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 奈良時代から知られる伊勢水銀の一大産地は、現在の多気郡多気町と勢和村にまたがり、その中心部に空海開基と言われる丹生大師(神宮寺)が神仏習合の歴史を語っています。すぐ東側の山頂平地には、その水銀で富を築いた飯高氏創建の近長谷寺(きんちょうこくじ)が栄華を伝え、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音」と称せられる十一面観音(平安時代)がご本尊として安置されています。一説には、一本の樟から造られた三体仏の一つといわれ、右手に錫杖を添える姿は日本唯一で珍しく、寺名は大和長谷寺に対して伊勢の皇大神宮に近いので「近長谷寺」とされました。伊勢水銀と空海の足跡を辿り、最後は、本居宣長自身がわが墓所と定めた「ちとせの森」の本居宣長奥墓に立ち寄りました。<br /> 表紙写真は近長谷寺のご本尊「十一面観音立像」です。

中勢の観音名刹・近長谷寺から本居奥墓を訪ねて/三重県・松阪市、多気郡

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2013/11/24 - 2013/11/24

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ひま人

ひま人さん

 奈良時代から知られる伊勢水銀の一大産地は、現在の多気郡多気町と勢和村にまたがり、その中心部に空海開基と言われる丹生大師(神宮寺)が神仏習合の歴史を語っています。すぐ東側の山頂平地には、その水銀で富を築いた飯高氏創建の近長谷寺(きんちょうこくじ)が栄華を伝え、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音」と称せられる十一面観音(平安時代)がご本尊として安置されています。一説には、一本の樟から造られた三体仏の一つといわれ、右手に錫杖を添える姿は日本唯一で珍しく、寺名は大和長谷寺に対して伊勢の皇大神宮に近いので「近長谷寺」とされました。伊勢水銀と空海の足跡を辿り、最後は、本居宣長自身がわが墓所と定めた「ちとせの森」の本居宣長奥墓に立ち寄りました。
 表紙写真は近長谷寺のご本尊「十一面観音立像」です。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
グルメ
3.0
ショッピング
3.5
同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
  •  水銀製錬窯跡。丹生(にゅう)水銀は「続日本記」に、水銀や朱砂(しゅさ)が伊勢の国から朝廷に献上された記録があり、丹生の水銀は、8世紀には広く知られていました。奈良時代に建立された東大寺の大仏のメッキに、約5万両(約2トン)の水銀が使われ、その大部分が伊勢の国丹生産であったと伝えられています。

     水銀製錬窯跡。丹生(にゅう)水銀は「続日本記」に、水銀や朱砂(しゅさ)が伊勢の国から朝廷に献上された記録があり、丹生の水銀は、8世紀には広く知られていました。奈良時代に建立された東大寺の大仏のメッキに、約5万両(約2トン)の水銀が使われ、その大部分が伊勢の国丹生産であったと伝えられています。

  •  水銀製錬窯跡。

     水銀製錬窯跡。

  •  水銀採掘坑道跡。

     水銀採掘坑道跡。

  •  水銀採掘坑道跡内部。

     水銀採掘坑道跡内部。

  •  神宮寺(じんぐうじ)仁王門(重文)。46代宿線により正徳3年〜享保8年(1722〜23年)に建立。構造は三間二戸の楼門、入母屋造り、本瓦葺き、西面建ちです。左右に金剛力士、持国天、多聞天を祀った雄大な建築物です。

     神宮寺(じんぐうじ)仁王門(重文)。46代宿線により正徳3年〜享保8年(1722〜23年)に建立。構造は三間二戸の楼門、入母屋造り、本瓦葺き、西面建ちです。左右に金剛力士、持国天、多聞天を祀った雄大な建築物です。

  •  仁王門左右の金剛力士。

     仁王門左右の金剛力士。

  •  仁王門左右の金剛力士。

     仁王門左右の金剛力士。

  •  神宮寺本堂(重文)。真言宗山階派、山号丹生山、寺名は「神宮寺成就院」。宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願により、弘法大師の師である勤操大徳(ごんそうだいとく)により開創。弘仁6年(815年)に空海が伽藍を整え、女人禁制の高野山に対しこちらは女性に開放されていたことから女人高野(にょにんこうや)と呼ばれました。<br /> その後度々兵火にかかり、現在境内の諸堂は観音堂の貞亨元年(1684年)を始めとして江戸時代に再建されたもので、この頃から丹生大師と呼ばれ親しまれています。<br /> 構造は桁行4間、梁間3間、入母屋造り、本瓦葺き妻入りで南面建ちです。

     神宮寺本堂(重文)。真言宗山階派、山号丹生山、寺名は「神宮寺成就院」。宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願により、弘法大師の師である勤操大徳(ごんそうだいとく)により開創。弘仁6年(815年)に空海が伽藍を整え、女人禁制の高野山に対しこちらは女性に開放されていたことから女人高野(にょにんこうや)と呼ばれました。
     その後度々兵火にかかり、現在境内の諸堂は観音堂の貞亨元年(1684年)を始めとして江戸時代に再建されたもので、この頃から丹生大師と呼ばれ親しまれています。
     構造は桁行4間、梁間3間、入母屋造り、本瓦葺き妻入りで南面建ちです。

  •  神宮寺護摩堂(重文)。構造は桁行3間、梁間3間、入母屋造り、本瓦葺き、妻入りで小型の仏堂となっています。

     神宮寺護摩堂(重文)。構造は桁行3間、梁間3間、入母屋造り、本瓦葺き、妻入りで小型の仏堂となっています。

  •  不動明王像(護摩堂)。

     不動明王像(護摩堂)。

  •  神宮寺大師堂(重文)。天正18年(1590年)良心により建立、貞亨年間(1684〜88年)に文堯により再建。構造は桁行3間、梁間3間、宝形造り、桟瓦葺き、南面建ちで正面に一間向拝を付けています。霊廟建築としての伝統に忠実に造られています。

     神宮寺大師堂(重文)。天正18年(1590年)良心により建立、貞亨年間(1684〜88年)に文堯により再建。構造は桁行3間、梁間3間、宝形造り、桟瓦葺き、南面建ちで正面に一間向拝を付けています。霊廟建築としての伝統に忠実に造られています。

  •  弘法大師像(大師堂)。

     弘法大師像(大師堂)。

  •  神宮寺薬師堂。

     神宮寺薬師堂。

  •  丹生神社参道。

     丹生神社参道。

  •  丹生神社本殿。祭神はハニヤマヒメノミコト(祭具を造る粘土を表した神聖な土の神)・ミズハメノミコト(祈雨、止雨の水の神)ほか十六柱で、延喜式神名帳、飯高郡九座に列せられた由緒ある神社で、継体天皇16年(523年)に鎮座したということです。<br /> 丹生は、朱砂(しゅさ)または辰砂(しんしゃ)ともいわれる硫化水銀の「丹」砂を「生」む所という意味で、古代から辰砂を採掘・加工していた氏族の住み着いた所にあたります。

     丹生神社本殿。祭神はハニヤマヒメノミコト(祭具を造る粘土を表した神聖な土の神)・ミズハメノミコト(祈雨、止雨の水の神)ほか十六柱で、延喜式神名帳、飯高郡九座に列せられた由緒ある神社で、継体天皇16年(523年)に鎮座したということです。
     丹生は、朱砂(しゅさ)または辰砂(しんしゃ)ともいわれる硫化水銀の「丹」砂を「生」む所という意味で、古代から辰砂を採掘・加工していた氏族の住み着いた所にあたります。

  •  真言宗山階派、近長谷寺(きんちょうこくじ)本堂。伊勢神宮より約23キロの距離、標高280余mの城山の山頂近くに位置し、和歌山別街道が近くを通り初瀬街道をはじめ各街道が通じています。<br /> 仁和元年(885年)伊勢の国の豪族「飯高宿祢諸氏」が、人皇五八代光孝天皇の勅願所として、内外近親等に勧進して建立されたものです。

     真言宗山階派、近長谷寺(きんちょうこくじ)本堂。伊勢神宮より約23キロの距離、標高280余mの城山の山頂近くに位置し、和歌山別街道が近くを通り初瀬街道をはじめ各街道が通じています。
     仁和元年(885年)伊勢の国の豪族「飯高宿祢諸氏」が、人皇五八代光孝天皇の勅願所として、内外近親等に勧進して建立されたものです。

  •  近長谷寺鐘楼。梵鐘は政尊が慶安元年(1848年)に造らせたものです。

     近長谷寺鐘楼。梵鐘は政尊が慶安元年(1848年)に造らせたものです。

  •  十一面観音立像(国重文)、像高6.60m。ご本尊であり奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音(三体の仏像を一本の樟から作られたものと伝えられています」の一つとして広く知られ、全国に二百ケ寺以上あるといわれる大和型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものです。

     十一面観音立像(国重文)、像高6.60m。ご本尊であり奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音(三体の仏像を一本の樟から作られたものと伝えられています」の一つとして広く知られ、全国に二百ケ寺以上あるといわれる大和型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものです。

  •  本居宣長奥墓への山道。

     本居宣長奥墓への山道。

  •  本居宣長奥墓(国史跡)。松阪駅から7キロほどの山室町高峰にあり、付近一帯は「松阪ちとせの森」として整備されています。<br /> 本居宣長は国学者として知られますが、漢字の普及により解読不能となった「古事記」を35年間かけて本文に読みを付し、その後に注釈を加え「古事記伝」全44巻を完成させました。<br /> 享保15年(1730年)5月7日、松阪城下本町の江戸店持ちの材木商に生まれ、父親が病没後の12歳から72歳で没するまで60年間にわたって魚町で暮らしました。当時の住居は松阪城へ移築されています。<br /> 陸奥から日向の国まで、宣長の弟子は489人にのぼりましたが、享和元年(1801年)72歳で生涯を閉じ、遺言により山室山の奥墓に埋葬されました。

     本居宣長奥墓(国史跡)。松阪駅から7キロほどの山室町高峰にあり、付近一帯は「松阪ちとせの森」として整備されています。
     本居宣長は国学者として知られますが、漢字の普及により解読不能となった「古事記」を35年間かけて本文に読みを付し、その後に注釈を加え「古事記伝」全44巻を完成させました。
     享保15年(1730年)5月7日、松阪城下本町の江戸店持ちの材木商に生まれ、父親が病没後の12歳から72歳で没するまで60年間にわたって魚町で暮らしました。当時の住居は松阪城へ移築されています。
     陸奥から日向の国まで、宣長の弟子は489人にのぼりましたが、享和元年(1801年)72歳で生涯を閉じ、遺言により山室山の奥墓に埋葬されました。

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