯により描かれた食堂ご本尊「阿弥陀三尊浄土図」を中心に、全長約50メートルにわたる壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が奉納されます。 -
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大講堂 薬師寺は法相宗の大本山なので、法相宗の教学「唯識論」の創始者である弥勒如来様(インド名・マイトレーヤ)がお祀りされています。
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弥勒三尊像 (重要文化財) 白鳳~天平時代。
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金堂 享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまいました。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈でしたが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態でした。
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金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願でした。昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興しました。
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東院堂(国宝)。
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聖観世音菩薩像 (国宝) 白鳳時代 国宝・東院堂の「聖観世音菩薩像」。心の目で見ることを「観[かん]」といいます。色なき色を見、音なき音を聴く、これが「観」です。この観の働きをもって私たちの悩みや苦しみや悶えをお救い下さるのが観音菩薩です。聖観世音菩薩は日本屈指のお美しいお姿の観音さまといわれ、薄い衣を召し、その衣の美しい襞の流れの下からおみ足が透けて見える彫刻法は、インドのグプタ王朝の影響を受けたものです。
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二天王像 平成3年(1991)に復元復興された二天王像は、享禄元年(1582)の兵火により中門とともに焼失しました。その後約400年復興をみることがわかりませんでしたが、昭和59年(1984)お写経勧進により中門が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の仁王像ではなく武装した二天王像と、うことが判明しました。二天王像の形式は、中国西安大雁塔の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考に致しました。
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二天王像 平成3年(1991)に復元復興された二天王像は、享禄元年(1582)の兵火により中門とともに焼失しました。その後約400年復興をみることがわかりませんでしたが、昭和59年(1984)お写経勧進により中門が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の仁王像ではなく武装した二天王像と、うことが判明しました。二天王像の形式は、中国西安大雁塔の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考に致しました。
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金堂 享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまいました。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈でしたが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態でした。
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薬師如来像。堂内は撮影禁止なのですが、堂外から仏様が良く見えます。撮影してもお咎めなしのようです。おおらかで嬉しいです。
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月光菩薩像(国宝) 古代インド・グプタ期の様式で「首・腰・膝」を交互に左右に折り曲げる「三屈法(トリバンガ)」という姿態。
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薬師如来像(国宝) 東方浄瑠璃浄土の教主で現世利益の仏様。天平時代頃までの特徴で、薬壺(やっこ)を持っていません。「三十二相」という如来の要件を持った正しく仏様”な像。「胸に卍相&顔料痕」や「首に三道という三本の線」「手に縵綱相(まんもうそう)という水かき」。
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日光菩薩像(国宝) 古代インド・グプタ期の様式で「首・腰・膝」を交互に左右に折り曲げる「三屈法(トリバンガ)」という姿態。
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西塔 昭和56年(1981)に復興されました。東塔と比較すると、まずその鮮やかな色に目を奪われますが、またそれは奈良を表わす色使いでもあると言えます。塔の連子窓[れんじまど]に使われている色を「青[あお]」色、扉や柱に使われている色を「丹[に]」色と呼び、万葉集の一節に
あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり
と歌われている事からも当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われます。「青丹良し」とは奈良の枕ことばを意味するのです。色はもちろん連子窓の有無や屋根の反り、基檀の高さ等、東塔との違いが多く見られまが、(例えば、東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられています。)まさにその違いこそが1300年という歴史の流れを表しているのです。 -
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奈良の西に日が沈みます。
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歩き疲れたのでホテルで食事をいただきました。
大和の旬菜三種盛り。 -
焼物(黒毛和牛・海老・帆立・いか・焼き野菜)。
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お造り二種盛合わせ、焚き合わせなど。
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