2014/04/24 - 2014/05/07
2位(同エリア11件中)
アーサーさん
旅行社西遊社のツアー「チベット大縦断」に参加して、広州→蘭州→西寧→清蔵鉄道→ラサ→ギャンツェ→シガツェ→オールドティンリー(チョモランマーベースキャンプ)→ザンムーナガルコット(ネパール)→カトマンズ→広州→東京(延べ14日間)と巡ってきました。
中国の高山僻地(海抜4000M以上)を見学し、森林限界、植生限界を超えて生活する人々に驚嘆と畏敬の念を感じ、エベレストの雄姿に感動しました。
写真はヤムドゥク湖と背景のニンチンカンサ山(7,190m)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 2.0
- ショッピング
- 1.5
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 観光バス
- 航空会社
- 中国南方航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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-
1)はじめに
① 「チベット」・・・世界の屋根の感覚ぐらいしか持っていなかった。ヒマラヤを抱えた遠い異郷の高地。ラサの向こうは私の中では空白。
② 今年の1月フィリッピンの語学学校の授業で 若い人と交じり「夢」を語り合った。苦し紛れに 私は チベットへ行って エベレストを見たいと発言してしてしまった。(不確かな情報で チベットからネパールに抜けるルートのツアーは最近 募集していないらしい ことを知っていた。)
③ 2月日本に帰り 念のため ネットで適当に選んだ旅行社に 問い合わせのメールをした。その内の1社から 催行予定のパンフレットを送ってきた。
写真は 今回実際に参加した西遊社の縦断ルート -
2)
そのF社のパンフレット等の資料を見ると「高山病」の懸念が随分記載されていた。15年前に富士山に登った時 9合目で強い眠気に誘われた経験をしていたので、私も気になり F社に電話して相談した。登山者検診を強く勧められ 3月4日 新宿の東京医科大学で「健康診断」を受信した。
結果は条件?付「可」。(低酸素室体験と主治医の確認が条件。)
責任逃れの判断という気もしたが、「楽しみに行って 高山病の頭痛等で苦しんでも仕方がないでしょう。」との医者の言葉に理屈はあると思った。
写真は それで予約して訪ねて行った 千駄ヶ谷の「 ミウラドルフィンズの低酸素室」 -
3)
そこで
簡単な「半日のトレーニング」を受け 一応 4,000Mの体験をして 疑似高山病の症状を知り、対処の「呼吸法」を学び、リスクなしの判断を貰った。
主治医にも相談したが、当然ながら「高山病」の専門家でもなく お気をつけてと 承諾してくれ 依頼した予防薬「ダイアモックス」の処方箋を発行してくれた。
念のため 「めまい」専門の掛かり付け医にも 相談したが 高山病は無関係の判断。
2回に渡る 2月の積雪 雪かきで 腰を痛め、歩行に傷みやしびれを感じていてので 整形外科にも 相談。貼り薬と痛み止めの処方を貰う。
「ドクター・ストップ」もかからず、残った人生で一番若い「今」 チベット高地に行こうかという気に段々なってきた。
写真は 低酸素室の睡眠体験エリア。 -
4)
平行して チベットの情報収集を始めていた。
図書館で以下の図書を借り出し、読んだ。
① 天空列車「青海チベット鉄道の旅」(地球の歩き方)
どちらかと言うと 綺麗な写真集。
②「消されゆくチベット」(渡辺一枝)チベットから学べ。
少し昔のチベットの風土が推察される。
③「それ行けアジア」長谷川まり
チベット旅行者を通じて 実像が見えてくる。
④ 「チベット仏教と文化」多田等観。
大正から 昭和初期の 我が国とチベットの歴史。
⑤ わがチベット「この悲劇の国」ダライ・ラマ
ダライ・ラマが求道者であることが理解できた。
それから ネットで数々の旅行ブログを読んだ。
偶然、ダライ・ラマが来日予定の記載があり、講演の参加者募集中であることを知り、申し込む。 -
5)
当日 午前中は用事があり、午後からの受講になった。
講義は「般若心経」の途中から、「法界讃」「三十七の菩薩の実践」であった。
通訳者を介している為 真意が正確に伝わっているかは自信が無いが 少なくとも私には 先達の仏教の教えを法王はどう解釈し、どう考えるかを私達に説いているいる風に思えた。予言者や奇跡を行う者ではない 好々爺の真摯な求道者であることが理解できた。
良い経験であった。 -
6)
それと 隣国中国に関して 一つ気になっていることがあった。
元・ドルの為替レートの動きが今年の1月以来 4%程 元が下落していた。
3月19日に開催された国際通貨研究所主催の第23回国際金融シンポジウム(日銀の黒田総裁もパネラーとして参加していた。)で 行天司会者の質問に答えた中国社会科学院世界経済政治研究所 高教授はどの国も行っている為替レートの操作の一環と軽く答えたが 何故 今の時期約4カ月に渡り 従来とは違う施策を行っているのか疑問を感じた。
各国が其々課題を持ち 解決に努力しているのは分かる。 中国がバブルの危機に瀕しているとは思わないが 何かが起きているのかと思った。中国湾岸先進部分だけでなく 内陸後進部分も見てみる必要があると思った。
写真は「米ドルー人民元の週足チャート」 -
(1)4月24日(木)
1)
3月初旬、F社の旅行催行人数が不確かな事もあり、他の旅行社のツアーもネットで本気になって 調べ始めていた。よく似たコースで「西遊社」の大縦断コースを見つけ出し、パンフレットを送って貰っていた。3月中旬 神保町の説明会にも参加し、ツアー費用からも格安で「西遊社」に申し込んだ。
後日、ネットでJTBの上海支店でも上海発着のよく似たコースの激安の現地ツアーがあることを知ったが 既にお金を振り込んだ後だった。
4月始め ネパール大使館にビザ申請に出向く。
旅行保険は付保内容も確認して カード付帯で対応可能と判断する。
持ち物は 説明会の案内を参考にして準備した。
写真は 成田出発の当日 中国南方航空CZ−386便(15:50)発
-
2)
成田では「西遊社」の係りの人からEチケット等を受け取り、各人でチェックイン。
途中 地下鉄の乗り換え駅でいつものように 出発写真を撮ろうとして おかしいことに気づく。カメラにバッテリーが入っていない。
家を出発する前に 充電余地があり コンセントに差し込み充電をしたままだった。仕方がないので 成田空港で一番安いデジカメを購入。(前途多難の予感)
写真は 機内 ほぼ満席。ゴールデンウイーク直前の為?それにしては中国人の旅客が多い。 -
3)
今回の旅の 私の期待するビューポイントは
①西寧のチベット仏教寺院
②青蔵列車からの風景
③ラサ、ポタラ宮
④三大聖湖の一つ ヤムドゥク湖
⑤チョモランマ(エベレスト)
⑥ナガルコット(ネパール)からのヒマラヤ。
だった。
写真は機中食。普通の感じ。 -
4)
広州での入国手続きはスムーズ。出てくる荷物は遅い。(普通?)
空港で現地添乗員に会い、バスでホテルへ。途中 地下鉄工事中とかで
ホテルまでに余計な時間が掛かる。ホテル着 現地時間 PM10時頃
ホテルロビーで今回の添乗のNさん等 大阪から来たメンバーと合流。
明日が早いと言うことで 簡単に打ち合わせ。
近くのコンビニで夕食代わりのクラッカーを買い、ちょっと食べて眠る。
写真は ホテルの部屋。この生活では コンビニを含め 日本との大きな違和感なし。 -
(2)4月25日(金)
1)朝 部屋の窓から見る町は少しくすんで見えた。
下では 地下鉄の工事?が大規模に行われている。
46年前に始めて 広州を訪れた時も 暗い大きな街だった。
文革の騒乱の噂もあり、一泊だけして 早々に駅から列車に乗り込んだ記憶がある。田園の水田は二期作地帯の為 日本とは異なる稲の生育状況に目を見張った。
台湾の南端と同じ位の緯度にある広州は南国なのだろう。中国の国土の広さを改めて思った。 -
2)バスで空港に向かい、国内線で蘭州に。
バスの途中で現地添乗員が 評論家的な党批判をあからさまに喋る。これも南国の気質かと驚き、半分納得する。
空港では 私の持参した杖代わりの「ストック」で一悶着。NZ、オーストラリア、日本では預ける荷物で問題なかったが 日本で梱包して貰った「ストック」をそのまま 同じ中国南方航空のカウンターに出したが、扱い拒否。手荷物扱いで機内に持参出来るかと尋ねたら 管轄外で責任ある回答をしない。相変わらずの役人気質。嫌な気分になる。添乗員のNさんが 彼女のスーツケースに収納してくれて実害は無かったが。
写真はチェックインカウンター -
3)広州8:50発 蘭州12:00着の飛行機に乗る。
ツアーは男性9名、女性4名の13名。いつもは もっと女性が多いらしい。
すべて 一人客。比較的に若い人は 男性1名、女性2名。あとは中高年。
広州の飛行場は 前日の夜も思ったが 馬鹿でかい。移動するのに疲れる。
写真は空港の搭乗口付近。 -
4)飛行機は満席で 乗客は中国の若い人が多く驚く。あまりビジネス客には見えなかった。
写真は搭乗した蘭州行の飛行機。
3時間余乗るわけだから 日本で言えば仙台から那覇まで飛ぶのと同じ距離。 -
5)ほぼ定刻蘭州に到着。降り立つと寒い。
整列して待機する清掃要員も心なしか 南国気質の広州とは随分違うように思える。降りてくる乗客はシャツ姿だが、空港要員は冬のオーバーを着用している。 -
6)
蘭州は甘粛州の省都。海抜1,600M。
砂漠地帯に近く 駐車場の車の砂埃が半端ではない。
空も砂塵の影響か曇っている。
写真は 駐車場から空港を写す。 -
7)
郊外の食堂で昼飯。見れば看板に「西域」と表示されている。
確かに 古来蘭州は中国側の西域との重要な接点。
そうか私はこれから西域へ入るのかと勝手に喜ぶ。
写真は昼飯を食べたビル。 -
8)
写真は昼飯に食べた中国風肉麺。 -
9)
蘭州、西寧で利用したバス。
以降毎日 バス乗車時にミネラルウォーター一本をサービスしてくれた。 -
10)
高速道路で西に170キロ走り、西寧に向かう。
道は整備されているが、周辺の山は段々 禿山が増えてくる。 -
11)
所々では 緑化がされ 畑も現れてくるが。 -
12)
この川は黄河の源流の一つと 現地添乗員さんから聞き、写す。
山東省から渤海湾に流れ込む大河(約5,500m)のふるさとに近い川かと思い、写すが 水は既に黄土色。 -
13)
西寧に近付くにつれ 人の手は加えられているが 土地は肥沃には見えなかった。 -
14)高速道路から 多くの住宅建設の現場が目撃された。素朴な疑問として 誰が住むのだろうと思った。建設現場の周辺には農業以外の産業はみられなかった。(軽工業の工場位はあったかもしれないが。)
民生用の住宅は勿論豊かな社会として建設すればよいけれど それを経済的に支える裏付けの産業が思いつかなかった。 石油産業が大きくあるらしいけれど
高速道路から見える範囲では 一部の化学産業を除き見当たらなかった。
建設を中心とした公共事業が一大産業に思えた。 -
15)
高速道路は大型のローリー車、化学物質を運ぶ特殊車、消費材を運んでいる大型車が目撃された。道路の補修作業による渋滞も 二度ほど経験。道路の設計、アスファルトの品質は余り良いもには見えなかった。
中国全土に道路網を建設する それは 史上誰も成し得なかった偉業だけれども、今回の旅で これを維持するのも至難の業と思った。
写真は行程上一か所だけあったサービスエリア。給油スタンド付。 -
16)
サービスエリア内に付帯するトイレと売店。あまり商買気を感じない暗い店だった。客もいなかった。
14年前の初めて 沿岸部で中国の高速道路を利用した時に経験したよりも 状況はましになっているが 道路利用のソフト面はこれからの課題だろうと思った。 -
17)途中渋滞もあり、予定していた 青海省博物館見学は翌日回しにしてホテルに入る。
西寧は青海省の省都。標高2,275m。人口180万人。
青海エリアは 歴史的に 近代 チベットに属した時代も長い。
ホテルは 中国の現代的な感じ。
写真はロビー。 -
18)
ここも 高層ビルが既に 建ち 私の部屋の窓から見える隣地も建設工事中。
窓から眺めると
この内陸部にも 高層建築の技術が導入され、蓄積されているなと思った。
但し こんな広い敷地に 巨大な延床面積の建物を建て 何に使うのだろうと疑問には思った。 -
19)
夕食は近くのイスラム料理店へ。
写真は店の入り口。回族の従業員らしき人も写っている。
店ではアルコール類は禁止。勿論豚肉料理も。
食事の前にパルスオキシメーターで血中酸素法話濃度を計測して貰い98%。
以降 朝 昼 夕食事の前に計測して記録する。 -
20)
夕食後 近くのスーパーへ。フランスのカルフールの小型版の作りに似ている。
写真は出口のレジ周辺。 -
21)時間的にか お客はまばら。
イスラム教徒用の食品コーナーも。
外に出ると 日が落ちて 極端に寒く感じる。朝出発した広州がうそのよう。
ホテルに帰り 持参していたパソコンのネット接続設定をツアー参加者のKさんに見てもらい、修復。助かる。お蔭でネットが使えた。但し中国の通信事情か遅い。
明日の寝台列車に乗る用意して 荷物を分け 早めに眠る。 -
(3)4月26日(土)
1)西寧の街も想像以上に 綺麗な街。
歩道の公共部分にちょっとした公園が整備されている。道路の清掃維持者がよく見受けられ 道路が汚れていない。気が付けば車のクラクションがほとんど聞こえない。
東南アジアの諸都市の喧騒とは格段の差。
10年前の上海の目抜き通りでも 車優先だったが 今は青信号で横断歩道を渡っていると 右折車は一応待ってくれている。
(但し、微妙な感覚で日本の人優先の度合いとは異なるので注意が必要だが。) -
2)街中心部の公共スタジアム。
ハード的には 内陸部の民生投資は色々と進んでいるのは理解できる。その意味では内陸部も豊かになっている。 -
3)今回の旅で ほぼ全ての都市で見かけた 全国的プロパガンダの壁画の一部。
「中国の夢」「大徳 中国」「孝道」等どう解釈するかは時間が必要だが、
少なくとも 中国のトップ自身が 現在は「夢」が実現していない。「徳」が不足している。「孝道」が廃れている。と認識しているのだろう。
背景の高層ビルが立ち並んでいるだけに 問題は深い。 -
4)本日の観光スポット「タール寺」へ。車で30分位の郊外。
駐車場から入場ゲートの道で写す。丘の中腹まで随分大きい伽藍。
朝が早く、門前の観光客目当てのテント店も開いていない。 -
5)
タール寺はチベット仏教の主要ゲルク派(黄帽派)の寺院で、ゲルク派の開祖ツォンカパの生誕地としても知られている。
1360年にツォンカパが生母の為に立てた仏塔がもとになっているというらしい。
16世紀再建されたという。
写真は入場門。 -
6)
門の両脇には獅子像。 -
7)
入場すると 右側に「8仏塔」。
それに対して「五体投地」しながら祈る人の姿も。 -
8)
お寺の広大な敷地には 大小のお寺、仏塔、僧侶の宿泊施設、等が存在する。
写真はその内の一つ。 幕を重用して、寺内部に光りが差し込むことを防いでいる。 -
9)
薄暗いお寺の内部、入所部分に僧侶がいて、入場券をチェック。
お布施に高額紙幣散見。(東南アジアのお寺と同じで お布施が無防備に置かれている。) -
10)コルラ(右回りの巡礼)でお堂を回り祈る人々。
実際は熱心に五体投地する人達がいたが そこを撮影することは禁止された。 -
11)
今まで中国のお寺は色々見たが 一番失望したのが 玄奘三蔵ゆかりの西安の大慈恩寺。観光施設化していた。日本とよく似ていたのが上海の龍華寺。個人・家の願望の宗教施設。
ここは少し違うと思った。「仏道」への帰依の場という感じ。 -
12)
日本に帰って分かったが 「1958年には3600人以上の僧侶が在籍したが、(中略)文化大革命後はほぼ僧侶がラプラン寺へ移動してしまった。現在は300人ほどの僧侶が在籍している。」(ウィキペディア)確かに 現地では僧の姿は少なかった。それでも お参りする信者の熱心な宗教活動が ここをお寺としている。 -
13)
屋根の形状が中国風。それでも ここで祈る人たちは チベット仏教の信者。
そして 私達日本人と同じように 若い多くの中国人の観光客がこのシーンを黙って見ていた。彼らは何を思って眺めているのか、写真を撮っているのか興味深かった。 -
14)
参道のメインに監視カメラ? -
15)
それから 市の中心部に戻り 青海省博物館へ。博物館の前は広い公園になっていて、以前は日本からの桜が植わっていたとか。綺麗な広場の公園だった。 -
16)博物館の展示は西域の博物館らしく東西文化の交流を感じられ、興味深い。
-
17)惜しむらくは 「古代」と「現代」に分かれ、中間の歴史の展示が抜けている。現政権にとって中間の変遷は 領土の正当性を主張できなくなるためだろうか?
それでも 「西域」が民族の文化の交流の場として役割を果たしてきたことは これからの博物館研究の成果としていづれ解明され 展示されていくであろうと思いたい。 -
18)
表通りは綺麗。向いは「師範学校」の校舎。
実際、街は中国色が強いが、回族、モンゴル族、チベット族と多様に混流している。
ダライ・ラマ14世の生家もこの街から30分程の所にあるとか。 -
19)昼食の中華レストランで。
内陸部に随分入ったが、食材が想像以上に豊富。それなりに流通が成立しているのであろう。田舎に入った分人々が親切に思えた。
昼食後煙草を買いに横道を歩いた。小さな店で「ケント」を指さし、50元札を渡したが、普通に35元のお釣りが帰ってきた。 -
20)煙草を「小島基地」の前庭で吸った。博物館にもこの人物の胸像があったが、少し興味を持ち写真を撮る。後方は日本語学校などの教育施設。
現地添乗員の説明では日本の投資家?
日本に帰りネットで調べてみると、小島プレス工業の会長小島鐐次郎氏であった。中国の僻地 青海省に何を思って多大な寄付等の貢献をされたか 私には分からないが 地道な貢献が この西域で いつか花開く時が来ることを願ってやまない。 -
21)青蔵鉄道に乗車するため駅にバスで向かっていると その列車が横を走って行く。ちょっと豪華そう。
但し 個人的には年齢的にも寝台車の二十三時間乗車がキツイことは分かっていた。 -
22)駅構内に入る前に、パスポート検査 入域検査があり、セキュリティ検査へ。
実際は飛行機の搭乗よりは簡単。(チベットの治安情勢に寄るだろうけれど。)
写真は荷物検査の後を写す。 -
23)駅の構内、発車前で構内は混雑。
軟寝台(一等寝台)のゆったりした待合室は一応別区画にある。 -
24)青蔵列車「K9801」(西寧始発ラサ行)の最先頭。
プラットフォーム黄色の線に足を置いて写真を撮っていたら
鉄道会社の職員に 小屋の中から怒鳴られた。国家公務員の意識丸出し。
日本の国鉄の時代の職員もこんなに酷くはなかった。 -
25)乗車口とチェックの職員。
彼女は私の撮影を気づかなかったが 気づくと写真撮影禁止。公務員を写真撮影してはいけない? -
26)ラサ行 軟寝台車(一等寝台)の切符。
到着駅のラサで返してもらったが 車掌に切符は預ける?(旅行社の人が処理していたので 詳細不明。)
事前の東京での説明会では 一等寝台の切符を確保出来るよう努力している旨 説明があったが 実際確保できていて一安心。硬寝台(普通寝台)は三段ベットで 利用が心配であった。 -
27)コンパートメントにはスーツケースは収容できないと思っていた方が良い。ベッド下部のスペースは 余程薄型の小型でないと収容できない。
今回旅行社の方が使用しない入出口のデッキを利用して、スーツケースを積み上げてくれた。従って原則として乗車中スーツケースの開け閉めは出来ない。
添乗員さんから 事前に言われていた マグカップ、洗面具、タオル、サンダル、おやつ、読み本、などは 前夜手荷物部分に入れ替えておいて正解。 -
28)コンパートメント部分。上段二つ、下段二つの四人使用。
コンパートメントは施錠可能。上段ベッド部分はいつでも横になれるが、下段は
当たり前だが 椅子として使っていると横にはなれない。結構気を使う。
ベッドにカーテンの仕切りは無し。(男性客も女性客も同室の可能性あり。) -
29)上段のベッドに登るための 梯子ではなく 足載せがドア側に二個あるが、夜間トイレなどで頻繁だと面倒そう。
写真参照(簡単な足載せ)
私はヨーロッパでの寝台車上段の危険経験と今回の腰痛の持病から下段希望をお願いしていた。
(部屋にTVは付いているが使用せず。詳細不明) -
30)トイレは各列車に中国スタイルと洋式が各一個。
長時間乗車するため 汚れはひどくなる。特に中国スタイルは床の汚れがひどい。1○○円ショップで買ったゴム底のスリッパが役に立った。
各自に用意されている紙製のスリッパでは役に立たない。タンクの水が無いのか一度フラッシュ出来ないこともあった。また夜間長時間の駅停車時トイレが施錠される。男性は適当に処理していたが 女性は多分難儀していた。 -
31)トイレ横の洗面所は別段コメントすることなし。譲り合って使っていた。
-
32)熱湯の給湯はトイレ近くにあるが 部屋からポットを持ってきて入れようとするが ポットのサイズがお湯の出る窓口に合わない。最初は二人掛かりでやって凌いだが、慣れると一人で出来るようになった。(尚 カップは備え付けられていなくて その為マイカップ持参。)
食堂車に行くとき 給湯してポットを自分で持っていかないとお茶が飲めない。 -
33)喫煙は高山病対応上望ましくないが、デッキに吸い殻いれがあり、ゴルムド駅までは可能。それより高度が上がると禁止の表示あり。
寝台車以外では喫煙ルールは守られていなかった。と同行ツアー者の目撃談があったが 私は行っていないので確認できていない。 -
34)写真は通路部分。
数は限られるが 跳ね上げ式の椅子があり、ここで外を眺めて時間を過ごすことが可能。
隣室の人とのおしゃべりも可能。私の場合 隣の部屋の人はスロバキアからの観光客グループで少しお喋りをした。
窓が汚れていて写真撮影の障害になるので 乗車時の時間の有る時 外から拭いておくのも有効。トイレの窓が開くとのネットで読んだ記憶があるが 私が乗った列車は開かないし、トイレを撮影で占有すると他人が迷惑。 -
35)室内のベッドの頭の所と通路の椅子の所に電源ソケットあり。各種充電、電子機器の利用に便利。
枕元に読書用の照明あり。
他に酸素吸入用の設備もあったが 詳細不明。 -
36)15:05西寧駅を出発した列車はゆっくりした感じで走り出す。
(西欧と同じで発車ベルが無い。)軌道が広い為か 揺れは少ない。
約1時間後 中国最大の湖「青海湖」が見えてくる。内陸塩湖。
塩湖とは海のようなものか?そのままでは飲めないし、灌漑用水には使えないのだろうと想像するが 理解不能。
列車が動き出して 高山病予防薬のダイアモックスを一錠飲む。 -
37)青海湖は琵琶湖の面積の5.6倍とか。実際いつまでも車窓に続く。
のんびり羊が放牧されているのが見えるが、どう羊を管理されているのかは分からない。
周辺の川から水が流入され 出口がなければ大気中に蒸発する以外 量は増えるばかりと 謎に思えたが、実際は流入する河川が干上がり 湖の貯蔵水量が減っている問題があるらしい。
確かに 列車から見ると湖水面まで随分距離がある。 -
38)空がいつの間にか青空に変わっていた。
都市部分を離れたから? -
39)それから 午後6時ごろ食堂車に夕食に行く。(添乗員さんが予約を入れておいてくれた。)
結構美味い中華料理。
外の風景を見ながら ゆっくり食事。 -
40)午後7時頃 コンパートメントに帰っても外は明るい。
中国は北京時間一本だから 経度の時差の関係が2から3時間があるはずだが 生活実感と合わない。外の風景は岩山ばかり。森林限界を超えた?
並行して走る舗装道路(青蔵公路?)に偶に大型トラック、まれにオートバイを見かける。
高山病予防薬の作用で小水の用足しが頻繁。 -
41)青蔵鉄道は2006年ラサまで開通の原則単線、非電化路線。旅客列車は1日上下12本運行中とか。(北京発着、上海発着、成都発着等あり。)
途中駅で停車中の貨物列車の長い編成も見かけた。
路線距離約2000KM。(日本で言えば 青森から熊本のイメージ)平均速度約85KM/H
全区間に45駅あると言われているが、私の乗車したK9801は7駅に停車。実際の乗降は ゴルムドは多かったが あとの駅は不明。 -
42)途中の車窓の眺めから 人家の無い またはまばらな高地で その環境下で鉄道敷設工事をしたのだから難工事だったのは想像できる。車窓から見えるノリ面は 素人の私にはしっかりとした工事のように思える。
青い空に巨大な送電の鉄塔と鉄路 中国の進出・開発のシンボルのように見えた。 -
43)最初の停車駅「徳令哈」駅 (現地時間午後9時頃)
日本で調べると
海西州人民政府の所在地、人口6万人、海抜約3,000m。 -
44)一番大きな途中駅ゴルムド駅(現地時間午前0時過ぎ)
ここで 約20分間停車してジーゼル機関車の高地用に取り換えや、給水の補給がおこなわれた。乗客も1割以下だが乗り降りがあった。
一旦 ベッドで寝ていたが 起きて、プラットフォームに降りて 駅舎を撮影する。昼ならばこの駅を過ぎてから 1時間半後位から 崑崙山脈が見えるはずだが。
同じく日本で調べてみると
人口の90%を漢族が占める。新興の工業都市で、平均年齢は32歳と若い。チベット高原では西寧市、ラサ市に次ぐ第3の都市となっている。人口11万人、海抜約3,000m
確かに 駅に近づくにつれ 珍しく 夜の闇の中で光り輝く工場やビルが見えた。 -
45)やはり 夜は寒い。乗降も終わり 人影もまばらなプラットフォーム。
時間が来ると静かに列車は動き出すので、乗り遅れないように添乗員さんに注意されていた。
ベッドに戻り 本格的に眠る。 -
(4)4月27日(日)
1)7時過ぎ、ぼんやり目を覚ます。やはり熟睡は出来ない。窓から見ると東の空が白む。
幸いなことに 標高5,000M近いところを通っているはずだが、大きな違和感はない。尿の量が増えるので 取りあえず高山病の予防薬ダイアモックスの服用は中止して、様子を見ることにする。
ツアー同行の人の中に腕時計式の高度計を持参している人が複数いて その方から 車中の高度を教えて貰った。列車内の加圧は ドアの開け閉めもあり、飛行機のように完全ではなかった。 -
2)夜がはっきりと明けてきた。
禿山に偶に人家が見えるが、放牧以外何をして暮らしているのだろうと不思議に思う光景は 前日と同じように続いていた。 -
3)8時 朝一番の予約で食堂車に。まだ誰も客はいなかった。
夕食ほど豪華ではないが 充分な朝食。添乗員さんがチベットのヨーグルトを別に差し入れしてくれた。普通に美味かった。インスタントのコーヒーの粉末も用意してくれ、朝のコーヒーも飲めた。
(チベットでは 食堂で客がコーヒーの粉末やティーバックを用意して、お湯を貰い自分で飲むのは許されること?・・・習慣の違い?
6年前 オーストラリアを旅行した時 格安航空ジェットスターでの昼食時の目撃で 中国人客がカップラーメンを手荷物から持ち出し、アテンダントに強引にお湯をサービスするように要求していたが 彼にとっては 普通の習慣だったのかと 納得。) -
4)朝食中に 世界一標高の高いところにある駅「タングラ駅」(標高5,067M)を通過。
駅周辺は何もない。
青海省からチベット自治区に入ったみたい。 -
5)「安多駅」で数分停車。
線路の両脇は鉄条網で延々囲われ、永久凍土の地盤の上の線路の為 何か特殊な工法・杭が仕様されているみたい。車窓から見えるノリ面に 日頃見かけない構築物が散見される。(写真撮れず。)
よく見れば 駅内外の関係の表示は「漢字」が第一。次はアルファベット、最後に「チベット語」この鉄道の利用者が誰であり、その目的が垣間見えると思った。 -
6)ツォナ湖が見えてくる。
手前に 延々と続く柵。
現地添乗員さんの話に寄れば 放牧の羊やヤク等が 線路敷地に入らないための柵だとか。自然の動物の行き来を 長距離に渡って分断しているのも一方の事実だろう。(動物横断の対策は考慮されていると言うが。) -
7)ツォナ湖は「世界で最も高所にある湖の一つである。面積は300平方キロを占め、海抜4594メートルにある」(エキスペディア)だそうだ。琵琶湖の半分の面積。
-
8)9時頃「ツォナ湖駅」通過。
-
9)10時過ぎ「ナクチュ駅」で停車。
気晴らしにプラットフォームに降りる。
ナクチュは昔からの街らしいが、最近は鉱物の産地として発展中とか、駅から見る限り そんな大きな施設は見当たらなかった。但し 降りる客は想像以上。 -
10)この辺りの前後、線路沿いで若い人が、直立不動で列車に向かって敬礼している姿を何度か目にした。付近にテントがあったり、オートバイがあったり、1,2名の単位だけれど 奇異に感じ記憶に残った。鉄道の維持管理者?
(突然 視界に現われ 消えるので 写真に取れず。) -
11)遠くに標高7111メートルのニンチェンタングラ峰が見えてくる。
20時間近く 列車に乗って、単調な景色の流れるのを見ていると かなり飽きてくる。わがままにベッドに寝っころがって 半分眠り 現地添乗員さんが教えてくれた時だけ、カメラを手に窓に向かう。この時もそうだった。 -
12)
ラサに近付くにつれ、人家がそれなりに増えてくる。
暇に任せて 原野をバックに真面目な直立不動の敬礼姿を目撃したためか「満州鉄道」を(勿論見たことはないが、)を思い出していた。満州開拓の先陣のような鉄道。実際人を運び、物資を運び、情報・技術を広め、開拓のシンボルのような鉄道。歴史の進歩の幻想貢献を充分に果たした。でも点と点を結んだ線にしか過ぎなかったことを 現代の私は知っている。鉄道は残ったが、「満州」は無い。
この 凍土の上に建設された 菁蔵鉄路 現代中国の技術を発揮して建設されてものには違いないが 一方で自然の巨大な力も知るだけに 余りにも細い線にも思える。(福島原発の体験。)
当てもない空想の遊泳で時間を潰した。 -
13)やっと着いた。(現地時間定刻14時半頃。)23時間の乗車は苦痛に近い。
何かを得ようとすれば 仕方が無いのかもしれないが、苦痛であることだけは 知っておいて 準備をしておいたほうが良いと思った。
(ラサで迎えてくれた現地添乗員の方が 「青蔵鉄道はどうでしたか?と尋ねると 日本人の方は 誰も返事をしない。」と 若干皮肉っぽく 言っていたが、
自分で選択しただけに「複雑」なのが正直なところではないだろうか。 -
14)駅の構内を出るところで、パスポートチェック、入域許可書チェックがあり、現地添乗員さんが事務所に出向いて何かの処理をしていた。
こでも 我々がツアー客の外人の為か 形式的なチェックだと言う風に感じた。
駅には観光客歓迎の出迎え要員の方もいた。(観光収入の獲得の別の本音も強いのだろう。)
写真は馬鹿でかいラサ駅の構内。 -
15)写真はラサ駅正面。日差しはきつい。
実際は二名の兵士が銃を持って儀礼兵風に立ち番していたが 我々にはそんなに緊張感はなし。
ラサは標高3,600mだが 私は高山病の不快感感ぜず。 -
16)駅からホテルのある旧市街までラサ川を渡り少し時間がかかる。
途中 バスの車中から 旧市街でポタラ宮に出くわす。
普通にある感じで 余り出会った感動は正直なかった。 -
17)高度順応のため ホテル着後のスケジュ−ルは無し。
部屋で2日分の洗濯をしたが、その程度の動きで 息が上がってしまう。
(ラサ市 海抜3,600M)
呼吸を整え ゆっくり動くしかないと自覚。
ホテルは冷房施設はあるが 暖房施設は無い。(宿泊ホテル名剛堅拉薩飯店)
ラサを出ると ネパールのナガルコット迄ネットが接続出来ないと聞いていたので ネットを接続して情報を得、必要なメールを出す。遅くて使いにくい。(部屋では接続できず、ロビーで接続する。) -
18)部屋から外を眺めると 各家の屋根の上に タルチョが飾られているのが見える。時を経て薄汚れて見えるが チベットに来たのだなぁと実感する。
空は いつのまにか雲が出て暗い。 -
19)
夕食後 ホテルの外で煙草を吸っていると寒い。ラサは一日に四季があるというのを実感する。
部屋にバスタブは無い。シャワーのみ。お湯も熱湯とは言い難い。
昨晩寝台車で寝不足だったので 10時には眠る。
夜、部屋が乾燥化してのどが痛くて 嗽に2度ほど起きる。軽い高山病のせい? -
(5)4月28日(月)
1)朝 窓のカーテンを開けると みぞれ。山はうっすらと雪景色。
タルチョが雨に濡れている。 -
2)朝食の時 添乗員さんに測って貰った酸素濃度が85。息は上がり易いが 高山病の気配は自覚なし。
ツアーのメンバーの中で 軽い頭痛、食欲不振を訴える人もいて、一人の若い人は 血圧を測定して貰い、降圧剤の注射を打って貰ったとか。一人の男性は風邪気味だとかで 点滴をしてもらったとか聞く。(この男性は 午前中のポタラ宮観光を断念して、現地ガイドと共にホテルに残った。)
添乗員さんも大変そう。
写真はホテルのロビーに併設された医務室。商売になるほど頻度が高いの? -
3)早めにホテルを出て バスでポタラ宮の観光に向かう。
雨の為 傘を片手で持ち、もう一方の手でストックも考えられたが 余裕がなくなるので 折角持ってきたストックは諦める。
写真はポタラ宮の入口。
(地上の周辺道路ではマニ車を手にコルラをするチベット人多し。) -
4)見上げると 一番上までこの階段(300段?)を登るのかと圧倒される。
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5)入口を入ると 手入れはそれ程入っていないが、雨に濡れた小さな庭があり、この高度の地には珍しく黄色の花が咲いていた。元気を出して登り始める。
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6)中間階から見た旧市内の風景。山に囲まれた小さな街だと分かる。山は 降った雪で白い。
ラサ市の総人口42万人とか。 -
7)休憩しながら マイペースで登って行き、ほぼ三分の二の地点。未だ階段は続くが 目途は立つ。
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8)見渡すと右側の薬王山。
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9)建物の中に入り、壁画に迎えられる。
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10)建物内の階段。
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11)やっと 白宮の入場門が見えてきた。この門の上階からダライラマが広場の人達と集団接見したとか。
白宮は、歴代ダライ・ラマの居住と政治的な執務にあてられた領域である。ダライ・ラマが「世俗王」として権力を行使する場といえる。1645年から8年の歳月をかけて、観音堂を中心に東西に建造されていった。寺全体の外壁が白色に塗られ、人目を引くことから、人々に白宮と呼ばれるようになる。(ウイキペディア) -
12)テラス(広場)の売店で猫が目をつぶっていた。
-
13)白宮の入口階段から テラス(広場)を写す。
もっと上階から この広場に集まる人々と歴代のダライラマは謁見したのかと想像する。
ここから以降写真撮影禁止。
①ダライラマの居室部分は 思っていたより 狭い。為政者というより 宗教者の居室の感強し。
②宮殿には多くの部屋があるはずだが、「統治機関」の部分の部屋はみられず。ここにチベットの政権があったことを抹殺する意図?
③最初に江沢民氏の民族文化を大切にする趣旨の額が掲げられていたが、この巨大な宮殿の中では 小さく見えた。
④内部の階段は結構急勾配。 -
14)白宮の入口。 通常ここから1時間の見学時間制限。
私達の場合 その時の 観光客が少なく、制限なし。約1時間15分掛かった。
宮殿は大きく分けて白宮と紅宮。
白宮の西側に隣接して建てられている紅宮は、宗教的な領域である。ここはチベット仏教の総師ダライ・ラマが「祭司王」としての権威を発揮する場であったといえる。白宮と同じく、外壁全体が赤く塗られているため紅宮と呼ばれた。(ウキペディア)
両宮は屋上で連絡出来る。 -
15)紅宮には多くの仏塔(チョルテン)歴代ダライラマのお墓 が納められていて 日本人にはお寺の一種の感じ。僧はあまり見かけないが。
多くの漢人旅行者が同じように見学している。(ある面では人民から収奪の豪華なお墓だけれども。) 神妙な顔をして 黙ってガイドの説明を聞いている。現代らしく 片手でスマフォを見ながらの見学者もいたが。
ダライラマを否定するようなことを 私達の中国人ガイドも言わない。
写真は紅宮の出口。外に出ると雨は上がっていた。 -
16)そこから もう一度ラサの街を見渡すと 遠く左に 新しい高層ビルの建築のエリアが見えた。(旧市内の再開発はポタラ宮もあり制限しているみたいだが。)
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17)反対側の階段を下り、元の地上入り口付近から 全景を写真撮影。
それから駐車場に戻る。結構歩いた。ストックが無いので 歩き難く遅れ気味であった。
手荷物チェックのポイントが複数個所あったが 実態はなおざなり。
外人観光客の入場料が一人100元とか。(ツアー代金に含まれている為実際は分からない。)結構な観光収入金額になるのであろう。 -
18)バスの中から ポタラ宮の天辺に 五星紅旗が見えた。
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19)ラサの目抜き通りは 看板から察すると 漢人資本の商店で占められているように見えた。
バスから写す。 -
20)遅い昼食後、体調調整も兼ね 3時半まで自由時間。
私は一人 ホテル近くの寺を訪ねる。
大通りに面した「木如寺」の入口 -
21)寺の境内。境内の周辺は庶民住宅。
仏具の店、露店も。反対側は今は動いていない印刷所? -
22)お寺の祭壇。昔 日本の地方都市の 裏道にこのようなお寺があった気がする。生活と密着したお寺。お参りする人も少ないが お寺が根付いていると思う、
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23)入り口に 守衛の管理室のようなところがあり、ラサ市の仏教組織に位置付けられた表示看板があり、撮影しようとしたが 中から見られているような気がしたので 迷惑をかけると悪いので止める。
写真は境内を取り囲む民家。荒れている感じがした。 -
24)その近くの「平安寺」。中は結構広いお寺。
門の上には大きな監視カメラ。 -
25)お寺は修繕中で 二階からは数人の女性が壁面を再築しながら歌う 「仕事歌」の合唱が聞こえて来て 了解してくれたので二階に上がり、更に屋上に出た。屋上でも数人の人が共同で屋根部の補修をしていた。共同体が残っている確信を持った。(二階は暗くて写真は撮らず。)
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26)それから 表通りの食料品店を覗き お土産用のバター飴もどき18元を買う。生鮮品、日配品を除き よく土産物が多く品揃えされていた。
レジにはPOSが導入されていた。
日本に帰って 食べる時よく見れば 「西蔵特産」と表示され、会社名はラサでチベット語のロゴ部分もあったのに 産地所在地は内蒙古? -
27)ホテルで再集合して、歩いて近くの チベット仏教の聖地ジョカン「大昭寺」へ行く。
入場門の横では一心不乱に「五体投地」を繰り返す信者で一杯。圧倒され、現代日本の仏教の国から来た身には違和感も覚える。試してみると 五体投地の繰り返しは身体的負担多し。 -
28)建物の中は撮影禁止。屋上からお寺の全景を写す。
建物は大きいが 中は観光客で一杯。ホテルも含めて若い漢人の旅行者が多い。ブームなのだろうか? -
29)屋上からは お寺のタルチョの向こうに 午前中登ったポタラ宮が見える。
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30)また近くのビルの屋上では 兵士の訓練?が見える。
実際 緊張感のない兵士の姿が お寺周辺で見え隠れするのをよく見かける。 -
31)出入り口の所で ここでも猫がいた。
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32)大昭寺を取り巻く パルコル(八角街)には多くの巡礼者 参拝者がマニ車を手で回しながら 右回りのコルラをする人多し。中には「五体投地」で進む人も。
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33)写真は このパルコルエリアに入るための公安の荷物チェック所。
パルコルは古からの門前町的な商店街らしい。私も布製の物入れを20元で個人店から購入。
そのほか数店を覗いたが、昔の「元」を知っている者には高くて手を出せない。輸送費の掛かる離れたチベットだからだろうか?それとも今の中国全体? -
34)夕食はパルコルで鍋料理。野菜を一杯食べた。
食後ホテルに歩いて帰り、添乗員さんから お湯を使える最後の機会と忠告されていたので シャワーで頭を洗い 髭を剃る。
ラサの滞在時間が少なく、消化不良の感じで寝付く。(この街はもっと滞在すれば色んな発見があるだろうと思った。) -
(6)4月29日(火)
1) 朝 8時半ホテル出発。
ラサ市内は早朝の為 人通り少なし。
大橋を渡り、駅周辺の開発区は現代的な 街作りが広がる。
写真より実際は 高いビルがいくつか建設中。 -
2) 整備された広い道路に 五星紅旗が 掲げられている。
この道路から 高速道路(日本と同じくらいの規格)が30分程続く。
青蔵鉄道のシガツェ(チベット第二の都市)への延伸工事の現場も見えた。 -
3)途中見かけた 党組織の建物は巨大で 高い壁で遮られている。
壁には「解放60年記念」?の古びたポスターが掲示されていた。
誰の解放?そして 何からの解放?と疑問を抱いた。
勿論ポスターの意図するところは
チベット人民の 古い「農奴制からの解放」。「貧困からの解放。」自由の獲得。であるはずであったが。 -
4)この写真の前から一般道路に入り{チベット公路}?、時々交通チェックの検問所がある。
写真は道路沿いの有料チベット式トイレ(1元)で停車した時のもの。
これから 行程の途中では 無料の青空トイレ使用が中心になって行く。 -
5)利用するバスはマイクロバス二台。(確かに二台に分かれた方が 何かあった時に融通が利く。)
ラサの観光から、ガイドさんの案内に無線のイヤーホンを利用しているが 便利。 -
6)川を越え、上流に向かう。
途中、現地添乗員のガイドさん(2人とも漢人)から チベットの葬祭について話を聞く。「塔葬」「火葬」「鳥葬」「水葬」「土葬」もっとも一般的な鳥葬は見学が困難なのだそうだ。
ちなみに「土葬」は特殊な病気などで亡くなった人を閉じ込める意味があるそうだ。 -
7)亡くなった子どもの葬祭を中心とした川縁の「水葬」の現場をバスから見学する。
道路の反対の岩には 墓標のような「梯子」が一杯 手が描かれていた。
(輪廻の考えが強い風習だなと思う。) -
8)道路にはみ出してきた放牧中の羊。
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9)段々 人家の無い岩山になり、道は登って行く。行き交う車両も少ない。
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10)最初の 本格的なビューポイントのカンパ・ラ(標高4,794m)の手前にある展望所に立ち寄る。
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11)タルチョがはためく。
タルチョーはチベットの五色の祈祷旗である。寺院や峠、端に見られる。五色の順番は青・白・赤・緑・黄の順に決まっており、それぞれが天・風・火・水・地すなわち五大を表現する。(ウキペディア)
実際 チベットの旅と言えばタルチョを思い浮かべるほどよく目にした。 -
12)人家のあった川の流れから随分登ってきた。
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13)山を背景に写真撮影が行われていた。
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14)そして カンパラ峠からの眺め。雄大としか言いようがない。
手前にチベット三大聖湖の一つヤムドゥク湖を配し、奥にニンチンカンサン山(7,190m)が見える。
昔から この峠はラサの南から入る要所だったらしい。私にはラサは見えなかったけれど。 -
15)振り返れば 山の頂にまで タルチョの列が続く
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16)先程 写真撮影をしていたカップルも。(結婚記念の撮影?)
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17)峠では 観光客目当ての露店商売も。
日差しがきついが風は冷たい。(観光撮影用のでかいチベット犬や、ヤクがいた。) -
18)それから ニンチンカンサン山に向かって バスは降りて行く。
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20)バスはヤムドゥク湖の畔に至り、羊が多数放牧されていた。
(放牧風景はどの地で見ても のんびりとしている。農耕とは異なる。) -
21)ここでもニンチンカンサン山を遠くに見て 湖上にタルチョガはためく。
曇りのせいか トルコブルーの風景と言う訳にはいかなかったが。 -
22)タルチョには 経文がかれ 風ではためくと 一回読んだことになるとか。
湖水に触れてみると 表面水はあまり冷たくなく 清涼な水の感じはしなかった。
(近づき過ぎると 綺麗ではなくなる道理。) -
23)ここも 商売っ気が。(標高4,400m)
-
24)それから 途中立ち寄った昼飯の町(ランカルツェ)へ。
この辺りからブータン国境まで約100Kとか。 -
25)昼食は期待もしていなかったし、私は満足。但し大分グレードは落ちて来ている。
血中濃度86%で しんどさに変化はない。 -
26)昼食時の食堂の裏にあったトイレ。老人がトイレ使用料(一人1元)の請求の為 椅子に座っていた。現金収入がこの僻地でも必要なのだろう。トイレに手洗いは無い。
-
27)食堂の前の役所施設。
10年位前 歩き遍路で四国の山中を巡った時 こんな田舎でと驚いたのが 役所関係の建物と介護施設だった。だから 日本人としてあんまり大きいことは言えないが 施設を建設したらそれで終わりではなく、維持費と補修費用は永続的に掛かる。
中央の補助金で建物は立つが維持・補修費はどうするのだろう。どうみても4,000mを超える高地の周辺に 牧畜産業以外見当たらなかった。
当面この高地のベースの生活は 昔からの自給自足の社会。だとしたら また中央の補助金をあてにし続けるのか? -
28)昔ながらの 自給自足的な生活ならば こんな立派の道路は不必要だったかもしれない。でも「開拓」する為に道を作った。(その可否は部外者として問えないし、問わない。)
道の横を川が流れていた。自然の暴威を知る者には 現実的な費用と効果の尺度をを持たないと スローガンは正しくても 長期的には耐えられないと考える。
同じことが 山に張られた高圧線の鉄塔。文明生活に電力が必要であるのはよく理解するが、費用と効果のバランスが検討されている風には思えない。 -
29)ニンカンサン山のカロ・ラ氷河とタルチョ。
氷河がま近くに見える。
晴れていれば絶好のシャッターポイント。
露店、トイレあり。 -
30)ギャンツェへの道 出会った湖。
-
31)タルチョが風にはためく。
-
31)各観光ポイントには写真のような露店が出店している。
眺めてみたが 手を出す気にはならなかった。英語で値段を聞くと電卓で価格を表示してくれる。「高い。」と言って立ち去ると、追いかけて来て「値段を示せ。」と電卓を差し出す。
何処の国でも 親切な人もいるし、騙す商売をする人もいる。 -
32)大きな人工らしき池があったので 発電のダムが控えているのかと期待したが、貯水湖だった。
ネットでちょっと調べた範囲では ラサの近くの水力発電以外 現在大きな発電所は無いらしい。私の旅した範囲でも 素人目に 高低差流れの発電適地は幾つかあると思ったが。
一方 チベットの山奥では小規模な太陽光発電(独立分離型)は照明用等でよく見かけた。風力発電は目にしなかった。 -
33)ギャンツェ(古くからのチベット第3の都市)へ降りて行くにつれ、耕作地が段々広がって行く。灌漑用水の水路も整備されている。この辺りはチベットの主要農業生産地らしい。
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34)ただ 水路の細部には 場所によってごみが散乱していた。耕運機等の機械が導入されているところと されていない所も目についた。
この時期 種まきが行われていることは 年一毛作。耕作しているのは裸麦らしいが そんなに高い土地の生産性(収益性)があるとは思わない。
土地の力が担う人間の生活には限りがある。(農耕生活は大切だし、重要だが、豊かさの追及には限界がある。) -
35)ギャンツェの「白居寺」に着いた。(海抜 約3,900m)チベット仏教の宗派にとらわれないお寺とか。(写真は入口)
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36)門をくぐると ここも 後ろの山の山頂まで寺域。高い塀に囲まれている。手前はマニ車の列。
-
37)14世紀初めに建てられたお寺とか。写真は本堂の入口。ラサの大昭寺のような華美さはないが 結構な規模と観光客、信者たち。(内部の写真撮影できず。)
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38)横に配置されたチベット最大の仏塔であるパンコル.チョルテンが有名らしい。9階建てで、高さは32.5m、塔内部には108の門があるほか、各像や壁画で飾られた77の部屋もあり、仏像が合計10万体も超えたことから、「10万仏塔」とも称されているそうだ。
案内ルートの説明掲示が不十分だが 西洋のタワーに登る感覚で結構興味を引く。最上階からの眺めも良かった。(ケチって写真撮影代を支払わなかったため、撮影できず。残念。) -
39)それから 徒歩でお寺傍の旧市街を歩く。人気が無い。
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40)家の回りに家畜ヤクの糞が積み重ねられている。今も貴重な燃料らしい。実際 そばを通っても臭くない。
-
41)最初 現地の旅行社が手配していた民家訪問先はこの家だったが、不在で応答なし。
-
42)急遽 訪ねて行ったのが この家。道路にお婆さんが出ていたので。
通りに面した入口は狭い。 -
43)納屋のような 暗い土間を通って、約1メートルぐらい高床の家に入る。
写真は退出時写す。レイのように挨拶の白い布を掛けてくれているところ。
その時の説明では 今実際に住んでいるのは そのお婆さんと男の孫の二人。 -
44)二間の構成で。最初の台所。
中は実際は暗くてゴチャゴチャした感じだが 思いがけず家庭電化製品はあった。(ミキサーまで) -
45)片方のサイド。(給水、排水は無し。)
-
46)次の居間兼寝室。
明り取りの窓はあるが フラッシュを焚かないと こんな感じの暗さ。 -
47)寝具、衣類はそれなりに豊か。
-
48)テレビも。
突然の我々の訪問で驚いたであろうが 気持ちよく対応してくれた。
両親の不在の理由が分からなかったが、出稼ぎ?
いずれにせよ 食べる物に困っている風では無かった。むしろ雑多な日用品衣類は取りあえず充足され 貨幣経済の消費生活が始まっていた。 -
49)表通りに戻ってくると 子供たちが下校時間か 数人見かけた。ありふれた身なりをして 子供達にも豊かさが行き渡っているように見えた。
-
50)但し 表通りに人影は少ない。
日本に帰って調べると ここギャンツェは 9世紀頃から開発が始まり、ラサ、シガッツェに次ぐ第三の街だとか。産業は周辺の農業以外に 絨毯が有名らしいが見かけず。
街には観光産業以外の目ぼしい産業は 気づかなかった。人口6万人。
高度経済成長期 日本も地方からの出稼ぎ労働者が多かったが 現在の中国もその時期にあたるのだろう。チベットも労働力提供エリア。ただその余力は もう余り残って居ないように思った。 -
51)
ここは 1904年英印軍が進軍して来て、チベット軍を破ったところとしても有名。その結果 ラサ条約がイギリスとチベットの間で締結された。
当時 北から 南下政策でモンゴル族の一部を使い南への突破を模索していたロシアと インドの権益を守るためのイギリスのチベットの緩衝地帯化の動きと 背景に清国の弱体化の流れの中で チベットが列強帝国主義国家に対して鎖国政策を採用したのは 理解できる。日本は海洋国家だから 開国に転じたが チベットの地政学的位置からの鎖国性政策もありえることであったであろう。
その戦場となった山を下から写す。 -
52)それからホテルへ。
大きなホテル。(人の気配は余りしなかったが。) -
53)夕飯はホテル前の食堂に。
麺は麦の種類が違うのか 単にゴツゴツしてもう一つ。チベット餃子も皮の部分が厚過ぎて、もう一つ。インド風のナンが珍しかった。食堂はお客多し。 -
54)夕飯後 近くのスーパーに立ち寄る。店は小さいけれど乾物などの商品は思ったより豊富。但し その時間 現地の客はいない。
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55)事前に聞いて思っていたより ホテルは近代的。電気の暖房も設定温度を上げれば 暖気が流れる。(喉をまた傷めたが。)温水の湯量は不充分。ネットも設備はあるらしい。寒いので隣のベッドの布団も重ねて眠る。
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(7)4月30日(水)
1)朝食時 計測酸素濃度86%。まぁ私は大丈夫みたい。朝食時 ツアーメンバーの中で5名食事に参加せず。(連日の中華料理の油に懲りていた人もいたが。)
朝8時半ホテル出発。 -
2)ギャンツェの郊外は農村地帯が続く。整備された農地。ビニールのハウスもよく見かける。チベットでは農業先進地域なのだろう。でも種まきが始まったぐらい。(はだか麦、菜の花?)
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3)シガッツェへのメインの道路から外れて シャ−ル寺に立ち寄る。11世紀創建で インド、ネパール、中国の影響を受けた壁画(大分退色していた。)を見る。確かに屋根がチベットでは珍しい瓦葺。
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4)お寺には観光客、参拝客が少なく 落ち着いた雰囲気のお寺。
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5)境内には犬がよく眠っていた。(チベットのお寺では確かに 犬がよく居た。)
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7)それから 翌日のチョモランマエリアの入域許可の為に シガッツェの警察へ。(午前中の申請をと旅行社の方が 焦っていたが間に合う。)
相変わらず 巨大な塀と大きな新しい公安建物。
(シガツェの人口9万人) -
8)シガツェの目抜き通りのホテルへ。
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9)ホテル前の交差点から写す。
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10)ホテル裏の食堂で昼食。日本式の木製「おひつ?」。この辺りからよく見かける。
昼食時計測酸素濃度79% (ここは海抜3,840m) -
11)昼食後3時半まで自由行動。
ホテル近くを歩く。
宝飾店のイベントか歩道ステージでダンスショーが。人だかりができていた。 -
12)現代的な百貨店があったので入る。店名「安鴻百貨」
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13)上下のエスカレータが交差して。吹き抜けのモダンな店作り。
商品も高級そうな陳列。 -
14)客はまばらにいたが、店員は暇そう。
大量購買の段階には至っていないよう。 -
15)地下の食料品部門も客はいない。
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16)でも 少数ながらこの地にも 漢族の移民者を中心に このマーケットが望まれ 資本投下する企業も出て来ているのも事実。日本の外国人向けスーパーのような位置づけ?(到底資本投下の回収は進んでいる風には思えないが。)
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17)街には 引き売りの青果(果物)のオートバイが。
商品はみかん、スイカなどの 地域外の搬入物?日本人の私には 鮮度はよくない風に思える。小玉スイカ20元。
ホテルの朝食で南国のバナナが出ることもあった。美味しくはないが 流通はそこまで進んでいる。 -
18)ホテルの部屋で 洗濯をして、それから町と隣接した タシルンポ寺に。
写真は入口の山門。 -
19)山門を入ると ここも大きな境内。背景の山のタルチョと青空が借景となって迫る。
ウキペディアに寄れば 「タシルンポ寺はチベットはシガツェ地区最大にしてゲルク派最大の寺院。(略)4世以降のパンチェンラマはここで宗教活動と政治活動を主に行った。シガツェ市の街の西にある尼色日山の山腹に建設され、50あまりの経堂と200あまりの部屋をもつ。16世紀に大拡張。」とか。 -
20)坂を登って見学して行くと 大きな木の花が満開であった。(リンゴによく似た花だったが 桃とか。)
-
21)大きな建物があり 中に入ると座高15Mの奈良の大仏さんより大きい仏さんがいらっしゃる。
同じくウキペディに寄れば 「境内で最も勇壮かつ偉大な建築は高さ30メートルの大弥勒殿と歴代パンチェン霊塔殿である。第9世パンチェンラマチューキ・ニマによって1914年に高さ26.2メートルの弥勒菩薩の銅製坐像を奉られたのが大弥勒殿である。大弥勒殿は冠、顔、胸、腰と脚の5層構造で、中に坐像が供養されている。この弥勒像は6,700万両もの金と12万kgの純度の高い銅からなり、大小様々の1,400個余りのダイヤモンド、真珠、琥珀その他の宝石が散りばめられている。」とか。 -
22)本殿の外の壁に描かれていた 曼荼羅絵を写す。
建物内部を写真撮影する時は1人100元の表示。(馬鹿げている。)
お寺らの本堂の中で 僧たちが お金を数え札束にしているところに出くわした。(中国に高額紙幣が無い為 また少額賽銭が多い為か凄いボーリューム)貨幣経済の浸透で仕方が無いが 物欲からの解脱を解く仏の前での行為に 興醒め。 -
23)この寺の説明で 文革時、歴代のパンチョンラマの霊塔が暴かれ、祀られていたミイラの遺体が放棄されたとのこと、今は修復されていたが。
宗教はアヘンであり、お寺は古い収奪支配の機構であるとの紅衛兵の主張はある面で真実だが 今はお寺の入口の正面に五星紅旗の党関係の事務所が鎮座する。 -
24)現ダライラマの伝記の中で、転生者として認定され、崇められて生きるだけでなく、修行者として「ダライラマ」に精進して近づいていく姿が描かれていた。
(私は 生まれながらの崇められる存在とだけ 少し誤解をしていた。)
現 北京政府認定のパンチョンラマは若い。この難しい環境下でどう精進しているのだろうか?
説明に寄れば この窓の所が パンチョンラマの居室。 -
25)山頂まで タルチョがはためき、それほど多くは無いが マニ車を回し、コルラをする人も見かける。幼い僧の遊ぶ姿も見かけた。伝承されていく将来に夢を託す。
-
26)ホテルに戻り、夕飯の後 町に。
写真は街中のショッピングモール。モールの前は駐車場。停まっている車は新しい車が多い。 -
27)宝飾店が入口にあり、それから 中国風のスーパー。生鮮は少ないが その他の商品の在庫陳列量多し。
通りでも 小型店に 湾岸部からかのプラスティツク製の日用雑貨品の大量陳列を見る。(チベットは過剰商品の掃き溜め?処分場?) -
28)目抜き通りでは 例の如く行政府の建物が新築中でほぼ完成していたが、正面に大きな「為人民服務」のスローガン看板が見えた。久し振りなので写す。
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29)また その前には 山東省?が援助したとかの ホテル風の建物が建っていた。人の出入りは少ない。
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30)そして その横には 財務省関係のビルが。
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31)その敷地の門の所に 電光掲示看板。
「富強」「民主」「文明」「和諧」「自由」「平等」「公正」「法治」「愛国」・・・とかとか並べられていた。全ての単語は美しい言葉だけれど その内容を考え込まざるをえなっかった。
我々日本人も表意文字の漢字を使う国民として 4字熟語のスローガンを愛用する。なんか分かった風だけれど 気合だけで実際は分かっていない。
「富強」と「民主」の相互関係は?実際の生活はその中にあるにも拘らずその関係性を切り離す。そして声高らかに 四字熟語の漢字を繰り返し他を圧倒する。
電光掲示板はその典型と思えた。 -
32)部屋は近代的。(バスタブの栓が無く、風呂には入れなかったが、お湯も出た。)
ネットも繋がる。相変わらず遅いが。お蔭で日本の家族にメールが出来た。
深夜、ネットでウイグルで習近平氏の初視察直後の駅爆破のニュースを見る。
日本を出て 一週間が経った。旅もあと半分。
ホテルの部屋の天井に装飾がなされ、珍しくて写す。 -
(8)5月1日(木)
1)今日から更に西へ。写真は中ネ公路をひた走るバス。
(広い道で どこが秘境かという感じ。)
男性客の一人は 風邪の発熱か バス車中もボンベから酸素吸入を受けていた。 -
2)起点の上海から5,000Kの表示。ここで青空トイレ。男子の私も草木の陰の無いところの放尿には抵抗があった。
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3)標高4,530mのツオーラ峠。
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4)確かに随分上に登ってきた。中ネ公路の最高峰とか。
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5)峠の太陽光パネルにもタルチョが。
この太陽光発電で 携帯電話のネットワークが維持されているとか。
実際 思いがけずのエリアで私の携帯のネットワークの受信アンテナ立っていた。 -
6)それから 少し本道を離れ、サキャ派の総本山サキャ南寺へ。
サキャ派はモンゴルと密接な関係があったみたい。 -
7)城壁のような門をくぐると 中にはお寺が。
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8)正直 空気も薄いし、見慣れてきたのでお寺には飽きてきていたが、ここの壁面の装飾は目新しいものがあった。
写真はそれを写す。
宝物館は有料に変わったとかで 残念ながら見れず。
この チベットの更に僻地で 密教系列の大きなお寺 日本で言えば高野山かと思った。 -
9)狛犬によく似たお寺の守り(右側)
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10)左側のお守りの動物。
ここまで来ると 交通の便も悪く 観光客は減り、チベット人の参拝者の割合が増えてくるなぁと思う。 -
12)ここでも 五星紅旗が門の塔の中央にはためく。党の事務所が入口の前に。
確かに 中国共産党は寺の組織を 支配下に置くことは成功しているのだろう。
宗義にも一定の影響・干渉に成功しているのだろう。
織田政権が本願寺派を無力化し、お寺を徳川政権が支配の道具にしたように。
でも 宗教は 人の心の問題。そこに「なやみ」「くるしみ」がある限り、人は心の救いを求める。ある時は 隠れキリシタンのように地に潜り、そしてある時は 復古神道のように維新の原動力になる。
こうして 残されたお寺を見、そこに参拝の訪れて 祈る人を見ると
中国共産党はチベット仏教の「埋もれ火」を消滅させることは出来ていないと思った。
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11)北寺は文革の混乱期、壊滅したとか。この城壁のような外周の塀がこのお寺を守ったかと勝手に想像する。駐車場から写す。
チベットには破壊され 風雪に朽ちていくお寺も多いと聞く。団体ツアー観光客には無理だけれど そういう地にも立ってみたかったと思った。 -
13)途中で「ラッツェ」と言う街で昼飯。
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14)昼食後、近くをブラつき 地元の店で 看板から手工業品と思い込み「刀」を購入。女性ばかりの店の人で 80元と言われ、60元で購入。
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15)写真はその刀。バスの中で満足していたら 同行のツアーの方からステンレス製の指摘を受ける。確かに軽工業製のおもちゃ。意気消沈。
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16)チベットでは 手持ちのバックに入れていた飴を 時折出会うチベットの幼児にあげていた。殆んどの幼児が 最初は 唐突の為か直ぐには受け取らない。親の勧めがあって手にする。今回の写真の子もそうだった。
後ろの店は「福建省」の看板が掛かっている。店頭にまで並ぶ食品のケース。 -
17)ギャツォーラ(峠 標高、5,220m)の地点で。今までの最高地点。
バスを降りると風が冷たい。チョモランマが見えることもあるとか。 -
18)峠のトイレに行く。人生最高地点でのトイレかと思い、トイレの穴の上に立つと 穴が深く 風も吹き上げ足がすくんだ。
トイレを出たところで、いつもの「物売り」が数人集まってきて トイレ代を払えと騒ぐ。「いくら。誰に。」と問うと 「2元、彼と彼に。」と指差す。払う言われもないが、面倒で一元を指定された人にまず渡し、次に一元を渡そうとした時 私の手から奪われて お札が破れて空に回った。拾った男は逃げた。なんか悲しかった。
現地添乗員さんが「ルンタ?」5色の紙製の供え物印刷物片(約4センチ角)を購入して 我々とともに空に奉納。私が放り投げたものは空に舞わず、地上に直ぐ落ちた。 -
19)それから 最初のチョモランマの展望台に。
残念ながら 雲の為何も見えず。
写真の向こうに見えるはずだったが。
右側の路上売店では子供達がアンモナイト化石等のみやげものを売っていた。 -
20)シュカール(ニューテンリー)の町でバスのガソリン補給。
砂埃で目を開けておけない街だった。小さな店を覗いたが看板と違い手を出すものは何もない。
中ネ公路の宿場町の感じ。ラサからネパール国境に向かう大型の乗り合いバスがここで追い抜いて行った。
ガソリンスタンドの価格を見ると日本並。中国の石油税制は知らないが、供給体制は全国津々浦の感じ。確かに 官僚体制風で利権も大きいなのだろう。 -
21)始めて軍管轄のチェックポイント。一人一人パスポートを提示して 入域許可リストと照合。率直に言って 昔は国境付近の守備が目的だっただろうが 現在は入域料の支払いチェック場の感じ。
トイレの陰から 軍のチェックポイントを撮影。 -
22)元の計画ではニューテンリーで宿泊して 翌日 南のチョモランマに向かう予定だった。その道路が工事中で通行止めとかいううことで 更に西に進む。
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23)予定変更で二泊したオールドティンリーのホテル「雪豹客桟」入口
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24)事前に日本のネットで ホテルの口コミを調べてると「招待所」」とか、山小屋風とかで 共同のトイレ シャワーとかで外国人の評価は最悪だった。
まぁ 標高 約4,300mの所に泊まるのだから テントの代わりと事前に覚悟していた。
実際は ドミトリー部分ではなく 個室部分に宿泊。(暖房は無いが。) -
25)トイレも水洗で新しい。(手洗いの温水は出ないし、暗いが。)
事前の悪評が酷くホッとした。 -
26)夕食もそれなり。添乗員さんが日本から持参した振り掛けなど大判振る舞いしてくれる。
隣席のブラジル人一行の日系人にも話しかけられ 部屋に帰っても寒いだけなので 食堂で暫し過ごす。(ブラジル人の一行6人は 数日かけてここから歩いてベースキャンプを目指すとか。)
夜現地添乗員さんが 部屋にポットのお湯をたっぷり持ってきてくれて助かる。明日の用意をして 、靴下をはいて眠る。停電で初めて懐中電灯使用。 -
(9)5月2日(金)
1)夜 頭痛で目覚める。呼吸改善対応で再度眠る。
朝 6時モーニングコールでドアをノックされる。停電が続いていて部屋は暗い。外に出るとみぞれ。外から隣室などに声を掛けるが応答なし。なんかチョモランマ見学も諦めと思い 暗い気分で部屋に戻る。
部屋でもたもたして時間が無くなり 慌てて朝食を10分で食べ 予定7時10分ホテル出発の時間に追い付く。(計測酸素濃度77%)
写真は町外れの公安のチェックポイント。係りの人も不在。添乗員さんが小雪の中 遮断バーを持ち上げて進入。 -
2)近くの道路から写したチョーオュー(標高8,201m)が左の端にうっすら見えるが 曇天で視界不良。
「チョモランマも見れないのか。」と絶望的な思いで この荒野に向かう。 -
3)小雨・みぞれも止んだが、荒野の道は地道。川も自然の蛇行のまま。車は激しく揺れる。
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4)途中原野に人家も見かけるが、不思議な風景。どうして暮しているのだろう?放牧の生活?
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5)更に走り、
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6)放牧の群れを見かける。周囲に人は見かけない。
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7)バスを降りて 近ずくと ヤクの首に付けた金属製の風鈴のようなところから ゆっくりとしたヤクの動きにつれ 平原に澄んだメロディーが天高く流れる。不思議な合奏。
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8)登るに連れ 自然の堤防を流れていた 川の水量も減って行く。
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9)向こうに雪山が見えてくる。
この辺りで 一台のバスが車軸不良とかで 故障。もう一台に乗り換えて 一台で進む。
空は少し晴れてきた。 -
10)バスが大きく曲がりくねった道を進んでいる時、目前に雪山の連山が広がった。ヒマラヤ山脈と気づいた。
バスがカーブすると共に 前方左側に ひときわ大きい山が 突如の感じで現れた。
天に伸びて 険しい山の風情にチョモランマ(エベレスト)と気づく。
他を圧し 威厳を持って聳え立っていた。
暫し感動。
写真を撮る余裕もなく バスの中から見つめる。 -
11)写真撮影のために バスを留め 降り立ったたが 山頂部に雲がかかり、姿が崩れたなぁと躊躇しているうちに もっと雲が広がってしまった。
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12)次のポイントを期待して、バスを更に進める。
ここも晴れていれば 向こうにチョモランマが見えるはずということだが、雲に隠れて見えない。 -
13)軍のチェックポイントを抜け、「ロンボク寺」につく。ここは チョモランマの北西壁を見る絶好のポイントと 事前に知っていた。
残念ながら ここもクリアではない。前部は見えるが 後ろの山頂部が雲に隠れている。
昔はここのテントで宿泊して チョモランマを見たそうだ。 -
14)時間の余裕が無く「ロンボク寺」は見学せず。世界で最も高いところにある寺とか。(寺の入口のみ撮影。)
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15)写真はお寺の施設か このエリアに結構の人が住んでいそうだった。宿泊所もあるみたい。
チョモランマ見学が絶対条件ならばここで宿泊すべき。星空が綺麗だったとのブログを読んだ記憶がある。そうだったろうと思う。 -
16)未練がましく チョモランマを撮影しようと粘ったが 私の安いカメラでは無理だった。後日ツアーの同行の方に写真を見せて貰ったが それなりに撮られている方もいらした。
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17)少し進んだ観光テント村から見る ロンボク寺側の空は晴れているのに。
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18)観光テント村ここでバスを降り 混載のバスに乗り換え。
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19)10分位で 混載バスの終点 チョモランマベースキャンプ前へ。
バスを利用されず 途中の道を歩かれる西洋人の方もいた。 -
20)チョモランマベースキャンプの石標。(標高海抜5,200m)
そこから 向こうの 15m位の丘に登る。
(丘を登るのに息が切れる。さすが5,000mを超える標高。) -
21)丘の上で記念撮影。(12時頃)
実際は後ろにチョモランマが聳え立つ筈であったが。
下の川原のようなところに登山の人のカラフルなテントが数張見えた。 -
22)山頂に雲が余計に出て来て 肝心の後ろの部分は見えない。
約30分晴れるのを待ったが、風が強く寒いので丘を降りる。 -
24)丘の下で見かけた「ヤク」こんな過酷なところでも従順な目をして ゆっくりと わずかな草を食んでいる。
チョモランマとヤク 絵になるはずだったが。 -
25)また混載バスで、観光テント村に戻る。店の前はお土産物が並ぶ。
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25)テントの中は温かい食堂。結構美味しい麺を頂く。添乗員さんが持参していた 茹で卵やコーヒーに満足する。
この食堂では宿泊も出来るのだそうだ。また最近チョモランマが曇りがちで客数が減っているのだとか。
まぁ一つ終わったの感強し。 -
26) 食後 来た道をバスで引き返す。山の天気は変わり易く またもっと曇った。
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27)途中 チベット風俗の数人が集まり、何かの集いを行っているところを見かける。馬が使われているのを知る。 昔からの生活が続いているのだなぁと思う。
タルチョの五色「天」・「風」・「火」・「水」・「地」を崇めた生活が続いているのだなぁと思う。 -
28)また 荒野を一人歩いている人も見かける。(信じられない。)
昨夜会った ブラジルのグループ6人も歩いていて すれ違ったが 彼等はテントも準備して トレッキング中と理解は出来るが。 -
29)山の天気は変わり また晴れて来て 水の流れが 再び出てきた。
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30)故障して、修理していたバスとも出会い、更に下って行く。
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31)朝通過した民家が出て来て、5時半頃ホテルに着く。
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32)夕食後 エベレストの天辺が見えるとのことで ホテルの前の中ネ公路に出るが 私には見えず。
確かにヒマラヤの連山の頂は見えるが。 -
33)写真のもっと左の雲の中に隠れてしまったらしい。
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34)更に粘る人もいたが 私は諦めて部屋に。
ホテル側の道路の下では 羊が草もないのに 何を食べているのか しきりに口を動かしていた。
夜 ベッドに固い部分があり、寝返りを打った時に目覚める。前夜と違い 停電は無し。相変わらず部屋は寒い。翌朝の起床は7時の為 睡眠時間は充分。 -
(10)5月3日(土)
1)もう必要の無いものは このホテルで捨てる。マグカップ、タオル、トイレットペーパー等。
朝食の時 西欧人の若い家族連れを見かける。個人旅行はまだ許可されていないはずだがと疑問を持つ。
朝9時にホテルを出発して、近くの展望台へ。残念ながら本日も曇り。 -
2)中ネ公路途上で現地添乗員さんが チョモランマの方向を教えてくれたが 確かに 左の雲の中。心の中で「ありがとう。さよなら。」を言う。
-
3)トン・ラに向かう時 シシャパンマ(8,027m)が見えると現地添乗員さんが言ったので 写真を撮ったが 実際は雲の中に隠れたのか 撮れているののか自信が無い。
-
4)それから 最後の展望台トン・ラ(標高5,138m)へバスは登り始める。オールドティンリーから ネパールへ下って行くだけと思っていたので、ちょっと焦る。
写真は トン・ラからの眺め。実際は7,000m級の山々が目前に広がる素晴らしい景勝の地らしいが、雲の為 山頂部分は見えない。それでも 見渡す限りの雄大な広さを感じ、見たことの無い峠の風景に感激。
ここで記念のツアー集合写真を撮影。 -
5)峠の右側に 無造作にマニ車の列が。気温は5度Cと言うが0度Cの感じ。
この展望台にもトイレは無い。勿論 暖房の効いた休憩所・食堂も。
チベットの観光資源は素晴らしいものがあるが、迎える観光施設やサービスは殆んどない。遠い世界の僻地のせいもあるし、自然のままの良さを残すと言う考えもある。
ただ チベットの人がこの資源に気付き 自分の生活と共に 更に利用を考える日は遠くない内に来るだろうと思った。 -
6)それから バスは海抜約3,700mのニャラムの町にゆっくり下って行く。
人口1万余の町にしては 建設工事、土木工事が多い街だった。 -
7)昼食を食べたニャラムの町。ネパールの国境から約30Kの距離にあり、ネパール側からの白人観光客も見かけた。その意味で 今までのチベットの山の寒村とは一味違っていた。
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8)ニャラムの町を出ると道は一気に下っていく。
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9)断崖の道をクネクネと蛇行しながら下がる。
そして緑が増えてくる。 -
10)防石ネットには落下した石がひっかり。そして時には防石のフェンスそのものが数メーターに渡り破壊され、路上には大きな石が放置されている。バスはそれを避けて進む。僥倖を祈らざるを得なかった。(「早く通過してくれ。」と)
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11)何とか川面に近いところまで降り、川の下りに沿ってバスは走る。川の流れは結構激しい。渓流。
日本に帰り、ネットで「ザンムー」を検索していたら、2年前の土砂崩れで足止めを食らった人のユーチューブの土砂崩れの画像があり あらためて 恐怖を感じた。 -
12)そして 国境の町 ザンムーに着いた。標高2,300m (本日最高の 標高5,138mから3,000m近く降りたことになる。)
ザンムーは谷にへばりついたような坂の町。道幅が狭い。空気が湿気を含んでいることに気付く。 -
13)ホテルの部屋から窓を開けるとへばりついた様子がよく分かる。
左の川向こうはネパ−ル領だとか。 -
14)街をぶらついたが 特に何もなく食堂が多い街と思った。チベットの町より、中国の街のイメージ。夕食に入った店も四川料理の店。
高度が下がり、高山病の恐れも無くなり、添乗員さんから アルコールが解禁された。私も少しビールを飲んだ。
写真は宿泊したホテルの前から -
15)部屋は現代のホテル。エレベータは無いが、シャワーが出る。
ネットはまだホテルでは利用できない。隣の飲食店ではWiFiが利用可能と書かれていたが。 -
(11)5月4日(日)
1)よく眠った。外から鳥のさえずりが聞こえて来る。幸福な気分。温かい。
朝食のメニューは少ない。生鮮物はなし。やはりここは中国から見たら 供給の最僻地。やむを得ないか。
8時 窓の外から軍隊のラッパの音が聞こえて来る。そうか国境かと思い出すが、なぜか音色に緊張感無し。
8時半ホテルを出発。
写真は ザンムーの街を振り返って。 -
2)川に掛ったチッベットで見る最後のタルチョ。
手を振って見送ってくれているようだった。 -
3)町を出て 坂を蛇行しながら下り、約30分程でイミグレに。出国審査は10時から開くと言うことで審査場の前で待つ。
途中出国待ちのネパールトラックの列を見かける。24時間はここを通過するのにかかるとか。積載された商品の合計量は凄いものになると想像できる。
写真は最後の中国側の店舗。時間的にか開いている店舗が少ない。観光客やドライバー目当ての土産物店?。煙草を買おうとして 30元と言われ断念する。 -
4)川の向こう側にネパールの街並みが見える。グチャグチャの建物。
また 多量のトラックが見える。 -
5)時間が来て、審査場が開き、空港と同じような手続き。スーツケースを全員開けてチェック。ダライラマの写真があれば没収とか脅かされたが。(私のは開錠に手間取りパス。)中国側の現地添乗員さんとはここでお別れ。
ネパール側の添乗員、ポーターは橋を渡り 中国側の建物出口まで迎えに来てくれていた。
橋を徒歩で渡り、ネパール側に。橋の中央が国境線か中国兵士2名が武器を持って 警戒。
写真国境の橋 -
6)ネパールの入国審査はあっけないほど簡単。左の建物がその建物らしいが、
現地添乗員のヘルパーさんにパスポートを預け、我々はバスに乗り込む。
(翌日のカトマンズでの出国審査は 通常の国より慎重で時間が掛かった。入り易く出難い?普通は反対だが。) -
7)バスに数分乗り、レストランで入国審査の完了 パスポート受領まで待つ。
我々には有り難い話だが。
写真は 建物意匠に西洋風が少し加味されたレストラン。 -
8)通りを眺めると 中国側より明らかに貧しい。道路も整備されていなくて 地道。車も古い。だけれども 人が多い。子供が一杯歩いている。
中国と違い 車両が左側通行。指摘されて気づく。英国文化圏? -
9)レストランの開放的な2階の席から眺めていると 日曜日なのにスクールバスが子供達を迎えに来ている。(現地添乗員さんの話に寄れば日曜日も学校は開いているとか。)
温かくて 湿り気を含んだ風の為か 何故か緊張感が無くて 人も幸せに見える。チャイも美味い。 -
10) パスポートを受け取り それから バスで山を更に下る。
中国側以上に危険な道を下る。
がけ崩れで補修中の工事の横も。
雨季には通行止めが頻発とか。 -
11)とにかく社会資本の投資額が圧倒的に不足している。これだけの多くの通行量で道路の整備がされていない。車の揺れが甚だしく スピ−ドも出ない。
-
12)途中対岸に段々畑が現れ続く。畑のもっと上部に民家が見える。
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13)下は 川面まで段々畑が続く。凄い労力。日本の棚田を完全に圧倒する風景。
稲作のような灌漑水路は見えない。どうして水をやっているのだろうと疑問に思ったが、どうもトウモロコシ畑みたい。
気候など 条件は違うが昨日まで見てきたチベットの粗放式の農地とえらく差を感じる。 -
14)ネパールでも 数か所警官のチェックはあったが どうも中国商品の違法持ち込みをチェックしているみたい。日本の観光客と分かるとフリーパス。
途中の街道沿いの町に 中国商品の大量販売商店が並んでいた。
カトマンズに戻らず もうこの辺りでトラックから商品をおろし、再度中国に行き買い付けるビジネスが成立しているのかと思った。逆にこの辺りから陸路 ネパール全土 インド、バングラデッシュ等にも流れて行っていることが予想できる。道路の整備をしないのは 意図的な輸入障壁かとも思われた。 -
15)昼食に寄った川沿いのレストランとネパールで利用したバス。
-
16)川を眺めると 少しでも 耕地を広げて 土地の生産性を得ようとする 工夫が川縁りに見える。(日本も昔はそうだった。)
その川を 若い西欧人の乗ったラフティングのボートが下って行く。 -
17)ランチはネパール風の味付けのプレートランチ。お米の種類はジャポニカ種ではないが 久しぶりに中華の味付けから離れられた。
レストランの小さな売店でネパール製の煙草を買う。最初はばら売りしかなく 後でひと箱を購入する。2ドル支払う。親切。
(煙草税制は知らないが、国境の中国側で500円、ネパールで200円。) -
18)都市部に近づいていくと 東南アジアの街とよく似た様相を呈する。道路排水が不十分で オートバイが増えていき 車の喧騒が甚だしく 無秩序の それでいて活気を感じる様相。
インドの自動車会社タタモーターズ製の古い車が多く見られる。
建築中の鉄筋は細くて、本数が少ない。梁の無い建築物。上階増築用の鉄筋が?き出しで 降り出した雨に濡れる。(これがネパール流?) -
19)標高1,300m位に降りてきた道を 今度は標高2,100mのナガルコットに向かって 更に狭い道を登り始める。周囲は稲の収穫時期か 黄色く実った田園地帯が広がる。
-
20)現地時間15時過ぎホテルに着く。尚 ネパールは中国と2時間15分の時差あり。
今日は約1,000m下り、約800m登った。だけれど高度差は体の許容範囲で苦痛はない。
写真はホテルの入口。 -
21)ホテルは山のリゾート風でゆっくりできそう。
入口から少し登ったホテル玄関。
(ホテル名「クラブヒマヤラナガルコット」) -
21)部屋のベランダから見た風景。残念ながらここも曇天で 夕日に映えるヒマラヤの山並みを見ることは出来ず。
ベランダのチェアーに座り ゆっくり コーヒーを飲みながら おいしい空気の中で煙草をくゆらす。至福の時。 -
22)夕食はバイキング。野菜が豊富で久し振りの感じがして食す。
リゾートホテルの雰囲気の中で 食事の会話も楽しく弾む。
その中で 添乗員さんに「チベットはどうなると思いますか?」と尋ねられた。
難しい質問だが 私は次のように答えた。
「中国が莫大な開発投資をして、チベットが豊かになっているのは事実だけれど あの過酷な自然は変えられない。その風土の中で生活してきた チベット民族は独自の文化をはぐくみ 中国民族の文化も取り入れながら チベット仏教にみられるように 生活の中の根底の部分は変化していない。
中国が開発投資に耐えられなくなった時 チベットの独自の動きが鮮明になって行くだろう。独立の動きによる暴力対立を経るのか、それとも 現在のアイルランドで見た対立はしているけれど 武力ではない対立 国家を超えるヨーロッパ連合の存在が大きいと思うが そんな平和的な移行になるかは分からないが 日本としては 隣国として 平和的な移行になる環境に貢献して行かねばと思う。」と答えた。 -
23)部屋に帰って 自分の回答を振り返ってみると もう一つ言い足りていないことに気付く。
琉球(沖縄)のことを思っていた。我々日本は その過程で 歴史を持つ独立国家 琉球王国を併合し、日本の国家に一体のものにした。今の中国の行為と同じことをした。そして 開発投資を行い続けている。法的な平等とか自治権とか移動の自由とか 形は整備しているが 本土側の地政学的理由でアメリカの軍事基地を押し付けている。先進民主主義諸国家には五十歩百歩の触れられたくない過去を 今も歴史に持っていることを。
部屋は西欧のホテルと同じ仕様。久し振りにバスタブに入り 眠る。 -
(12)5月5日(月)
1)5時頃 朝日に輝く ヒマラヤの山々の期待で 屋上に行くが またしても残念、雲が出ている。
薄っすらと黎明の中で山や丘が見えてくる。「再生」「輪廻」のイメージを感じた -
2)屋上には タルチョの幟が風にはためいていた。
ここも 人為的な国境を越え まだチベット仏教の地。 -
3)食堂横のロビーで ネットに接続する。快適に繋がる。
-
4)ホテルの売店で土産物の額と小物入れを買う。9ドル。
日本に帰り、チベットの土産物と見比べていると 中国の簡単な繊維製品が競争力を失って行っていることに気づく。東南アジア訪問時の安い感覚が 中国では近い将来 繊維商品については無くなる予感。日本がかって歩んだ道。
あの中ネ国境の一方的商品の流れが 将来はそうでもないのかと思える。現代でも 生鮮野菜は逆の流れ(ネパールから中国へ)が成立しそう。 -
5)一眠りして ホテルを10時に出発。
その後 カトマンズにバスで向かう。
ホテルを少し下った 原っぱでは ネパールの子供達が遊んでいた。 -
6)カトマンズでは 最初に古都「バクダブル」へ。
東門から入り、旧市街を見物。大きな規模で よく当時が残って居る。
写真はトゥマディ広場。 -
7)タルバール広場。
ヒンズー教が現代の生活でも信仰されていることを知る。 -
8)遅い昼御飯は サンセットビューホテルの お蕎麦屋さんへ。
信州蕎麦を修行し、西ヒマラヤ産のそば粉を使用しているとか。
写真はホテルの入口。アプローチがきめ細かく日本風。 -
9)高台のホテルから眺める カトマンズの街は南国の町。暖かいエリアの植物が 花が見える。(ジャカランダの花)
-
10)思いがけず日本の「蕎麦御膳」を食べれて満足。
お店の奥さんは日本人とか。
いつの日にか チベットでチベット産の蕎麦粉を使った蕎麦を食べれたらと夢見た。私が生きている内は無理だろうけれども。 -
11)それから パターンのダルバール広場へ。
ちょうどお祭りが行われて 凄い人。 -
12)日本の鉾巡行と同じ形態らしく 鉾の周りは黒山の人。
少し離れた建物の屋上から写す。 -
13)子供用の鉾にはそれ程の人だかりもなく 正面から写す。
-
14)それから カトマンズの宮廷広場へ。夕刻の退社の人々で 喧騒の度合いが増す。
約35年前、此処を訪れたはずだが 殆んど記憶が無い。もっと静かな落ち着いた街だったはずだが。 -
15)クマリの館で神の化身とかいう娘さんが 顔を出してくれるのは同じだったが。
-
16)当時は 王の居城で入場できなかったが 今回は王制が廃止されたとかで入場できた王宮。
-
17)現地添乗員さんは余り政治向きの話はしなかったが 憲法制定には期待している風だった。
私も 昨年 11月の制憲議会選挙が行われたのは知っているが 詳しくは知らない。混迷が続いているのだろう。 -
18)警備のグルカ兵も 昔ほど精悍には見えなかった。
(観光の写真撮影に気軽に応じてくれた。) -
19)それから 夕食会場のホテルへ。(店名ポーガン・グリハ)
入口で額に赤い印ティカ(祝福)を付けて貰う。 -
20)3階の階段を登った所に広間の宴会場があり、他国のお客さんと共に 民族舞踏を見ながら ネパールの懐石料理を頂く。焼酎に似たキツイお酒をウエートレスさんが高い位置から杯に職人技術で注いでくれる。
それから 空港へ。 -
21)空港施設は 古くて、狭い。
ネパール人の高校生位の大集団が出国の手続き。修学旅行?
ゴールデンウイークに合わせた 日本人も多く見かける。
無事23:15発CZ-3068便広州行に搭乗。
飛行機は満席。 -
22)出発して直ぐに 食事。(深夜食?食べるべきでなかった。)
食べたら眠れると思い、食べて 直ぐ寝た。
寝たと思ったら 直ぐに起こされた。現地時間5時45分着。
4時間は眠れると思ったが、中国との時差が2時間15分あり 実質2時間足らずの睡眠時間。
広州の空港の乗り換え口で ツアーの皆さんとお別れ。大きなトラブルもなく無事広州まで戻れたことをお互いに感謝。
大阪に向かう人、東京に向かう人、そして もう一度中国に入国する私。 -
(13)5月6日(火)
1)再入国等はスムーズにいった。空港に隣接しているホテルを予約していたので まずチェエクインしようとホテルに歩いて向かう。広州の飛行場ターミナルは広いので 少し手間取ったが 無事にホテルにチェックイン。(途中道を尋ね 答えてくれた人達も親切。) -
2)眠いので 朝飯を軽く食べ 風呂に入り眠る。
写真はアメリカビジネス風の部屋。 -
3)11時頃 目を覚まし、ホテルのビジネスセンターで二枚ほどプリントアウトして、署名して、準備終了で 広州の都心部に向かう。
コピー1枚10元。日本以上の費用。
写真はホテル玄関。 -
4)タクシーでは例の如く値段交渉。(「メーターを」の私の依頼は無視。)150元の最初の言い値を100元で交渉成立。
実際 120元しか 手持ちの現金はなかった。高速道路を20分程走ったのだから 日本の感覚では無理もないが 中国沿岸部の物価の高騰は想像を超えている。 -
5)広州での用件は済み、銀行に 当座のお金を下しに行く。ロビーで待っている間に数人の客を見かける。
以前は見かけなかった種類の客が増えていることに気付く。若い客。身なりのもう一つの客。ぞんざいな喋り方をしている風の客。(ここは 一定額以上の預金者のルームのはずだが。)客が増え、行員の応対にも優雅さが無くなっている。
海外で出会う中国人旅行の一団もそうだが 確かに 一般大衆の中に小金持ちが増えている。才覚で豊かになった中産階級が中国で増えている。
彼らは失ったら困る物をを有している。そしてそれを 当たり前だが 資金運用し始めている。
西欧人の利用客の多いホテル内で煙草を買ったが、40元(約680円)高い。
遅い昼飯にマックで写真のセットを頼み 18元(約300円)。
早々に都心部を引き上げる。 -
6)タクシーの中から 黒人を見かける。広州にはアフリカからの人は多いと聞いていた。中国はかって 自ら第三世界に中国が属し、そのリーダーたらんとしていた。実際はどうなのだろう。「中華」の考えでアフリカ諸国は従うのだろうか。
後日日本に帰り、ニュースで知ったが この日の12時前 広州駅前で イスラム帽を被った犯人の男の暴行事件があったとか。私も 午後4時前 広州の駅前を車で通ったが 既に平穏だった。 -
7)広州と言えば「交易会」有名だが ちょうど前日の5日に閉幕していた。
ヤフーニュースによれば
「参加した海外仕入れ業者は約18万8119人で、昨秋の前回から0.81%、昨年春の前々回から7.23%減少した。期間中の輸出成約額は1911億8400万元(約3兆1200億円)で、前回比2.01%、前々回比12.64%減となった。」とか。
中国貿易の初心者向けのイベントとしては 意味があったが これも一つの転換期を示す実績数値。
窓外に見える高層ビルも巨大なだけに 何の価値を生み出してるのだろうと疑問に思う。 -
8)また 街中で 「雷峰同士に学ぼう。」の汚れたポスターを見て ちょっと驚く。自己犠牲精神主義の象徴、文革時に良く雷峰の話を聞いた。それを現政権が 再び掲げている。現代中国の人々と最も遠い位置で亡くなった一兵士。その乖離をどう考えているのだろうか?
広州は一国二制度の香港にま近い。広州の人は香港の事を知らないはずはない。北京や上海とは 歴史も風土も異なる。ここはこれからも注意が必要なエリアと思った。半分開かれた香港と豊かな華南の広州を往復する ゆっくりとした旅を計画してもいいかなぁと思った。
帰りのタクシーでも 運転手と面倒な価格交渉。少し現金を持っていたので 120元で了承。お礼を言っていた風に聞こえたが、それ以外にも運転中絶えず独り言を続ける。気味が悪かった。勝手に それだけ ここで生きるのはフラストレーションが有るのかと思ったが。
整備された高速道路。(内陸部とは異なる。) -
9)ホテルに帰り、内部をぶらつく。大きなホテル。
ホテル内のサービスも西欧基準。
写真は広い空中庭園(中庭) -
10)部屋の窓を開けると 更に増築をしている。
(向こうに見えるのは 広州空港ターミナル)
明日が早いので ネットを見て 荷物の整理をして 早くベッドに入る。 -
(14)5月7日(水)
1)中国の歴史は漢族以外の征服王朝「遼」・「金」・「元」・「清」辺境の民族によって支配された 特異な経験を持つ。(唐滅亡以来現在までの約1100年の間 半分の約570年は征服王朝の時代。)
異境の民族の支配下で中国の人々は したたかに生きてきた「知恵」と「習慣」を持っている。そして その支配を覆した歴史も持っている。
今の中国は確かに豊かになり、中産階級が育ってきている。若い人達が何を思っているのか分からないが 前の貧しかった世代とは明らかに違う。
世界との交流も進んでいる。世界の産品が流れ込み、出て行く。人も行き来が激しくなる。情報ネットも規制されているが、道具を知っている。同じ中国文明の香港と台湾の窓も それなりに開き 知識は広く蓄積されている。
大きく変化する条件は揃ってきている。
朝、6時に起きて、6時半から軽く朝飯を食べ、7時にホテルをチェックアウト。 -
2)今回の旅で 内陸部辺境を旅した。
少しわかってきたことは、
①安価な中国の労働力のこれ以上の供給増加には 無尽蔵ではなく 限界があること。安価な第2次産業の労働力は中国産品の競争力の源泉であったが その前提は漸減している。
②開発投資は 現在も多額に行われているが 投資利益の回収効果のある案件は (投資のライフサイクルコストを考えれば)徐々に 限定されている。
③国内市場の形成はなされているが 国内需要ニーズに国内投資・消費の資金供給が追い付いているか疑問である。豊かになっているが それ以上のニーズで資金不足の状況は同じ。
④なによりも 経済活動の情報開示、決定・評価のプロセス開示が不足している。国営企業を代表に経済外的条件が大きすぎる。
⑤生産性に直接寄与しない軍事費、治安維持コストが膨大・負担。(約27兆円、日本の5倍)
等
中国経済の従来から懸念されている問題は解決されていない。
写真はホテルから 広州空港への道。雨が少し降る。 -
3)今回の旅で 辺境の こんな町にもと驚くところに 銀行(金融機関)があった。貨幣経済の利便性の為に設置するのは分かるが それ以上に大衆からの預金を期待しているかと思った。実際 銀行が大衆の生活に身近になっているのであろう。インフレ率を考えれば 低金利の法定一律預金金利より 若干でも有利な運用を考える小金持ちの存在も理解できる。
世界から投資した資金は 当然有利な回収が目的。そして お金は 貪欲だが臆病なもの。何かのきっかけで 予期しない 世界の資金需要が逼塞することはよくある。中国に投資した資金も 他との比較優劣で逆流することもある。
その時 中国政府は代わりに資金供給を続けられるか?(リーマンショックの時のように。)
写真は空港のセキュリティチェック入口。出国審査もスムーズに通過。 -
4)今の中国は かっての高度性成長期の日本がそうであったように、インフレが前提になっている。お金は借りた方が勝ち。先に土地を得て、建てた方が勝ち。よほどのことが無い限り 先に購入、生産して 在庫を持った方が有利。(中国が日本のデフレの経験を学んでいるというが 実際やっていることは 対症療法の研究で 固定雇用の回避策以外同じ。)
いつか インフレ、為替の調整などによる競争力の低下で高度成長期は終わる。
安定成長の為には 経済成長率の指標を捨てて 経済構造の質的変化(高付加生産、省エネ生産、金融の効率化等への転換)を 選択しなければならないが 今の中国は 努力はしているが その準備が決定的に出来ていない。
写真は搭乗した 中国南方航空 CZ385 広州9:30発。別れの雨、なごりの雨。 -
5)資金の流出、成長鈍化が発生した時 胡坐をかいてきた金融機関に信用不安が発生する。情報開示が不充分なまま 大衆化していた金融機関は お金の引き出しに耐えられるだろうか?連鎖反応が発生した時 金融の保険機構は耐えきれるか。デフレ化した時の企業救済を含めて、中央政府は打つ手段を持っているのだろうか?
公表レベルで2013年6月時点の地方政府の負債総額は約300兆円(2年前と比較して67%増)を中央政府は支えきれるか?小金持ち達の怒りを中央政府は収められるのだろうか?既に信用を大きく失っている「情報統制」に代替えの手段を確立できるのか?それまで貯め込んできた外貨準備金(約360兆円)は使えるのか?
危機から 国民の目を一時的に離すための 武力を背景にした 陳腐な帝国主義的な海外への恫喝は 略奪は 今も有効なのだろうか?(それに対して日本が同じ土俵で対抗するなど もっとも稚拙な方法。)
隣国 中国がそんな危機的状況(当然日本も大きく傷つく。世界の「工場」と分担した世界自体も傷つく。)にならないように 1991年ソ連崩壊前後の ヨーロッパ諸国 特に西ドイツの動きを学ばなければならないと思った。今度は 同じ仏教国アジアでの問題。
写真は何時もの機内食。ゴールデンウィークが終わり、席には余裕があった。
成田14:40着。何か少し課題が分かってきたような気分の 今回の旅だった。
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