2014/11/05 - 2014/11/05
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hide-bachさん
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芭蕉が歩いた「おくのほそ道」をたどります。
(壺碑=多賀城碑とも言う)
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- タクシー 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
(東北歴史博物館)
(奥の細道【17】多賀城碑)
多賀城駅は、東北本線の国府多賀城駅とJR仙石線の多賀城駅があって、
鉄道マニアの方なら、間違うこともないだろうが、
車好きのボクには、電車ほど厄介な乗り物はない。
第一、時間が決められていて、思い立った時にさっと動けない。
そして行きたい所へは、路線が合わないと行くことが出来ない。
次に切符を買わなければならない。行き先が決まっても、
どの線のどの駅までの切符がそれぞれ違うからだ。
車だと、行き先が決まれば、いつ何時でもガソリンさえ入っていれば、
行くことが出来る。
あらゆる道路は、希望の行き先に繋がっている。
(ここで「あらゆる道路はローマに繋がる」を思い出した方を尊敬します。)
しかし電車は、運転する労力がいらない。
行き先が決まって、何線の何駅までの切符を買って、
どの駅からどの電車に乗るかさえ決まっていれば、
勝手に連れていってくれる。
車窓から見る風景も、手放しで飲み食いしながらでも行けるという
利点はある。
若い頃は、どんなに遠くても車を運転することが楽しみのボクには、
何の苦痛もなくドライブできた。
東北一周の6日間で2千キロ位訳もなく走ることが出来た。
今では、運転することさえ億劫になってきた。 -
(博物館わきの東北を代表する民家)
話を本題に戻そう。
東北本線のJR国府多賀城駅へ向かう。
ここには昔、陸奥国の国府が置かれ、
蝦夷征討政策に当たった鎮守府が置かれていることが解っている。
文治五年(1189)、奥州藤原氏を攻め滅ぼした源頼朝も、
多賀国府に立ち寄り戦後の処置を命じたことが「吾妻鏡」に記されている。
俳聖 松尾芭蕉は、奥の細道への旅の途中に多賀城に着き、
古くから歌枕に詠まれた「壷碑(つぼのいしぶみ)」を見つけ、
次のように述べています。
「壷碑 市川村多賀城にあり
つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺計歟(か)。
苔を穿(うが)ちて文字幽(かすか)也。
四維國界(しゆいこくかい)の数里を記す。」と。
JR国府多賀城駅で降り、駅の案内に沿って外に出ると、
普通ならタクシーが、2〜3台並んでいるが、
駅前広場にはタクシーも、売店も何もない。
左を見れば、遺跡の円い墳墓のような土の小山があるように見える。
人気はなしで至って静かである。
駅の反対側には東北歴史博物館があるのを知っていたので、
反対側に回って見ると、歴史館は見えるものの、
駅のロータリーには、タクシー乗り場や、バス乗り場には、
人気一つなく、バスはいつ来るのか時刻表もなく、
タクシーに至っては、電話番号すらわからない。
東北の田舎?
いや待てよ大震災でそれどころではないのかも知れない。
良いように解釈して、目の前の歴史博物館に向かう。
歴史博物館も受付の人だけかと思ったら、受付嬢や案内嬢、
各部屋の監視員なども配置され、
観覧の人も結構いるではないか。 -
(歴史博物館内の、三内丸山遺跡の埴輪の模型)
入場料を払って中に入ると、平泉や多賀城遺跡、三内丸山遺跡の埴輪など、
様々な東北の歴史展示物があり、何よりも撮影禁止でなかったことがうれしい。 -
(博物館内の、多賀城碑=壺碑のレプリカ) -
(平泉の金色堂の七宝輝く柱のレプリカ) -
(多賀城公園)
この博物館で見る限り、多賀城碑=壷碑は駅から近くに有りそうなので、
歩いて行くことにした。
「多賀城碑⇒」の看板にそって進む。
後から思えば、ずいぶん遠回りして行ったように思う。
「壷の碑」のある高台から望むと、駅から公園を抜けて非常に近い所にある。
-
(公園と多賀城碑=壺碑の覆い堂)
-
(壺の碑の覆い堂2) -
表題の覆い堂の中の壺の碑=多賀城碑
(壷の碑=多賀城碑)
壷碑には、
「多賀城 京を去ること二千五百里
蝦夷の国の界(さかい)を去ること二百二十里
常陸の国の界を去ること四百十二里
下野の国の界を去ること二百七十四里
靺鞨(まっかつ)の国の界を去ること三千里
此の城は、神亀元年、歳は甲子に次ぐる 按察使(あぜち)兼
鎮守将軍従四位上 勲四等大野朝臣東人の置く所なり。(後略)
天平宝字六年十二月一日」と漢文で書かれている。
ここで「靺鞨の国」が解らないので、調べたら、
「中国の隋唐時代に中国の東北地方から朝鮮半島北部に居住した、
ツングース系諸族の総称」(大辞林)と解ったが、
覚えて置くほどのお国ではなさそう。
-
(芭蕉の句碑)
壺の碑の横に芭蕉の句碑がある。
・あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒 はせを
下段に「おくのほそ道」の一節、
「むかしより詠み置ける歌枕、おほく語り伝ふといへども、
山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、
木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、
其の跡たしかならぬ事のみを、
ここに至りて疑ひなき千載の記念(かたみ)、
今眼前に故人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、
羇旅の労を忘れて、泪も落つるばかり也。」とあるらしい。
壺の碑を見て、これだけの感慨を持った心境を述べて、
感動して涙を流すほどの物だったのか、
ボクには良く分からない。 -
この「多賀城碑」より北に行った所に多賀城政庁跡があるらしいが、
お昼時間が迫っており博物館の模型で我慢した。
(多賀城政庁入口の案内看板) -
(多賀城政庁の模型、東北歴史博物館より) -
(橋)
JR国府多賀城駅に戻り、観光協会でタクシーに電話して呼び出してもらう。
仙石線の多賀城駅近くの「沖の石」と「末の松山」のある宝国寺までお願いする。
ひなびた田舎の事、2km位はものの五分もあれば行ってしまう。
途中、左手にJR多賀城駅を見て橋を渡って、
すぐ右折し「沖の石」「末の松山」を教えてもらい、
駅に帰るには徒歩15分ほどですよ、と云う。、
また、お昼を食べるなら塩釜まで行ってお寿司が美味しいですよ、
美味しい寿司屋は塩釜の駅で駅員さんに聞けば教えてくれますよ、と云う。
橋を渡る時、この川の向こう側は、大震災で津波が押し寄せて、
川が氾濫して、床上浸水の被害が出て、大変でした。
その水の高さが、電柱に示されています。と教わる。
成程、ボクの腰の高さほどはある電柱のしるしであった。 -
(多賀城駅前の火の見?でなく時計台であった) -
(電柱にある津波の高さのしるし) -
(沖の石)
「沖の石」は民家の間に池があり、その中に石積みがある。
これがどうして歌枕になる程の名所であるのか、ボクのような凡人には理解できない。
その昔は、大きな池の中に累々と石が積まれて奇観だったのだろうか。
多賀城市教育委員会の説明板によると、
「・おきのゐ(沖の井)て 身をやくよりも かなしきは
宮こしまべの わかれなりけり
古今和歌集 小野 小町
・わが袖は しほひにみえぬ おきの石の
人こそしらね かわくまぞなき
千載和歌集 二条院讃岐
沖の井(沖の石)は、古来歌に詠まれた歌枕であり、
今もって池の中の奇岩は累累とした姿をとどめており、
古の状況を伝えています。 −以下省略)」とある。
また、「末の松山」はこの沖の石から100mほど行った所の、
墓地に隣接して聳えている。
「奥の細道」にある寺とは 末松山宝国寺と云う。
-
(末の松山) -
(末松山 宝国寺) -
(末の松山の歌碑)
これについて芭蕉は「奥の細道」の中で、
「末の松山は、寺を作りて末松山といふ。
松のあいあい皆墓はらにて、
はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終にはかくのごときと、ー以下省略」
とある様に、
「はねをかはし枝をつらぬる契の末も」は、
唐詩 白楽天の「長恨歌」の中にある有名な一節、
(願わくば 天に在らば比翼の鳥とならん、地在っては連理の枝とならん)
の楊貴妃と玄宗皇帝の愛の結びつきの固さを比喩した一節から取っている。
そんな意味のある松で、松の根方にある歌碑は、
・君をおきてあだし心をわがもたば
すえの松山波もこえなむ
とある。
(あなたを放っておいて、他に心を移すようなことがあるなんてことは、
あの高くて大きな松山を海の波が越えるようなものです。
そんなことはあり得ません)と言う意味に取った。
それはボクの勝手な意味であるが、現実に大震災の時は、
この大きな木をも越えはしなかったが、大きな津波で水害があったのは事実だ。
今ではこのような歌を詠めそうにない。 -
(多賀城駅)
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