2014/07/07 - 2014/07/07
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hide-bachさん
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芭蕉の奥の細道を巡ります。
(奥の細道【十三】医王寺と飯坂温泉)
医王寺については、住職により、次のように記されている。
(瑠璃光山医王寺は、平安時代淳和天皇の御代、天長三年(826)の開基で、
弘法大師御作の薬師如来をおまつりし、
霊験あらたかで数多くの人々の信仰を集め、
鯖野の薬師と呼ばれ親しまれてきました。
当地方を信夫(しのぶ)といい、
治承の昔(1177)信夫の庄司(*)であった佐藤基治が、
当地の大鳥城を居城とし、奥州南部の広域を治めていました。
信仰心の篤い基治は御堂を改修し堂塔伽藍を建立し、源氏の再興を祈願し、
一族の菩提寺として寺門を隆盛に導きました。
その頃、平泉の鎮守府将軍 藤原秀衡の下にあった源義経が、
平家討伐に向かう時、基治はその子継信、忠信の二人を遣わしました。
兄弟は義経公の忠義な家臣として活躍をしましたが、
惜しくも兄継信は四国の八島の合戦で能登守教経の矢を受け、
義経を守る盾となり、帰らぬ人となりました。
一方、時を経て平家追討の後、
頼朝との不和がもとで追われる身となった義経一行が、
京都で追手に遭い苦境に落ちいった時、
弟 忠信は、義経を名乗って敵をひきつけ主君を逃し、
自分は身代わりとなって討ち死にしました。
その後、弁慶等とともに無事奥州に入った義経一行は、
平泉に向かう途中、佐藤基治に会い継信・忠信の武勲を伝えるとともに、
当寺に参籠し遺髪を埋めて二人の追悼法要を営みました。
また兄弟の妻たちは老母、乙和御前の悲嘆を察し、
気丈にも自身の悲しみをこらえて、
二人は自ら甲冑を身につけて継信・忠信兄弟の凱旋の勇姿を装い、
姑の心をいやしたという故事は、孝心の鏡として今に伝えられています。
時は移り変わっても、後の世までも伝わる継信・忠信兄弟と、
その妻たちの忠孝に心を打たれた松尾芭蕉や
白河藩主の松平定信等の文人墨客をはじめとする
多くの人々が当寺を訪れ香華を手向けております。合掌)とある。
(*)庄司=荘司:荘園の領主の命を受けて荘園の管理した職。
江戸時代では、名主もしくは庄屋をいう。(広辞苑6)
継信・忠信兄弟の母は、義経に従い帰還した家来衆を見て、
同じ戦いの中で、こんなに沢山のご家来衆が生きているのに、
わが子兄弟は二人とも討ち死にするとは、
せめて一人でも還っていれば、と嘆き悲しんだという。
それを見て、老母を慰めようと兄弟の妻たちは甲冑を着て見せたという。
(医王寺の本堂)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
拝観料を払って門をくぐる。
中へ入ると、本堂に続くもう一つの門が右手に見え、
先に長い土塀がつながっている。
医王寺の紹介でよく見る場所である。
今は、本堂に向かう門はくぐらず、白い土塀に沿って進む。
(奥に続く白く長い土塀) -
その土塀に沿って進むと薬師堂がある。
成程、医王寺だからお薬師様があるのだと思って薬師堂を見上げる。
薬師堂の欄干には、沢山の石に穴をあけてぶら下げてあるが、
どんなご利益があるのだろうか、初めて見る光景である。
もっとも薬師堂をしげしげと見るのは今回が初めてのことかもしれない。
以前奈良の薬師寺に行った時は建物全体の絢爛豪華さに見とれて、
こまごまとしたところを見ていない。
(薬師堂) -
(薬師堂の欄干の石) -
(薬師堂の扁額) -
(薬師堂の石)
この石について調べて見たが、なかなかこれといった正解が見つからない。
四苦八苦していた時、医王寺師弟句碑の写真にヒントがあるのを知った。 -
一つは、
・太刀佩いて 武装悲しき 妻の秋 松野自得
(これはどうも継信・忠信兄弟の妻の武装の事らしい)
(太刀佩いて・・・の句碑) -
もう一つは、
・糸でつる 耳石薬師堂 小春 大橋とし子
(薬師堂の欄干の石のことを詠んだもののようだ。)
(糸でつる・・・の句碑)
これで薬師堂の欄干に吊るしてある石が、
どうやら「耳石」であるらしいことが分かった。
俳句では「みみいし」と読むらしいが、本当は「耳石(じせき)」といって、
耳にある三半規管の平衡感覚に関わりのあるものらしい。 -
耳石(じせき)と分かれば、調べようもある。
薬師如来は病気の関わる如来様であることはわかっていたが、
難病の耳の病を治すのにご利益があるらしいことが分かった。
耳石は、魚の耳石が分かり易く、薬師堂にぶら下がっている石の形をしている。
どうやら平衡感覚を司る器官のようだ。
(魚の耳石、ネットから)
耳に病気のある人が、この薬師様に参詣し、耳の治療を願う。
主に平衡感覚が失われる病である。
俗にいうメニエール症候群、目が回り気分が悪くなる。
激しい吐き気がし嘔吐する。耳鳴りや難聴になることもあるらしい。
この病が治ったとき、耳石をかたどって石に穴を開け、
糸に吊るして奉納する慣わしがあるらしい。
それで社殿に、石がたくさん吊り下げられているのだ。
「知らなかったことさえ知らなかったことを知ることが勉強」と言う。
苦労して、知らなかったことを知ることが出来たのは、
大変有意義であった。
知っていた方には、馬鹿馬鹿しいことだろうが、
ボクには、難しい数式を苦難の末解いた時のような爽快感がある。
・薬師堂 日陰に涼し 耳の石 hide-san
・忍ぶれど わが子に勝る 宝なし
手柄なくとも 生きて還らば hide-san -
(医王寺門前料金所入口)
医王寺へは、福島駅より福島交通飯坂線の医王寺前駅で下車する、
次の駅が終点 飯坂温泉駅である。
芭蕉の時代には、田畑の真ん中にあった医王寺であるが、
今は、住宅に囲まれた中にある。
駅前の案内に沿って住宅の中を進むと、医王寺門前に出る。
医王蜜寺の石碑の手前右手には駐車場もある。
料金所があり、その右横に門がある。料金を払うと、
受付の方が、
(本堂へも入っていただいて結構です。
宝物館にも入っていただき、写真も撮ってかまいません。)という。
普通、日本では、写真はどこも撮影禁止になっているが、
ヨーロッパでは美術館であろうと、博物館であろうとフラッシュさえ使わなければ、
自由に写真を撮って良い。
フランスのルーブル美術館、有名なモナリザの前で写真を撮っても叱られないし、
ましてカメラを取り上げられることはない。
日本では写真を撮ってもよいというのは何とも珍しい。
(医王寺入り口) -
(医王寺入り口) -
(薬師堂までの長い土塀) -
奥に、薬師堂がある。
この薬師堂の裏側と右手にあるお墓が、庄司 佐藤基治夫妻と
その子供、継信、忠信兄弟の墓である。
(薬師堂) -
曽良の旅日記によると、
(佐藤庄司ノ寺有。寺の門へ入らず。西の方へ行く。堂あり。
堂の後ろの方に庄司夫婦の石塔有。
堂の北の脇に兄弟の石塔有。−中略―
寺には判官どの笈・弁慶書きし経などある由・・・)とある。
ここで「堂あり。」と言うのは薬師堂の事である。
気になったのが、「判官どの笈」である。
義経が背負った笈などあるわけがないとボクは思った。
弁慶など家来を沢山随えていたのだから、
義経が持つ分は家来の誰かが持つのが普通で、
背負い物など初めからあるはずがない、と思った。
しかし、考えてみると、芝居の「勧進帳」にあるように、
石川県小松市に富樫氏が設けたと言われる「安宅の関」では、
義経に似ていると言うことで、疑いをかけられ、
弁慶が義経を打擲するシーンは、まさか家来が主人を打擲することはあるまいと、
疑いが説かれた話は有名で歌舞伎にもなっている。
この時義経は山伏に変装していて、
義経が背負った笈はあるかもしれない、と言う疑問もある。
従って、笈は義経のものかも知れず、弁慶のものでないとも考えられる。
だから、曾良がいう「判官どの笈」が正しいのかもしれない。
一方で芭蕉の「おくのほそ道」の本文には、
(かたわらの古寺に一家の石碑を残す。
中にも二人の嫁がしるし、まず哀れなり。
女なれどもかいがいしき名の世に聞こえつる物かなと袂をぬらしぬ。
堕涙の石碑も遠きにあらず、寺に入りて茶を乞えば、
ここに義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。
・笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟(かみのぼり)
五月朔日の事なり。)とある。
ここでは笈は「弁慶の笈」とはっきりしているが、
「二人の嫁がしるし」という、継信・忠信の嫁の墓はここには無いし、
兄弟の母を慰めんとした嫁たちの、
甲斐甲斐しき武将姿も、芭蕉の時代には、この寺にはなかった。
など考えると、どうもちぐはぐで、芭蕉の記述も信用しきれない。
どの表現が正しかろうと、文学作品として考えれば、
「判官どの笈」であろうが、「弁慶の笈」であろうが、
どちらでも良いのではなかろうか。
話は戻って、芭蕉の時代(元禄二年(1689)から、
300年以上も変わらず残っている医王寺の薬師堂と、
庄司佐藤基治夫妻の石塔、息子の継治・忠信兄弟の石塔などを見ると、
芭蕉でなくとも感動する。
途中、継信・忠信兄弟の石像が義経を挟んで建っているが、
これはつい最近になってできたものと思われ、余りいただけない。
(庄司佐藤基治夫妻の石塔) -
(庄司佐藤基治夫妻の法号のある石碑) -
(佐藤継信・忠信兄弟の石塔) -
(佐藤継信・忠信兄弟の法号) -
(佐藤継信・忠信兄弟と中央が義経石像) -
もと来た道を戻ると右手に宝物館がある。
曽良が書き記した「判官どの笈」は、
芭蕉も弁慶が笈と言っているから、本当は弁慶の笈の間違いではないだろうか。
そんな疑問を持ちながら宝物館にはいってみると、
確かに展示してある「笈」は、「弁慶の笈」として展示してある。
他に芭蕉像や与謝蕪村の「奥の細道画巻」がある。
絵巻にある武者絵の右横に、
・笈も太刀も 五月に飾れ 帋幟(かみのぼり)
とあるのが見える。
太刀は第二次大戦前の金属供出で軍部に提出したままになっているという。
どこかで弾丸の一部にでもなったのであろうか。
(宝物館瑠璃光殿) -
(宝物館の弁慶の笈) -
(宝物館の芭蕉像) -
(宝物館の蕪村の画巻) -
宝物館を出ると本堂が見え、本堂に向かう山門を入る。
本堂に向かって左のほうに芭蕉句碑がある。
有名な義経の太刀・.弁慶の笈に関わる俳句である。
・笈も太刀も さつきにかざれ 紙のぼり はせを翁
その右側に一回り小さい芭蕉句碑が同じ句を刻んでいるが、
その下部に、この句碑は芭蕉翁没後106年に建立したとある。
(本堂)
この左手に芭蕉句碑がある。 -
(芭蕉句碑) -
(没後106年にできた芭蕉句碑) -
本堂前で賽銭を入れようとすると、靴を脱いでお上がり下さいとある。
入場する時、聞いた、
「本堂に入っていただいて、結構です。写真もかまいません」を思い出した。
恐る恐る扉を開き、中へ入ると、右手に佐藤一族の位牌とそれを挟むように、
左右に人形があり、右に継信の妻 若櫻と左に忠信の妻 楓が、
それぞれの夫の武将の装いをして立っている。
残念ながら暗くて写真に撮ることはできなかった。
2人の嫁が夫の鎧を着て、あっぱれ武将の姿を老母の前に見せたと
「おくのほそ道」にあるのに、
その姿はこの医王寺にはなく、
宮城県白石市の田村神社にある甲冑堂の中にあり、
話のつじつまが合わないと、
昭和37年になって医王寺にも、二人の嫁の武者人形を作ったらしい。
(少し分かり難いが医王寺のパンフレットから)
(二人の妻の武者姿の人形をご覧ください) -
医王寺を出て、福島交通の終点飯坂温泉駅まで進み、
芭蕉が訪れたゆかりの場所の前にあると言われる温泉旅館もなくなり、
工事中で看板だけが淋しく残っている。
案内に沿って、右側の道路を行くと、すぐ長い下りの階段があって、
川底に到着するかと思えるような階段の先に芭蕉ゆかりの地の碑がある。
(残っている芭蕉ゆかりの地の案内) -
(川底までの長い階段) -
(川底までの長い階段) -
(川底にある芭蕉ゆかりの地の碑) -
飯坂温泉の駅前には、芭蕉の旅姿像がお客様を出迎えている。
(駅前の芭蕉像) -
(福島交通 飯坂温泉駅)
・嘆く老母(はは)嫁が五月の 武者姿 hide-san
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