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2011年10月に、「アラブの狂犬」と恐れられたリビアのカダフィ大佐が生まれ故郷のスルトで、国民評議会が主導する反体制派により殺害され(享年69才)、42年間に及ぶ独裁体制が崩壊した。以降、内戦が頻発し政治の空白が続いているため、現在同国への入国は大きく制限されている。            <br />在職中の1980年に二度に亘り、計3ケ月あまりリビアに滞在する機会があった(最初の海外業務出張)。 独裁体制のアラブ圏,イスラム教国で、国土の大半が沙漠という日本人にとっては最も住みにくいと思われる国への初めての長期海外出張だった。<br />ごく限られた範囲内での行動であったが、滞在当時の現地の状況をふり返ってみたい。 <br /><br />* 関連するポーランド情報も記載。<br /><br /><br />                 <br />                             

35年前のリビア (関連するポーランド情報を含む)

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1980/05/10 - 1980/10/02

15位(同エリア47件中)

0

62

タケ

タケさん

2011年10月に、「アラブの狂犬」と恐れられたリビアのカダフィ大佐が生まれ故郷のスルトで、国民評議会が主導する反体制派により殺害され(享年69才)、42年間に及ぶ独裁体制が崩壊した。以降、内戦が頻発し政治の空白が続いているため、現在同国への入国は大きく制限されている。    
在職中の1980年に二度に亘り、計3ケ月あまりリビアに滞在する機会があった(最初の海外業務出張)。 独裁体制のアラブ圏,イスラム教国で、国土の大半が沙漠という日本人にとっては最も住みにくいと思われる国への初めての長期海外出張だった。
ごく限られた範囲内での行動であったが、滞在当時の現地の状況をふり返ってみたい。 

* 関連するポーランド情報も記載。


                 
                             

旅行の満足度
4.0

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  • [リビアの地図と国旗]<br /><br />  カダフィ政権時の国旗はイスラムの象徴という緑色一色だったが、政変後の国民評議会による国旗は以前の王国時と同じものに復帰した。<br /><br />  北アフリカのアラブ圏に位置するリビアの旧宗主国はイタリアで、首都はトリポリ。 国土面積は約176万km2(日本の約4.6倍)で、おもに人が住んでいる地中海沿岸のごく一部を除いてそのほとんどがサハラに連なる沙漠である。総人口は2008年現在642万人(1980年当時は約150万人)。 イタリア,英仏の統治領を経て第2次大戦後の1951年に王国として独立したが、1969年9月1日中尉であったカダフィ(当時27才)の統卒する無血革命が起こり、その後「リビア・アラブ社会主義人民ジャマヒリア」と呼称される国名となり、現在に至る。<br />  主要産業は世界有数の埋蔵量を誇る良質の石油資源であるが、一方で大麦,小麦,野菜,オリーブ,ナツメ椰子, タバコ等の農業や食品加工にも力を入れており、内陸部から沿岸部へ飲用水と工業・農業用水を供給するための壮大な大運河建設計画が多年に亘り実施中である。豊富なオイルマネーにより教育費と医療費は無料となっている。2010年の一人当りのGDP(国内総生産)は約12,000$で、アフリカでは最上位クラスとなっている(ちなみにエジプトは約2,800$,日本は約43,000$)。<br /><br />1980年時にはリビアに関する一般の情報は身近にはほとんど無くて、在日大使(当時はリビア人民事務所と呼ばれていた)に問い合わせても日本人は居なくて要領不明状態だった。 たまたま従兄がパレスチナに造詣の深い当時の参議院議員山口(大鷹)淑子さん(往時の女優 李香蘭;佐賀県出身で中国で育った。ご主人が外交官で、結婚当初はミャンマーのヤンゴンで暮らしていたとのこと;「誰も書かなかったアラブ」の著書あり)の秘書をしていたので、参議院会館にある部屋を訪ねた。山口さん本人は不在だったが、リビアの種々の資料のコピーをもらい、またカダフィの伝記(フランス語版)を借りたり出来た。後日 山口さん自筆の在リビア日本国大使への紹介状も受け取った(現実には使うことはなかったが…)。<br /><br />

    [リビアの地図と国旗]

    カダフィ政権時の国旗はイスラムの象徴という緑色一色だったが、政変後の国民評議会による国旗は以前の王国時と同じものに復帰した。

    北アフリカのアラブ圏に位置するリビアの旧宗主国はイタリアで、首都はトリポリ。 国土面積は約176万km2(日本の約4.6倍)で、おもに人が住んでいる地中海沿岸のごく一部を除いてそのほとんどがサハラに連なる沙漠である。総人口は2008年現在642万人(1980年当時は約150万人)。 イタリア,英仏の統治領を経て第2次大戦後の1951年に王国として独立したが、1969年9月1日中尉であったカダフィ(当時27才)の統卒する無血革命が起こり、その後「リビア・アラブ社会主義人民ジャマヒリア」と呼称される国名となり、現在に至る。
    主要産業は世界有数の埋蔵量を誇る良質の石油資源であるが、一方で大麦,小麦,野菜,オリーブ,ナツメ椰子, タバコ等の農業や食品加工にも力を入れており、内陸部から沿岸部へ飲用水と工業・農業用水を供給するための壮大な大運河建設計画が多年に亘り実施中である。豊富なオイルマネーにより教育費と医療費は無料となっている。2010年の一人当りのGDP(国内総生産)は約12,000$で、アフリカでは最上位クラスとなっている(ちなみにエジプトは約2,800$,日本は約43,000$)。

    1980年時にはリビアに関する一般の情報は身近にはほとんど無くて、在日大使(当時はリビア人民事務所と呼ばれていた)に問い合わせても日本人は居なくて要領不明状態だった。 たまたま従兄がパレスチナに造詣の深い当時の参議院議員山口(大鷹)淑子さん(往時の女優 李香蘭;佐賀県出身で中国で育った。ご主人が外交官で、結婚当初はミャンマーのヤンゴンで暮らしていたとのこと;「誰も書かなかったアラブ」の著書あり)の秘書をしていたので、参議院会館にある部屋を訪ねた。山口さん本人は不在だったが、リビアの種々の資料のコピーをもらい、またカダフィの伝記(フランス語版)を借りたり出来た。後日 山口さん自筆の在リビア日本国大使への紹介状も受け取った(現実には使うことはなかったが…)。

  • [リビアの上空にて-1]<br /><br />  アラスカから北極上空を飛び、アムステルダムでKLMに乗り換えて、雪に覆われたア    ルプスの峰々,緑に包まれたイタリア半島上空を経由して、広大な地中海の眺めにもそろそろ飽き始めた頃、一変して赤茶けたアフリカ大陸の北端が窓下に現れた。

    [リビアの上空にて-1]

    アラスカから北極上空を飛び、アムステルダムでKLMに乗り換えて、雪に覆われたア ルプスの峰々,緑に包まれたイタリア半島上空を経由して、広大な地中海の眺めにもそろそろ飽き始めた頃、一変して赤茶けたアフリカ大陸の北端が窓下に現れた。

  • [リビアの上空にて-2]<br /><br />  碁盤の目状に区画整理された麦畑やオリーヴ園の中に特有の尖塔をもつモスク(回教   寺院)らしきものが見える。

    [リビアの上空にて-2]

    碁盤の目状に区画整理された麦畑やオリーヴ園の中に特有の尖塔をもつモスク(回教 寺院)らしきものが見える。

  • [トリポリ空港に到着]<br /><br />  金色に輝く尾翼をもつLibyan airline機の居並ぶ向こう側にレンガ色の伸縮乗降台が見え、背後には同色のアラビア語を掲げた新しい5階建てのターミナルビルがそびえている。<br />  入国審査は異常なほど厳重をきわめ、パスポートチェックの際には(ヴィザはアラビア語表記)我々だけのパスポートが取り上げられ、待っていろ、と言う。機上からパチパチ写真を撮ったせいで逮捕されるのか、はたまた強制送還されるのか、と本気で危   惧していたが、20分ほど経つと若い上官らしきリビア人が現われてようやくO.K.となった(その少し前に日本赤軍のメンバーが入国したとの情報があったので、その影響だったのか、理由は不明のまま)。金銭チェックのカウンターでは、日本円他を一枚一枚勘定させられ、さらに税関検査の所では鞄の中身を丹念に調べられ、日本の新聞 ,週刊誌さらにはJALやKLMの機内誌まで没収された後、やっと通関O.K.。 この間2時間あまり。<br />

    [トリポリ空港に到着]

    金色に輝く尾翼をもつLibyan airline機の居並ぶ向こう側にレンガ色の伸縮乗降台が見え、背後には同色のアラビア語を掲げた新しい5階建てのターミナルビルがそびえている。
    入国審査は異常なほど厳重をきわめ、パスポートチェックの際には(ヴィザはアラビア語表記)我々だけのパスポートが取り上げられ、待っていろ、と言う。機上からパチパチ写真を撮ったせいで逮捕されるのか、はたまた強制送還されるのか、と本気で危 惧していたが、20分ほど経つと若い上官らしきリビア人が現われてようやくO.K.となった(その少し前に日本赤軍のメンバーが入国したとの情報があったので、その影響だったのか、理由は不明のまま)。金銭チェックのカウンターでは、日本円他を一枚一枚勘定させられ、さらに税関検査の所では鞄の中身を丹念に調べられ、日本の新聞 ,週刊誌さらにはJALやKLMの機内誌まで没収された後、やっと通関O.K.。 この間2時間あまり。

  • [トリポリにて-1]<br /><br />  現地事務所でのミーティングでは、種々の注意事項があった。写真は原則として禁止(花を撮っていて警察に連行され、6時間ほど取り調べられた例がある とのこと……背後に軍事施設があったらしい)、アルコール類は厳禁、女性をジロジロ見ない、自動車で人身事故を起こしたら 先ずその場を逃れて警察へ駆け込むこと(さもないとアラブ人は同族意識が強く、居合わせた現地人に殺されかけた前例がある とのこと)、沙漠では毒グモや毒ヘビに注意すること、電話の通話状態は非常に悪いのであてに出来ない、一方、治安状態は良く刑罰が厳しいためか 泥棒等はほとんど居ない(公開で手首を切る等の処罰があるとのこと)、乾燥しているせいか風土病の心配は無い 、医療施設はすべて無料で利用できる、客先との対応はよほどのことが無いかぎり、ノーネクタイ,ジーンズスタイルでもO.K.(相手も同様のスタイルなので) 等々。

    [トリポリにて-1]

    現地事務所でのミーティングでは、種々の注意事項があった。写真は原則として禁止(花を撮っていて警察に連行され、6時間ほど取り調べられた例がある とのこと……背後に軍事施設があったらしい)、アルコール類は厳禁、女性をジロジロ見ない、自動車で人身事故を起こしたら 先ずその場を逃れて警察へ駆け込むこと(さもないとアラブ人は同族意識が強く、居合わせた現地人に殺されかけた前例がある とのこと)、沙漠では毒グモや毒ヘビに注意すること、電話の通話状態は非常に悪いのであてに出来ない、一方、治安状態は良く刑罰が厳しいためか 泥棒等はほとんど居ない(公開で手首を切る等の処罰があるとのこと)、乾燥しているせいか風土病の心配は無い 、医療施設はすべて無料で利用できる、客先との対応はよほどのことが無いかぎり、ノーネクタイ,ジーンズスタイルでもO.K.(相手も同様のスタイルなので) 等々。

  • [トリポリにて-2]<br /><br />  港では港湾工事が盛んに行われている。<br />  革命広場を中心とする繁華街には 種々の商品を並べたショーウインドーもあって   賑やかで、東欧系やインド等の男女がさっそうと歩いているが、少しはずれるとほとんど見られない。現地の女性を見掛けることは少なく、たまに出会っても頭から白色や青色のヴェールをすっぽり被って ようやく片目だけを出して歩いており、しかも人通りの少ない所でバッタリ対向した場合は、あわてて顔を隠し後ろを向いて、当方の通り過ぎるのをじっと待っている という状態で、何ともやりきれない思いがする。<br />  公園では、小さな女の子たちがキャーキャー言いながら走り回ったりブランコに乗ったりして 無心に遊んでいる。よく見るとイヤリングをしたり 髪を三つ編みにしたりしている子が多く、裸足の子も多く見掛ける。色は浅黒いが目鼻立ちがクッキリしており、振り向いた時にはハッとするほど可愛い。<br />  夜空は澄んでおり、真上に北斗七星が見える(トリポリの緯度は長崎とほぼ同じ)。厳格なイスラム国なので、夜8時過ぎになるときまってモスクから犬の遠吠えのようなアザーン(お祈りの呼びかけ)の朗々とした声が聞こえてくる。それを聞きながら星空を眺めていると、日本から遠く離れた異国に今居るんだなあ という気がヒシヒシとしてくる。<br />

    [トリポリにて-2]

    港では港湾工事が盛んに行われている。
    革命広場を中心とする繁華街には 種々の商品を並べたショーウインドーもあって 賑やかで、東欧系やインド等の男女がさっそうと歩いているが、少しはずれるとほとんど見られない。現地の女性を見掛けることは少なく、たまに出会っても頭から白色や青色のヴェールをすっぽり被って ようやく片目だけを出して歩いており、しかも人通りの少ない所でバッタリ対向した場合は、あわてて顔を隠し後ろを向いて、当方の通り過ぎるのをじっと待っている という状態で、何ともやりきれない思いがする。
    公園では、小さな女の子たちがキャーキャー言いながら走り回ったりブランコに乗ったりして 無心に遊んでいる。よく見るとイヤリングをしたり 髪を三つ編みにしたりしている子が多く、裸足の子も多く見掛ける。色は浅黒いが目鼻立ちがクッキリしており、振り向いた時にはハッとするほど可愛い。
    夜空は澄んでおり、真上に北斗七星が見える(トリポリの緯度は長崎とほぼ同じ)。厳格なイスラム国なので、夜8時過ぎになるときまってモスクから犬の遠吠えのようなアザーン(お祈りの呼びかけ)の朗々とした声が聞こえてくる。それを聞きながら星空を眺めていると、日本から遠く離れた異国に今居るんだなあ という気がヒシヒシとしてくる。

  • [ガス・ステーションに掲げられたカダフィの肖像画]<br /><br />  この写真を密かに撮った直後 警察官に呼び止められたが、幸いにも注意を受けただけで済んだ。<br />  街中では日本車が溢れているが 新車は少なくて、どの車も何処かがへこんだりかすったりしており、渋滞の中での荒っぽい運転振りを見ていると 大きな事故が起こらないのが不思議な気がするほどである。<br />  ちなみにガソリン価格はレギュラーで1リットル60円程度で、産油国の割りには    それほど安くない。

    [ガス・ステーションに掲げられたカダフィの肖像画]

    この写真を密かに撮った直後 警察官に呼び止められたが、幸いにも注意を受けただけで済んだ。
    街中では日本車が溢れているが 新車は少なくて、どの車も何処かがへこんだりかすったりしており、渋滞の中での荒っぽい運転振りを見ていると 大きな事故が起こらないのが不思議な気がするほどである。
    ちなみにガソリン価格はレギュラーで1リットル60円程度で、産油国の割りには それほど安くない。

  • [滞在地にて-1]<br /><br />   滞在地は、トリポリから地中海沿いのハイウェイを東へ150kmほど走った所にある 人口9万人ほどの田舎町ズリテン(このたびの激戦地だったミスラタの近く)。反米一色の国のため街中には一切英語は無く、道路標識や看板等は数字も含めて全てアラビア語のみ。 ホテルの従業員や郵便局員等のごく一部を除いて 街中ではアラビア語しか通じないので、日常用品の買物等は 簡単なアラビア語を覚えて身ぶり,手ぶりを混じえて済まさざるを得なかった。塩は結構高いが、砂糖は驚くほど安い。女性はヴェールをすっぽり被って片目だけ出しているが、街中を歩いていることはほとんどなく、肉(豚肉は無い)や野菜のスーク-市場-での買物は全て男性のみ(勿論売り手も全て男性)。 また、露店で物を買う時に複数個欲しいと言うと、単価は安くなるどころか逆に高く売りつけられることがある(品物が早く無くなり、また仕入れに行かなければならない、というのが彼らの言い分)。<br />  当時はインターネットはおろかファックスも普及していなくて、日本との通信手段はテレックスか電話しかなく、それらも故障がちのことが多くて(郵便は何週間かかるか分からない)、今から考えると不便この上無かったものである。<br /><br />

    [滞在地にて-1]

    滞在地は、トリポリから地中海沿いのハイウェイを東へ150kmほど走った所にある 人口9万人ほどの田舎町ズリテン(このたびの激戦地だったミスラタの近く)。反米一色の国のため街中には一切英語は無く、道路標識や看板等は数字も含めて全てアラビア語のみ。 ホテルの従業員や郵便局員等のごく一部を除いて 街中ではアラビア語しか通じないので、日常用品の買物等は 簡単なアラビア語を覚えて身ぶり,手ぶりを混じえて済まさざるを得なかった。塩は結構高いが、砂糖は驚くほど安い。女性はヴェールをすっぽり被って片目だけ出しているが、街中を歩いていることはほとんどなく、肉(豚肉は無い)や野菜のスーク-市場-での買物は全て男性のみ(勿論売り手も全て男性)。 また、露店で物を買う時に複数個欲しいと言うと、単価は安くなるどころか逆に高く売りつけられることがある(品物が早く無くなり、また仕入れに行かなければならない、というのが彼らの言い分)。
    当時はインターネットはおろかファックスも普及していなくて、日本との通信手段はテレックスか電話しかなく、それらも故障がちのことが多くて(郵便は何週間かかるか分からない)、今から考えると不便この上無かったものである。

  • [滞在地にて-2]<br /><br />  ヤシ林の向こうは地中海。<br /><br />

    [滞在地にて-2]

    ヤシ林の向こうは地中海。

  • [現場へ行く途中にあるモスク]<br /><br />このモスクは幼児学校にもなっていて、いつも子供たちの元気な声が聞こえてくる。<br />10kmほど離れた現場(セメント・プラント用地)へは、車を運転して通っていたが(国際運転免許証は通用せず、現地の日本大使館で仮免許証を発行してもらう)、途中で通るハイウエイと一般道路との交差点付近では、グシャグシャに壊れた車以外に 大きなラクダが死んでいるのも時折見掛ける(ラクダの方が車より重い)。

    [現場へ行く途中にあるモスク]

    このモスクは幼児学校にもなっていて、いつも子供たちの元気な声が聞こえてくる。
    10kmほど離れた現場(セメント・プラント用地)へは、車を運転して通っていたが(国際運転免許証は通用せず、現地の日本大使館で仮免許証を発行してもらう)、途中で通るハイウエイと一般道路との交差点付近では、グシャグシャに壊れた車以外に 大きなラクダが死んでいるのも時折見掛ける(ラクダの方が車より重い)。

  • [現場へ向かう途上にあるハイウエイ]<br /><br />  左側は沙漠、右側は地中海に連なっている。前方右側に見える鉄塔を目印に、左側に    折れると現場に行き着く。

    [現場へ向かう途上にあるハイウエイ]

    左側は沙漠、右側は地中海に連なっている。前方右側に見える鉄塔を目印に、左側に 折れると現場に行き着く。

  • [沙漠の入口部に位置する現場-1]<br /><br />  現場はテラロッサと呼ばれる赤土に覆われた平坦な土漠地と、内奥部に向かって延々と続く石灰岩等から成る小高い丘陵地(岩漠)との境い目に位置する。<br />  ガラガラの岩山の上へ上がると、オリーブ園やヤシ林の向こうに白波の砕ける青い地中海がはるかに臨まれる。それにしても暑くて立ちくらみする。車のバンパーで卵焼きが出来るぐらい(気温40℃以上?)。帽子とサングラスは不可欠であるが、湿気がほとんど無いせいか 汗は表面には出てこない が、腕や顔は塩辛くなる。<br />  見上げる空は360°一片の雲も無く真っ青に澄んでいて、音も無く飛んでいる飛行   機が遠くに小さく見える程度で、雨の様相は全く感じられない。が、オリーヴの木陰等に入ると肌寒くなる。<br />  このような状態で 昼間はカゲロウが立つので測量は出来ない。朝 暗いうちに朝食抜きで現場に向かい、正午過ぎにホテルに帰って来る、という毎日だった。<br />  朝早くからパン焼き店に並ぶ現地の子供たちの姿をよく目にした。

    [沙漠の入口部に位置する現場-1]

    現場はテラロッサと呼ばれる赤土に覆われた平坦な土漠地と、内奥部に向かって延々と続く石灰岩等から成る小高い丘陵地(岩漠)との境い目に位置する。
    ガラガラの岩山の上へ上がると、オリーブ園やヤシ林の向こうに白波の砕ける青い地中海がはるかに臨まれる。それにしても暑くて立ちくらみする。車のバンパーで卵焼きが出来るぐらい(気温40℃以上?)。帽子とサングラスは不可欠であるが、湿気がほとんど無いせいか 汗は表面には出てこない が、腕や顔は塩辛くなる。
    見上げる空は360°一片の雲も無く真っ青に澄んでいて、音も無く飛んでいる飛行 機が遠くに小さく見える程度で、雨の様相は全く感じられない。が、オリーヴの木陰等に入ると肌寒くなる。
    このような状態で 昼間はカゲロウが立つので測量は出来ない。朝 暗いうちに朝食抜きで現場に向かい、正午過ぎにホテルに帰って来る、という毎日だった。
    朝早くからパン焼き店に並ぶ現地の子供たちの姿をよく目にした。

  • [沙漠の入口部に位置する現場-2]<br /><br />  所々に生えているかたいトゲを持つブッシュのそばを通ると、痩せこけた茶灰色の野ウサギが突然飛び出してきてびっくりさせられることがある。また小さい石塊を蹴飛ばすとヘビがトグロを巻いていたり、サソリが尾を振り上げてゴソゴソ動いているのもよく見掛けた。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    [沙漠の入口部に位置する現場-2]

    所々に生えているかたいトゲを持つブッシュのそばを通ると、痩せこけた茶灰色の野ウサギが突然飛び出してきてびっくりさせられることがある。また小さい石塊を蹴飛ばすとヘビがトグロを巻いていたり、サソリが尾を振り上げてゴソゴソ動いているのもよく見掛けた。







  • [沙漠の入口部に位置する現場-3]<br /><br />  ブルガリア人のグループがトレーラーハウスに泊まり込んで、当セメント・プラント    供給用の深井戸を掘進中。休憩時間にコーヒーをよばれながら談笑した。

    [沙漠の入口部に位置する現場-3]

    ブルガリア人のグループがトレーラーハウスに泊まり込んで、当セメント・プラント 供給用の深井戸を掘進中。休憩時間にコーヒーをよばれながら談笑した。

  • [現場周辺のワディ]<br /><br />  周辺にはいくつかワディ(雨期しか水の流れない涸れ川)があり、大きいものは高さ,幅  とも10mを越える。 <br />

    [現場周辺のワディ]

    周辺にはいくつかワディ(雨期しか水の流れない涸れ川)があり、大きいものは高さ,幅 とも10mを越える。 

  • [ボーリング機の周りに群れる羊たち]<br /><br />  所々ブッシュの生えるあたり一帯は静寂そのもので、ボーリング機の地面を打つ反響音が小さくコーン,コーンと聞こえるのみ。<br />  朝夕、近くの農家に住む羊飼いが数匹の犬と50頭ほどの羊やヤギを引き連れてそ    ばを通りかかる程度ののどかさで、時間の経つのがひどく遅く感じる。<br /><br />

    [ボーリング機の周りに群れる羊たち]

    所々ブッシュの生えるあたり一帯は静寂そのもので、ボーリング機の地面を打つ反響音が小さくコーン,コーンと聞こえるのみ。
    朝夕、近くの農家に住む羊飼いが数匹の犬と50頭ほどの羊やヤギを引き連れてそ ばを通りかかる程度ののどかさで、時間の経つのがひどく遅く感じる。

  • [現場をよく通る現地人]<br /><br />  顔見知りになり、いつもあいさつを交わす。アッサラーム・アレイコム(こんにちは ),ワアレイコムッサラーム(返事)。<br /><br /><br />

    [現場をよく通る現地人]

    顔見知りになり、いつもあいさつを交わす。アッサラーム・アレイコム(こんにちは ),ワアレイコムッサラーム(返事)。


  • [現場近くのオリーヴ林を歩く女性]

    [現場近くのオリーヴ林を歩く女性]

  • [ナツメ椰子林越しの沙漠に沈む夕陽の眺めは壮観]

    [ナツメ椰子林越しの沙漠に沈む夕陽の眺めは壮観]

  • [トリポリ大学を訪問-1]<br /><br />  トリポリの街中より7kmほど東へ向かい、農業試験場らしきそばを通り抜けユー    カリ並木の尽きた所に大学の正門がある。校地は広大で、理学部,工学部,石油鉱山    学部,農学部,医学部,薬学部,教育学部の7学部を擁するリビア随一の総合大学であって、さらに原子核学部を準備中とのことである。<br />  何の前触れもなく一人での突然の訪問にもかかわらず、工学部土木工学科の土質(インド人)と石油鉱山学部の物理探査(エジプト人)の両教授は、当方のぶしつけな質問に対して快く応じてくれた。地質調査の方法や結果の取扱い方等この国独自のものは   無く、通常我々のよく接している方法でやれば問題無い とのことだった。<br />  ヒヤリング後、各学部の事務室で入手したカリキュラムのカタログによると、理学   部,石油鉱山学部,農学部は工学部に比べて数段充実しており、この国の政策を象徴しているようで興味深い。<br />  廊下や校庭で数人の学生に話し掛けてみたところ、エジプト人,インド人,パレスチ   ナ人,韓国人等の外国人留学生も数多く在学しており、また女子学生も多く目につき    (うっとうしいヴェールなどは被っていない)、街中とは違って彼らの表情は明るく活気に満ちており、かなり自由な空気が漂っているように感じられた。<br /><br />

    [トリポリ大学を訪問-1]

    トリポリの街中より7kmほど東へ向かい、農業試験場らしきそばを通り抜けユー カリ並木の尽きた所に大学の正門がある。校地は広大で、理学部,工学部,石油鉱山 学部,農学部,医学部,薬学部,教育学部の7学部を擁するリビア随一の総合大学であって、さらに原子核学部を準備中とのことである。
    何の前触れもなく一人での突然の訪問にもかかわらず、工学部土木工学科の土質(インド人)と石油鉱山学部の物理探査(エジプト人)の両教授は、当方のぶしつけな質問に対して快く応じてくれた。地質調査の方法や結果の取扱い方等この国独自のものは 無く、通常我々のよく接している方法でやれば問題無い とのことだった。
    ヒヤリング後、各学部の事務室で入手したカリキュラムのカタログによると、理学 部,石油鉱山学部,農学部は工学部に比べて数段充実しており、この国の政策を象徴しているようで興味深い。
    廊下や校庭で数人の学生に話し掛けてみたところ、エジプト人,インド人,パレスチ ナ人,韓国人等の外国人留学生も数多く在学しており、また女子学生も多く目につき (うっとうしいヴェールなどは被っていない)、街中とは違って彼らの表情は明るく活気に満ちており、かなり自由な空気が漂っているように感じられた。

  • [トリポリ大学を訪問-2]<br /><br />  工学部の正面入口にて。<br />*土木工学科の土質試験室は撮影禁止だったが、キャンパス内では自由だった。<br /><br />

    [トリポリ大学を訪問-2]

    工学部の正面入口にて。
    *土木工学科の土質試験室は撮影禁止だったが、キャンパス内では自由だった。

  • [トリポリ大学を訪問-3]<br /><br />  エジプトからの留学生たち。<br />

    [トリポリ大学を訪問-3]

    エジプトからの留学生たち。

  • [ラマダン明けの街中-1]<br /><br />  2回目に滞在した時には丁度ラマダン(断食月)にひっかかった。昼間、街中の店は   開いているが中は薄暗くて、店員(男性の)は土間に寝転がっており、こちらをうつろ   な目で眺めてのそのそと起き上がってくる。あまり商売にもならず閉めたらよいのにと思うが、そうもいかないらしい。<br />  またリビア政府の関係者と既設のセメント工場を視察に出掛けた際には、従業員が日陰で風通しのよいグレーチング製の渡り廊下の上で腕を枕に昼寝中。案内してくれていたリビア人の工場長からは、一時間ほど経つと、これ以上階段を上り下りすると疲れるから、とかの理由で以降の案内を拒否される始末。お陰で我々も朝早く食べたきりで以後は水一滴口にしていないので喉がカラカラになり、引き揚げざるを得なかった。<br />  宿泊しているホテルでの夕食も時間制になっており、8時からが断食中のイスラム   教徒用、9時からがそれ以外の外国人用ということで、時間前に行っても絶対に中へ入れてもらえない。彼らイスラム教徒は陽が沈むと猛烈な食欲を示し、朝方まで親類縁者の家を食べ歩く、という。夜中にサッカーの試合をしたり、一晩中けたたましい音をたてて車を乗り回したりしているのをよく見かけた。約一ヵ月間のラマダンが明けると連休で、モスクの前でタイコや笛を打ち鳴らして練り歩いている行列あり、街中では男性ばかりでお互いに両手を握りあったり抱き合ったりしてあいさつを交わしたり、小ぎれいに着飾った男の子や女の子たちが嬉々として仲間同士あるいは父親に連れられて、露店で買ったサンドイッチのようなものをかじったり、おもちゃや飴をねだったりしている。まさに日本のお正月、といった光景である(ヤシの実やスイカやメロン,ザクロを山のように積み上げて売ってはいるが)。モスクの塔の上に登ると眺めがよいそうだが、我々異教徒は入れてもらえない。ラマダン明けのお陰で、車の警笛や騒音で騒々しかった夜はうそのように静かになった。<br />  また、現場で使う水を分けもらう交渉のため現地人の家を訪問した際、ガランとし   て壁際にマットが置いてあるだけの広間に通され、座る。風通しがよく結構涼しい。     もちろん女性は一切出て来なくて、息子たちが甘ったるいアラビアンティーやにがいアラビアンコーヒー(飲み終わるとグラスの底にコーヒー粒子が溜まっている),クッキーさらにはミリンダ等を次々とと差し出しすすめてくれる。全部たいらげるのが作法らしい。<br />

    [ラマダン明けの街中-1]

    2回目に滞在した時には丁度ラマダン(断食月)にひっかかった。昼間、街中の店は 開いているが中は薄暗くて、店員(男性の)は土間に寝転がっており、こちらをうつろ な目で眺めてのそのそと起き上がってくる。あまり商売にもならず閉めたらよいのにと思うが、そうもいかないらしい。
    またリビア政府の関係者と既設のセメント工場を視察に出掛けた際には、従業員が日陰で風通しのよいグレーチング製の渡り廊下の上で腕を枕に昼寝中。案内してくれていたリビア人の工場長からは、一時間ほど経つと、これ以上階段を上り下りすると疲れるから、とかの理由で以降の案内を拒否される始末。お陰で我々も朝早く食べたきりで以後は水一滴口にしていないので喉がカラカラになり、引き揚げざるを得なかった。
    宿泊しているホテルでの夕食も時間制になっており、8時からが断食中のイスラム 教徒用、9時からがそれ以外の外国人用ということで、時間前に行っても絶対に中へ入れてもらえない。彼らイスラム教徒は陽が沈むと猛烈な食欲を示し、朝方まで親類縁者の家を食べ歩く、という。夜中にサッカーの試合をしたり、一晩中けたたましい音をたてて車を乗り回したりしているのをよく見かけた。約一ヵ月間のラマダンが明けると連休で、モスクの前でタイコや笛を打ち鳴らして練り歩いている行列あり、街中では男性ばかりでお互いに両手を握りあったり抱き合ったりしてあいさつを交わしたり、小ぎれいに着飾った男の子や女の子たちが嬉々として仲間同士あるいは父親に連れられて、露店で買ったサンドイッチのようなものをかじったり、おもちゃや飴をねだったりしている。まさに日本のお正月、といった光景である(ヤシの実やスイカやメロン,ザクロを山のように積み上げて売ってはいるが)。モスクの塔の上に登ると眺めがよいそうだが、我々異教徒は入れてもらえない。ラマダン明けのお陰で、車の警笛や騒音で騒々しかった夜はうそのように静かになった。
    また、現場で使う水を分けもらう交渉のため現地人の家を訪問した際、ガランとし て壁際にマットが置いてあるだけの広間に通され、座る。風通しがよく結構涼しい。 もちろん女性は一切出て来なくて、息子たちが甘ったるいアラビアンティーやにがいアラビアンコーヒー(飲み終わるとグラスの底にコーヒー粒子が溜まっている),クッキーさらにはミリンダ等を次々とと差し出しすすめてくれる。全部たいらげるのが作法らしい。

  • [ラマダン明けの街中-2]

    [ラマダン明けの街中-2]

  • [ラマダン明けの光景]

    [ラマダン明けの光景]

  • [カダフィ来現/定礎式直後の現場(うしろに見えるのはTV中継用の車)]<br /><br />  8月下旬のある日、現場敷地内で定礎式が行われることになった。数日前から、2回  も礎石台を造らされたり、緑一色の国旗をあちこちに掲げさせられたり、近づいた革   命記念日のポスターを道々に貼らされたりしておおわらわ。数え切れないほどの兵士が自動小銃を持って丘の上やら現場周辺やらを厳重に固めて待機するも、式にはカダフィ本人が来るのか、No.2のジャルード前首相が来るのか、直前になっても誰にも分からない。会場の整地をし終えたグレーダには、当日のいけにえとなる羊が一頭繋がれている。予定より2時間あまり経ってから、パトカーを先頭にものものしい厳戒態勢の中を砂塵を巻き上げて、ファーター(“夜明け”という意),ファーターとこぶしを振り上げる群衆の歓声に迎えられながら現れたのは、まぎれもなく当時38才のカダフィだった。すごい人だかりにチラッと微笑をたたえて手を振ってから、アラビア語で何やら書かれた銘板を礎石にはめこんだ後、サッと車の助手席に乗り込み、パトカーが後ろからあわてて追っかけるような格好で、けたたましいサイレンの音を響かせて帰って行った。その間5分間ほど。それまの準備の仰々しさを考えると拍子抜けするぐらいだった。一番前に陣取った甲斐もなく写真撮影こそ厳禁だったが、スピーチの様子を秘かにカセットテープに録音することが出来た。<br />  数日後の9月1日は第11回革命記念日。ホテルのロビーに置かれた日本製のカラーTVでは終日カダフィの演説風景を映し出していた。延々3時間あまりにも及ぶ長い長いアラビア語での演説を 居合わせた現地人たちは熱心に見入っていたが、先日現場の式典で見せた柔和な笑顔からはとても想像出来ないような身ぶり手ぶりつきの激しい口調で、いかにも説得力充分という感じだった。この辺がカリスマと言われる所以なのだろう。<br /><br /><br />

    [カダフィ来現/定礎式直後の現場(うしろに見えるのはTV中継用の車)]

    8月下旬のある日、現場敷地内で定礎式が行われることになった。数日前から、2回 も礎石台を造らされたり、緑一色の国旗をあちこちに掲げさせられたり、近づいた革 命記念日のポスターを道々に貼らされたりしておおわらわ。数え切れないほどの兵士が自動小銃を持って丘の上やら現場周辺やらを厳重に固めて待機するも、式にはカダフィ本人が来るのか、No.2のジャルード前首相が来るのか、直前になっても誰にも分からない。会場の整地をし終えたグレーダには、当日のいけにえとなる羊が一頭繋がれている。予定より2時間あまり経ってから、パトカーを先頭にものものしい厳戒態勢の中を砂塵を巻き上げて、ファーター(“夜明け”という意),ファーターとこぶしを振り上げる群衆の歓声に迎えられながら現れたのは、まぎれもなく当時38才のカダフィだった。すごい人だかりにチラッと微笑をたたえて手を振ってから、アラビア語で何やら書かれた銘板を礎石にはめこんだ後、サッと車の助手席に乗り込み、パトカーが後ろからあわてて追っかけるような格好で、けたたましいサイレンの音を響かせて帰って行った。その間5分間ほど。それまの準備の仰々しさを考えると拍子抜けするぐらいだった。一番前に陣取った甲斐もなく写真撮影こそ厳禁だったが、スピーチの様子を秘かにカセットテープに録音することが出来た。
    数日後の9月1日は第11回革命記念日。ホテルのロビーに置かれた日本製のカラーTVでは終日カダフィの演説風景を映し出していた。延々3時間あまりにも及ぶ長い長いアラビア語での演説を 居合わせた現地人たちは熱心に見入っていたが、先日現場の式典で見せた柔和な笑顔からはとても想像出来ないような身ぶり手ぶりつきの激しい口調で、いかにも説得力充分という感じだった。この辺がカリスマと言われる所以なのだろう。


  • [リビア当局から手渡されたグリーンブック-英語版]<br /><br />  カダフィの革命理論は「グリーンブック(緑の書)3部作」に述べられている。その根幹である「第三世界理論」では、イスラム教とアラブ民族主義を精神的基盤とし、政治的には〈古代ギリシャに次ぐ人類にとって二度目の経験という直〉接民主主義を、経済的には社会主義(社会的公正の達成と格差の平和的な解消)を実現することを目的としている。憲法は存在しなくて、政党,議会,選挙,一党独裁性等の政治システムは全て否定され、人民会議-人民委員会による政治が「真の人民による直接民主主義」(ジャマヒリア)とされて、カダフィがその総書記局長を務めていた。また経済面では、一家族一軒の持ち家制度(賃貸住宅制度は家主による搾取と見なされる)、賃金労働者を無くして全労働者のパートナー化(賃金による労働は搾取の根源であり、全労働者は資本家のパートナーとして企業経営に参画しなければならない)などとしている。資本主義でも共産主義でもない第三の世界観というこれらの思想は現実問題として我々にはなかなか理解し難いが、リビア社会にも少なからざる混乱をもたらしたことであろう。また、私服の秘密警察が庶民の動行を常に見張っていて、人の集まりや服装を注意される(ホテル内のロビーでハーモニカを吹いてポーランド人とポーランド民謡ー森へ行きましょう等ー)を唄っていたら、集合罪に引っかかるとのことでホテル従業員に注意されたり、半ズボンをはいていた同僚が外から入って来た私服警察にこっぴどくしかられたり、車の中で下を向いてノートをとっていたら運転手にすぐやめるよう言われた、という出来事もあった)。<br />  カダフィは昨今「ジャスミン革命」を引き起こした隣国のエジプトやチュニジア等   とも一時国家統合を目指したが、意見の相違で挫折し(滞在当時、エジプトとの国境は  閉ざされていた)、その後アラブ世界で孤立していた。1986年には時の米レーガン政権から自宅をミサイル攻撃されたが、当時はそこには居なくて難をのがれた経緯  がある(常に暗殺の恐れがあったため、居住場所や行動予定は秘密となっていた)。<br /><br /><br /><br /><br />

    [リビア当局から手渡されたグリーンブック-英語版]

    カダフィの革命理論は「グリーンブック(緑の書)3部作」に述べられている。その根幹である「第三世界理論」では、イスラム教とアラブ民族主義を精神的基盤とし、政治的には〈古代ギリシャに次ぐ人類にとって二度目の経験という直〉接民主主義を、経済的には社会主義(社会的公正の達成と格差の平和的な解消)を実現することを目的としている。憲法は存在しなくて、政党,議会,選挙,一党独裁性等の政治システムは全て否定され、人民会議-人民委員会による政治が「真の人民による直接民主主義」(ジャマヒリア)とされて、カダフィがその総書記局長を務めていた。また経済面では、一家族一軒の持ち家制度(賃貸住宅制度は家主による搾取と見なされる)、賃金労働者を無くして全労働者のパートナー化(賃金による労働は搾取の根源であり、全労働者は資本家のパートナーとして企業経営に参画しなければならない)などとしている。資本主義でも共産主義でもない第三の世界観というこれらの思想は現実問題として我々にはなかなか理解し難いが、リビア社会にも少なからざる混乱をもたらしたことであろう。また、私服の秘密警察が庶民の動行を常に見張っていて、人の集まりや服装を注意される(ホテル内のロビーでハーモニカを吹いてポーランド人とポーランド民謡ー森へ行きましょう等ー)を唄っていたら、集合罪に引っかかるとのことでホテル従業員に注意されたり、半ズボンをはいていた同僚が外から入って来た私服警察にこっぴどくしかられたり、車の中で下を向いてノートをとっていたら運転手にすぐやめるよう言われた、という出来事もあった)。
    カダフィは昨今「ジャスミン革命」を引き起こした隣国のエジプトやチュニジア等 とも一時国家統合を目指したが、意見の相違で挫折し(滞在当時、エジプトとの国境は 閉ざされていた)、その後アラブ世界で孤立していた。1986年には時の米レーガン政権から自宅をミサイル攻撃されたが、当時はそこには居なくて難をのがれた経緯 がある(常に暗殺の恐れがあったため、居住場所や行動予定は秘密となっていた)。




  • [地中海最大の古代ローマ遺跡と言われるレプティス・マグナの円形劇場跡] <br /><br />  リビアには世界遺産に登録されている箇所がいくつかあり、そのひとつが地中海沿岸最大規模の古代ローマ都市遺跡と言われる「レプティス・マグナ」である。滞在していた街の西4kmほどのフムス市郊外の海沿いにあり、陸上競技場,円形劇場,闘技場,市場,教会,凱旋門,宮殿,公共浴場等の建造物跡や大理石造りの無数の彫刻が紺碧の地中海をバックに広大な敷地内に所狭しと並んでおり、何世紀もの間砂に埋もれていてなお大部分が砂の中と言う。<br />  フェニキア人の植民都市が起源で、唯一のアフリカ出身のローマ皇帝セプチミウ     ス・セウェルスの世代(2世紀末)に最盛期を迎えたとのこと。一日かけても全部廻り   きれないくらいで、その壮大さにはただ驚嘆するばかり。石灰岩の石積みで囲まれた回廊等を歩いていると、気味が悪いほどの静けさである。<br /><br /><br /><br /><br />

    [地中海最大の古代ローマ遺跡と言われるレプティス・マグナの円形劇場跡]

    リビアには世界遺産に登録されている箇所がいくつかあり、そのひとつが地中海沿岸最大規模の古代ローマ都市遺跡と言われる「レプティス・マグナ」である。滞在していた街の西4kmほどのフムス市郊外の海沿いにあり、陸上競技場,円形劇場,闘技場,市場,教会,凱旋門,宮殿,公共浴場等の建造物跡や大理石造りの無数の彫刻が紺碧の地中海をバックに広大な敷地内に所狭しと並んでおり、何世紀もの間砂に埋もれていてなお大部分が砂の中と言う。
    フェニキア人の植民都市が起源で、唯一のアフリカ出身のローマ皇帝セプチミウ ス・セウェルスの世代(2世紀末)に最盛期を迎えたとのこと。一日かけても全部廻り きれないくらいで、その壮大さにはただ驚嘆するばかり。石灰岩の石積みで囲まれた回廊等を歩いていると、気味が悪いほどの静けさである。




  • [レプティス・マグナの入場券(100ディルハム≒80円)] <br /><br /> <br />

    [レプティス・マグナの入場券(100ディルハム≒80円)]


  • [教会跡]

    [教会跡]

  • [図書館跡?]

    [図書館跡?]

  • [陸上競技場跡]

    [陸上競技場跡]

  • [壁面に施された彫刻]<br /><br /><br />

    [壁面に施された彫刻]


  • [メデューサ-魔女-の彫刻]

    [メデューサ-魔女-の彫刻]

  • [人物の彫刻-1]

    [人物の彫刻-1]

  • [人物の彫刻-2]

    [人物の彫刻-2]

  • [レプティス・マグナ遺跡]

    [レプティス・マグナ遺跡]

  • [田舎町で唯一の宿泊していたホテル]<br /><br />  ホテルにはクーラーなどは無くとにかく暑いので、街中へ気分転換に行こうなどという考えは毛頭起こらない。時々突然断水になり、水気無しで一日過ごす破目になることもあった(配水管の容量不足のためか、断水は日常茶飯事の状態)。<br />

    [田舎町で唯一の宿泊していたホテル]

    ホテルにはクーラーなどは無くとにかく暑いので、街中へ気分転換に行こうなどという考えは毛頭起こらない。時々突然断水になり、水気無しで一日過ごす破目になることもあった(配水管の容量不足のためか、断水は日常茶飯事の状態)。

  • [ホテルの従業員たちと]<br /><br />  マネージャーのみが若いリビア人で、ウエイターはチュニジア人,コックは<br />スーダンおよびチャドの黒人という具合いで、勿論女性は一人も居ない。<br />  ある日ホテルのロビーで、持参していたジュディ・オングの「魅せられて」の<br />カセットテープを聴いてもらったところ、とてもスローな曲だと言っていた。

    [ホテルの従業員たちと]

    マネージャーのみが若いリビア人で、ウエイターはチュニジア人,コックは
    スーダンおよびチャドの黒人という具合いで、勿論女性は一人も居ない。
    ある日ホテルのロビーで、持参していたジュディ・オングの「魅せられて」の
    カセットテープを聴いてもらったところ、とてもスローな曲だと言っていた。

  • [ポーランド人の少女(ホテルの出入口で)]<br /><br />  同じホテルには、近くの病院に勤めているというポーランド人(医師,薬剤<br />師,検査員,看護婦たちで、2年契約で政府から派遣された、とのこと)が20~<br />30人ほど泊っており、切手やコイン交換が縁で親しくなった。現場には猛<br />毒の黒サソリやヘビ,毒グモが居るので、痛み止めの錠剤を彼らの勤める病<br />院を訪ねて入手したり、のどを痛めた同僚を連れて行って診てもらったり<br />した(全て無料)。<br />  そのうち、難解なアラビア語を覚えることはあっさりとあきらめて、彼ら<br />にポーランド語を教わることにした。あいさつや簡単な文章, 果ては発音<br />練習用の早口言葉に至るまで、暇を見つけてはロビーや彼らの部屋でお茶<br />を飲みながら、という具合い。 彼らが大阪や京都の名は知らなくても広島・<br />長崎の名前を知っているのには、以外な感じを受けたものである。おかげ<br />で、数人から家族への手紙やお土産を託されて、帰りにポーランドに寄らざ<br />るを得なくなった(帰国後も彼らとは家族同士で数回行き来し、日ポ協会家<br />族会員として交流が続いている)。<br />  ある時、屋上で彼らと談笑していたのを見掛けたホテルのマネージャーに、<br />「これ以上屋上へ行くことはまかりならん」と言われ、以降彼とは気まずく<br />なった(日頃からスエーデンのロックグループABBAの音楽を大音響で聴いていた彼<br />にうんざりしていたポーランド人たちは「ジェラシーだ」と言ってくれたが)。<br />  ホテルのある日の夕食メニューはつぎのとおり。ブツ切りの羊肉入りの<br />からいスープ,ヤサイサラダ(トマト,タマネギ,オリーブの実数個),パン,缶ジュース,<br />スイカ。<br />毎日大体同じようなパターンで、選択の余地は無く全くのあてがいぶち。<br />団体で長期滞在しているポーランド人は別メニュー。持参していた缶詰め<br />のイカを近くの席にいたポーランド人の女性薬剤師に差し出したら、気持<br />ち悪かったのか 顔をしかめていたのが印象的だった。<br />  ちなみに、現場作業員の昼間の食事は小麦粉に羊肉等を入れたクスクスで、<br />手で食べる。<br /><br />

    [ポーランド人の少女(ホテルの出入口で)]

    同じホテルには、近くの病院に勤めているというポーランド人(医師,薬剤
    師,検査員,看護婦たちで、2年契約で政府から派遣された、とのこと)が20~
    30人ほど泊っており、切手やコイン交換が縁で親しくなった。現場には猛
    毒の黒サソリやヘビ,毒グモが居るので、痛み止めの錠剤を彼らの勤める病
    院を訪ねて入手したり、のどを痛めた同僚を連れて行って診てもらったり
    した(全て無料)。
    そのうち、難解なアラビア語を覚えることはあっさりとあきらめて、彼ら
    にポーランド語を教わることにした。あいさつや簡単な文章, 果ては発音
    練習用の早口言葉に至るまで、暇を見つけてはロビーや彼らの部屋でお茶
    を飲みながら、という具合い。 彼らが大阪や京都の名は知らなくても広島・
    長崎の名前を知っているのには、以外な感じを受けたものである。おかげ
    で、数人から家族への手紙やお土産を託されて、帰りにポーランドに寄らざ
    るを得なくなった(帰国後も彼らとは家族同士で数回行き来し、日ポ協会家
    族会員として交流が続いている)。
    ある時、屋上で彼らと談笑していたのを見掛けたホテルのマネージャーに、
    「これ以上屋上へ行くことはまかりならん」と言われ、以降彼とは気まずく
    なった(日頃からスエーデンのロックグループABBAの音楽を大音響で聴いていた彼
    にうんざりしていたポーランド人たちは「ジェラシーだ」と言ってくれたが)。
    ホテルのある日の夕食メニューはつぎのとおり。ブツ切りの羊肉入りの
    からいスープ,ヤサイサラダ(トマト,タマネギ,オリーブの実数個),パン,缶ジュース,
    スイカ。
    毎日大体同じようなパターンで、選択の余地は無く全くのあてがいぶち。
    団体で長期滞在しているポーランド人は別メニュー。持参していた缶詰め
    のイカを近くの席にいたポーランド人の女性薬剤師に差し出したら、気持
    ち悪かったのか 顔をしかめていたのが印象的だった。
    ちなみに、現場作業員の昼間の食事は小麦粉に羊肉等を入れたクスクスで、
    手で食べる。

  • [ポーランド人母子(ホテルの出入口で)]<br /><br />  ある夕食後、ポーランド人の部屋に招かれて、東アフリカ産とかの香ばしい<br />お茶をよばれての談笑中、ラジオでポーランド語の放送が始まると、彼らは突然シーと言って耳を澄ませて聞き入っていた。指導者が変わった とか言っていた。後日知ったところによると、当時ポーランドでは食肉値上げに抗議してレフ・ワレサ(ポーランド語ではワウエンサと発音)がグダンスクのレーニン造船所での争議(ストライキ)を指導。グダンスク協定(政労合意)調印により当時の第一書記が辞任した とのこと。<br /> その後、独立自主管理労組「連帯」が発足(初代委員長はワレサ)。1989年11月9日ベルリンの壁解放に伴いポーランドはいち早く東欧圏より離脱。1990年11月ワレサは大統領に就任することになる。<br /><br />* 当方がリビア滞在中には、日本がボイコットしたモスクワ・オリンピックが開催され、またイラン,イラク戦争が勃発した。<br /><br />

    [ポーランド人母子(ホテルの出入口で)]

    ある夕食後、ポーランド人の部屋に招かれて、東アフリカ産とかの香ばしい
    お茶をよばれての談笑中、ラジオでポーランド語の放送が始まると、彼らは突然シーと言って耳を澄ませて聞き入っていた。指導者が変わった とか言っていた。後日知ったところによると、当時ポーランドでは食肉値上げに抗議してレフ・ワレサ(ポーランド語ではワウエンサと発音)がグダンスクのレーニン造船所での争議(ストライキ)を指導。グダンスク協定(政労合意)調印により当時の第一書記が辞任した とのこと。
    その後、独立自主管理労組「連帯」が発足(初代委員長はワレサ)。1989年11月9日ベルリンの壁解放に伴いポーランドはいち早く東欧圏より離脱。1990年11月ワレサは大統領に就任することになる。

    * 当方がリビア滞在中には、日本がボイコットしたモスクワ・オリンピックが開催され、またイラン,イラク戦争が勃発した。

  • [ポーランド人とビーチにて]<br /><br />  休日には一緒に、2kmほど離れた地中海岸に泳ぎにも出掛けた。ビーチは遠浅で、水は暖かく泳ぎやすい。ちなみにリビア人に海水浴という習慣は無い。

    [ポーランド人とビーチにて]

    休日には一緒に、2kmほど離れた地中海岸に泳ぎにも出掛けた。ビーチは遠浅で、水は暖かく泳ぎやすい。ちなみにリビア人に海水浴という習慣は無い。

  • [持ち出し承認書]<br /><br />  帰国時前日の明け方4時頃、雷が激しく鳴り、稲光が盛んに光った。リビア・イン後初めてのことだったので、すわ戦争でも起こったのか(当時エジプトとは国交断絶状態で国境線は封鎖されていた)と飛び起きたぐらいだった。雨も少し降ったらしい(当地で初めて経験)、道路が湿っている。<br />  翌帰国日、市街地から25kmほど離れたトリポリ空港に向かう。両側に緑が多い途中の道路は完全舗装されているが、所々に軍人が数人ずつ立っているのが目障り。  空港内でのチェックイン時に手荷物が10kgオーバーということで、銀行で両替を要求するも、どういうわけか市内の商業銀行へ行ってくれ という。他に来客があるわけでもなくなかなか埒があかなかったが、とにかく時間がないんだ と押し問答をし <br /> 頼み込むようなかたちでしぶしぶ応じてくれたのが一時間後だった。税関検査のカウンターでは、現場周辺で採取した土や岩や水のサンプルが引っかかり 没収されそうになったが、リビア政府から予めもらっていた「持ち出し承認書」を手渡すと急に態度が変わり、それまで乱雑につまみ出していたものまで慇懃にカバンの中へ入れ直してくれた(このあたりがいかにも形式を重んじる社会主義国らしくておかしかった)。<br />  乗る飛行機の座席は定席ではなく、全て女性や家族連れが優先。ちなみに当国では  日本までのオープン航空券を持っていても、次の乗り換え地までしか入手出来ない 。  あとはそこで手配することになる。<br /><br />☆ 写真撮影は原則不可,アルコール類は厳禁,全くの縦割り行政組織,イスラエルへの入国記録があるとヴィザの発給拒否,いつも誰かに監視されている という感じ等々、見るもの聞くものがすべて初めてで、日本の常識とは全くかけ離れた特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、ちょっと風邪をひいたぐらいで大した病気もせず、食事はお世辞にも満足すべきものとは言えなかったけれども、滞在期間中食欲が減退することはなかった(体重は計7kgほど減ったが)。<br />  貴重な体験で、以降の海外滞在の原点となった。<br />  当国には数々の素晴らしい遺産や壮大な自然風土があり、また温厚で人なつっこい国民性を持っている。また、兄弟,姉妹の多い子供たちのクリクリっとした目と屈託の無い笑顔には随分癒やされた。<br />  ゼロからの出発となる当国の民主化は時間がかかるだろうが、近い将来、不自由無く街中を歩ける国になることを願っている。<br />  <br />* 考えてみれば、入社数年後に訪れた復帰前の沖縄が最初の海外(?)業務出張だった      。パスポートを使って特別のビザを取り、米ドルを持って何回か滞在した。コザ(今の沖縄市)には英語の看板が乱立しており、泊まったホテルの天井がひどく高かったことを覚えている。また、1972年に日本に復帰した折には、6月30日の深夜から翌日にかけて、バスをはじめとする車のレーンを変更するのを現地で見ていたのも想い出す。<br /><br /><br /><br /><br />

    [持ち出し承認書]

    帰国時前日の明け方4時頃、雷が激しく鳴り、稲光が盛んに光った。リビア・イン後初めてのことだったので、すわ戦争でも起こったのか(当時エジプトとは国交断絶状態で国境線は封鎖されていた)と飛び起きたぐらいだった。雨も少し降ったらしい(当地で初めて経験)、道路が湿っている。
    翌帰国日、市街地から25kmほど離れたトリポリ空港に向かう。両側に緑が多い途中の道路は完全舗装されているが、所々に軍人が数人ずつ立っているのが目障り。 空港内でのチェックイン時に手荷物が10kgオーバーということで、銀行で両替を要求するも、どういうわけか市内の商業銀行へ行ってくれ という。他に来客があるわけでもなくなかなか埒があかなかったが、とにかく時間がないんだ と押し問答をし
    頼み込むようなかたちでしぶしぶ応じてくれたのが一時間後だった。税関検査のカウンターでは、現場周辺で採取した土や岩や水のサンプルが引っかかり 没収されそうになったが、リビア政府から予めもらっていた「持ち出し承認書」を手渡すと急に態度が変わり、それまで乱雑につまみ出していたものまで慇懃にカバンの中へ入れ直してくれた(このあたりがいかにも形式を重んじる社会主義国らしくておかしかった)。
    乗る飛行機の座席は定席ではなく、全て女性や家族連れが優先。ちなみに当国では 日本までのオープン航空券を持っていても、次の乗り換え地までしか入手出来ない 。 あとはそこで手配することになる。

    ☆ 写真撮影は原則不可,アルコール類は厳禁,全くの縦割り行政組織,イスラエルへの入国記録があるとヴィザの発給拒否,いつも誰かに監視されている という感じ等々、見るもの聞くものがすべて初めてで、日本の常識とは全くかけ離れた特殊な社会の中でのきゅうくつな生活の連続だったが、ちょっと風邪をひいたぐらいで大した病気もせず、食事はお世辞にも満足すべきものとは言えなかったけれども、滞在期間中食欲が減退することはなかった(体重は計7kgほど減ったが)。
    貴重な体験で、以降の海外滞在の原点となった。
    当国には数々の素晴らしい遺産や壮大な自然風土があり、また温厚で人なつっこい国民性を持っている。また、兄弟,姉妹の多い子供たちのクリクリっとした目と屈託の無い笑顔には随分癒やされた。
    ゼロからの出発となる当国の民主化は時間がかかるだろうが、近い将来、不自由無く街中を歩ける国になることを願っている。

    * 考えてみれば、入社数年後に訪れた復帰前の沖縄が最初の海外(?)業務出張だった 。パスポートを使って特別のビザを取り、米ドルを持って何回か滞在した。コザ(今の沖縄市)には英語の看板が乱立しており、泊まったホテルの天井がひどく高かったことを覚えている。また、1972年に日本に復帰した折には、6月30日の深夜から翌日にかけて、バスをはじめとする車のレーンを変更するのを現地で見ていたのも想い出す。




  • [ポーランド共和国]<br /><br />  Dzień dobry(ジェイン・ドーブリ ; ポーランド語で「こんにちは」)<br /><br />  国土のほとんどが平野であり、緩やかな丘陵地帯で平均高度は173 m。南部は山岳地帯(森や湖など手つかずの自然が残された美しい国)。<br /><br />* リビアからの帰途、ワルシャワ,ポズナニおよびビアウイストクの3地区を訪ねる(1980年10月)。<br /><br />  10世紀に国家として認知され、16~17世紀にかけてヨーロッパ最大の王国だったポーランド・リトアニア共和国は、18世紀末に隣国のロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアに分割され、て消滅し、世界地図から姿を消した。第一次世界大戦後、1918年に123年ぶりに独立を回復したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活させたが、ポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国であった。1989年に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立し、現在のポーランド共和国(大統領~首相)となった。冷戦時代は「東欧」に分類されたが、国内及び東側諸国の民主化(東欧革命)とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「中欧」または「中東欧」として分類している。<br />  国民の約95%が敬虔なカトリック教徒。 <br />  2001年 ポーランド最大の空港「オケンチェ空港」が「ワルシャワ・ショパン空港」に改名された。<br /><br />* 2019年は、日本とヨーロッパ随一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年の記念すべき年-1919年にワルシャワ大学に日本語講座が開かれた-。<br /><br />  「灰とダイヤモンド」や「大理石の男」等のポーランド映画の話題作で知られるアンジェイ・ワイダ監督は大の新日家で、日本の伝統工芸や美術品の中欧,東欧における随一のコレクションを有する日本文化の拠点となる通称「マンガ館」は彼が設立したもの。<br /><br /><br />

    [ポーランド共和国]

    Dzień dobry(ジェイン・ドーブリ ; ポーランド語で「こんにちは」)

    国土のほとんどが平野であり、緩やかな丘陵地帯で平均高度は173 m。南部は山岳地帯(森や湖など手つかずの自然が残された美しい国)。

    * リビアからの帰途、ワルシャワ,ポズナニおよびビアウイストクの3地区を訪ねる(1980年10月)。

    10世紀に国家として認知され、16~17世紀にかけてヨーロッパ最大の王国だったポーランド・リトアニア共和国は、18世紀末に隣国のロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアに分割され、て消滅し、世界地図から姿を消した。第一次世界大戦後、1918年に123年ぶりに独立を回復したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活させたが、ポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国であった。1989年に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立し、現在のポーランド共和国(大統領~首相)となった。冷戦時代は「東欧」に分類されたが、国内及び東側諸国の民主化(東欧革命)とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「中欧」または「中東欧」として分類している。
    国民の約95%が敬虔なカトリック教徒。
    2001年 ポーランド最大の空港「オケンチェ空港」が「ワルシャワ・ショパン空港」に改名された。

    * 2019年は、日本とヨーロッパ随一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年の記念すべき年-1919年にワルシャワ大学に日本語講座が開かれた-。

    「灰とダイヤモンド」や「大理石の男」等のポーランド映画の話題作で知られるアンジェイ・ワイダ監督は大の新日家で、日本の伝統工芸や美術品の中欧,東欧における随一のコレクションを有する日本文化の拠点となる通称「マンガ館」は彼が設立したもの。


  • [ポズナニ1]<br /><br /> リビアからの帰途、当方が最も親しくしていた医者の自宅を訪問(1980年)。奥さんと子供2人は夏休みでリビアに来ていたので 顔なじみだった。<br /><br />* 大学の教師をしていた彼女はドイツ語を話し、英語は通じなかった。

    [ポズナニ1]

     リビアからの帰途、当方が最も親しくしていた医者の自宅を訪問(1980年)。奥さんと子供2人は夏休みでリビアに来ていたので 顔なじみだった。

    * 大学の教師をしていた彼女はドイツ語を話し、英語は通じなかった。

  • [ビャウォヴィエジャの森]<br /><br /> リビアからの帰途 訪問(1980年)。<br />ビャウィストク近郊にあり ベラルーシと国境を挟んでいる広大な森林で「ヨーロッパ最後の原生林」と言われる。 一時絶滅を危惧されたヨーロッパバイソンやヘラジカをはじめとした大型野生動物が生息している。<br /><br />*詳細はクチコミの「希少なヨーロッパ・バイソンの住む原生林(ポーランド)」を参照されたい。

    [ビャウォヴィエジャの森]

    リビアからの帰途 訪問(1980年)。
    ビャウィストク近郊にあり ベラルーシと国境を挟んでいる広大な森林で「ヨーロッパ最後の原生林」と言われる。 一時絶滅を危惧されたヨーロッパバイソンやヘラジカをはじめとした大型野生動物が生息している。

    *詳細はクチコミの「希少なヨーロッパ・バイソンの住む原生林(ポーランド)」を参照されたい。

  • [ポズナニ2]<br /><br /> 1989年および1999年に家族とともに滞在。

    [ポズナニ2]

     1989年および1999年に家族とともに滞在。

  • [ワルシャワ旧市街1]<br /><br />  1944年、ナチス・ドイツに対する抵抗「ワルシャワ蜂起」が失敗し、報復のために街は徹底的に破壊されたが、戦後 ワルシャワの旧市街は「ひびの一本にいたるまで」といわれるほど元の姿に忠実に復元された。「ワルシャワ歴史地区」として世界文化遺産に登録されている。

    [ワルシャワ旧市街1]

    1944年、ナチス・ドイツに対する抵抗「ワルシャワ蜂起」が失敗し、報復のために街は徹底的に破壊されたが、戦後 ワルシャワの旧市街は「ひびの一本にいたるまで」といわれるほど元の姿に忠実に復元された。「ワルシャワ歴史地区」として世界文化遺産に登録されている。

  • [ワルシャワ旧市街2]<br /><br /> 勝利の女神像。<br /><br />

    [ワルシャワ旧市街2]

     勝利の女神像。

  • [ピアノの詩人 ショパン]<br /><br />  ポーランド人が最も誇りに思っているひとりがフレデリック・フランソワ・ショパン(1810年-1849年)。 21才の時にウィーンに滞在していた彼は、ワルシャワ蜂起の失敗を知りパリに向かった。作曲,演奏会に明け暮れたが、体調悪化で喀血を繰り返し、39才で生きて祖国に帰ることなく世を去った。 遺言で ワルシャワの聖十字架教会に心臓が安置されている。 <br />  毎日曜日にワルシャワのワジェンキ公園のショパンの像の下で、ピアニストによるショパンコンサートがあり、多くの人たちが寛いでいる。<br /><br />  <br /><br />

    [ピアノの詩人 ショパン]

    ポーランド人が最も誇りに思っているひとりがフレデリック・フランソワ・ショパン(1810年-1849年)。 21才の時にウィーンに滞在していた彼は、ワルシャワ蜂起の失敗を知りパリに向かった。作曲,演奏会に明け暮れたが、体調悪化で喀血を繰り返し、39才で生きて祖国に帰ることなく世を去った。 遺言で ワルシャワの聖十字架教会に心臓が安置されている。
    毎日曜日にワルシャワのワジェンキ公園のショパンの像の下で、ピアニストによるショパンコンサートがあり、多くの人たちが寛いでいる。



  • [キュリー夫人(Madame Curie) ]<br /><br />  マリア・スクウォドフスカ=キュリー(1867年~1934年)は、生命をかけた放射線の研究で、1903年にノーベル物理学賞、1911年にノーベル化学賞を受賞した。<br />放射能(radioactivity)という用語は彼女の発案によるものである。<br /><br />*フランス人の夫ピエールも1903年にノーベル物理学賞、娘イレーヌも1935年にノーベル化学賞を受賞。 <br /><br />

    [キュリー夫人(Madame Curie) ]

    マリア・スクウォドフスカ=キュリー(1867年~1934年)は、生命をかけた放射線の研究で、1903年にノーベル物理学賞、1911年にノーベル化学賞を受賞した。
    放射能(radioactivity)という用語は彼女の発案によるものである。

    *フランス人の夫ピエールも1903年にノーベル物理学賞、娘イレーヌも1935年にノーベル化学賞を受賞。

  • [コペルニクス]<br /><br />  ニコラウス・コペルニクス(1473年~1543年)は ポーランド出身の天文学者かつカトリック司祭であった。当時主流だった地球中心説を覆す太陽中心説を唱えた。

    [コペルニクス]

    ニコラウス・コペルニクス(1473年~1543年)は ポーランド出身の天文学者かつカトリック司祭であった。当時主流だった地球中心説を覆す太陽中心説を唱えた。

  • [前ローマ法王 パウロ二世]<br /><br />  264代ローマ教皇 ヨハネ・パウロ二世(1978年~2005年)は、ポーランド人初のローマ教皇であり、社会主義国初の教皇の誕生でもあった。<br />  「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどで、最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまで、実に世界100ヶ国以上を訪問した。初の来日時には広島市と長崎市を訪れ、日本語で「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた。また 冷戦下の東欧で独裁政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えている。キリスト教の平和と非暴力の教義と、第二次世界大戦中にドイツとソ連の侵攻により、故国ポーランドが焦土と化した実体験から、ナチスと共産主義の脅威を体験しながらカトリックの信仰を守り抜いた。冷戦下以降の東欧の独裁政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えており、1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へ、さらには1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。1981年に バチカンのサン・ピエトロ広場にて、トルコ人マフィアに銃撃されたが、奇跡的に内臓の損傷を免れ一命を取り留めた。<br />  2005年には感染症によって容体悪化し、敗血性ショックにより84歳の生涯を閉じた。<br /><br />

    [前ローマ法王 パウロ二世]

    264代ローマ教皇 ヨハネ・パウロ二世(1978年~2005年)は、ポーランド人初のローマ教皇であり、社会主義国初の教皇の誕生でもあった。
    「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどで、最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまで、実に世界100ヶ国以上を訪問した。初の来日時には広島市と長崎市を訪れ、日本語で「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた。また 冷戦下の東欧で独裁政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えている。キリスト教の平和と非暴力の教義と、第二次世界大戦中にドイツとソ連の侵攻により、故国ポーランドが焦土と化した実体験から、ナチスと共産主義の脅威を体験しながらカトリックの信仰を守り抜いた。冷戦下以降の東欧の独裁政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えており、1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へ、さらには1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。1981年に バチカンのサン・ピエトロ広場にて、トルコ人マフィアに銃撃されたが、奇跡的に内臓の損傷を免れ一命を取り留めた。
    2005年には感染症によって容体悪化し、敗血性ショックにより84歳の生涯を閉じた。

  • [ヴィエリチカ岩塩坑]<br /><br />  クラクフ近郊にある広大な地下岩塩坑は13世紀より採掘されていたが、1996年に廃坑となった。  全て岩塩で 精巧に造られた礼拝堂などがある。<br />  最初に登録された世界遺産のひとつ。

    [ヴィエリチカ岩塩坑]

    クラクフ近郊にある広大な地下岩塩坑は13世紀より採掘されていたが、1996年に廃坑となった。 全て岩塩で 精巧に造られた礼拝堂などがある。
    最初に登録された世界遺産のひとつ。

  • [アウシュヴィッツ強制収容所跡]<br /><br />  クラクフ近郊のオシフィエンチムにあったアウシュヴィッツ強制収容所は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ(当時)の占領下にあったポーランド領内に作られた主にユダヤ人を対象とする強制収容所だった。虐殺,拷問,人体実験,強制労働と残虐非道の限り(ホロコースト)が尽くされ、被害者は数百万人以上ともいわれる。 ガス室跡や銃殺壁跡,多くのメガネやかばん,靴等の持ち物が残され、世界遺産に登録されている。<br />  無料で公開されており、先生に連れられた生徒たちをよく見かけた。<br /><br />

    [アウシュヴィッツ強制収容所跡]

    クラクフ近郊のオシフィエンチムにあったアウシュヴィッツ強制収容所は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ(当時)の占領下にあったポーランド領内に作られた主にユダヤ人を対象とする強制収容所だった。虐殺,拷問,人体実験,強制労働と残虐非道の限り(ホロコースト)が尽くされ、被害者は数百万人以上ともいわれる。 ガス室跡や銃殺壁跡,多くのメガネやかばん,靴等の持ち物が残され、世界遺産に登録されている。
    無料で公開されており、先生に連れられた生徒たちをよく見かけた。

  • [来日のポーランド人の若い家族を案内(2009年6月)-1]<br /><br />  京都太秦映画村にて 。<br /><br />* 長女の名前はMajaで、ポーランドでもTV放映されていた日本のアニメ「みつばちマーヤの冒険」から採った とのこと。<br />

    [来日のポーランド人の若い家族を案内(2009年6月)-1]

    京都太秦映画村にて 。

    * 長女の名前はMajaで、ポーランドでもTV放映されていた日本のアニメ「みつばちマーヤの冒険」から採った とのこと。

  • [来日のポーランド人の若い家族を案内(2009年6月)-2]<br /><br />  金閣寺,嵐山他を案内。昼食は和食店で !!<br /><br />  *別途 クチコミの「ポーランド人 来日」を参照されたい。<br /><br /><br />

    [来日のポーランド人の若い家族を案内(2009年6月)-2]

    金閣寺,嵐山他を案内。昼食は和食店で !!

    *別途 クチコミの「ポーランド人 来日」を参照されたい。


  • [ポーランド独立回復100周年記念イベントに参加1(2018年11月)]<br /><br />   15~17世紀にかけて東欧の大国だったポーランドは、18世紀末に隣国 ロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアに分割されて消滅し、独立を回復した1918年までの123年間 世界地図から姿を消した。第1次大戦後の1918年にポーランドが独立を回復して100年目となる今年、大阪で盛大に行なわれた記念イベントに参加した。<br /> ポーランドの帆船「ダル・ムウォジェジ」(&quot;Dar Młodziezy&quot;;総トン数2,255トン,全長109m,全幅14m) が世界一周航海(コペンハーゲン,ケープタウン,ジャカルタ,シンガポール,ロサンゼルス,パナマなど)で、大阪港天保山岸壁に寄港した歓迎会に参加。同帆船には男女含めて1,000人ほどが乗務。消防艇による歓迎カラー放水,大阪市長による歓迎あいさつ,和太鼓による歓迎演奏などの後、停泊中の同船に見学乗船した際には 乗組員と久し振りにポーランド語で談笑した(片言ではあるが)。<br />同船は大阪港へ過去2回(1983年 大阪世界帆船まつり,1997年 SAIL OSAKA ‘97)<br />寄港しており、1983年には家内と見学に訪れて,日本ポーランド協会(関西センター)の存在を知って家族会員となるきっかけとなった。以降、同協会で若いポーランド人留学生たち(ポーランドには以前から日本語を学べる施設が多くあって、彼らは流暢な日本語を話す。修士論文に宝塚歌劇や有馬温泉を選んだ女子留学生も居た)と接触したりして、ポーランドに大きな関心を持つようになった。<br /><br /> <br />

    [ポーランド独立回復100周年記念イベントに参加1(2018年11月)]

    15~17世紀にかけて東欧の大国だったポーランドは、18世紀末に隣国 ロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアに分割されて消滅し、独立を回復した1918年までの123年間 世界地図から姿を消した。第1次大戦後の1918年にポーランドが独立を回復して100年目となる今年、大阪で盛大に行なわれた記念イベントに参加した。
    ポーランドの帆船「ダル・ムウォジェジ」("Dar Młodziezy";総トン数2,255トン,全長109m,全幅14m) が世界一周航海(コペンハーゲン,ケープタウン,ジャカルタ,シンガポール,ロサンゼルス,パナマなど)で、大阪港天保山岸壁に寄港した歓迎会に参加。同帆船には男女含めて1,000人ほどが乗務。消防艇による歓迎カラー放水,大阪市長による歓迎あいさつ,和太鼓による歓迎演奏などの後、停泊中の同船に見学乗船した際には 乗組員と久し振りにポーランド語で談笑した(片言ではあるが)。
    同船は大阪港へ過去2回(1983年 大阪世界帆船まつり,1997年 SAIL OSAKA ‘97)
    寄港しており、1983年には家内と見学に訪れて,日本ポーランド協会(関西センター)の存在を知って家族会員となるきっかけとなった。以降、同協会で若いポーランド人留学生たち(ポーランドには以前から日本語を学べる施設が多くあって、彼らは流暢な日本語を話す。修士論文に宝塚歌劇や有馬温泉を選んだ女子留学生も居た)と接触したりして、ポーランドに大きな関心を持つようになった。


  • [ポーランド独立回復100周年記念イベントに参加2]

    [ポーランド独立回復100周年記念イベントに参加2]

  • [ポーランド独立回復100周年記念イベントに参加3]<br /><br />  大阪梅田のグランフロント大阪での、「ピウスツキ号の世界をVRで体験」および「独立回復運動家ドキュメンタリー映画上映会」に参加。<br /><br />1.ポーランドのタイタニックと呼ばれる大西洋横断客船「ピウスツキ号」(MS Piłsudski;1939年に北海の海底約30mに沈没)の世界をVR(バーチャル・リアリティ)で体験。<br />2.国際的に有名な映画監督ヴァルデマル・チェホフスキ(Waldemar Czechowski)が来場し、ポーランドの独立回復運動家で、アイヌ民族の研究家でもあるブロニスワフ・ピウスツキ(Bronisław Piotr Piłsudski)* に関してのドキュメンタリー映画<br />「ピウスツキ・ブロニスワフ-流刑囚、民族学者、英雄」の上映とトークショーが行なわれた。<br /><br />* 2018年5月17日で、ブロニスワフ・ピウスツキの没後100年となった。1887年、サンクトペテルブルク大学の法学部の学生であった時、時のロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画に連座して、シベリアに次ぐ樺太(サハリン)島に流刑となった。刑期を終えた後にサハリン島南部に移動し、民俗学の研究をする一方でアイヌ民族の教育にも関わった。その集落でアイヌ女性と結婚して一男一女をもうけるが、わずか二年ほどで離別を迎える(その子孫は現在も日本で生活している)。その後ポーランドへ戻り、欧州を転々としながらパリにいて弟のユゼフ・ピウスツキ(独立後のポーランド共和国の初代国家元首)と協力してポーランド独立運動に携わった。文字を持たないアイヌの文化の伝承は口承に頼らざるを得ず、ブロニスワフ・ピウスツキが蝋管蓄音機を使って記録したアイヌの言語,音楽,収集品そして写真は、現在でも貴重な資料として高く評価されている。北海道の白老町には、2013年にポーランド共和国政府から贈られた彼の胸像が設置されている。<br /><br /> アイヌの文化を忘却から救った民族学者というポーランド人が居たという事実は今回初めて知ったのであるが、ダル・ムウォジェジ号の寄港とも合わせ、いずれも興味深いイベントだった。<br />

    [ポーランド独立回復100周年記念イベントに参加3]

    大阪梅田のグランフロント大阪での、「ピウスツキ号の世界をVRで体験」および「独立回復運動家ドキュメンタリー映画上映会」に参加。

    1.ポーランドのタイタニックと呼ばれる大西洋横断客船「ピウスツキ号」(MS Piłsudski;1939年に北海の海底約30mに沈没)の世界をVR(バーチャル・リアリティ)で体験。
    2.国際的に有名な映画監督ヴァルデマル・チェホフスキ(Waldemar Czechowski)が来場し、ポーランドの独立回復運動家で、アイヌ民族の研究家でもあるブロニスワフ・ピウスツキ(Bronisław Piotr Piłsudski)* に関してのドキュメンタリー映画
    「ピウスツキ・ブロニスワフ-流刑囚、民族学者、英雄」の上映とトークショーが行なわれた。

    * 2018年5月17日で、ブロニスワフ・ピウスツキの没後100年となった。1887年、サンクトペテルブルク大学の法学部の学生であった時、時のロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画に連座して、シベリアに次ぐ樺太(サハリン)島に流刑となった。刑期を終えた後にサハリン島南部に移動し、民俗学の研究をする一方でアイヌ民族の教育にも関わった。その集落でアイヌ女性と結婚して一男一女をもうけるが、わずか二年ほどで離別を迎える(その子孫は現在も日本で生活している)。その後ポーランドへ戻り、欧州を転々としながらパリにいて弟のユゼフ・ピウスツキ(独立後のポーランド共和国の初代国家元首)と協力してポーランド独立運動に携わった。文字を持たないアイヌの文化の伝承は口承に頼らざるを得ず、ブロニスワフ・ピウスツキが蝋管蓄音機を使って記録したアイヌの言語,音楽,収集品そして写真は、現在でも貴重な資料として高く評価されている。北海道の白老町には、2013年にポーランド共和国政府から贈られた彼の胸像が設置されている。

     アイヌの文化を忘却から救った民族学者というポーランド人が居たという事実は今回初めて知ったのであるが、ダル・ムウォジェジ号の寄港とも合わせ、いずれも興味深いイベントだった。

  • [追記] <br /><br />  <br />  ポズナニでのマリアーマリーシャーの結婚式(2011年;現在はポルトガルに滞在中)。

    [追記]


    ポズナニでのマリアーマリーシャーの結婚式(2011年;現在はポルトガルに滞在中)。

  • [日ポ協会 セミナー後の会食]<br /><br />  初めてリビアでポーランド人と接して以来40年近くなるが、今後とも家族共々 日本ポーランド協会(関西センター)運営のお手伝いをしながら、ポーランドに強い関心を持ち続けたい と思っているところ。<br />  ポーランドからの日本の大学院へは多く留学しており、当協会は彼らに奨学金を付与する代わりに、定期的にセミナーでポーランドの種々の風習などの講演(彼らはきれいな日本語を話す)をしてもらっている。<br />

    [日ポ協会 セミナー後の会食]

    初めてリビアでポーランド人と接して以来40年近くなるが、今後とも家族共々 日本ポーランド協会(関西センター)運営のお手伝いをしながら、ポーランドに強い関心を持ち続けたい と思っているところ。
    ポーランドからの日本の大学院へは多く留学しており、当協会は彼らに奨学金を付与する代わりに、定期的にセミナーでポーランドの種々の風習などの講演(彼らはきれいな日本語を話す)をしてもらっている。

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