2013/05/07 - 2013/05/07
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frau.himmelさん
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ポツダムにはツアーで何度か訪れており、フリードリヒ大王のサンスーシー宮殿も2,3回内部見学をしています。
ですから、ここ数年何度もベルリンまでは足を運んでいるものの、ポツダム再訪は何となく後回しになっていました。
しかし・・・、ポツダムはサンスーシー宮殿だけではありませんよね。
第二次世界大戦の戦後処理の会談の場、日本にも大変関係が深いポツダム宣言が表明された場でもあるツェツィーリエン宮殿があるのです。
ここは前に一度だけツアーで内部見学をしたことがありましたが、そのころはまだ歴史に興味が薄かった若いころ(笑)、大して熱心に見なかったような記憶があります。
でも、今回はしっかり見てまいりました。
次の旅行計画も立てなければならないので、旅行記はさらっと流そうと思ったのですが、調べるほどに興味が湧いてきて、結局またくどい旅行記になってしまいました。
写真説明については私の独断と偏見ですので、間違い勘違いなどありましたらご教示くださるとうれしいです。
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アパート近くの邸宅のお庭です。
この時期チューリップが満開で、ここを通るたびに目を楽しませてくれました。 -
今日も出発はUバーンのバイエリッシャープラッツ駅から。
いつものようにベルリンABCゾーンターゲスカルテ(1日乗り放題チケット)を購入します。
バイエリッシャープラッツ駅のホームには、壁のタイルにこの歴史的地区のパネルがはめ込んであります。
とても興味深い絵です。 -
Uバーンでツオー駅まで行き、Sバーンを乗り継いでポツダムまで。
Sバーンがツオー駅を出発してからチケットに刻印していないことに気が付きました。
車掌が検札に来れば、もちろん罰金を払わなければなりませんし、それよりも衆人の目に晒されることが恥ずかしいです。
ポツダム駅に着くまで生きた心地はしませんでした。
幸いに車掌は検札に来なかったので、罰金は免れましたが・・。 -
ポツダム駅には観光案内の若い女性が何人かいて、「どこに行くのですか?お手伝いしましょうか?」と、親切に聞いてくれます。
私たちはツェツィーリエン宮殿の行き方を教えてもらいました。
92番のトラムに乗ればいいと・・。
駅前の給水塔。トラム・バスはこの前から出ます。 -
ベルリンABCチケットはポツダム市内のトラムやバスにも使えます。
ところで92番のトラムに乗ったのはいいけど、いつまで経っても乗換駅に着きません。
車窓はポツダム郊外の住宅地を走っています。 -
あ〜またやっちゃいました。
結局反対方向に延々30分、終点(Marie-Juchacz-strasse)まで乗ってしまいました。
しょっちゅうこんな失敗ばかりやっています。
私たちは時間に縛られない気まま旅だからいいけど、時間がない人は気が気じゃないでしょうね。 -
通りかかった人に聞いて同じ電車に乗って引き返します。
Nauener Tor駅で降りてバス603番でツェツィーリエンホーフに向かいます。 -
シュロス・ツェツィーリエンホーフバス停。
宮殿は矢印に沿って歩いて行きます。 -
ポツダムの緑深いノイガルテン(新庭園)。宮殿はこの森の中にあります。
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宮殿というより、いつかイギリスの田舎町で見た大きな農園か別荘のような感じの建物です。
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入り口。
この宮殿は、ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世の長男、ヴィルヘルム皇太子とその妃ツェツィーリエの居城として1913年から1917年にかけて建設されました。
皇太子の希望で、イギリスのチューダー朝のカントリーハウス様式の建築にしたそうです。
またここは皇太子妃の名前をとってツェツィーリエンホフと名づけられました。 -
入り口の門の紋章は、ホーエンツォレルン家の鷲と、メクレンブルク家の野牛を象った2つの紋章が合わさったものです。
皇太子妃は、北ドイツのメクレンブルク家からお輿入れしてきました。 -
門を入ると、終戦後ここをいち早く占拠した、ソ連の赤い星の紋章がモチーフとなった花壇があります。
受付で入場料5ユーロと、カメラ撮影料2ユーロ(?)を払って中に入ります。 -
中に入るとまず、ヴィルヘルム皇太子一家の写真が目に入りました。
君主制と共和制の間で大きく揺れたヴィルヘルム皇太子一家の運命。
最後のドイツ皇帝の皇太子であったヴィルヘルム皇太子と妃ツェツィーリエとの間には四男二女がありました。
この写真を見ると、歴史に翻弄された一家の、幸せな時代と激動の時代が伝わってきます。 -
ヴィルヘルム皇太子とツェツィーリエは、プロイセン王国の崩壊、ワイマール共和制の制定、ヒトラーの台頭、第二次世界大戦勃発・敗戦と、ドイツのさまざまな時代を経験しました。
皇太子が父ヴィルヘルム二世とともにオランダに亡命したときは、妃ツェツィーリエは子供たちとこの宮殿に残ったそうです。
その後皇太子はヒトラーを支持し、ナチスの政権誕生後はナチス党の宣伝にしばしば利用されましたが、「長いナイフの夜」事件以来ナチスに疑問を抱き、第二次世界大戦後は一市民として過ごしたそうです。
皇太子は1951年心臓発作で死去しました。
それらの激動の変遷の写真です。 -
船室を模した皇太子妃の小部屋。
皇太子妃の生まれ故郷北ドイツの船舶会社からの贈り物だそう。
この部屋で一家で楽しく団欒した日もあったのですね。 -
この館が有名になったのは、第2次世界大戦末期の1945年7月17日〜8月2日にわたって、 米・トルーマン、英・チャーチル、ソ連・スターリンによる世界三巨頭が集まってポツダム会談が開かれたことです。
館内にはそれらの歴史年表が展示してありましたので、私の歴史勉強のつもりで主だったものを年代を追って見て行きたいと思います。 -
第二次世界大戦は、1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻により勃発し、ポーランドと同盟関係にあった仏英の対独宣戦布告によりヨーロッパ戦争として始まりました。
ソ連もそれに乗じて、ポーランド侵攻やバルト三国への領土侵略への野心を示し、軍隊を駐留させました。
さらに日独伊三国同盟が結ばれ、アジアでも戦火は広がり、文字通り世界大戦となっていきました。 -
巨頭会談はポツダム会談が初めてではありません。
1941年8月9日 - 12日には、イギリス首相のウィンストン・チャーチルと、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、英戦艦プリンス・オブ・ウェールス上で会談しています(大西洋会談)。
そこで戦後の世界構想が組み込まれた大西洋憲章が調印されています。 -
大西洋憲章から4ヵ月後、1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して米英に宣戦布告、
戦火は全世界に拡大し、人類史上最大の世界大戦へと拡大していきました。 -
1941年から1942年には、モスクワやワシントンでもたびたび首脳会談が開かれています。
写真左:モスクワで1942年8月チャーチル、スターリンの会談。
写真右:1941年12月22-1942年1月14日。ワシントンでチャーチル、ルーズベルトの会談。
連合国共同声明の合意。写真はチャーチル英首相 -
ケベック会談:1943年8月7日−24日、英・チャーチル、米・ルーズベルト、カナダ・キング首相会談。
ノルマンディー上陸作戦の設定、東南アジア指揮系統の再編成、核エネルギーの情報の共有の制限などが、カナダのケベックで話し合われた。
写真右:1943年1月14日-24日。カサブランカ会談。
チャーチル、ルーズベルト、仏シャルル・ド・ゴール大統領ほか。
イタリア侵攻作戦、枢軸国への無条件降伏要求の宣言など。モロッコのカサブランカで開催。 -
写真右:カイロ会談。1943.11.22-26。
チャーチル、ルーズベルト、中国・蒋介石。
アジアの戦後に関する会談。
写真左:テヘラン会談。1943.11.28-12.1。
チャーチル、ルーズベルト、スターリン。
三巨頭による始めての会議。
ナチス・ドイツとその同盟国(日・伊)との戦争の最終的な戦略など。イランのテヘランで開催された。 -
ヤルタ会談:1945年2月4-11日。チャーチル、スターリン、ルーズベルトの三巨頭会談。
ドイツ降伏までの最終計画、ヨーロッパの戦後計画、日本へのロシア参戦の状況確認。
この会議が、米を中心とする資本主義側とソ連を中心とする共産主義側の東西冷戦の始まりとなった。 -
1945年5月8日、ドイツ軍無条件降伏。
焼け野原になったドイツ国内。 -
1945年7月17日、ベルリン郊外のポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿に三大国の首脳、米のトルーマン大統領、英のチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長が集まりポツダム会談が始まりました。
ベルリンは爆撃が激しく会談の場所がなかったので、比較的戦災にあわなかったポツダムが選ばれたそうです。 -
米英ソの宿舎。
写真左よりソ連のスターリン書記長と下は宿舎。
中、米のトルーマン大統領のリトルホワイトハウスと呼ばれた宿舎。
右、英のチャーチル首相と宿舎。チャーチルは息女マリーを伴ってポツダム入りしました。 -
15人が座る大きな丸テーブルは、この会議のためにモスクワで調達されました。
米・英・ソ国家元首は、肘掛がついた特製の椅子に座り、その横に外務大臣、通訳、顧問などが着席しました。
その後ろは随行外交官のためのものです。
真ん中には3国の国旗。 -
そしてその後ろに議事録作成者のための机と椅子が用意されました。
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天井は重厚な木調で、壁にはこれも3国の国旗が飾ってあります。
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会議室には扉が2つあり、一方はソ連、もう片方は米英の控え室に通じています。
美しい彫りこみの階段。
これは現在のクダンスクからヴィルヘルム皇太子に贈られたものだとか・・。 -
ポツダム会談の模様。
ポツダム会談は決してスムースに進行していったわけではありません。
実際はいろんな対立や駆け引きがありました。 -
特に、ポーランド問題や賠償問題などをめぐって、ソ連とイギリスは強く対立しました。
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会議の最中、英首相チャーチルが失脚して、アトリー新首相がその後の会議に出席しましたが、イギリスの主張は変わらず、英ソの対立は頂点に達しました。
写真左上は1945年7月26日、ジョージ6世より首相承認されたクレメント・アトリー。この後アトリーはすぐポツダムに駆けつけた。 -
にもかかわらず、和やかに歓談している模様が全世界に配信されました。
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和やかに歓談する右より、英チャーチル首相、米トルーマン大統領、ソ連スターリン書記長。
心中は決して穏やかではなかったはずですが。 -
さて、この世界三巨頭を迎えたツェツィーリエン宮殿、おのおのの執務室の部屋割りも大変だったことでしょう。
「白の広間」。
フリードリヒ3世とルイーゼ皇后の胸像が飾られた部屋、暖炉の上に時計や花瓶が飾られています。
この部屋は接待場として使われました。 -
皇太子妃の書斎「赤の広間」はソ連の控え室でした。
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どの部屋がどの国の頭首の執務室だったか、よく覚えていませんが、この犬の額は英国チャーチルの執務室だったと思いました。
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窓の外にはユングフェルン湖の美しい風景。
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上階は皇太子夫妻の私室。
ホーエンツォレルン家の所蔵品の陶器や高級ガラスが飾られている。 -
皇太子夫妻が住んでいたころの部屋の写真。
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第一次世界大戦後、1918年にホーエンツォレルン王朝一族は退位し、財産は没収されていましたが、元皇太子一家はこのツェツィーリエン宮殿に孫の世代までの終世居住権を獲得していました。
しかし第二次大戦が終わりを告げる頃、近づくソ連軍を前に、夫人は子供たちを連れて1945年2月1日に宮殿を後にしました。
一切の家具や陶器類も放置したままで。
その時、元皇太子は病気療養中でここにはおりませんでした。 -
1945年4月27日に宮殿はソ連軍に接収されました。
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さて、再び歴史写真に戻ります。
7月17日に始まったポツダム会談は8月2日終了しました。
7月26日には日本政府に対して、日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されました。 -
このポツダム宣言を日本が受諾すれば戦争終結、受諾しないならば戦争続行ということになるのですが、日本は受諾しませんでした。
そのころ、ベルリンのリトルホワイトハウスのトルーマンの下に奇妙な暗号電報がもたらされました。
『BABIES SATISFACTORILY BORN:赤ん坊は無事生まれた』
これこそが原爆実験に成功したという知らせだったのです。 -
その前に、トルーマンはスターリンと非公式会談を行い、ソ連の日本への参戦の約束を取り付けたのでしたが、ポツダム会議でのソ連の増長振りに危機感を感じていました。
ソ連が日本に参戦する前に、原子爆弾を日本に投下して日本軍を降参させることが出来たら、米国は優位に立てるのではないか?
そう考えたトルーマンは原爆投下の書類にサインをしたのでした。 -
そして、8月6日と9日、長崎と広島にあの忌まわしい新兵器・原子爆弾が投下されたのです。
ソ連は8月15日に日本に参戦する予定でしたので、トルーマンの目論見は成功したのでした。
(写真)日本に投下された原子爆弾。
上:広島に落とされた『リトル・ボーイ」
下:長崎に落とされた「ファット・マン」 -
ついに日本は8月14日ポツダム宣言の受諾を連合軍に通告し、
翌8月15日には天皇陛下の玉音放送で日本国民に敗戦が知らされました。
そして9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号に重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長が赴き、全権大使として降伏文書に署名したのでした。 -
この美しいツェツィーリエンホーフ宮殿で行われたポツダム会談は、その後の世界の歴史に大きな影を落としました。
この会議で東西冷戦の種は生まれ、この会談の最中に原爆投下の決定がなされ、今なお、核兵器の恐怖は拭い去れません。
終戦から70年近く経過して、日本人の中にも戦争を知らない世代が圧倒的割合を占めています。
戦争の生き証人もだんだん少なくなってきました。
だけど、第二次世界大戦という人類にとっての重大な犯罪を、絶対に私たちは風化させてはならないのです。
ポツダムという異国の地で、改めて日本の重い歴史を勉強してそう思ったツェツィーリエン宮殿訪問でした。 -
さて、ツェツィーリエンホーフバス停から603番のバスに乗りJoegeralleeで695番のバスに乗ってサンスーシー宮殿に着きました。
内部見学に向かうY子さんと別れて、私は広大なお庭を一人でブラブラいたします。
中央の太陽のモチーフが燦然と輝いているガーデン・パピリオン。 -
この宮殿はプロイセン国のフリードリヒ大王が、わずか2年で建てたもの。
ベルリンの王宮を離れて暮らすための「夏の離宮」として建てられました。 -
しかし結局は、夫婦仲が良くなかったため、王妃と別居するための大王の居城となりました。
王妃の居城は、ベルリン・パンコウ地区のシュロス公園にある「ニーダー・シェーンハウゼン城」。
ここには大王はほとんど足を向けなかったそうです。 -
広大なお庭と噴水。
この階段状テラス庭園は、段差の壁を利用してブドウが植えられています。
フリードリヒ大王は、北ドイツでは無理と言われたブドウを栽培することを実現させたのでした。 -
今はまだ残念ながらブドウがやっと芽吹いたばかり。
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サンスーシー宮殿を支える彫像の中には、葡萄酒の壷を担いだバッカスの像もいるそう。
屋根の飾りは葡萄酒の壷です。 -
人が集まっているほうに行って見ましょう。
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そこにはフリードリヒ大王と愛犬たちの墓が。
犬を大変愛し、終生愛犬たちと過ごしたフリードリヒ大王、 「自分の死後は11匹の犬と一緒に埋葬してほしい」という遺言を残しました。
実際は、大王の棺は転々としたのです。
第三帝国時代はマールブルクのエリーザベト教会に、東西冷戦により1952年ホーエンツォレルン家の故郷であるホーエンツォレルン城の礼拝堂に安置され、東西ドイツ統一に伴い、はじめて1991年に遺言通りポツダムのサンスーシー宮殿に移されました。
やっと大王は憂いなく愛していた犬とともにお墓に入れたわけです。 -
フリードリヒ大王の墓の上にはジャガイモが。
大王は、それまで観賞用だったジャガイモを食用として広めたことでも有名です。 -
飾りといえばこの像だけ、なんとも質素なお墓です。
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足が疲れて近くのベンチで休んでいました。
突然日本語が聞こえてきました。
日本の旅行社のツアー客たち30名くらい。
ドイツ人のガイドさんの流暢な日本語の説明を聞いています。 -
日本人のツアーは説明が終わり自由時間になったようで、三三五五散らばって行きました。
ここにもガーデンパピリオンが・・ -
しばらくして背後からまた日本語が聞こえてきました。
しかも険悪な声。
ツアーの添乗員さんと現地ガイドさんがきつい口調で言い争っているのです。
盗み聞きしたわけではないけど聞こえたのでごめんなさいね。
(注)写真の二人は関係ありません。 -
添乗員「ここは中に入らないで外からの観光だけなのだから、もう少し詳しく説明してくれなければ困ります!」
現地人ガイド「詳しく説明したって、お客さんは、誰も説明を理解していませんよ!」
・・・・・
そして二言三言、二人で言葉の応酬・・。
ついに現地人ガイドさん「わかりました!わかりましたよ!」って捨て台詞を残してさっさと先に行っちゃった。
まさかこんなところに日本人がいるとは思わなかったのでしょうね。
「壁に耳あり、お墓にも耳あり」。
私たちも気をつけなければ・・(笑)。 -
だけど意外でしたね。
てっきりツアーの添乗員さんは、現地ガイドさんに気を使っているのかと思っていましたが、立場が逆でしたね。 -
宮殿の見取り図と部屋の写真があります。
せっかくですから、これもご紹介します。 -
右:図書室、左:謁見室
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右:婦人翼、左:小ギャラリー
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キッチン
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水車小屋
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時間になりY子さんと待ち合わせをした場所へ。ではそろそろベルリンに戻りましょうか。
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入り口付近では中世の衣装をつけたフルート演奏者と、同じくチケット売りの女性が手持ち無沙汰にしていました。
もう夕方ですものね。
バスでポツダム駅まで行き、ベルリンに戻りました。
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